第9話 ヤングケアラー
「ミレナおかえりー」
そう大沢さんがお迎えの挨拶をしたため、緊迫した雰囲気が一遍に消えた。
玄関に差し込む夕陽が、散らかった靴の影を長く伸ばしている。子供たちの笑い声が奥から響き、場の空気を柔らかくした。
「大沢さんとミレナさんは、どういう関係なの?」
少し間を置いて尋ねると、大沢さんは照れくさそうに笑った。
「今一緒に暮らしてるよ。公園で不思議体験をしたすぐ後、道に座り込んでたミレナに話しかけたら、家もないとかでほっとけなくて」
言葉の端々に、彼女の優しさと危うさが滲んでいた。
ミレナがどう暮らしているのか気にはなっていたが、人の精神に干渉してそう仕向けたのかもしれない。大沢さんが困っているなら、この状況を正さねば。
「ちび達の世話をしてくれたり、多めに家賃を入れてくれて大助かりだよ」
大沢さんが満足そうに言う。こうなると認めざるを得ない。だが、ミレナが彼女を害さないか見張っておく必要はある。
俺は少し身を寄せて、声を潜めた。
「ミレナさん……大沢さんに何かするつもりじゃないよね?」
「もちろん。住むところが欲しかっただけだし、win winの関係ね」
軽い調子で返すが、その瞳はどこか底知れない。
「お金はどうしてるの? 働いてる? 盗んだりしてないよね?」
「ミレナは大量のアーカイブにアクセスできるから、この時代の株価もどう動くかばっちりわかる。あとは沙理に作らせた証券口座で株を売買するだけよ」
「それはインサイダー取引……」
「一人が生きるのに必要なお金を得るくらい、問題ないでしょ」
自信満々に言っているが、盗みのようなものだ。だが被害者が見えない分、咎める気勢を削がれる。
俺はため息をつき、話題を切り替えた。
「大沢さん、今日先生から聞いたんだけど、このまま休みが多いと留年するかもって。あとチラっと見えちゃったんだけど、テストの点からしても進級厳しかったりしない?」
彼女は肩をすくめて笑った。
「仕方ないよ。ちび達の面倒は私が見なくちゃいけないし……っていうか勝手に点数見んな」
その言葉に、俺は胸が痛んだ。彼女は今の状態を「普通」と思っている。周りが気づいてあげないと本人もその問題に気づけない。
今の状態はヤングケアラーといい、対策として公的制度が認められてきてるが、まだ十分とはいえない。
「大沢さんが子供の世話を頑張ってるのはすごいと思う。自分の時間を削ってやりくりするのは大変だったんじゃないかな。だけど、本来受けられるはずの教育を受けられなくなっている状態は、なんとかしてあげたいって思う」
俺の言葉に、大沢さんは少し目を伏せた。沈黙が落ち、子供の笑い声だけが響く。
「よかったら、困ってることを教えてくれないかな」
彼女は小さく笑い、「おまえ優しいな。上がってくれ」と言った。
部屋に通され、俺とアイ、ミレナ、大沢さんで机を囲んだ。その周りを4人の子供が走り回っている。散乱したおもちゃや衣類の中に、彼女の生活の重さが見えた。
「うちは4月に離婚が成立して、今は母ちゃんが働いてるんだ。始めはパートだったけど、正社員になって母ちゃんはちび達の面倒をみるのが難しくなった」
彼女の声は淡々としていたが、奥に疲労が滲んでいた。
「ちび達は幼稚園に通っていて、定員の関係で保育園に入れなかったって。それで帰りが早いから私が迎えに行くんだけど、そうすると学校は確実に早退になる」
「ちびはまだ年少で小さいからよく風邪を引いたりするんだけど、看病は私がしてる。頼れる親族もいないしね」
困っていることを並べる彼女の声は、どこか諦めを含んでいた。
だがその奥に、言葉にできない本音が隠れている気がした。
「大変だったね。家族のこと大事にしていてえらいよ。一人でよく頑張っていると思う。……大沢さん自身は本当はこうしたいとか、これをやりたいとか思ってることある?」
彼女は少し唇を噛み、そして絞り出すように言った。
「本当は……今の状況でこんなこと言っちゃだめだって思うけど、普通の学校生活……送りたい。勉強だって前はできた。最近は時間を取れなくて全然わからなくなってる。部活にも行きたい。好きなんだ、バスケ。好きな人にも会いたい」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。不良と思われている少女は、やっぱり全然不良じゃなかった。
「わかった。その気持ち、全力でサポートする。アイにも、ミレナにも友達にも協力してもらう」
一瞬アイとミレナの視線が刺さるような気がしたが気にしない。これは一人でなんとかできるとは思えない。
「おまえ、私を泣かせようとしてるだろ」
彼女は涙を堪えきれず、いたずらっぽい口調で言った。
俺は深く息を吸い、言葉を重ねた。
「まずはすぐにできそうなところから動こう。母子家庭になった今なら保育園に入れる優先度は高いはず、だから申請を母親にお願いしてみて」
「風邪を引いた時の看病は本来親がすること。でも現状ではできないだろうし、まずは俺たちが子供の世話を手伝うよ。お母さんに紹介してもらえる?」
「大沢さんの時間ができたら勉強は俺が教えるし、部活まで行けなくてもバスケなら俺の友達が得意だから、近くの公園で練習とか頼めそう」
彼女は目を丸くして、戸惑いの混じった声で問いかける。
「なんでそこまでしてくれるんだよ」
「大沢さんの頑張りに胸を打たれた。放っておけないんだよ。幸せになってほしいと思ってる」
その言葉に、彼女は視線を逸らしながら呟いた。
「……あー、うちが離婚してなければな」
何かを誤魔化すように、話題を逸らした。
「うちも離婚して父子家庭だから、うちの親と結婚してくれれば解決かも」
「そしたら弟の面倒、もう一人見ないといけないな」
「いや。俺が兄になるな。4月生まれだから。さらに妹もいるから7人兄弟ね」
「ふふっ……あはは、それはすごい大家族だ」
今日一番の心からの笑いが聞けた。
笑い声に釣られるように、子供たちも「なになに?」と駆け寄ってくる。小さな手が机に置かれ、無邪気な瞳がこちらを覗き込む。
「大沢さん――」
そう言いかけて遮られる。
「沙理って呼んで。その方が楽でしょ。サトルお兄ちゃん」
軽口をいいながら、照れくさそうに微笑む。頬がほんのり赤く染まっている。
「わかった。女子を下の名前で呼ぶのは初めてなんだけど――」
「これからよろしくね。沙理」
恥ずかしさを胸の内に抑え込み、安心させるように力強く言った。
その瞬間、部屋の空気が少し変わった。
子供たちの笑い声が遠のき、沙理は小さく息を吐いた。彼女の肩から、長い間背負ってきた重さがほんの少しだけ下りたように見えた。
「……ありがと。なんか、ちょっと楽になった」
ぽつりとこぼした言葉は、彼女の本音だった。強がりでも冗談でもない。
俺は頷き、机の上に散らばった教科書を手に取った。ページの隅には、彼女が途中で諦めたような書き込みが残っている。
「まずは勉強からだな。少しずつ取り戻していこう。バスケも、きっとまたできるようになる」
沙理は少し目を見開き、やがて照れくさそうに笑った。
「……ほんとに、できるかな」
「できるさ。俺だけじゃなく、みんなで支えるから」
アイが横で頷き、ミレナも「まあ、協力してあげるわ」と肩をすくめる。三人の視線が交わり、奇妙な連帯感が生まれた。
窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まっていた。
子供たちの声と机の上の教科書、沙理の笑み、そして敵対していたアイとミレナが肩を並べる姿――そのすべてが、失われた日常を取り戻す未来を予感させていた。




