30弟馬鹿と馬
――お母様。お母様……死なないで。
――……ルイス。……可哀想なルイス。
――……お母様……わたくしは、シルヴィアよ。
――……可哀想な、憐れなルイス。
――……。
――……わたくし達が死ねば……あの子はきっと嫡子から外されてしまう。……ヴェルナー家には不要とされ、殺されてしまう。……あの子は、きっとわたくし達の顔すら思い出せないまま……短い一生を終えてしまう……ああルイス……愛しいわたくしの息子ルイス……。
――……。
――大丈夫よ、お母様。わたくしが、ルイスを守るから。
――……シル、ヴィア?
――ええ、シルヴィアよ。シルヴィアがルイスを守るのよ。ルイスのねえさまですもの。
――……シルヴィア……ああシルヴィア。良い子ね。とても良い子。
――……。
――お願いねシルヴィア。どうかあの子を守って。……あの可哀想な弟を守ってあげてちょうだい。……貴女はたった一人の、ルイスの姉様なのだから……。
――……判っているわ、母様。
――……大丈夫、大丈夫よ。……だってわたくしは姉様。弟を守る、強い姉様なんだから。
――……お母様は、そんなわたくしを……良い子って言ってくれたんだから。
「……」
レームブルック王国、ヴェルナー騎士家女主人名代であるシルヴィアにとって、病死した母親との最後の会話は、愛しく、そして悲しい記憶だった。
『……おかあ、さま』
最後まで弟を案じる病床の母と弟を守る約束した時、シルヴィアは今のシルヴィアとなった。
ただの弟を可愛いと思う幼い姉から、弟を何があっても、どんな手を使ってでも守ると誓う強い姉となった。
その事をシルヴィアは後悔していない。
『……なりふり構わず戦わなければ、ルイスを守る事はできませんでしたもの。……ただ』
――だが、その時忘れた事も確かにあったのだと、シルヴィアはヘクターの腕の中で馬に揺られながら思う。
『……どのくらいぶりでしょうか……こんなに、守られて安心したのは』
シルヴィアは、手綱を握るヘクターの手を見つめながら思う。
頑強な皮手袋に包まれたヘクターの大きな手は、強く優しくシルヴィア達を守ってくれた、在りし日の父と母を思い出した。
そしてその手に甘えていた、まだ不幸など何も知らない子供だった自分の事も。
―……貴女が無事で、本当によかった。……シルヴィア殿―
―……よかった……本当に。……貴女にもう二度と会えなくなるなんて、私は嫌だ―
―……守れて、よかった―
『……』
守られても良いのだと、態度と言葉で示したヘクターに、シルヴィアは安心した。
『……わたくしも、まだまだ甘い。……だけど』
それが一時的な気の緩みとしながらも、シルヴィアの心はどこか軽い。
『……嬉しかった』
シルヴィアは、ヘクターが向けた好意を、素直に受け取っていた。
「……大丈夫ですか?」
「……え?」
「いえ、黙り込んでしまったので。馬で酔いましたか?」
『……こういう所が、この方らしいといえばこの方らしいのですけれど』
そんな物思いから現実に戻ったシルヴィアは、苦笑を噛み殺しつつ、ヘクターに返した。
「ヘクター様、わたくしはこれでも騎士家の生まれにございます。騎士の大切な資産である馬の世話や騎乗は、幼い頃から殿方と同じように学んでおりますわ。これでも女主人代理ですので」
「そ、そうか。……貴女は本当に、家の為に尽力していたんだな」
「ええ。いずれルイスのものになるのですから、当然です」
「……そうか。うん、それでこそ貴女だな」
気を取り直したシルヴィアの言葉に、ヘクターはどこか安心したように返した。
「それにしてもこの子は、良い馬ですわね。毛並み良く身体も大きく、足が強い」
「ヘクトルは、数年前私の馬が死んだとき、国王陛下から下賜されたものだ」
「……ヘクトル」
「……名前が似ているのも、何かの運命だろうと」
「……」
「笑わないでくれ。ただでさえ雌馬が逃げる凶悪な目つきが似ているなどと、他の騎士達には言われているんだ」
「酷い言われようですわねぇ。こんなに良い男振りなのに。……ヘクトルの方ですわよ?」
「わ、判っている」
小声で囁き合う、他愛のない会話。
もっと続けていたいと思いつつ、シルヴィアは周囲の気配を警戒し、先程取り出したものを手の中に納めていた。
「……ヘクター卿」
「ああ、判っている」
油断はできない。というより、今が一番危険なのだとシルヴィアも判っている。
『……敵国ウェーデンの賊が、王城まで入り込んだのです。――引き込めるのは、この国の実力者のみ……』
「……ヘクター卿。あの御老人は、大丈夫でしょうか?」
「ああ。斥候兵は戦う事を目的にはしていない。身のこなしもしっかりしていたし、何かあったら即逃げるだろう。……シルヴィア殿」
「……」
ヘクターの片腕が手綱を握りしめ、シルヴィアを抱えた。
シルヴィアもヘクターが促すまま、馬の首にしがみつく。
「――飛ばすぞ!」
「――はいっ」
何かが来る。
そう感づいたのは、ほぼ二人同時だった。
そしてヘクターが馬の横腹を強く蹴って加速した瞬間、鋭い風切音と共に何かがヘクター達へと飛来し、そして近くの木々に次々突き刺さり、枝をへし折る。
「――弓!」
「いや、威力からして機械弓だ。――シルヴィア殿、目を閉じていろ! どのみち暗くなるぞ!」
ヘクターは下げていたランプを、地面に放り投げ馬を走らせた。迷ったのかランプへと、何本かの弓矢が放たれる。
「ヘクトル! お前に任せるぞ!」
かなり夜目が効く馬に視界を任せ、ヘクターは罠が仕掛けにくい道を選んで走らせた。
射手の数は多くないらしく、巻き上げの遅いクロスボウの二撃目が馬に降り注ぐ事は無い。だが。
「――っ?!」
突如現れた正面から襲って来る数騎兵に、シルヴィアは絶望的な気分になった。
鎧甲冑に身を包んだ敵達は、まるで馬上試合のように槍を構え、猛然と突き進んでくる。
『――軽装、しかもわたくしを乗せた馬で、しのぎ切れるものではありません!!』
と、死を意識したシルヴィアの手に手綱が握らされ、耳にヘクターの声がかかる。
「――シルヴィア殿、目を開けて。――貴方の馬術を信用します」
「え――ヘクター卿?!」
「走れ!! 絶対に止まるな!! ヘクトル!!」
ヘクトルの嘶きと共に、シルヴィアはヘクターの熱が離れるのを感じた。
「え――ヘクター卿?!!!」
そしてシルヴィアは、一瞬自分の目を疑う。
ヘクターは馬群にぶつかる瞬間ヘクトルから跳躍し、敵騎兵一体を蹴落として、馬を奪い乗っ取っていたのだ。
『ば――バケモノ?! ――ラザール卿も大概人間やめてましたけれど、この方も負けてない!!』
一言でしか表せない驚嘆が、シルヴィアの頭を占めた。
だが、慌てている余裕などない。
「ヘクトル!!」
渡された手綱を握りしめ、前傾の乗馬姿勢を取ったシルヴィアは、強く横腹を蹴りヘクトルを走らせた。
「っ!! 女を逃がすな!!」
誰かの声が後ろからかかるが、ヘクトルはたちまち後ろを引き離し独走する。
今まで二人乗りだったのが、女一人の身軽になったのだ。鎧甲冑に身を固めた重装騎兵など敵ではないとでもいうように、ヘクトルは走り続ける。
「ヘクトルごめんなさい! ――急いで!! もっと急いで!!」
そんなヘクトルを更に走らせ、シルヴィアは夜闇の中持てる限りの馬術で急ぐ。
今のシルヴィアができるのは、足手まといにならないよう、一刻も早くその場から離れる事だけだ。
『どうか――どうかご無事で!! ヘクター卿!!』
自分を守るため敵中に残ったヘクターを、シルヴィアは苦しい胸内で想った。
「――っ」
そんなシルヴィアに、再び正面から近づいてくる騎兵があった。




