34弟馬鹿と王妃と傭兵
レームブルック王国、ヴェルナー騎士家女主人名代であるシルヴィアは、立場上貴婦人の身支度には慣れている。
身を清めて肌を磨き、まとったドレスを汚さないよう肌を白粉で整えてから唇にうっすらと艶を、長い髪はドレスの色や場の雰囲気に合わせて香料油と櫛で結い上げる。
そうした『美しい貴婦人を創り上げる工程』が、王城では特に重要だという事も判っている。
「……」
――でありながら。貴婦人としては当然の身だしなみを整えているだけの時間が、どうしてこうもゆっくりに感じるのか、シルヴィアは不思議だった。
「シルヴィア、お前が本当に無事でよかった」
「……は、はい。ご心配をおかけして、申し訳ございません国王妃陛下」
いつもならば、集中して気の利いた受け答えを考える国王妃の言葉も、どこか頭の中を上滑りしている感覚になってしまう。
『……ヘクター卿……お怪我の具合はどうなのでしょう。……いま王城の御医者様が見て下さっているようですが……出血もかなりひどかったみたいですし……』
シルヴィアは、別室で治療されているヘクターの事を考えていた。
平気な顔をしていたが、大雑把に止血しただけの沢山の怪我からは血が滲み、顔の右こめかみは殴打されたのかどす黒いアザになっていた。皆が見て驚いた程、解りやすい大怪我だったのだ。
『骨は折れてないと言ってましたが、そういう問題でしょうか? 人間骨が繋がっていれば戦えるなんて、そんな単純なものではないと思うのです。というかあの人は、骨が二三本粉砕されていても、躊躇なく戦いそうですが……ああ、止めません。決闘を止める事などいたしませんが……それでも治療の効果がありますようにと祈らざるをえません……へ――』
「ヘクター卿」
「ははい?!」
「……の治療は順調のようであるぞ」
単語に面白いほど反応したシルヴィアに、国王妃は苦笑混じりに続けた。
「あれほど派手に傷ついておきながら、致命傷は全て避けきっていたというのだから恐ろしい騎士よな。……我が君がヘクター卿を信頼するのも、よう判ったわ。戦場に置いてあの男は正しく英雄、敵にとっては、悪魔であろう」
「……わたくしをさらった男達も、そう言っておりました」
「ふむ……ウェーデンの騎士が夜盗の真似事とは、落ちたものよなぁ」
既に情報は把握している国王妃は、物憂げな表情で扇を揺らす。
「まぁ、やつらめがヘクター卿を恨むのも仕方がないか。ヘクター卿に国王を討たれて以来、あの国は災難不運続きであったらしいからのう……」
「それは、ヘクター卿のせいではございませんわ」
「まこと、まこと。……だが、ウェーデンの連中は、そう思う事であろう。……良くも悪くも、ヘクター卿は目立つのよ。……その、あまり良い意味では無く、な」
それはなんとなく判る、とシルヴィアも思う。
不細工ではないが風貌が荒々しい上に大柄、更にその見かけ通り恐ろしく強いヘクターは、絵物語の主人公騎士と言うよりは、残念ながら主人公騎士に倒される猛獣、血に飢えた熊に見えてしまった。
『……中身は決してそんな事はないのに』
「……あの騎士殿はのう、シルヴィア。平穏に紛れる事ができぬ男よ」
国王妃の、ため息にも似た言葉は優しい。
「国王陛下のように、上手く装う事ができぬ。……だからわたくしは、ヘクター卿があまり好きではない。……気に入った娘の夫にも、しとうない」
「……国王妃様」
「シルヴィア……ヘクター卿の傍に在れば、おそらく同じような事はまた起こるぞ?」
ややヘクターに対して辛辣な言葉には、シルヴィアへの思いやりがあった。
初めて会った時から、シルヴィアは国王妃に気遣ってもらっていたのだと思い出す。
『……がっかりさせてしまいますね』
そのような事は無い、というのは簡単だが、もはやできない。
だからシルヴィアは、ただ失望させて申し訳ないと思う気持ちのまま、微笑み国王妃に告げる。
「……国王妃様。なればこそあの方には、わたくしのような『図太い女』が似合うのではないでしょうか」
「……シルヴィア」
一瞬ぽかんとした国王妃は、やがて眉毛を下げて笑み、首を振る。
「全く……そなたのような娘がいたら、楽しかったであろうが、心配であったな」
「そうでございましょうか? 国王妃様のように頼れる母上が傍にいてくださったら、きっとわたくしも、大人しく守られるか弱い令嬢に育っていたはずですわ」
「いや、それは無いな」
何故か真顔の国王妃に否定された所で、王城の侍女達によるシルヴィアの支度が整った。
「感謝申し上げます」
落ち着いた、それでいて品を損なわず地味になりすぎない装いでまとめられたシルヴィアは、これから向かう場所を思い、身が引き締まる。
「……ヘクター卿の様子を見に行くか」
「お許しいただけるのならば」
「ここで止める程、無粋ではないわ。……兵士達が特に厳重に守っている回廊の奥にある医務室で、ヘクター卿は休んでおるぞ」
国王妃に一礼をして、シルヴィアはヘクターが休む部屋へと向かった。
「……あら」
「おや、そのように大人しい装いも良いな、乙女よ。いつもより清純に見える」
そして城内で最も兵士達が厳重に守る回廊の奥に向かったシルヴィアは、医務室扉前で退屈そうにしているラザールと会った。
「このような所で、一体何を?」
「無論、貴女に逢えるかと思ったのだ。決闘前に口説こうと思ってな」
「……ラザール卿は、戯言はお好きでも、嘘はお下手ですのね。今の貴方様は、わたくしなど眼中に入ってないではありませんか」
「ははは、ばれたか」
見抜いたシルヴィアに指摘されたラザールは、悪びれずに笑う。
『……多分、休息中のヘクター卿をラスボーン一派が害さないか、見張りに来て下さったのね』
敵でありながら頼りになるラザールに、シルヴィアは複雑な好意を感じた。
ヘクターの事を考えてくれるこの男が、最もヘクターとの戦いを望み、殺したがっているという皮肉が、なんとなく寂しい。そして。
「……ラザール卿、貴方は何故……決闘での死を、そこまで望むのですか?」
――気が付けば、シルヴィアはラザールにそう質問していた。
気付いてしまったからだ。
『……ああ、そうだ。……この男は強者を殺し……殺し続けた末、死にたがっている。……この男の決闘に対する明るさと未練の無さは、要するにこの男の死に対する恐怖の無さだ』
「……」
シルヴィアの質問に、ラザールは一瞬真面目な表情となった。
「なんだ、ばれたか。やはり貴女はよい女だな乙女よ」
そして、悪戯がばれた子供のように笑い、言葉を続ける。
「そうだなぁ、理由は色々だが……結局儂は、騎士が好きなのだろうよ」
「……? あれほど騎士を悪しざまに言ったのに、ですか?」
「おうよ。あれだけ悪しざまに言い、悪い所も存分に理解しているはずの騎士を、騎士という生き方を、儂は好いておる。嫌いにはなれなんだ。……だから儂は、古き良き騎士の世で死にたいのだろう」
「……」
「……知っているか乙女よ。いずれ騎士の世は終わるぞ。……華々しい重装馬での突撃も、頑強に改良し続けられる城壁も無用の長物と化す、火力と数の時代がやって来るのだ」
ラザールの視線から、僅かにシルヴィアは逃げた。
『……判ります』
騎士である大の男を一撃で戦闘不能にしたのは、シルヴィアが隠し持っていた『最新兵器』だ。それがどういう事かは、シルヴィアにも理解できる。
「それがいつになるかは、儂にもわからん。だが儂が老いぼれる前には訪れる事だろう。……その時代に自分も、自分が尊敬する騎士達も生きていて欲しくないと思うのは我儘だろうかな、乙女よ」
そして、それを肌で感じたこの『類まれなる騎士』の寂しさも、シルヴィアは理解できる気がした。
『……同感はしません、けどね』
せめて暗くならないように、シルヴィアはいつも通りのつんとした笑みを浮かべ、ラザールに返す。
「ええ。貴方様は本当に、我儘な殿方ですわラザール卿」
「ははは、あっさりと言いおる」
「そうとしか、言いようがないではありませんか。貴方の御事情に、ヘクター卿を巻き込まないでくださいませ」
扇を揺らし抗議するシルヴィアに、ラザールは肩を竦めてみせる。
「巻き込むか。……儂はあの男を、儂と同類と思っておったのだがな」
「同類ですって?」
「あいつも戦場以外では上手く生きてはいけない。荒事でしか使えない男ではないかな?」
「ございませんわ、そんな事」
ほう、とラザールはどこか楽しそうに笑った。
「そう思うかね、乙女よ」
「ええ。あの方は平穏だって似合う方ですわ。……わたくしはそう思いますし、あの方にはずっと、平穏な場所にいて欲しいと思っております」
「……貴女の傍にか?」
ラザールの人の悪い笑みをすりぬけ、シルヴィアはヘクターが休み部屋へと向かう。
「……ええ、そうですわ」
部屋に入る寸前、シルヴィアの後ろ姿から聞こえた小さな声に、ラザールは肩をすくめた。




