前座
何かを始めるためには、しゃべるのをやめて行動し始めなければならない。
だそうです。
誰の言葉だったかな、ウォルト・ディズニーだったかな。
★
別に、語り部が僕である必要なんてどこにもなかったんだ。│寝豚祀でも│神輿入道でも│若旦那でも│足亀山崇岳でも│柿氷硝子でも│瑠璃懸巣比翼でも│冷汗三斗でも│国後理恵でも良かったんだ。本当に誰がやっても問題は発生しなかったんだ。ただ単に僕がやっている理由、やらなければいけなかった理由は、僕以外が全員鬼籍に入ってしまったことによる。
僕以外の九十九人がバナナの皮を踏んで漫画よろしくすっころんでしまった。それで頭部挫傷による脳への損傷が死亡原因だった。あれは衝撃的。素で「そんなバナナ」と言ってしまうほどに、みんなは呆気なく死んだ。僕は一応過去彼らに関知したものとして、お世話になったものとして、全員の通夜に出向きお焼香を挙げ、出棺を見送った。泣いたりもしたし、泣かなかったりもした。一日五人ペース、約三週間毎日喪服に身を包み、式場に向かい、その後僕は最重量級の鬱気で一週間寝込んだ。
その翌朝一枚の手紙が送達された。手紙の内容は「百人一首の再編纂」。その意味は一瞬で理解できた。確かに残った人間がやるのが筋ってもんだ。 しかしだな、僕は物事を理論立てて話したり、読み手を説得させることができるテクニックを持っているわけでもない。自然身につくものだと僕は勝手に考えているんだけどね。僕は己の愚昧さが馬脚を露さないように、たとえばその冒頭にあるような名だたる偉人らの名文、名言、格言でも引用しないうちは相手に見てもらえないんだよ。
愚かにも愚かにもね。
というかさ、僕は屁理屈が好きなんだよ。生まれ持った『死ぬまで生きる』というスキルゆえに、危険に遭遇したところでどうせ生きてしまうのだからという安心が僕を健やかに育ててきたらしい。逆に安全の保証があると不安が生じる。危険がのさばりはびこっていた当時のあの戦場地帯にいると、今日も平穏なり、その言葉が怖くなる。つまり僕から言わせれば、危険が安全であり、安全が危険だということになる。
をもってしての屁理屈だ。なんという屁理屈。意味益体のない狂言・虚言で僕は構成されていると言っても差し支えないよ。
だからどうだと言うこともないのだが。まさに屁理屈。理屈好麒麟さんが言うなら「私って理屈じゃないのよ」だろう。
話を戻そう。
僕がよしんば語り部をするにしても、そこには絶対ベースとなる物語があるわけだ。まさか噺家がネタの種も持たずに舞台に上がることはしないだろう。熟練者ならともかく、#87、│縁等夜狩であるこの僕がどうひっくり返ったところで、アドリブも気も利かすことはできそうにない。なんならカンペだって噛んでやる所存だぜ。
さて、不承不承僕がする物語――百人一首の再編纂――のタイトルは『│創造城年代紀』。タイトル名は事前に僕が考案したものだがどうだろう。なかなか秀逸なセンスだと自負しているんだ。何がどこがとかはネタバレになるから伏せておくにしてもまあ、『題は章を兼ねる』と言うからね。……言わないかな。だけどもまあ臆見でも憶測でも自由に不自由に想像を膨らませるといいよ。想像はすなわち創造だからね。
とりあえず『│創造城年代記』。舞台はとある富豪の敷地内。部隊は精鋭百人。付帯は百年戦争ならぬ百人戦争(僕含め)。文体は現代風。
濃密な戦いもあれば希薄な戦いもある。重い戦いもあれば軽い戦いもある。苦しい戦いもあれば楽な戦いもある。ご機嫌な戦いもあれば不機嫌な戦いもある。決まる戦いもあれば決まらない戦いもある。始まる戦いもあれば終わる戦いもある。守る戦いもあれば救う戦いもある。戦う戦いもあれば戦わない戦いもある。
ほら、僕が語らずともこんなにも世界は愛にあふれている。長向上なんざ見聞するだけ時間の無駄だ。だから言っている。屁理屈だって。
そうだね。だからこれから僕が語ることもきっと屁理屈なんだろう。無理が通れば道理が引っ込むという。ならば屁理屈が通れば理屈が引っ込むさ。
ではでは長らくお待たせいたしました。
│創造城年代記、心行くまでお楽しめ。