Story3.逃げ惑う赤の女王陛下
赤の女王陛下は臆病でした。
全てが恐ろしく感じる彼に、王を信じるなんて芸当などできるわけがありません。
それはよくあるおとぎ話なのです。
彼が彼を信じれば、全ておさまる物語です。
そして、彼が彼を血みどろにする限り、何も完成しえないおとぎ話です。
彼が、そして彼が。
いつまで、それを続けていられるのか…それさえ欠ければ完成するおとぎ話なのです。
ぐちゃぐちゃぐちゃり。
ぽろぽろぽろぽろ。
おやおや、赤の女王はまた寝所にて血みどろになっているようです。
彼はいつだって自虐症候群で、自らナイフで傷をつけてはその白い女王衣装を真っ赤に染めるのです。
ですから、本日も。
彼の寝所は真っ赤っかなのです。
「…またなんだ、君は」
「……」
くるぅりと自分の手を真っ赤に染めたまま、赤の女王陛下が振り向くと、ちょうど、扉を開けて白の王が入ってきたところでした。
「いい加減、それやめない?」
また赤の女王は答えません。ただ空洞のような瞳で、じいっと白の王を見上げるだけです。
「この世界じゃそれ位傷つける位じゃ死んだりしないんだから、さ。無謀なこと、やめなよ」
無謀というのは本当ですから、ある意味白の王は優しいのかもしれません。けれども、白の王は注意はするけれど、その行為を止めようとはあまり思っていません。何故なら、
「でも君は血の色で染まっている時が、一番綺麗だよ」
「……そう」
今日初めて赤の女王は言葉を発しましたが、白の王は困ったように笑うだけです。
「いい加減、私の手に堕ちてくれないかなー」
くすくす笑いながら、これまた真っ赤に染まった髪をするりと撫でます。
優しく撫でるその姿は、女王が真っ赤に染まっていなければ、とても心優しい王のように見えたことでしょう。
けれど、王は鏡の国の王。
王の心もまさに鏡のよう。正反対ばかり表すのです。
それが女王が王の手に、自らを委ねられない理由だと王は全く気付いていませんけれど。
それでも王は、この気高くも臆病な女王がこの手の内にあるのがとても楽しくてなりません。
「…貴方が殺すなら、別にいいけど」
「それはダメだよ。王は誰も手にかけてはいけないんだから」
「そう」
女王は王の手にかかって殺されて、漸く安心できるのですけれど。それが叶えられたことは一度もありません。
だからといって、心臓を粉々にしてほしいと懇願しても、彼は叶えてくれません。
どちらも王の盟約に反することで、王はそれを裏切ることが一番厭なのですから。
「じゃ、公務があるからまた昼ごろに来るよ。それまで、その赤い髪をせめて洗い流して、どうしても赤がいいなら赤いドレスでも着ておいで」
そう言い残して、王は出て行ってしまいます。
女王はただその後姿を見て、ぼんやりとしていました。
赤く染まっていたはずの掌が、みるみるうちに綺麗になっていったとしても。
それすらいつものことすぎて、女王の目にはとまらなかったのですから。
赤の女王がぼんやりとしていると、ひょこりと人影が入り込んできました。
女王の寝所は絶対不可侵領域であるはずなのですが、どういうことでしょう?
白く長い耳に赤い目、アルビノのようなその姿はひょいひょいと柵を乗り越え、罠をものともせず、女王の寝所のベッドの上にひょこりと飛び乗りました。
「…まだそんなこと続けてるの、ユベリアナ」
白兎エノクはまぁるい目をきょときょとさせながら、女王のそばへと寄ると女王の濡れ烏のような髪をゆぅるりと撫でつけました。
女王はもう真っ白に戻ってしまった服をちらりと見ながら、またもナイフを自らの腹へ、手へ、足へと突き立てていきます。けれどもどうしてか、いつも頭や目にはできませんでした。
そんな光景を見ながらでも、エノクはゆるゆると撫で続けています。まるで幼子に対するように、エノクはゆるゆる撫で続けるのでした。
「…彼が怖い?」
白兎エノクはこれでも白の王リュシーの親友です。そしてユベリアナをこちらの世界に手引きした者でもあります。だからそんなことを聞きたくなるのかもしれません。
「少し、怖い。でもそれより自分が怖い」
「そう」
どくどくあふれ出す血の海は、いつもみたいにユベリアナの服を染めていきます。
痛くても、泣きたくてもこの世界では死ねません。
―――もっとも、手段を厭わなければ死ねることを、ユベリアナも知っていましたけれども。けして、ユベリアナはそれを選びません。
そしてそれをエノクもよく、知っていました。
「でも帰りたいとは思わないでしょ」
「………」
ユベリアナは言葉を噤みますが、ユベリアナが思っていることなどエノクにはお見通しです。
本当は彼だって、白の王を嫌いではないのですから。
「なぁ」
「なぁに?」
エノクはただ微笑んで訪ねるだけです。それがエノクの仕事なのですから。
「アリスを呼んでくれ」
エノクは少し目を見開きました。ユベリアナがアリスを呼びたがるなんて初めてのことだったのです。
アリスは絶対の存在、アリスがいるからこそ、この世界が構築され続ける。
逆にいえばアリスがいなければ、この世界は終わりです。そのためにチェシャ猫という護衛であり、門番がいるのですけれど。
いくら赤の女王陛下とて、アリスを所望するのは大それたことでした。しかしできなくはありません。
「いいよ。どちらのアリスを、女王陛下は御所望かな?」
「…チェスの国を纏める、白のアリスを」
白のアリスとは、青いエプロンドレスを着た侵略者アリスのことです。
その名に、白兎エノクはひとつ頷くと、来たときのように窓からひらりと飛び降りていきました。
しばらくして。
赤の女王陛下の謁見室に、白のアリスが訪れました。
彼は未だ青いエプロンドレスに、右手には機関銃です。どうやらこれが基本装備になっているようでした。
「赤の女王陛下ねぇ…顔も見ずに殺した奴が、侵略者に何の用だ?」
白兎エノクと共に謁見室を歩きながら、白のアリスは問います。
その問いに白兎エノクはくすくすと微笑みながら、答えました。
「彼も君と同じ、外から来た子だからね。最も、君とは違って元々向こうの世界の住人だったらしいけれど」
「連れてきたのはアンタだって、ルティに聞いたぜ?」
チェシャ猫は神出鬼没故に、情報収集に長けているとともに、彼ら双子は門番です。彼らを通さなければ、この国には入ることすら叶いません。
「そうだね。ぼくはチェシャ猫と違って、連れてくることしかできないけど。でもそれが彼のためになると思って連れてきたんだよ」
「……へぇ?」
傲慢だと、白のアリスは思いましたけれど。彼にしては珍しく言葉にはひとつも出しませんでした。
そんなことより自分を呼んだという、赤の女王陛下の方に興味があったのです。
「さてここが赤の女王陛下の謁見室。…ユベリアナ、連れてきたよ」
待ちぼうけのように謁見室で待たされた挙句、ユベリアナがぼうっとしていると勝手に扉が空いています。
その扉の開いた先には、先ほど窓から出て行ったエノクともうひとり。
自分を殺した、けれど自分と良く似ている白のアリスでした。
「…貴方が白のアリス。姿は見たことはなかったけれど。本当にアリスだ」
「赤の女王陛下とやら、俺に何の用だ?」
矢継ぎ早に白のアリスは問います。それに少しだけ怯えて逃げ腰になってしまいましたけれど、ユベリアナは自分としては珍しく気丈に言いました。
「貴方はこの世界にいて、この世界から脱出した。それも誰に気づかれることもなく。その方法を教えてほしい」
「無理だ」
間髪いれずに、ほんの一瞬で、白のアリスは断りました。
その言葉にも思わず怯えてしまいそうになりますが、ユベリアナはまだ立っています。
そうしていると、白のアリスが再び口を開きました。
「俺はどうやってこの世界から逃げ出したのか覚えてないし、アンタのために思い出すような義理もない」
それは当然のことなのです。ユベリアナだって、なんの義理もない白のアリスにその身を差し出せと言われたら、間違いなく断るでしょう。
「…そう、では仕方ない」
ユベリアナはまるで逃げる術などないと、もう逃げ場などないと宣告されたようでした。
それでもユベリアナはまだ逃げたいのです。
白の王から、そして自分からも。
だからこそ、赤が好きです。
赤い血の色を纏っている時だけは、意識が少し朦朧として、全てから逃げているような気分になれましたから。
ですから、彼は今日も自身を傷つけ続けるのです。
それしか彼にはないのですから。
「帰って。もう…部屋に帰るから」
「言われなくても帰るっての」
白のアリスをぞんざいな言葉で追い返した後、部屋に引き返します。
そしてまた、同じ繰り返し。
ぐちゃぐちゃぐちゃり。
ぽろぽろぽろぽろ。
おやおや、赤の女王はまた寝所にて血みどろになっているようです。
涙と、血と。
それらで寝所は、彼はいつだって満たされる。
「…ぼくは悪いなんて思ってないけどさ」
それを見守っているのは、白い姿の赤い目の兎。
「いい加減にした方が、いいと思うよ?」
兎は今日も、女王を気遣い、見守るだけ。
光景が変わることなど、あるのでしょうか?
End