第一篇「秘密」 9
朝、九時。ゆかりは家を出た。花見小路を歩き一本左へ入った青柳小路に店を構える老舗の甘味処『舞』に務めている。
「おはようございます」
「あー、おはよう。もう店出てきて大丈夫なんかい?」
「あ、はい。昨日はすみませんでした」
「いやいやー。じゃあ、今日もよろしくね」
「はい」
店を開けるやいなや、観光客で店内はそこそこの混みようだった。
十時の開店から客が途切れることなく気が付けば二時を回っていた。
時間を知ると一気に疲れがあふれてきたゆかりは、ふと入り口の方を見た。
丁度そのタイミングで、見知った顔が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「黒あんみつ 一つ」
「以上でよろしいですか」
「うん。・・・今日、どう?」
「・・・・かまわないわ。あとで連絡頂戴」
なせ、了承したのだろう。
ゆかりは思った。正直、今は会いたい気分では無かった。今朝、蒼に問われたことが心に引っ掛かっていたせいか。まだ昼間は薄らと汗ばむ程の気温だが、背広を着ている律儀な男。あの男と付き合っている。結婚は・・・・そんな話、あえてしたことがないけれど。
ゆかりは今年で三十になる。そろそろけじめを付けなければ。自分でもそう感じている。まだ女としての孝行を母に対して何もしていない。花嫁姿も孫の顔も見せてやりたかった。しかしどうやら、それを叶えることは出来ないようで・・・。
彼は東京の男だ。今は京都に移動になっているが、いつかは東京に戻ることになるだろう。
何度も別れようと思ったのだ。その気持ちは幾度となく「女の心」が邪魔をしてきたのだけれど。
まだ、大人の関係を持ったことは無かった。
どうしても、彼がそれを望んでいないと思ってしまうのだった。
「ゆかりちゃん」
「あ、はい!」
女将さんに声をかけられて我に返った。
「あのお客さんにまた話しかけられてたねえ、気に入られてるよ、ゆかりちゃん」
「もうそんな。ただよく来てくださるから、お話ししただけですよ」
そう答えて、差し出された黒あんみつを持ってカウンターを離れた。
彼と付き合っていることは女将さんにも誰にも言っていない。大人の秘密ということにしてある。
いい年して本当に何をしているのだろうと、ゆかりは自己嫌悪に陥るのだった。