その22
二十二
封印障壁に囲まれた椅子に座っていたレミリアが、突然苦悶の表情を浮かべた。
「ぐ……がっ……!」
と、見る間に頬が赤みを帯び、顔全体がさらに歪む。苦しげに震える左右の手が椅子のひじ掛けを掴む。と、つかんだ箇所から亀裂が走る。
「お、お姉さま?」
フランがレミリアの席に顔を向けるが、封印障壁のためにそれ以上の身動きがとれない。
「レミィ?」
パチュリーがすぐさまレミリアの前に駆け寄る。
「!……身体の状態がおかしい。レミィ、わたしが分かる?」
レミリアは顎をがくがくと震わせながら、うなずくような動きをすると、喉の奥から搾り出すように言った。
「あたま……が」
びしっと鈍い音がする。石の椅子にさらに亀裂が拡がった。
「う……ぐあっ」
レミリアの顔はさらに紅潮し、両腕も赤みを帯びてくる。身体全体が熱くなっているようだった。
突然、ドン、という音と共に椅子が粉々に砕け散った。同時に障壁も光の霧となって消滅する。
「……!」
とっさに後ろに飛びすさるパチュリーに飛び散る石の破片が襲いかかったその瞬間、彼女の身体は部屋の隅へと移動していた。
咲夜がパチュリーの身体をかばうようにして立っていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。それより、これはいったいどういうことでしょう?」
「妹様の封印には異常がない……レミィ固有の要因かもしれない」
すると、椅子のあった位置にできた窪みに呆然とした表情でたたずんでいたレミリアが、ふと顔を上げ、つぶやくように言う。
「いやぁ……実はたいしたことじゃないのよ、魔法使いさん」
「えっ」
パチュリーは驚いたように眼を見開き、咲夜の背後から顔をのぞかせてレミリアを見る。
「これはねぇ、ここのところずっと冬至の満月のたんびに封印魔法なんかで力を抑えてたのがかえって仇になったのねぇ」
一方、フランも仰天したような表情でレミリアを見つめている。
「……お姉さま?」
「だから、ちょっとしたきっかけでその反動が一気にきちゃうのよ。外部の条件の一部がひっくり返るとかでね……つまり、今夜みたいな月蝕とかね」
「月蝕……!」
パチュリーは衝撃を受けたような表情をする。
「だけど、月蝕はいままでに何度もあった……」
「だから、冬至の満月っていう条件で力を溜めちゃってたからよ。いつもの満月のときは力を抑えたりしなかったでしょ」
「……あなたは……いったい」
「何者かって? もちろん、レミリア・スカーレット本人よ。ただまあ、『言葉になっていなかったレミリア』とでもいえばいいのかしらね。わたしはけっこう現実から眼をそむけてたからねぇ……そこへいくとフランは物事をきちんと正面から受けとめてるし、自分で適当にガス抜きもするし。わたしのほうが性格的にはよっぽどいびつな奴なのよ」
「あの……」
フランはどうしたらいいの、という表情でパチュリーたちを見る。
「さて、それじゃあひとっ走りして、あのお人形を霊夢から取り返してくるわ。とりあえずあれは貸してあるだけなんだからね……おっと?」
レミリアの右手がすっと上がり、手の周辺に光輪が現れ魔法円の形をとったかと思うと、一気に拡大してパチュリーの身体を取り囲み、蛇のように変形してその四肢を縛り上げた。
「な……何をするの」
「少しの間、ここに留まっていてくれればいいのよ。これはわたしだけの問題だからね……それにしても」
レミリアは妖艶な微笑を浮かべる。
「この運命の流れの中に、こういう形でわたし自身が組み込まれていたとは思わなかったわ……でもそれもまた必然ね。占い師が自分自身のことを占えないように、運命を視る者には自身の運命は視えない」
背中の翼が拡がる。
「レミィ……やめて」
パチュリーが顔を苦痛に歪めながら声を出す。
フランは呆然とした表情のまま姉を見つめている。
「ほんのひとときのあいだだけど、わたしは自由を得たわ。あとの始末はレミリア・スカーレットにお任せする、と伝えておいてちょうだい。変な話だけどね、それもわたし自身なんだから」
空気を圧迫するような金属音が響いた。同時に壁が震え始め、天井にまるで巨大な握りこぶしを強烈な力で押し当ててられているかのような凹みが拡がったかと思うと、一気に瓦礫の塊となって吹き飛んだ。開いた大きな空隙の向こうには黒い夜空が現れた。
レミリアは軽く床を蹴って翼を羽ばたかせると、その黒い空隙を通り抜け、またたくまに飛び去って行った。
☆★
レミリアが紅魔館から飛び去るほんの少し前、咲夜はその能力を使い、時を止めて建物の外に出ていた。だがこの時止めの能力も空間的な限界がある。外部に連絡するなら、とりあえず門番の美鈴か……しかし、移動能力は咲夜自身と大きな差はないだろう。さりとて、メイド妖精では状況を正確に伝えられるものかどうか怪しい。
必死に考えをめぐらせるうちに、庭の茂みの陰に何かが潜んでいるのが見えた。近づいてみると、それは以前見たことのある妖怪兎だった。そういえば、妖怪兎には確か特有の能力があるのではなかったか……?
おそらく、と咲夜は推測した。この兎は何らかの理由で紅魔館の様子をうかがっていたのだろう。とすれば、周辺に他の要員もいるかもしれないし、本拠地である永遠亭に連絡する手段もあるのかもしれない。
いまは一刻を争う。咲夜は決断し、時止めを解除した。
「わっ!」
妖怪兎のリーダー、因幡てゐは突然眼の前に現れた咲夜に驚き、飛びすさった。
「待って!」
咲夜は手を上げて言う。
「あなたにお願いがあるの」
その言葉とほとんど同時に、地面が震え、紅魔館の建物の一部が爆発するような音とともに吹き飛んだかと思うと、地面と壁にまたがって開いた穴から黒い影が恐ろしい勢いで飛び出し、空気を切り裂きながら上空へと駆け去っていった。
「な……なんなんだい、いったいあれは」
てゐはあちこちをうろたえたように見回す。
「いまのはうちのお嬢様よ。ただ、ふだんとは違う状態なの……」
咲夜は一瞬ためらったが、付け加えた。
「ちょっと気が狂ってるのよ」
「ええっ?」
てゐは怯えと呆れがいり混じったような表情を浮かべる。
「それは……かなりまずいんじゃないのかい」
「お嬢様は、巫女のところへ行くと思う。というか……目的はあのチビさんなんだけど」
「……!」
咲夜は冷静な口調で言葉を継ぐ。
「なんとか、先にあの人たちに知らせたいの。いまのお嬢様が正常じゃないこと、そして狙われているってことを」
「……分かった。そういうことなら任せな。うちの連中にいま連絡をとるから」
少し間があってから、てゐは口を開いた。
「巫女は里の方にいる。例の獣人の家にいるらしい……うちのやつが近くにいるから、連絡させる」
「そう。ありがとう」
「いや……まあ、ついでだからいいんだけど。連絡できたかどうか報告が入るまでは少しかかるよ」
「その確認はいいわ。いまは時間がない……わたしは周りの状況を確かめてからお嬢様の後を追う。それじゃ」
咲夜の姿は一瞬でかき消える。
「……なかなか大変そうだね、ああいうのに仕えるってのも。まあこっちも似たようなもんか」
独りごちつつ、てゐも庭園の向こうに姿を消した。
空には赤黒い月が静かに昇りつつあった。
**********
私たちが家の中に戻ろうとしたとき、いきなり庭先に現れた妖怪兎は、驚くようなことを言い始めた。
「レミリア……ふつう、ちがう……狂ってる?……巫女と人形のところ……来る……分かる?」
てゐに似ているが姿は幼い感じの妖怪兎が一生懸命に言葉を繰り返す。何が起きたのかはまだ判然とはしないが、ただごとではないのは確かだ。
「とにかく、レミリアがこちらに向かっているというなら、迎え撃つ形で行くしかないわ」
霊夢の口調はすこし緊張しているようだ。
「だけど、紅魔館で何が起きたのかも知っておかないと……魔理沙、アリスと一緒に行ってくれる?」
「それはいいが、大丈夫か、その……二人だけで?」
心配そうな魔理沙の問いに、私は答える。
『逆に独りで紅魔館に行くのは危険だ。何が起きているのか分からないし、連絡に戻ってくるにも一方が残れるようにしておくのが常道だろう』
「……そうね。状況を把握するにはそのほうがいいわ」
アリスはうなずき、私たちの様子を心配そうに見つめていた妖怪兎に私たちの行動を短く説明した。兎が分かったというようにうなずいて姿を消す。
「じゃあ行きましょう、一刻を争うようだから。あ、それからあなたたちは北側の山沿いに行って」
霊夢は二人に向かって言う。
「わたしたちは南寄りに行ってできるだけレミリアを引きつけるようにするわ。そうすれば、そっちには妖精が湧いたりしにくいと思うから」
「了解したぜ」
魔理沙は帽子をかぶり直す。
「じゃあ気をつけてな」
「そっちもね……行くわよ、チビ」
霊夢が私を抱き上げる。
「これまでの経緯がどうあれ、妖怪との戦いに容赦は無用よ。そこはきちんとけじめをつけてね」
『分かってる』
どういう事情なのかは知りたいが、まずは本人と相対してみなければ分からない。
霊夢は、私を抱いたまま空中に飛び上がり、一気に里から離れて魔法の森の上空へと向かった。
飛行の速さを上げながら霊夢が言う。
「場合によってはルールから外れた戦いになるかもしれない……でも、心配はしないで。そういう戦いもけっこうやってるからね。相手がたとえどれほどの力の持ち主でも、ただ力をぶつけ合うだけの戦いはしない」
『私はどうすればいい?』
「とりあえず、影響を受けて飛び出してくる妖精のたぐいが来るから、そいつらの相手をお願い……ただ、レミリアの相手はわたしよ」
『…………』
「あなたはレミリアとは戦えないわ。それに、たぶんレミリアもあなたと戦うつもりはないでしょう」
霊夢は静かな口調で言う。
「どっちにしろ、そういう役目はわたしなのよ」
~その23へ続く~