迷い
桐原朱美は同期入社の女子社員だった。
「ねえ、さっきは何だったの?」
彼女は休憩室のソファーで足を組み替えながら訊いて来た。
残業を厭わず、仕事に打ち込んだ甲斐あって、彼女は管理部の部長補佐に昇進していた。
副部長の役職者は別に居るので、彼女の立場は実質的には部長の秘書と言えた。会議に同席する事はあっても、外部との交渉に於ける裁量権はない。
「うん。ちょっと屋上に忘れ物をしたもんだからね」
他に上手い理由を思い付かなかった。
「何を?」
彼女はカップコーヒーを啜りながら僕を視た。
「それが……上着を置き忘れたと思ったんだけど、思い違いだった」
「ふーん。あなたらしくもないわね」
彼女は、バッグからタバコを取り出した。
20年前、朱美と共に資材部へ配属になった。
バブル崩壊と言われ、高度成長期を過ぎたと言われながらも、空港建設に関わる資材調達の仕事は例外だった。
折しもISO認証を取得すべく会社が動き出した時だ。
課長に呼ばれ、ISO適合マニュアル策定のメンバーとして参画するように指示された。
僕も彼女も共に文書作成の能力とパソコンを操る腕を買われての起用だった。当時はパソコンでワープロソフトを使える者が少数だったからだ。
技術者の書いた原稿を校正し、ワープロで清書・作成する作業だが、文脈を把握し、整えるには仕事の流れと現場の実態を知らねばならぬ。
本社マニュアルと工場間マニュアルの整合性を図ることが急務となり、二人して各工場のマニュアル作成の担当者や各部署の部署長を訪ねて歩いた。
その間、定形業務を外して貰ったとは言え、外部取引先との交渉には同席を指示された。新人で定形の業務にさえ不慣れな上に更に新たな仕事が課せられて、生活は仕事に忙殺された。
そんな中、彼女とは時に残業を早めに切り上げて、居酒屋で愚痴を吐き出し、将来の夢を語り合う事もあった。
文書を作成しては、摺り合わせの会議が開かれ、矛盾を摘出し、手直しを繰り返して、半年がかりで外部審査に堪える品質マニュアルが漸く完成した。
桐原朱美は言わば戦友だった。
やがて彼女は営業部へ異動になり、僕は転勤で神奈川へ赴任した。
僕は赴任先で図書館の職員であった由香里と出会い、結婚し、その二年後に娘をもうけた。
朱美は、その後、営業部に長く籍を置いていたが、昨年の夏、管理部へ異動して部長補佐の席に就いたのだ。
「それで……? 僕に訊きたい事とは?」
「ええ。さっき耳にしたのだけど……MBOへ動き出したって話は本当なの?」
「ああ、経営陣による自社株買収だろ。このまま上場を続ければ外国企業に乗っ取られるのは時間の問題だからね。いや、そうはならないかも知れないが、K社の前例があるから」
「やっぱり本当なのね。でも上場を廃止したら資金調達が難しくなるわ」
朱美は細身のタバコをくゆらせている。
「国内需要がしぼんでるんだから新規の設備投資はやらないんだろう。現に工場を二つ操業停止にしたしね」
僕もタバコに火をつけた。
「まだ、帰らないの?」
「うん、もう少しで切りがつくから、仕上げちまうよ」
「じゃあ、それが終わったら、飲みに行きましょうか? ちょっと面白いバーを見つけたのよ」
「バー?」
「ええ。もう、ずいぶんな、お年のマスターなんだけど……いい味、出してるの」
朱美の、にっこり顔を見るのは久しぶりだった。
媚びを売らない彼女にしては珍しいことだ。
赤い口紅が妖しく誘っているようにも見えるが、気のせいだろうか?
いや、資材部で共に苦労した戦友にだけ見せる隙なのだろう。
僕は、それを断らなかった。