第一篇「秘密」 3
「八年間、お世話になりました」
蒼は一人、店の前で頭を下げていた。
今も十軒のお茶屋が並ぶ日本最古の花街、上七軒に残る料亭『圓谷』で、蒼は十六の時から家を出て板前修業をしていた。蒼にはどうやら才能はあったらしく、将来を期待されていたが、母が体調を崩したことを理由に今回退職し、祇園の店を継ぐことを決めた。
三か月前、事情を話し退職を願い出ると、女将さんから引き留めてもらったが、その裏には蒼を婿養子にしようという魂胆があることが見え見えだった。そこで、願い出るまでは迷っていた思いも吹っ切れてしまった。
蒼は長きにわたって苦労する若旦那を近くで見ていたため、婿養子になることは避けたかった。店側は、蒼は次男だから丁度いいと最初から思っていたらしく、今更慌てていた。確かに申し訳ないことをしたとは思うが、この店の婿養子にはなりたくないと思わせる振る舞いをしていた若奥さんにも非はあると思うと、蒼は静かに心に区切りを付けていた。
お嬢さんとは二人で出かけることもあるくらい親しくしていた。きっと、裏切られたと思っているだろう。彼女は、若奥さんとは似ても似つかぬくらい、穏やかで素敵な女性だった。
花見小路を抜けて、八年ぶりに実家に帰ってきた。
「ただいま」
家の中はしんと静まり返り、奥にかすかな光が揺れていた。
「おかえり」
不意に投げかけられた小さな声。それは、蒼の知るものとは大分違っていた。
「父さん?一人なの?」
「ああ。ゆかりは母さんの所で、慧は仕事。」
「ひかりは?」
「あいつは入院してる」
蒼が家を出るとき、苦労してこいと大きな声で笑った父の姿はそこには無かった。誰が見てもわかるくらいに老け込んだ、寂しい背中がそこにはあった。
「どうしたの?ひかりが入院なんてよくあることでしょ」
靴を脱ぎ、静かに家に上がった蒼は、自然とそう聞いていた。
「―――― 母さんな、もう長くないらしい」
父はぽつりとそうつぶやいた。
何を求められているのかがわからなかった。
そんなことはもう三か月前には分かっていたことだ。あと一年くらい、人生を楽しみなさいと医者に言われていた母の姿を思い出す。
「――――――」
「――――― あの医者はうそつきで、残酷だぜ。あと一月だなんて、分かっていてもあんな簡単に家族に言えるもんじゃないだろうよ・・・」
父はまたぽつりとつぶやいた。
「――――――――」
言葉が無かった。
父は広い部屋で小さく丸くなり、今にも消えそうだった。
蒼はその場を立ち、静かに階段を上り、部屋に入った。