勘抜き
一人にすべての素質を求めるな。
誰の言葉だったかな、孔子だったかな。
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けたたましいアラーム音で衣更着潤は目を覚ました。低血圧の彼女の目覚めはいつも悪いので、彼女に限ってはスタッフが起こしに行くことはない。というよりも自身の寝ぼけ具合のひどさは己が一番わかっているため、下手に気を使わせたり、最悪危害を加えては立つ瀬もないので、自ら談判をしに行ったほどだ。そのためか、制御できる人間が同室にいないことでよく二度寝をする。結果今日も彼女が目を覚ましたのは二度目であり、時計の針は午前十一時二十分を指していた。お昼時だな昼食を食べに行こう、そう思い立った彼女はラフな服装に着替え、脱いだパジャマ類はその辺に放置。#29と記された鍵をかけて自室を後にした。
三階の通路をゆったりゆったり歩いていると、向かい側から少女に近づいてきた。まだ十分の一も起動していない脳をはたからせ、少女を認識する。
紺のジャージでチャックは首元いっぱいまであげている。サイズが大きいのか、足が短いのか、はたまたずり下ろしているのか、下の裾を引きずっている。一応ホテル内での移動は原則スリッパなので、よもや転んでしまいそうではある。そのうち向こうも衣更着の存在に気づきニコニコかわいい笑みで手を挙げた。
こんな子いたっけ。まだ年端もいってないような破瓜な少女……自分は知らない、と彼女は疑問符を浮かべる。もしかしたら話していくうちに思い出せるだろう。まさかもうここにきて一週間も経つのに人ひとり記憶にとどめてないともなると、それは記憶力の問題ではなく、彼女の人間性が問われてくる。性状寡黙で必要最低限のことしかしない人間ではあるがこればっかりはどうしようもない。聞くは一時の恥、知らぬは末代の恥という。
衣更着は話しかけた。
「えと、おはよう」
音声に反応した少女がぺこりと頭を下げる。そうして顔をあげ、
「もうお昼前なのですからおはようは違います。ですから、はい。こんにちニャン」
少女は手を猫の手にしてかわいく諌める。
自然とつられ言葉だけこ、こんにちニャン……、と復唱する。一瞬手も出そうになったがすんでのところで理性がとめる。まさか二十後半にもなって人前でそんな醜態は晒せない。
「あやあや? ニャンは娘娘さんの専売特許ですから使用不可ですかな? まあ後で謝ることにします。きっと許してもらえますよね?」
「う、うん。そうだね。あなたかわいいから容赦してもらえると思う」
「えへー? そんなことないですって。衣更着潤さん! とってもお上手ですね! 私舞い上がって羽ばたいちゃいますよ」
「ぉと、あ、私の名前知ってるんだ」
衣更着は突然名前を呼ばれ動揺した。正直なところ今眼前でしゃべる少女の素性を知らない。思い出せない。その前にも出た娘娘という人もひょいと言われても思い出せない。それを平然と二人の名前を言うこの少女に素直に感心した。
「むーむ。そのお顔から察するに衣更着さんは私の名前をご存じありやせんね?」
「うん、たぶん」
瞬間きらりと少女の双眸がきらめいた気がした。好機来たりと言わんばかりで、一旦バックステップで衣更着から距離を取った。そうして一度下がりきったジャージを整えて、両腕を水平に伸ばした。
「そうですかそれならお教えいたしマッシュ!」
何かと変な言葉をつけたがる女之子だなあ、動作も大袈裟だし、と思いつつ。
「桃色桃源郷には平和がいっぱい! 薫風新風巻き起こすはピンクツイスターここに見参! 改めまして#52こと桃楡旋毛です! どうかよろしくお願いします!」
衣更着は唖然とするほかなく、数秒棒立ちだった。また#52の番号を冠する桃楡旋毛と名乗る少女も両手を大に広げたままで微動だにしなかった。
その後この新手の自己紹介にどう反応していいか思索するよりも、そういえばこういう仕組みで世界を回していくんだったけな、と思い出し始めていた。
重要なことは知名度。人気の度合い。ファンの数。それがこの世界を統治するための、王位を継承するものにあたり評価のウェイトを大きく占める条件。
カリスマ性の有無で、物事は大きく変わる。
ようやく衣更着の脳が正常稼働し始めた。ここに招聘された理由。何を目的とするか。なぜ桃楡旋毛がこんなにも厚かましいほどに自分を表示しているのか。それらの理由が徐々に記憶を揺さぶり出す。
(そうだった。そうだったね。これは大池さん主催の大会だったな。完全に忘却の果てだったし。私としたことがだいぶ抜かったねえ。先延ばしにしてると後で痛い目見る、か。間違いない。完全に今桃楡旋毛ちゃんに先を越されてしまっている。こいつは参ったや)
事の重大性をようやっと理解し終えたところで、一息ついて落ち着きを取り戻す。
(私らしくないね。いや、いっそ私らしいかな。この腑抜け感。欠落感)
衣更着は首を一二回鳴らして、桃楡に言葉をかける。
「その姿勢ずっとしてると疲れるでしょ? やめていいよ」
「ですか? ではお言葉に甘えて」
桃楡はへんてこなポーズを解除する。佇立したまま衣更着の番を待つかのようなたたずまいだ。
(それは私のセリフ。そんじゃ行かせていただこうかな)
衣更着が一つ深呼吸をし、お返事を桃楡に向けて、否世界中に向けて言い放った。寡黙な彼女の精いっぱいのアピール。どうか無駄になりませんように。
「衣更着、もとは『生更ぎ』って言ってね、草木が甦ることを言っていたんだよね。――さあ!枯れ果て飢え渇き切ったあまねく衆生よ。貴様らの求むべくは何だ。血か。義か。旬か。――違う。違うね。貴様らに足りないもの、それは潤だ。潤いだ。モイスチャーだ。それを私が提供してやる。私、#29衣更着潤の身をもってして提供してやろう」
ホテルの三階の通路で衣更着は高らかに謳い上げた。傍観者である桃楡が「……わあ」と小さく拍手を送っていた。心中この人痛いなーとまでは思わないものの、できれば年を重ねてもあんなふうにはなりたくないと感じた。一方の衣更着と言えば、やりきった感の愉悦に浸っているのか、口角の端をあげ、その長いとも短いともいえない青緑色の髪を搔きあげた。
両者ともにキャッチフレーズを交わしあい、いよいよ戦闘モードと洒落込みたいところではあるが、残念ながら衣更着と桃楡ひいてはあと九十八人、大会に招聘された計百名が衣食住を共にする、ここ大怪獣ホテル内では戦闘行為の一切を禁じる。これはホテル入室時に契約した同意書の約款にも明記されている内容だ。違背行為に関しては厳格に処罰するとのこと。二人はそれを肝に銘じているため、争うことはしない。しないというよりできなかった。ただ初めて出会う相手には通例儀式として行う義務があるのでそれに則りやっただけのことで、もとよりこぶしを交えるつもりは毛頭なかった。
つまり、
「モモニレ、桃楡旋毛ちゃんでいいんだよね。どうしてあなたは私の名前を知っていたのかな? 一首詠んだってことは私たち初対面だった?」
ということになる。それを含めて、桃楡は衣更着のフルネームをズバリと言い当てた。言い当てたなどといえばクイズ形式のようだが実際はそんなことなく、桃楡は覚えた数式を口に出したみたいな、そんな様子だった。
衣更着にとってそれは言いようのない違和感である。
自分の知らない人間から名前を言われると経験は誰しも一度くらいあるだろう。たとえそれが聞き間違えでも、振り向いてみてそこに全く見知らぬ人物がいたとすればそれは同性異性にかまわず、どきりとしてしまう。
結局はそこに展開が読めないから不安になってしまうのだ。
ホテル内の戦闘はあくまで禁則事項であり、まさか大会の招待客である、しかしながら絶対的素質を持つであろう桃楡が条約を犯すとは考えにくいが、刹那に衣更着の胴体が真っ二つになっている可能性は少なからずあるだろう。
そして先のホテル内戦闘禁止公約が設けられているのは唯一大怪獣ホテルだけである。逆に言えばそこを除くいたるところ、たとえば倉庫、たとえばアリーナ、たとえば観客席、たとえばトイレどこでだって戦闘を開始することは可能なのだ。
そんなあからさまにアナーキーでリスキーなルールを考案したのが、二人がいる大怪獣ホテルの最高管理人、兼その一帯敷地面積およそ野球ドーム二十個分相当の土地所有者である大池衣装その人である。桁外れ・場違い・独占者、言葉を尽くせばきりはないが、その大池自身は熱狂的なバトルジャンキーであり、タイマン無制限がどうとかバトルロワイヤル云々などは完全放棄して、「とりあえず出会ったら戦え。逃げてもいいから」をモットーに今回の大会を主催した。いわば彼は主催者であり独裁者とも言える。立場上、衣更着・桃楡含めた百名は彼じきじき挨拶に出向き、交渉をした粒ぞろいの曲者ばかりであるが、招待客に変わりはなく、そして大池も主催者に変わりないため、逆らうことはできない。
さて、しかし招待客同士なら逆らうことはかなう。たとえばいまだ若干寝ぼけ眼の衣更着は自分がいる場所をホテルだと認識しているだけかもしれない。で、実際立っているその場所はそれ以外の戦いを認められたところかもしれない。その場合は問答無用で戦闘に直結する。なかんずく桃楡は根っからの近接戦闘尚且つ速効型で、一瞬でケリをつける蹴りをいれるタイプのアツアツほくほく人間であるため、非常に手の付けようのない危険分子だ。
果たして衣更着が情報をどれほど有しているかはさておくにして、衣更着の懸念は杞憂に終わるのだ。
なぜなら……この一秒後、大怪獣ホテルはホテルではなくなってしまうのだから。
戦闘開幕。
の予感。