スロー・テキーラ
「そうね。マスターにお任せするわ」
すかさず朱美が応答していた。
「解りました。では、ゆっくりと楽しんでいただけるようなカクテルを、ご用意しましょう」
そう言って、マスターは、まず細かく砕いた氷を入れたタンブラーを、カウンターに二つ並べた。
次に棚からボトルを取り出し、計量カップで計ってシェーカーに注ぎ始める。
マスターは同様の動作を淀みなく繰り返し三種類の液体をシェーカーに入れてシェイクした。
その動作は間断無く流麗な手さばきで進められた。
シェーカーからタンブラーに液体が注がれる。
最後にスティック状の何かが飾られてカクテルは完成した。
「スロー・テキーラです」
赤い色のカクテルだった。
「これは、ゆっくり飲むテキーラですか?」
僕は訊いてみた。
「いえ、そのslowではなくスロー・ジン(Sloe Gin)……リキュールの一種ですが、これは蒸留酒にスモモの仲間であるスローベリーを浸漬することによって作られます。果実名のSloeに由来するテキーラなので、スロー・テキーラと呼ばれるのです」
「うーん、これは初めて飲むけど、美味しいわ」
朱美が先に口をつけて感想を漏らした。
僕がグラスを口にするとマスターは、カクテルのレシピを説明してくれた。
「ホワイトテキーラをメインに、スロージンとレモンジュースを、その半分づつ配合するのです。セロリのスティックをかじりながら飲んでいただくとテキーラのクセのある味をうまく調節できるのです」
「なるほど……さっぱりした味わいですね。うまいです」
僕がそう言うと、マスターは、にっこりと笑顔を浮かべて先客の方へ身を翻した。
「本当のことを言うとね」
「んっ?」
「今日は、あたしの誕生日なのよ」
朱美は、そう囁いて、グラスを掲げた。
「えっ? そうだったのか? だからか? そうか……おめでとう」
僕は、朱美のグラスにタンブラーのふちを合わせた。
カチンと小さな音が響く。
「幾つに……僕と同じだから……えっ」
朱美は赤い唇に人差し指を当て、肘で僕を小突いた。
「ありがと」
朱美は僕を視て口角を上げる。
彼女も僕も共に四十代の半ばにさしかかったのだ。恐らく女性としては素直に喜べない誕生日だろう。
だが、僕の眼には若い頃の彼女よりも成熟した今の朱美に、より蠱惑的な魅力を感じる。
なぜだろうか?
「今日は奢ってね」
彼女は、そう囁いて僕を視た。黒目勝ちの優しい眼だった。
「うん。もちろんだ」
朱美から、奢ってと言われて悪い気がしなかった。
若い時の彼女なら、こんな言い方はしない。いや、彼女の性格から推して、恐らく今でも誰かに安易に甘えたりはしないだろう。
朱美と僕は互いに気を許せる同僚であり、異性でも気兼ねなく話せる稀少な相手なのだ。
「迷ってるの」
朱美が切り出した。
「んっ?」
「取引先の総務部長……柳原さんて言うんだけど、誘われたのよ。あたしが独身だと知って」
「えっ?」
「宴会の席でウチの部長が……高梨さんがトイレに立った隙に」
「ふーむ」
「離婚したらしいの。あたしも離婚歴があるし、与し易い(くみしやすい)とみたんじゃないかしら」
朱美は、そう言ってグラスを空けた。
「だけど立場が、どうとかじゃなくて、問題は君の気持ちだろ?」
「悪い人じゃないのよ。正面から切り出したのだから紳士的だと思うわ。あそこまで登って来たのだから能力も高いのよ。結婚すれば、きっと安定した生活は出来るのよ。でもね……」
彼女のグラスが空になったのに気づいて僕が注文しようと思った時だった。
「青い珊瑚礁です」
朱美の前にカクテルが置かれた。
青く澄んだ液体の中にチェリーが沈んでいる。
「あらっ! きれいっ! ありがとう」
マスターは常に客への目配りを欠かさないようだ。
朱美は、青いカクテルに口をつけた。
彼女は、三十代の半ばで離婚して以来、独り身で生きて来たと語った。それに後悔はないと。
ただ……今の立場で重宝がられた時代は既に過ぎたように感じると漏らした。管理部長は若い秘書に取り替えたいのではないかと疑心暗鬼にかられる事があると言う。
将来を考えれば、四十代の独身女性が安定した生活の基盤を欲するのは自然なことだ。
年齢と共に外見や身体の衰えは避けようがない。
秘書は、そこそこに若い方が交渉事には体裁がいいと言うのも事実だろう。
「でも、本当の、あたしの迷いは、あなたの事なのよ」
「僕の?」