欠けていたもの
じっとりした雨があがり、夏の暑さが肌を刺激し始めた頃のことだった。
私と祥子ちゃんは幼稚園の頃から友達で、高校に上がった今も一緒に遊んだり、登下校したりする。
今まで殆どが同じクラスになっていたせいか、私には祥子ちゃん以外友達がいない。
彼氏もいない。
でも、祥子ちゃんには私以外の友達がかなりいる。それに祥子ちゃんには彼氏はいないけど、好きな人はいた。
クラスの中で一番格好いいと言われている、桜井。
はっきりとした顔に、少し癖のある黒髪と長く生えたまつげ。
瞳は、ガラス玉のように光り、真っ黒な色をして輝いている。まるで、おとぎ話の王子様みたいに。
桜井に恋をしている祥子ちゃんは、良く周りの人に可愛らしいとか綺麗だねとか誉められている。ゆるく、縦にウェーブの掛かった髪に大きな瞳、白い肌。華奢な体が病弱さを醸し出す。儚げなお嬢様と言った感じだった。
そんな二人はお似合いだと、私は常日頃から思っていた。
「ねぇ、ヒカル。今日は得丸の蕎麦がいいわ」
唐突に私の席の近くに来た祥子ちゃんは、いつものように手で髪をくるくると巻いていた。
「うん。分かった。お昼に買ってくる」
「何言ってんの、お昼に買いに行ったって間に合わないじゃない。四時限目から行って」
「……うん」
私は毎日毎日、パシリみたいに使われたりする。お昼を買ってきてだとか、荷物を持ってだとか色々ある。
代々、お金は私持ちで、たまにまとめて返してくれたりするけど、殆どが私がおごってる状態になる。
私の家は両親、二人ともが弁護士なのでお金が有り余っているから、別に払わなくていいのだと、前に祥子ちゃんは友達に話していた。
私自身も流れに身をまかせた状態で、今ではもう日常になっていた。
日差しが高くなった四時限目。私は買い出しに行くために横一列にずらりと並べられた自転車置き場に来た。
丁度、桜井が自転車を乗ろうと、片足を上げていた。長い足だな。
私が桜井を見つめていると、桜井が話しかけてくる。
「なあ。何しに行くんだ?」
「えっ、えっと得丸の蕎麦を買いに」
「へぇ〜。おいしいのか、おいしいのか」
ガラス玉みたいな瞳を更に光らせて、何度も聞いてくる。
「おいしいよ。人気店だし、祥子ちゃんが好きなんだ」
「ふ〜ん。しののんめっ。……すまん。東雲って言いづらいな。よし。ヒカルでいこう。いいよなっ」
桜井は、指を一本立てて満面の笑み、そう王子様そのものが放つような神々しい笑みで私に言った。
特に断る理由がなく神々しいものにやられた私は頷く。
「ヒカル、俺も連れてけよ」
「いいけど、授業は?」
「いい。てかヒカルはいいのか。三ノ井の命令で授業さぼってさ。ヒカルは本当に食いたいのか?」
自転車置き場を二人して出ながら、桜井は聞く。
唐突に問われた事に正直面食らったし、授業ぬけるのは罪悪感があるし、私自身も少し嫌だった。
「仕方ないよ。祥子ちゃんに機嫌悪くなられるよりわ良いんだ」
自分で言った言葉なのに、心に針が一本刺さっただけだった。
門を出て、桜井と二人で自転車をこぎながら、何故一本針が刺さったのか分からなくて、空を見上げた。
空には飛行機雲の残り香が一筋ある。あれはどちらへ行ったのだろう。ちっちゃな世界を見下ろす。足跡だけを残して。
得丸の蕎麦は、ここらでは有名店で、私の両親と店の亭主は仲が良く、出前などはしてはいないが、特別にお弁当感覚で出してくれる。
「今日は三人前かい?」
亭主の問いに、横に首を振り、否定する。
「おいしい蕎麦の店に行くって言ったら付いてきたんだ」
「そうか、そうか。おいしいか」
私の誉めた言葉にそう言って、嬉しそうに頷いて亭主は店の中に入っていった。
「ヒカルって、誉めるの上手いな」
「そうかな」
私自身、人に余り誉められた事がないので、顔が赤くなって胸の奥が誰かに掴まれたみたいだった。
「てか、何でここで食わねーの。三ノ井なんかほっといてここで食った方が上手いじゃん。食おーぜ」
「え、でも頼まれたから」
「昼までに帰ればいいんだろ。俺から三ノ井に言ってやるよ。携帯仮せ」
桜井は無理矢理私のポケットから携帯を取り出し、馴れた手つきでボタンを押し、アドレスを開くと素早く掛ける。
「ヒカルって、ダチ少ないな」
余計な事をさらっと言いながら、桜井は祥子ちゃんに強引ともとれるような言い方で、用件を済ませて電話を切った。
「何かえらく、高いトーンではいっ、はい、って言ってたぞ」
「それは、祥子ちゃんが桜井くんのこと……」
そこまで言って息を止める。祥子ちゃんが桜井の事を好きと思っている事を私の口から伝えてはいけない。
そう思ったが、桜井は私が何を言おうとしたのか気が付いたらしく、私と店に入って、亭主にここで食べると伝えた後に席に付き、口を開いた。
「なぁヒカル。やっぱり三ノ井、俺が好きなんだ」
「……やっぱりって、知ってたの?」
「あぁ。だってさ、やたらと上目使いだし、用もないのに話しかけてくるし、佐々木はぜってぇそうだとか言ってるし」
私は身を乗り出して聞いた。
祥子ちゃんを好きなら、いいのに。そう、思っての事だった。
「ねぇ。祥子ちゃんの事好き?」
「嫌い」
身も蓋もなく、あっさり言われた。ヒカルと、自分の名前を呼んだ後、少しジャンプしそうになったのにやりそこねて溝に足で突っ込んでしまったようだ。
「ねぇ…。祥子ちゃんには言わないでね。傷付くから」
「ヒカルやさすぃ。でも、ヤダ。嫌いなもねは嫌いだから。後、三ノ井の言うこと何でも聞いてるヒカルもヤダ」
今度は頭をかなづちで一撃された衝撃に襲われた。まだ溝にはまった足を抜いてはいないのに。
二人で蕎麦を食べながら、こんな話をするなんて思ってもみなかった。
「別に、私の事は嫌いでもいいし」
「違う、嫌いじゃなくてそんな事平気でやってるヒカルがイヤなだけ」
蕎麦に目を向け、絶品と誉めながら桜井は言った。
「そんな事言われても……」
ぼそりと、小声で呟きながら言う。
どうしていいか分からなかった。私と祥子ちゃんの間にあるものは何なのか分からないんだ。切っても切れない何かのように私の周りに存在する。これを切ってしまったらこの先どうなるんだろう。
そんな不安に押し込まれないように、なるべく何も考えずに生きてきた。その方が楽だから。でも、時々胸が苦しくて倒れそうになる時がある。理由が分からないから、また考えないようにする。この繰り返しだったんだな、思えば。
「食べねぇの」
箸をとめている私に向かって桜井は言った。
「食べるよ。……祥子ちゃん怒らないかな」
もらした一言に、自分自身も、桜井も眉をしかめる。そして、桜井は一気に蕎麦を平らげた。
「ヒカルってさ、女の子しか愛せない体なのか」
真顔で桜井は問う。私は口を開け、返答に詰まる。
「嘘だよ。そんな顔すんなよ」
桜井は、出された熱いお茶を飲んだ。
結局、蕎麦を食べ終えた私達が学校に戻った時には、五時限目が始まる五分前だった。
「ごめんね。祥子ちゃん」
私が、友達と話てる祥子ちゃんに向かって謝ると、祥子ちゃんはちらりと私を見ただけで、また友達と話出した。
聞こえなかったのかと思い、もう一度話し掛けるが、こちらを見ようとはしてくれなかった。
私は席に戻り、次は理科の授業なので教科書を出しすと、はらりと紙が落ちた。
拾いあげ、中を見ると達筆な文字で書かれていた。
“サイテー”
祥子ちゃんが書いて入れたものだと察しがついた。
それから、ずっと無視の状態が続き、私は孤立していた。もともと話す人が祥子ちゃんだけしかいなかったためそんなには変わらないと思っていた。
その次の日の六時限目が終了し、掃除当番だった私は裏庭に行くと、佐々木と小野の男子に加え、何故か当番でない桜井がいた。
「女子はお前だけか?」
佐々木が不満げに言う。
「え、そうなの」
気が付かなかったが、今日当番の祥子ちゃんと片岡さんは来てはいなかった。
「ばっくられたな」
さらっと、小野は口にする。
重たい空気のまま、掃除を始めたが桜井は近くに腰掛け見ているだけだった。
「桜井。見てるだけなら手伝えよ」
「いや。今日は見ててやる」
「生意気な」
黒ぶち眼鏡の佐々木は、箒を手に桜井を追っかけまわす。小野も参戦して掃除どころではなくなっていたのに私の心は楽しくて、風船を持ったらどこかに飛んでいきそうなほどだった。
いつもより長い掃除が終わると、桜井は佐々木と小野と私を誘って、ゲームセンターに行った。
私は、初めは断ったが桜井の強引さに負け、ついていった。
「よし、ヒカル大戦しようぜ」
そう言って、座った所は昔からよくあるゲームだった。軸を合わせて上にある、色とりどりの玉に同じ色の玉が出ると飛ばしてくっつける。同じ色の玉が三つ以上くっつくと、弾けてなくなる。
そして大戦相手に玉が増える。下までいっぱいになり、玉を放てなくなるとゲーム終了。
「これ?懐かしいね」
「いけないかよ。結構楽しいぜ」
そう言い、桜井と大戦した私はボロ負けだった。負けると、悔しくてまた勝負を挑んでしまう。
その度に桜井は相手になってくれた。 気が付けば、夜の九時を超えていた。 佐々木と小野は同じ方角の為一緒に帰り、私は桜井に送ってもらうことなった。
「私、一人で帰るからいいよ」
「バカか。暗い夜道に何かあったらどうするんだよ。しのごの言うな」
「う〜ん」
気を使ってくれる桜井はありがたかったけど、この場面を祥子ちゃんに見られたらどうしようと、いう思いがあった。 渋る私を急かし結局桜井に送ってもらった。
何分か過ぎた頃。ベッドの上に身を置いた私の携帯に着信音がなった。
祥子ちゃんだった。
少し前に流行った映画の曲を祥子ちゃんが好きで、携帯に入れさせられたものだった。
そして、それを祥子ちゃんは自分専用の着信音に勝手に変えていた。
“これであたしからだってわかるわね。かかったら絶対即、出てよ”
そう言っていた。 電話をとると、祥子ちゃんは怒りを含んだ声で、泣きながら言った。それは感情ぶつけるだけの赤ちゃんのように。気持ちが少しげんなりしていた。
「あたしが桜井くんの事好きなの分かってて、何であんな事するの?ヒカル最低。あんたっていっつも自分の事ばっかしか考えないよね。あたしの苦労なんて知らないで」
ヒステリックに叫び。泣き。電話の向こうでは、何かが倒れた音もしていた。 私はひたすら謝り続けた。
何故謝っているのかわからないまま。
「祥子ちゃん、泣かないでよ。ねぇ、私どうしたらいいの」
「ぐすっん……桜井くんに近付かないでっ、話もしないでぇ、目も合わせないでぇ」
「……それは」
私がたじろいでいると、祥子ちゃんは一方的に自分の意見だけを言い、守らないと友達をやめると言って電話を切った。
私は呆然となりながらも、携帯を耳から離して電源を切った。画面は真っ暗になり、ベッドの下にことんっと小さな音をたてて床に落ちた。
今日という日が憂鬱だった。
雨でもないのに私の心の中はどしゃ降りで、竜巻まで出来ている始末。
それでも学校に行かなきゃならない。行かなければ、親が煩いから。
思えば昨日、祥子ちゃんに言われてから、脳内を誰かに圧迫されているみたいだった。
足取り重く、心の中が今度は大洪水に見まわれたまま学校に行く。げた箱で靴を入れると、背後から気さくに桜井が話し掛けてくる。
「なあ。またゲーセン行かねーか。ヒカルすぐ負けるから楽しくってさ」
「えっ……」
それ以上は何も言えず、俯いていると、祥子ちゃんの声が聞こえてきた。 振り向くと、祥子ちゃんは睨んでいて、私はさっと走って行ってしまう。
遠くの方で、祥子ちゃんの華やかな声が聞こえていた。
桜井には申し訳ない気持ちはあった。バカバカしい事に巻き込んでしまっていたから。
それから、祥子ちゃんは私と普通に話しをしてくれるようになった。
「今日はバーガー食べたいわ」
祥子ちゃんが、三時限目の休みになり行ってきた。私は頷き、席を立つと突然激しい音に教室が凍りつく。
桜井が机を蹴って私を一睨みし、教室を出て行く。
私の顔はみるみるうちに青ざめて行く。
立っているのがやっとだった。
祥子ちゃんは顔をほころばせた。
足に血が通っていないようなほど、地についた感触が不確かだった。
自転車置き場に行くと、桜井が顔をムスッとさせたまま突っ立っていた。
私は、顔を俯けたまま自転車を出そうとすると、桜井が近付いてきて、私の手を掴んだ。
「なあ。何で無視したんだよ。三ノ井に言われたらヒカルは何でも言うこと聞くのかよ。自分ってものはないのかよ。……すげぇがっかりした」
桜井の声は落ち着いているけれど、それが余計に私の身体が凍って動けなくなる。呼吸も出来なくなるほど怖かった。
瞼を閉じ、黙っていると桜井はため息を着き行ってしまった。
その場に崩れるように座り込んだ。
涙が溢れる。 私は何の為に、桜井無視してるんだろう。
祥子ちゃんと、口利けなくなるのが嫌だから?
祥子ちゃんと、友達辞めるのが嫌だから?
独りになるのが嫌だから?
何に対して必死にしがみついているんだろう。それは意味のあること何だろうか。
四時限目をサボって、祥子ちゃんに頼まれた昼ご飯も買わず、私は家に帰っていた。ベッドに顔をうずめて、疲労した身体と心を休ませた。
――突然、着信音が鳴った。
「祥子ちゃんからだ……」
電話をとるかどうか迷ったが、いつものように携帯をとり、出てしまった。
「今、ドコにいるの?」
怒りを隠さず、わめき散らす。胸が締めつけられる。
私は細く、聞き取れるか分からない声で話す。桜井との出来事を。
「それって、ヒカルが悪いんじゃん。あたしの言うことばっか聞いてるからだよ。自分の事なんだから、自分で考えてよ。てか、あたし心配したんだよ」
身勝手な言葉だった。
心配って、何を心配してたの?
祥子ちゃんの勝手さに、今までどんなに嫌でも従ってきた私だったが、何かがふつりと途切れた。 そして自分に問いかけた時に答えがあった。
気が付きたくない。
そう思って避けてきた答え。
もう、出た答えは隠しようがない。
私は空を見たまま大きく呼吸した。晴れた青は心を勇気づけてくれた。
「祥子ちゃん、私桜井に謝る。それから、もう祥子ちゃんの言うことばっか聞かない。何事も自分で決めてみる」
「何それ、あたしと友達やめたいの?別にいいけど」
「うん。やめたい」
素直な気持ちだった。
“友達辞めたい”
その言葉を繋がる空に吐いて、楽になっていく身体と心があった。やっと、自分に対して正直になれた。
桜井のお陰かもしれない。きっかけをくれた。考えて、背中を無骨に押してくれた。
祥子ちゃんは、最後に何かを言い電話を切ったけど、私の耳には届かなかった。
私は桜井に会いたくて、学校に行こうとした。
――また、着信音がするが今度は個別に指定していない着信音とナンバーだった。
「はい。どなたですか?」
「俺です。桜井…です」
似つかわしくない敬語を使い、かしこまった声に思わず笑ってしまった。
「何でっ。番号知ってんの?」
「何笑ってんだよ。番号は、蕎麦屋で盗んだんだよ。さっきのさ、謝りたくて……」
すまなそうに、言ってきた事がまた面白かった。
「ねぇ、桜井。ゲーセン行かない」
「お、おう。呼び捨てにした礼はきっちり払わせてやるよ」
「私、今度は負けないから」
そう強く、言った言葉は自信に繋がる。私の心は今、空と同じ色で勇気をいくらでも出せていた。
「桜井。さっき無視してごめん」
私の中になかったものが、生まれた。 学校に行きかけた足をゲームセンターに向け、走り出す。 風をきって、空を目にしながら目的地まで真っ直ぐに。
***end***
違う名前で前にちらりと載せていましたが、内容はそのままで情景を詳しく書いてみました。荒い作品ですが、見ていただければ幸いです。