パンの耳
「ええ。今回の人事で、あなたを呼んだのは高梨部長よ。部長は資材部時代は課長だったでしょ?」
「うん」
「あたし達をマニュアル作りに抜擢してくれたのも高梨さん。今回、あなたを本社に呼び戻して資材部の課長に据えたのも、実は高梨さん」
「そうなのか?」
「そうよ。判らなかった?」
「うん。そんなに深くは考えなかった。僕ぐらいの年齢の人材が欲しかったんだろうとしか」
僕はスロー・テキーラを飲み干した。
「それだけの理由だったら候補は本社内に、ごろごろ居るわよ」
「なるほど……それは、そうだ」
「むぉっほほほほ……お安くないのお。いや、結構、結構」
先客の老人が、わざとらしく耳に手を当てて、笑い声を立てた。
こちらの話を聞いていたのだ。
「王先生っ!」
マスターが制止すると、老人はマスターに向かって言った。
「王様の耳は?」
どこまでも、訳の解らない老人だった。
「マスター、王様の耳は?」
「ぞうさんの耳です」
マスターが、そう返すと、
「違うっ! 王様の耳は?」
老人は再び訊いた。
言葉遊びを始めたようだ。
「赤ちゃんの、お耳」
マスターも負けてはいない。
「違うっ! もう一度。王様の耳は?」
マスターは、一呼吸置いて告げた。
「パンの耳です」
これには堪らず、朱美と僕は吹き出した。
「うぷぷっ」
「あはははは」
「すみません。お話の邪魔をしてしまいました。王先生は、地獄耳だと言わせたいのです。つまり性能の良い耳なので、あなた達の会話が聞こえてしまったのだと」
マスターが解説し、僕等は納得した。
「しかし聞かれて差し障りのある話題は、今日は控えられたほうが」
マスターが小声で告げた。
「そうね。わかりました。良介さん、あたし、お腹がすいちゃった」
彼女は続きを歩きながら話したいのだと気づいた。
「マスター、会計して下さい」