第一篇「秘密」 4
俺の職場は、出町柳駅から歩いてすぐの場所にある、あまり繁盛してもらっても困る場所。高校生の時に死に物狂いで勉強して、俺は医者になった。人の役に立てる仕事に就く、そういう若い時にありがちな正義感そのままに、突き進んでいた。
今思えば本当に若かった。今思えば・・・
医者の正義ってなんだ。
母の主治医は、確実に心が無かった。大病院で働くと、誰しもが多少はあのようになると思う。俺はそのことに大学時代に気が付いていた。だから、とある伝手を使ってではあったが、今はこの診療所で、一人一人の患者と向き合う医療を目指している。
「お大事に」
今日の最後の患者を送り出した。
「佑里子先生。終わりました。お先に失礼します。」
「はーい。お疲れ様。明日もよろしくね」
この人がこの診療所の院長、岡部佑里子先生だ。今年で六十八歳になるというのに、バリバリの現役ドクターである。二十年ほど前、この場所に有床診療所として岡部クリニックを開業した。有床といっても今はほとんど入院患者はとっておらず、二床のベッドが残るだけだ。
現在の時刻は午後七時。今日中に話をしておこうという気持ちが芽生え、伏見行きの電車に乗った。
伏見駅を降りてすぐにある、中規模病院に末の妹は入院している。
病院の自動ドアを抜けると、偶然にも見知った顔に出会った。
「北崎先生。」
「おお。慧。お前なんか久しぶりだな」
「最近、うちも残念なことに繁盛してまして」
「それはそれは、どうもご愁傷様です」
この気さくで四十四歳にはとても見えない人、北崎先生は妹・ひかりの昔からの主治医だ。専門は呼吸器内科。ひかりは生まれた時からの喘息持ちで入退院を繰り返している。そして実は、この北崎先生も昔は相当喘息がひどかったらしい。これはまあ、本人に聞いたわけではなくて、佑里子先生からの伝え聞きなんだけど。あ、そうそう、俺が使った伝手ってのがこの北崎先生ね。先生に佑里子先生を紹介してもらって今の診療所に就職したんだ。専らその時は、北崎先生は佑里子先生のことを昔の指導医と嘘を言っていて、本当は主治医と患者という関係性だったってことは、就職してから佑里子先生に聞いたわけだけど。
「で、今日は。ひかりの見舞いか?」
「――――――― まあ、そんなところです。」
「――― なんだよ、はっきりしないな」
北崎先生は結構鋭い。というか、うちの家族とは結構長い付き合いだから、だいたいのことはなんでも知っているというほうが、正しいのかもしれないが。
「そういえば、絢子さんは元気か。薬負けとか大丈夫か?」
「―――――――」
俺はひかりに伝える前に、先生に聞いておいてもらおうと、母のことを話した。
「・・・・・・そうか。急にそうなったのか。それを、ひかりに話しにきたのか」
「・・・・そうです。もちろん、今あいつを不安定にさせるべきではないということは分かってるんですけど。でもやっぱり、家族として事実は知っていないといけないような気がして。」
「・・・・・そうだな。そうした方がいい。大丈夫、今日は俺が当直だから」
「・・・・・ありがとうございます」
北崎先生に見送られて、ひかりの病室に向かいながら、今、自分が言った言葉をもう一度考えていた。
『家族として事実は知っていないといけないような気がして』
これは・・・。今日明らかになった、母の秘密にも当てはまるのではないか。いつまでも、母と父、そして俺とゆかりだけの秘密にしておいていいのだろうか。
「お兄ちゃん!」
病室のドアを開けた途端、ひかりの元気な声が飛び込んできた。
「静かにしろよ。元気そうだな」
「もうほんとに元気!でも北崎先生心配性すぎるからさあ・・・・」
「そういうこと言わない。退院できないのにはそれなりの理由がある。」
「はいはいはいはい。お兄ちゃんもお医者さんだもんねー」
ひかりは今はすごく普通に見えるけど、一昨日くらいまでは発作を繰り返していてろくに眠れてもいなかったらしい。そういう状態だから、退院はまだまだ先になると思われて。
「すねないの。しっかり先生の言うこと聞いて良い子にしてること!」
「もう。私、もうそんなに子どもじゃないよ。ていうかお兄ちゃん、こんなこと言いにわざわざ来たの?」
・・・・・そうじゃないんだ。でも、言い出すタイミングが見つからない。今か。今だよな。
「―――― いや、そうじゃないんだ。母さんの話なんだ。」
「母さん?」
ひかりの顔が曇った。
「母さん、あと一月、持つかどうかだってよ・・・」
「――――― なにそれ、どういうこと。だってこの間は・・」
「そうなんだけど、急激な悪化でかなり厳しい状況らしい・・・。と言っても、今はまだ全然元気そうなんだけどな・・・」
「――――――― 医師として、お兄ちゃんも同じ意見なの?」
――――― 妹は本当に幼いころ、まだ主治医という主治医を持たなかったとき、どうしてこんなに運が悪いのだろうと思うくらい、ひどい医者ばかりに当たってきた。怯える小さな女の子に暴力まがいな行動をとる奴までいた。そんな経験がトラウマになっているのであろう、彼女は医者を信用しない。今でも、小学一年生の時に出会った、怯える自分を優しく包み、愛のある接し方をしてくれた北崎先生と、兄である俺、あとは北崎先生にきちんと紹介してもらったこの病院のごく少数の医者にしか診察させようとしないし、触れることすら許さない。
だから、母の余命を告げた医者の判断をどう思うのかと、俺に聞いてきたんだろう。その医者は俺から見て、信用できるのかと。
「―――― うん。その判断が間違っているとは俺は思えなかった。検査結果を全て見せてもらったんだ。だから・・・。数字で客観的に判断すると、同じ意見になる・・・。」
「――――― そう。なら、あと一月、楽しまないとね・・・・」
ひかりはそう呟いた。明らかに俺やゆかり、そして父とは違う反応。ひかりは俺たちなんかよりももっと命の重さを知っている。何度も何度も生死を彷徨った経験のある彼女から出る、『楽しまないと』の言葉は、心にズシリときた。