声の届く人
安定した給料、資格を持つ安心感、母からの勧め。そんな理由で何の覚悟もなく進んだ看護の道に挫折して現在フリーターの俺は、週一の休みになんとなく外に出ていた。
生活費のために毎日働いて、いつもの休みはただ家で寝ているだけ。そんな変化のない毎日に刺激が欲しかっただけなのだが、田舎の平日では主婦や老人とすれ違うくらいで、特に何もない。日ごろの運動不足が解消されるほど動く意欲はなく30分もしないうちに家に帰ることにした。
同じ景色を眺めるのはさらに退屈に思われ、違う道を通る。数年前に畑を潰してできた道路を歩いている最中、線路の方から大きな音がした。線路沿いに住んでいるが工事をしている様子はなかったし、耳を澄ましてもその後に続く騒音はない。
刺激に飢えていた俺はそちらへ足を動かした。別に何もなくても構わないし、何かあってもどうせたいしたことではないだろうと踏んでいた。この時ののんきな田舎町で生きてきた平和ボケなうえにゆとり世代だった俺は――劇的に、変わることになる。
その線路は坂の上にあり、だるい足をなんとか前に出して進んだ。線路の方に目を向けながら歩いていると住宅街との間にある放置された雑草まみれの坂から、なにやら草を踏みしめるような音がして、道路と隔てる柵へと近づく。
風で揺れた時とは明らかに違う重みのある音に、こんなところを歩いているであろう人物への警戒心と好奇心、もしかしたらただの野良犬なんじゃないか怪しむ思いなどが混ざって、なぜだか引き返そうとは思えなかった。
周りから見ればこちらが不審者だと疑われそうなほど落ち着きがなく、柵を越えこそしなかったがいっぱいいっぱいまで身を乗り出して探す様はまるで子供のようだ。
耳に届く足音を頼りに目を走らせながら、ふと気付く。ここの雑草はそう高いものではなく人間が隠れるほどではない、なのに人影は見当たらない。ああ……やはり、野良犬か、でなければ狸か猫か、そういえばここは蛇も出るのだったと取り留めのないことを考えながらすでに興味が失せた坂から視線をそらす。
そして、いつの間にか音が消えていることにも気付かないまま、俺は家路についた。
汚い川を眺めながらの散歩は特に気持ちいいものではなく、防寒着で身を包んでも時折吹く冷たい風が刺すような寒さを全身に与える。
早く帰ろう、炬燵に入りのんびりテレビでも見ようと引きずるようだった足取りを速め――視界に入った若い二人組に少し恥じらった。いきなり気合を入れた俺をどう思っただろう……いや、きっと気にしていないし、明日どころか一時間もすれば忘れられるのはわかっているのだが、どうにも恥ずかしい。目が合わなかったのは幸いだった。
しかしこの男女二人組、高校生ぐらいに見えるが学校はどうしたのだろう。行っていないにしてもバイトとかはないのだろうか、なんて今日自分が休みであることを忘れて邪推する。と、じろじろ見ているのに気付いたのか男の方がこちらに目をやった。気を悪くしただろうかと会釈をして視線を下げたまますれ違う。
恋人だろうか、兄妹にも見えた。女の子可愛かったなー、男もイケメンだったけどなどと反省せずに考えを巡らせながら、今度こそ帰宅した。
母は祖父母の介護で家を空け、兄は働きに出ている。実質一人暮らしの家は出た時のまま冬の冷たい空気に満ちていて、防寒着を脱ぐ前に暖房をつけた。炬燵のスイッチも押し、部屋が暖まるまでに排泄をすませ飲み物や食べ物、小説を用意すれば籠る準備は整う。テレビをつける代わりに暖房を消して上着をその辺のハンガーにかける。あとは明日までほぼ炬燵の中で過ごせる。
足元が温められ、一気に眠気が襲ってきた。結局いつも通りの休みになるのだなと落胆しながら、抗うことなく瞼を下ろす。
真っ暗な視界の中で、小さな音がしたような気がした。カチンカチン、いやキンキン? 小石同士がぶつかっているみたいな、その粒が金属でできているのかもしれない、小銭を落とした音に似ているがどこか違う、うるさいというよりも耳障りという感じだった。
俺以外誰もいない家の中だ、目を開けてももちろん誰もいない。機嫌が低下するのが分かる。気持ちよく眠れそうだったのに、止まらないこの音はなんだ。
「耳、いいんですね」
その音に混じって突然声がした。聞いたこともない男の声。その声の主は部屋を見回してもおらず、混乱するばかりだった。
金属音が消え、声もない。
――寝ぼけてるんじゃないか? その考えに至ったのは再び声がする一瞬前だった。つまり、納得しようとした途端に否定されてしまったわけだ。
「ねぇあなた、聞こえているんでしょう。お願いがあるんです。
――たすけてください」
俺よりも年下だと思われる声はやけにしっかりとした口調で、なのにどこか頼りなくすがるように俺に語りかける。正直夢ではないかと疑いもしたが、なぜだかこの男を助けてやろうという気になった。
どうしようもない不安がこの声に籠められているのだ、その不安はきっと彼自身を案じた物ではないのだろう――そうも思った。
「俺、なんもできないぜ? フリーターだし、根性無しでほんと駄目男。それでもなんか役に立つのか?」
「あなたにこの声が届くなら問題はありません。どうか、頼まれてくれませんか? 危険はありませんが面倒事ではあると思います。あなたにメリットがあるとも思えない。僕ができることならお礼したいとは思いますが、きっと大したことはできないでしょう。
都合のいいことを言っている自覚はあります。それでも僕は、あなたに頼るしかない。だから――」
正直な男だ。こんな駄目人間に頼らざるを得ないなんてかわいそうだと自分でさえ思うのに、彼は真摯に全てを語っている。こんなことを信じる俺は詐欺に引っ掛かりやすいのかもしれないな。でも、嘘だとは思えなかった。
「ああ、いいぜ」
内容を訊く前に、すんなりと口から了承の言葉が滑りおちる。
「本当に?」
こちらの真意を探るように問いかける声には隠しきれない喜びが混じっていた。年相応の、といってもこちらが勝手に想像しているだけで本当は年上なのかもしれないが、幼さが含まれている。
「おお。つっても何したらいいのかわかんねーから、教えてくれよ」
「……恩に着ます」
泣いているのかもしれない、そんな風に思えるほど震える声にこちらからは話しかけず、再び睡魔がやってくるほどの時間が経過した。