Story6.騎士然としたチェシャ猫
猫はいつだってアリスの傍にいるものだと大昔から決まっていました。
しかし、この世界の大昔とはいつでしょう?
今であり、過去であり、未来。
それが大昔です。この世界は狂った夢の中と同じで、いつがいつでいつまであり続けるかすらわからないのですから。
ただひとつ、正しく、分かっていることは。
『アリス』が『絶対』であることだけ。
大昔に二人のアリスがこの世界を作ったときから、『アリス』は絶対者です。
そしてそのころから。
猫は、アリスの所有物で、アリスの従者で、アリスの護衛で。
アリスに言われれば、死ぬことすらできる生き物なのです。
それがチェシャ猫という、生き物ですから。
これもまた当然ことなのです。
「お帰り、ボクのアリス」
「今帰りましたわ」
きゅい、と音を立てて右へ少し動く車いすの持ち手を、自然な動作でサティは持ちます。
彼女の足が潰えた時からずっと、この役目は彼のものだったので、アリスも何も言いません。
「どれほど、審判を待つ罪人は溜まっているの?」
黒のアリスはテーブルの前まで車いすを押され、そこでロックをかけられると決まったセリフのように言葉を吐きます。
右手には紅茶のカップ、けれど左手には審判を待つ罪人のリストが握られて。
憂鬱なアリスはため息をつくしかありません。
「それはもう沢山お待ちだよ。でもね、アリス」
「何かしら?」
アリスはリストから目を離しません。何故なら、向かいに居るのは自分の従者たるチェシャ猫だけ。視線を向ける意味もないからです。
ですから、次に聞こえてきたサティの声に、思わずリストを落としてしまいました。
「数日ほど、休もうよ」
アリスにしてみれば青天の霹靂で、とてもじゃないけれど休んでいられる場合じゃありません。
暴力と犯罪と、それから暗殺者と。それらで埋もれた国をかつての幸福の国に正すのがアリスの役目だと信じていたからです。
アリスの兄が失踪した日から。ずっと。彼女はそればかりを望んできました。
もう二度と、アリスが失われないように。
そうすれば、この国は、本当に完成するからです。
でも、この目の前の従者たる猫は今、休めと、主人に向かって言ったのです。
「…サティではないようですね、」
休めなどと、猫は言いません。絶対に、アリスだけには言いません。
ですからとっさにアリスはそう思いました。
すると、猫は…いいえ、猫のふりをした男はひとつため息を吐いて、アリスの目をふさぎます。
「…っ、」
「やっぱりアリス相手にだまそうだなんて、無茶があったかな…ぁ」
目が解放され、目の前を見れば、優雅に紅茶を楽しんでいるのは、
「白兎、貴方なの…」
白の王の幼馴染、白兎エノクでした。
飄々と紅茶を楽しんでいますが、彼の手にはいつの間にか彼の好む長距離センサ付きの銃が握られています。
それだけでアリスは分かってしまいました。どうやら彼の元か、白の王の元に自分の暗殺の話が舞い込んできたようだ、と。
エヴァンジェルSVDを手に、窓枠の方へと銃口を向けます。
「何やら面倒そうな相手らしくてね、サティの方から頼まれたんだよ。一時間でいいから君を家から出すなってね」
「成程。なら、存分に働いてもらうわよ」
この白兎は油断ならない相手ではありますが、アリスを殺すメリットなど今のところないので、そこそこ信用できる相手と言ってよいでしょう。そう考え、アリスは目の前の男が何をしようと放置する方向でいこうと決めました。
例え、ここから2キロ離れた町の方で銃口が鳴り響いても、茶菓子を置いたテーブルの向こうで男が銃を構え、小さな窓枠から敵を撃ち殺していても。アリスには何も関係のないことなのです。
「…じゃあお仕事分は働こうかな、ぼくも忙しい身だしね」
「貴方がどんな身であれ、私には関係ないことよ」
その頃、2キロ向こうの町の方では、チェシャ猫がまるで騎士のように剣を舞わせ、辺りを血の海にしていました。
この町は白の王、ひいてはアリスを殺すことを企んでいたマフィアの巣窟で、歩くだけでチェシャ猫は辺りのマフィアを殺していきます。
MEGが鳴り響き、銃弾を入れ替え、正確に心臓を打ち抜いて。
剣で首をはね、空を掻き切るようにして血しぶきを払い、心臓を突き刺して。
そうして、全て殺していきます。
アリスの世界ですから、アリスに必要なものだけ生きていればいいのです。
アリスに不必要なものだからこそ、こうして殺せるのです。
そのことを、当のアリスよりもサティは良く分かっていました。
本当にアリスに必要な…例えば、自分のような生き物とかは殺すことなど到底不可能です。
心臓を打ち抜かれれば、もしかしたら死ぬかもしれませんが、それはとても低い確率というものです。何せ、自分はチェシャ猫なのです。すばしっこくて、先回りするのが得意な猫なのですから。
―――本当に?
その問いに、答えるものはあいにく全て死んでいて、だぁれもいませんでしたけれど。
「おかえりなさい」
サティが家に帰ると、黒のアリスは黙って本を読みながら、一言だけ声をかけてくれました。
どうやらもう白兎は帰ってしまったようです。
サティの思惑では、自分が殺し損ねたマフィアがアリスの住むこの家に流れてくることが分かっていたので、アリスのつかの間の護衛として白兎エノクには依頼をしていたのですが、どうやらその掃除も終わってしまったようです。
「ただ今、ボクのアリス」
「…白兎から伝言よ『仕事が終わったから、帰るね』と」
「ありがとう。やっぱりボクのアリスにはばれてしまったか」
一応、白兎に変装を頼んだのは、アリスが安心して家にいられるようにとの配慮でしたが、アリスには無用の長物のようでした。
何故なら、薬莢がその辺りに転がり、テーブルの下からは火薬のにおいが微かにします。
白兎はアリスのことなんてお構いなしにこのテーブルに銃を構え、狙っていたようです。最も、アリスも大して気にはしていなかったでしょうけれど。
「当然ね、貴方は私に『休め』なんて言わないもの」
「?そんなこと、言ったの?」
サティには話の流れは分かりませんでしたが、確かにサティはこの小さなアリスに休めだとか、遊ぼうだとか言った覚えはありません。
仕えて12年、一度もないのです。
何故なら、
「君の志を、ボクごときが止めるわけにはいかないよ」
「貴方ならそういうと思っていたわ」
ちらりとアリスは薄く笑ってサティを見てくれました。
だからサティもにっこりと微笑み返します。
これが二人のスタンスで、これがサティにとっての最大級の甘やかし方でした。
猫はなんでも知っています。
けれど猫はただそこに居るだけ。
アリスがただ死なないように、アリスが自分にだけ愛されているように。
最大級に甘やかして、なだめて、幸せにして。
そうすることで、どこにもいかないように。
兄のアリスのように、消えてしまわないようにしているだけなのです。
End