9妹馬鹿と宴席
レームブルックの英雄と恐れられる騎士ヘクターは、戦場の極限状態においても、感情をコントロールできると自負している。
それは国内外の情勢が酷く荒れていた頃に初陣を飾り、その後数々の激戦地を転々として、英雄と呼ばれる活躍をしながら生死の境を何度も経験し続けて来た結果だ。
恐ろしいからと震え上がったり、逆に勝てると我を忘れるほど興奮するような気質のままでは、戦場では生き残れない。
実際そうやって戦場で散って行った敵味方達の姿を無数に見続けていたヘクターは、多少の事では動じない図太さを身に着けていた。
――の、はずだったのだ、が。
「……」
「おやっ、どうしたヘクター卿っ! 今大会の優勝者ともあろう卿が、打ち上げの席でむっつりとなさってっ!」
「…………いや、別になんでもない」
馬上試合の祝勝宴席の片隅で香辛料入りのぶどう酒をあおりながら、ヘクターはそんな自分が、女一人に大きく心乱してしまう現状に辟易していた。
その女とは勿論。
「シルヴィアよ。そなたの弟御の活躍は、まこと見事であったぞ。……我が君の若い頃を思い出した」
「畏れ多い御言葉にございます、国王妃陛下」
宴席の女性用テーブルで、貴婦人らしく淑やかに国王妃の言葉に受け答えている美女、シルヴィアだった。
『……呪術でも籠ってそうな目だった。弟と戦った私など、死ねばいいとでも思っていたのではないか?』
ヘクターは、目が合った時のシルヴィアの恐ろしいほど真剣な目を思い出し、また苛立つ。
――普段の態度や言動から、残念ながらヘクターは、シルヴィアが自分を応援していたなどとは、想像もできなかった。
『……知ったことかっ』
決勝は三本目は、結局ヘクターが取り勝利した。
何度かターンに持ち込まれたものの、最後はルイスの攻撃を力技で押し切るようにしてヘクターが跳ね飛ばし、ルイスを落馬させのだ。
―ルイスっ!!―
幸い、とっさの身のこなしも巧みだったルイスは、落馬で大きな怪我を負う事も無く立ち上がったが、耐えられなかったのか、シルヴィアは泣きそうな悲鳴を上げ座席から立ち上がっていた。
―怪我はっ?! 怪我はないルイスっ?! 貴方に何かあったらわたくしはっ!!―
―大丈夫ですよ姉上。……ですが面目ない。力不足でした―
―とんでもないわルイスっ。素晴らしい戦いぶりでしたっ!! さぁ、手当をしなくてはっ―
その後、会場を退いたルイスの元に涙目で駆け寄っていたシルヴィアの目には、当然のようにヘクターなど映ってはおらず。
「……」
――ルイスを負かした事に対してつっかかって来るのではないか、と密かに身構えていたヘクターは、無視された事に対して、何故かショックを感じていた。
『……なんで私が、あの女に無視されてショックをうけねばならんのだっ。面倒が無くて良かったではないかっ、あの女に絡まれると、ロクな事がないからなっ』
「はっはっは、なんだ卿、もしやあの若者に一本取られたのが腹立たしいのか? 確かに決勝戦以外は全て完勝だったしなっ」
「……まさか。ルイス卿は強かった。三本目にもつれ込んで勝てたのは、私の幸運だ」
「またまたぁっ。だが確かに、ルイス卿は大したものだったなっ。あれは将来性十分な、素晴らしい騎士だっ」
「……」
隣に座る陽気な騎士の言葉に顔を上げると、新参騎士の下座に座るルイスは、周囲の騎士達と朗らかに語り合い、宴を楽しんでいる様子だった。
その姿には、女性用のテーブルに着く貴婦人達から、熱い視線が多数絡みついているようだ。
「あの武勇の上、レームブルック王都でもちょっと見ない色男、しかも年齢も十八と若いっ。未婚の娘は勿論、既婚の貴婦人にとっても恰好の宮廷愛の相手だろう。これはいよいよ、ルイス卿を巡って女達の壮絶な戦いが始まるかぁ?」
「無粋な勘ぐりはよせ。ルイス卿が賢ければ、そこそこ上手くやるだろう」
「はっはっは。卿は固いなっ。そんなだから、御婦人方に怯えられるのだぞっ」
悪気は無いが配慮もない同僚の言葉を無視して、ヘクターは着飾った給仕に注がれたぶどう酒の杯を取った。
『マリアンがルイスを見たら、その勇姿にさぞ心躍らせ……私には怯えただろうか? ……あの女は?』
その頭に、愛おしい妹、そしてまったく愛しくはないが妙に忘れられない、シルヴィアの姿を思い出す。
『……あの女も、怯えたか。……かもしれんな。……どうせ野蛮な戦い方だ。……いや、だから何故あいつを気にしなければならんのだ。このまま絡まれずにすむならば、それでよいではないか……』
「しかし、ああして弟御が無事成人できたのだ。かのヴェルナー家の乙女も、良い縁談を諦めた甲斐があったというものだなぁ」
「……乙女? それはシルヴィア・ヴェルナーの事か?」
「あれ、卿は親しいのではなかったのか? 飾り袖を捧げられたのだろう?」
「あれは、少々事情があっただけだ」
「ふむ? まぁつまらない事なら聞かぬが、彼女は中々勇気のある女性だぞ」
「勇気?」
うむ、と楽しそうに頷き、ヘクターの隣の騎士は語る。
「シルヴィア殿とルイス卿の父親、ヴェルナー家の嫡子だったアーサー・ヴェルナー卿が早世したのは存じておるだろう?」
「話くらいなら」
王都守護の任に就いていたアーサー・ヴェルナーと、騎士の叙勲を受けて以来国境沿いの戦場で戦い続けていたヘクターには、元々ほぼ接点は無かった。
「うむ。それでな、アーサー・ヴェルナー卿が亡くなった時、ルイス卿はまだ八歳だったのだよ」
「それは……跡継ぎとするには、まだ若すぎるな」
「ああ。そしてヴェルナー家の現当主である彼らの祖父パーシヴァル卿は、戦場で負った怪我が原因で、身体を悪くされていた。……さぁ、この状態をどう思う?」
「一族の騎士をまとめ、戦える当主がいないな」
「その通りだ。騎士家とは、正しく騎士の家、武門の家系だ。国の有事に戦えないなど、許されない。一族の中からルイス卿を廃嫡し、シルヴィア殿の婿を当主とした方が良い、という声が出たのもまぁ、当然と言えよう」
「……そんな事があったのか」
「確かだぞ。ヴェルナー家の誉れある旧き家名と豊かな土地を狙って、十三歳のシルヴィア殿に求婚が殺到したのだから」
ヘクターは知らなかった。
『あいつが十三なら、私は……二十前後か。その時期はもう大侵攻も終盤戦で、国境砦で攻勢にでる準備をしてたっけな。あの頃は国王陛下を筆頭に、皆血気盛ん状態だった……』
「相当に良い家柄からの縁談もあったらしい。家としても悪い話ではないはずだった。だがシルヴィア殿は、その話に抗ったのだよ」
「抗った? ……どうやってだ? 結婚が当主の命令とあらば、女の身では難しかろう」
「と、思うだろう? だがシルヴィア殿は度胸があった。自ら馬を駆って王城に行ってな、この国で最も身分の高い女性――つまり国王妃様に、弟に対する不当な扱いを訴えたのだ」
ヘクターは、思わず杯を取り落としそうになった。
まだ拝謁も許される年でもない子供、しかも女が城に乗り込むなど、尋常ではない。
「よくも不審者として捕まらなかったものだ」
「そこはそれ、可愛らしい女の子だったから、つい国王妃も何事かと耳を傾けたのだそうだ。……ほら、あの方姫君が欲しかったらしいから」
「ああ、そういえば、我が国は王子ばかり三人だな」
「そういう運も手伝って、国王妃様に話を聞いてもらえたシルヴィア殿はな、可憐な泣き顔でこう言ったのだそうだ」
―先日、天使様よりお告げがありました―
―我が弟は、国王陛下のお役に立つ、この国一の騎士となるのだそうです―
―そんな弟を廃嫡する事は、この国のためにもならないかと存じます―
―どうか、弟の立場をお守りくださいませ―
「……天使と来たか」
「神の御使いを理由にするとは、異端審問官もびっくりの大胆不敵さだろう? 普通に考えれば勿論子供の夢か嘘なのだが、それでもシルヴィア殿の必死な様子に同情したんだろうな。国王妃様はわざわざ、戦場の国王陛下に話を通してくれたのだそうだ。そして様々な幸運が重なり、結局ルイス卿の成人まで、跡継ぎ問題は待ってくれるという話になった。――どうだ、なんとも度胸の有る乙女ではないか?」
「……度胸というか……愛だな」
「そうさな、麗しい姉弟愛だっ」
「……」
ヘクターは幼少期から全く変わらない、シルヴィアの弟熱愛に辟易した。――なんとなく、やっぱりおもしろくない。
「だがなぁ、そんな一件が公になってしまってからは、シルヴィア殿への求婚はぱったりと止んでしまったのだ」
「ヴェルナー家を乗っ取れなかったからか」
「それもあるが、まぁ、おてんば娘という噂が広がってしまったのよ。名家出の男ほど妻となる女には、美貌と共に貞淑と従順を求めるからな、跳ねっかえりは好まれん」
「……」
「それでもやはり、美人だからな。年頃になる程にまた求婚者は増えたが、今度はシルヴィア殿が、弟の養育を理由に全て拒絶したのだそうだ。『国王妃様とのお約束通り、弟をこの国一の騎士に育てなければいけませんので』と言ってな」
「……その結果が、今の独身か」
「そうだな。今もそれなりに話はあるのだが、もう二十四歳だろう? 男が求める新妻としては年が行き過ぎているせいか、後妻や愛妾の申し出が増えているそうだ。シルヴィア殿はそれにも頷かず、ルイス卿が後を継ぎ落ち着いた後には、修道院に行って神にお仕えするつもりとか、なんとか」
もったいない、と複雑な表情で言った騎士は、本当に残念そうに首を振った。
「…………」
ヘスターは、それに同意しそうになった自分に気付き、また不機嫌になって黙り込む。
『……うちのマリアンと違って、あの生意気女狐が修道女なんかできるのか?』
「王城を彩る美しき名花が修道院で枯れ果てるなど、大いなる損失だっ」
「……知らん。本人がそれでいいなら、構わないのではないか?」
「またまたっ。卿は彼女がいなくなったら、寂しいと思わんのかねっ?」
「まったく思わん」
なんだつまらん、とぼやく騎士を無視して杯をあおるヘクターの耳に、明るい笑い声が入って来た。
「まぁ陛下、そのような事を」
「ほっほっほ。いやいや、――そなたはどう思う、シルヴィアよ?」
「お、仰せの通りにございます……」
見ると、いつの間にか女性用テーブルの方へと移動していた国王が、国王妃以下華やかな貴婦人達に囲まれて笑っている。
そんな国王に声をかけられているのは、シルヴィアだ。
『……陛下と何を話しているのだろうか?』
離れているのでよくは聞こえないが、ヘクターの目には、国王はとても楽し気で、シルヴィアは少々顔を赤らめ恥じらっているように見えた。
『……愛妾の申し出が多い、と聞いたがまさか……いやいや、いくらなんでも妃の前で他の女にちょっかいをかける国王陛下ではあるまい。……いや関係ない、関係ないぞっ。むしろあれがどこかに片付いてくれれば、マリアンの平穏が乱される事も減るではないかっ!!』
胸の奥でムカムカと蠢くよく判らない不快感を誤魔化すように、ヘクターは視線の先を睨む。
「……」
すると、話題から外れたのか、一歩集団から離れたシルヴィアが、ふとヘクターの方を見る。
「…………」
『……な、なんだっ!?』
その顔が、またもや恨めし気なのに驚き、慌ててヘクターは視線を逸らした。
『ま、まさかそんなに、あの試合で恨みを買ったのかっ!?』
「…………」
そんなヘクターの姿を見止め、シルヴィアもそっと視線を逸らした。