その10
十
里でちょっとした買い物をしてきた風見幽香は、自分の住まいのある太陽の丘を目指し、ゆっくりと空中を移動していた。
そこで、ふとただならない気配を感じて周りを見回すと、里のはずれの池の方から波打つような強い霊気が発せられていた。
(あれは、霊夢……じゃなくてチビさんかしら)
池の方へと向かおうとしたとき、その行く手を遮るように大きく広がる金色の尾をもつ妖怪が現れた。
「あらまあ」
幽香はかすかに眉の間に皺をつくりつつ、口元に笑みを浮かべた。
「こんなところで出くわすとは奇遇ね、八雲の式神さん」
「そうだな。里に何か用があったのか、風見幽香」
頭の左右に尖りをもつ白い帽子からこぼれる金色の前髪を揺らしながら、八雲藍は涼しい笑顔で問いかける。
「ええ。花の季節ももう終わってしまったし、ヒマだから編み物でもしようかと思ってね」
幽香は手にした包みを示した。
「ほう、それはなかなか優雅な趣味だ」
「……ところで式神さんは、どうしてわたしの行く先を塞ごうとするのかしら」
「塞いでいるわけではない。ただ、ついでだからあそこで起きていることを説明してやろうと思っただけだ」
「まあ、せっかくのご好意だから聞いてあげないでもないけど。それで、何がどうしてるわけ?」
「遊んでいた里の子どもが池に落ちた。それをあなたも知っている例の『彼』が救おうとしている最中だ」
「なるほどね……なかなか『彼』にとっては厳しい状況かもね。弾幕で戦うのとは違って、あの身体では力仕事は不向きみたいだもの」
「その通りだ」
藍はうなずく。
「このままだと子供を救えるかどうかは五分五分というところかもしれない」
「それで、何?」
幽香はあからさまに不快そうな表情になる。
「あなたが出てきたのは、このわたしがその件に関わるのを阻止しようということかしら?」
「阻止する必要などないはずだ」
藍は表情を変えずに言う。
「普通、妖怪は人を助けたりはしない。もちろん、何か共通の利害というものがあれば別だが。しかし、人が引き起こした災いは人自身が処理するものだ。妖怪がそこに容喙する理由は何もない」
「洒落のつもり? でもねえ、別にそんなことまで『きまり』に縛られる理由もないんじゃないかしら?」
幽香の目つきはさらに険しくなる。
「まああんたの主は物事のバランスってものを重んじる人みたいだけど、その理屈をすべてに当てはめるってのは無理があると思うわね」
すると、藍はいくぶん位置を後退させながら言う。
「あなたにも、『彼』の正体を見極めたいという気持ちがあるはずだ」
「!」
幽香は一瞬、小さな驚きを目元に浮かべる。
「ならば、手出しをしないほうが賢明だ。危機の時にその本質が現れるのは人も妖怪も……あるいはそのどちらでもないものも、同じだ」
「……お話は承ったけど、わたしはわたしの好きなようにさせてもらうわ」
「わたしもこれ以上のことは命じられてはいない。一戦交えるというのも悪くはないのだが、主の命に逆らうと式神は力が出ないのでね。では」
そう言うと藍は身をひるがえし、九つの尾を揺らしながら飛び去っていった。
「警告だけはしておく、というわけね。まあいいわ」
幽香は、霊気の波動が続く池に向かってあらためて近づいて行った。
**********
霊気をまとわせた二枚のお札を繰り返し岸の大木の根元に撃ちつけながら、土を掘り崩す。その間、新太くんの身体が沈まないように彼の腕を抱えて引き上げ続ける。
思ったよりも根が深いのでなかなか木が傾いてくれない。かといって力任せに霊弾を浴びせるだけでは思った方向には木が倒れてくれないだろう。それに万が一子供たちに当たったりしてしまっては元も子もない。
ただ、私自身の霊力も無尽蔵というわけではない。このままお札を核にした霊弾を撃ち続けるのはいたずらに消耗を重ねるだけかもしれない……。
と、木の根元がぐらりとこちらに向かって傾き始めた。
だが、作業としてはむしろここからが厄介だった。木を倒すにしてもできるだけこの氷の穴のすぐ近くに倒さなくては意味が無い。それもできるだけ足場として適切な位置にもってくるためには、より精密な作業が必要だ。
私は土を掘るのをやめ、いったん二枚のお札を手元に呼び戻してから、改めて木の上のほうへと飛ばし、幹そのものに巻きつけた。
『っーーーー!』
意識を集中し、指先から送り出す力によって手元にお札を引き寄せる。梃子の原理を応用すれば、この程度の力でも木は十分に傾いてくれるはずだ。
木の幹がしなり、わずかにこちらに向かって傾く。だが、まだ倒れるところまではいかない。
お札との距離が遠いために、思ったような制御ができていない感じだった。加えるべき力の大きさ、方向、その加減を調整することができない。
もっと意識を外へ出し、お札の近くへと近づけることができないか……。
そこで不意に、言葉が浮かぶ。
“これは魂の緊縛を緩める道具。意識を緩め、内側から外に向かって広げる”
私の首にかけられているロケットの中の道具。
もしかしたら……この道具の作用が使えるかもしれない。だが、果たしてそんなに都合よく機能してくれるものだろうか?
分からない……分からないが。
私は首から下のほとんどが池に浸かったままの新太くんを見た。土色になっているその顔には死の影が忍び寄っている。もはや一刻の猶予もない。
左手で胸をさぐり、ロケットを開いた。そして、霊気の吸込口である人差し指の先を当てる。すると……。
ふわっと身体が拡がったような感覚と共に、視界が上に移動した。
『!?』
意識が抜け出ている?
よく分からなかったが、お札への感覚は『近く』なったのは確かだった。
これならうまく引き寄せられる……。
……?
あれ……なんだこれは。
私はここで何をしてるんだ?
『先生……帰ってきて』
なんだ? 私のことか?
『先生、どこへ行ったの? 帰ってきて……お願い。はやく帰ってきて!』
**********
太陽の光を背にする形で空中に浮かび、下の状況を見守っていた幽香は、池に向かって倒れかかっている木の周辺に異様なゆらめきのようなものが表れていることに気づいた。
(あれは……?)
そのゆらめきの向こうに、何か人影のようなものが視える。
(……?)
影の正体を見極めようと幽香がゆらめきに近づこうとしたとき、突然空中に手が現れた。白い手袋をはめた女性の手だ。
「な……なによ?」
「近づいてはダメよ。あれはわたしたちにとっては、極めて危険なもの」
手の向こう側から声がする。
「わたしたちって……妖怪にとってはってこと?」
「幻想郷に属する全ての者にとってはという意味よ。とにかく、あの空間の異常が消えるまでは近づかないで頂戴。わたしにもあれは制御できないの」
「あなたがそこまで言うなんて、よっぽどのことね」
「ええ。よっぽどのことなの」
と、木がゆっくりとした動きで傾き、氷の穴のすぐそばに倒れた。そこへ、空中を矢のような速度で飛んできた人影がその木の上に降り立ち、池にはまっている男の子を一気に引き上げると、そのまま岸辺に運んでいった。
「どうやら主役がやってきたみたいね。いちおうこの場はこれでおしまい」
そうささやくように言うと、手はすっと消えていった。
幽香はふたたび下の光景に視線を移した。
すでにあの空間のゆらめきはなくなっていた。池の岸周辺では相変わらず騒ぎが続いていたが、どうやら事態は収束に向かっているようだった。里の方の道から何人かの大人たちが駆け足で近づいてきているのが見えた。
「…………」
幽香はいぶかしげな表情をしつつも、身を翻して東の山の方へと飛び去っていった。
~その11へ続く~