第6話 信仰の不自由
この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは関係ありません。
「お兄ちゃんの妹は私だ!」
少女の叫びと同時に、鋭い刃が閃いた。油断していたアイの反応は一瞬遅れ、ナイフが服を掠めて脇腹の布を裂いた。
「あなたは誰?」
少女はナイフを構えたまま、息を荒げてアイと対峙する。
「今は答えられない。でも、悪者じゃないから安心して」
「安心できるかー!」
再び振り下ろされる刃。アイは両手で少女の腕を押さえ、膠着状態に持ち込んだ。もし本当に妹なら傷つけるわけにはいかない。緊張の最中、玄関から声が響いた。
「ただいまー。今日は早めに上がれたよ」
「えっ……もしかして、のぞみか?」
「お兄ちゃん!」
少女――のぞみはナイフを取り落とし、サトルに駆け寄った。
「助けて……お願い。それと、この人は誰?」
説明に迷う。サトルはアイに視線を送る。
「のぞみ、悪いんだけど、ちょっとそこで待っててもらえるかな。この人と話したいんだ」
のぞみは頷き、ナイフをしまうとソファに腰を下ろした。
それを見届け、アイに何があったのか尋ねた。
「今日急に訪ねてきたのよ。誰かと聞かれて従妹と答えたけど嘘がばれて……妹と言ったらナイフで切りつけられたわ」
「自分を騙る不審者だと思ったんだろうけど、ナイフを持ってるなんて普通じゃないな。……それで、アイのことはどう紹介すればいい?」
「本当のことを話しても使命を果たせるなら、私は構わないわ」
嘘を重ねるのは嫌だ。メイドを雇ったと言い張るのも無理がある。サトルは決意した。
「よし、本当のことを話そう。妹なんだし」
「待たせてごめん。それにしても大きくなったな。今は中3か」
「うん。お兄ちゃんも男らしくなっててびっくりした」
「それでこちらの女性だけど……彼女の名前はアイ。未来からやってきたアンドロイドで、今俺は彼女の仕事を手伝ってる。未来を救うんだって」
「はっ……冗談でしょ」
「やっぱりそうなるよね。でも冗談じゃないんだ。アイ、何か信じられる証拠はない?」
「未来の技術を見せるのは、余程の事情がない限り禁止されているのよ」
「わかった。のぞみ、アイと一緒にお風呂に入ってきて」
「……何を言いたいのかはわかったけど、アイの体は隅々まで女性そのものよ」
「そうなの? それでもお願い。何かわかるかもしれないから、しっかり見てみて。ついでに背中を流し合って親交を深めてほしい」
「なんでそうなるの……まあ、お風呂入りたかったからいいけど」
◇
浴室。湯気の中で、のぞみはアイをじっと見つめた。
「アイさん、体きれいですね。肌はきめ細かくて、スタイルもよくて……セクシーって感じ。きれい過ぎるから、未来のアンドロイドって言われても納得できるかも」
一緒にシャワーを浴びても、人工的な部分は見つからない。あるのは完璧な容姿だけだった。だが――。
「のぞみちゃんはもっと疑ってもいいと思うわ。せっかくだから背中を流してあげる」
手を伸ばした瞬間、アイは息を呑んだ。背中や腰に、鞭で打たれたような痣が幾つも刻まれていたのだ。
湯船に浸かりながら、アイはそっとのぞみを抱き寄せる。
「のぞみちゃんのお兄ちゃんは優しいから、きっと助けてくれるわ。アイも協力する」
「……うん。ありがとう」
のぞみははにかみながら笑った。
◇
「アイ、どうだった?」
サトルの問いに、アイは真剣な顔で答える。
「のぞみちゃんの背中からお尻まで、鞭で打ったような痣があったわ」
「やっぱり……そうか」
アイが心配そうに答えてくれたところで、ちょうどのぞみが部屋へ入ってきた。サトルはアイに視線を送り、何とかすると頷いてみせる。そしてのぞみに向き直り、静かに声をかけた。
「のぞみ、どうだった? 信じてもらえたかな」
「とりあえず……お兄ちゃんがどこの誰だかわからないセクシーメイドさんと同棲してるってことで納得しておく」
サトルは苦笑する。そんなお兄ちゃんでいいのか。
「ところで、用事があって来たんじゃないのか? さっき助けてって言ってたよね」
「そう。助けてほしいの。ママはまだ宗教を続けてるんだけど、私はもう本当に嫌で……でも神の家の集まりに行かないと叩かれる。最近ではその集まりの偉い人からセクハラみたいなことをされることもあって。でもママに言っても『そんなことありえない』って取り合ってもらえない。だから今は自衛の為にナイフを携帯してるの」
思った以上に深刻な状況だった。のぞみはそんな環境でずっと過ごしてきたのか。母親による虐待、保護責任の遺棄――彼女は相当追い詰められ、自暴自棄になっている。なんとかしなくては。
「まずは……今まで気遣ってあげられなくてごめん。それと俺のことを頼ってくれてありがとう」
母が信仰している宗教が原因で両親は離婚した。その宗教はかつて高額の寄付を集め、社会問題にもなった。
今では寄付の問題は落ち着いているが、もう一つの問題は変わらず残っていた。
――体罰。教えに背いた子供は親に鞭打たれる。
俺にも経験がある。布教活動のノルマを課され、同級生がいる地域を親と一緒に回って布教する。今押したチャイムの家からクラスメイトが出てくるかもしれない。そんな恐怖と闘っていた。
ある日「もう布教には行きたくない」と言った時、母は革のベルトで背中を打った。母は本気でこれが神のためだと信じていたのだ。
「集会に行かないと叩かれるって言ったけど……そんな生易しいものじゃないだろ」
思わず語気が強くなる。
「うん。お兄ちゃんなら覚えていると思うけど、いろんな制約があるでしょ? 誕生日は祝っちゃダメ、個人を崇拝することになるから。クリスマスも、バレンタインも、お正月やお盆の行事も、お葬式や結婚式に行くことでさえ宗教が関わると全部ダメ。国家、校歌を歌うのはダメ、讃えていいのは神様だけだから。数え上げたらきりがない」
その言葉を口にするのぞみの声は震えていて、積み重ねられた日々の重さが一気に溢れ出すようだった。
「私は集会も布教も制約も全部嫌になったの。それを全部守ってきたから友達なんてできなくて、学校はずっと苦痛だった。将来、自分の子供ができた時、絶対こんな目に合わせたくない。だから私は反抗したの。そしたらその度に、何度も何度もベルトで私を打つの」
「――もう、限界だったの!」
のぞみは嗚咽まじりに叫び、両目から大粒の涙をこぼした。
声は掠れ、乱れた息が止まらず、泣き声は途切れることなく続いていた。
「辛かったな。のぞみは何も悪くない。そんな宗教に依存してしまった母親の問題だ。これからは自由に生きよう。一緒に暮らさないか」
小学生、中学生の時期は、家族に愛され、友達を作り、自己愛を育む大切な時間だと思う。
のぞみはその時間を奪われたと感じているだろう。もう取り返しがつかないと思っているかもしれない。
だが俺は、のぞみが奪われ失ったと感じているその時間を、取り戻す手助けをしたい。
「いいの? できれば……そうしたい」
泣き腫らした瞳をそっと閉じると、乱れていた呼吸が落ち着き、涙もようやく途切れた。
「じゃあ早速今日からね。一つだけ注意。セクハラ野郎はナイフで刺しちゃってもいいと個人的には思うけど、これからはナイフを持ち歩いたり、人に向けちゃだめだよ」
「はい。アイさん、さっきはごめんなさい」
「いいのよ。アイの思慮が足りなかったせいでもあるから」
「久しぶりの我が家だー。私の部屋は……アイさんの部屋になってる」
「ごめん。戻ってくると思ってなくて。アイには母の部屋を使ってもらおう。アイさん、引っ越しお願いします」
渋々アイが引っ越しを始める中、俺は思案する。本当はもうひとつ、胸の奥に引っかかっていることがあった。
のぞみは「セクハラみたいなことをされた」と言っていたが、本当にその程度だったのだろうか。もし性的虐待を受けていたとしても、自分から口にすることは無いだろう。
だがもし事実なら――許されるべきではない。然るべき裁きを受けさせる。
俺はのぞみから聞いた母の携帯に妹を預かること、明日の集会に行きたい旨をSMSで送っておいた。
その日の夕食は3人で囲んだ。久しぶりに賑やかな食卓だった。
アイが手際よく料理を作り、片付けまでこなす姿に、未来では本当にメイドだったのかもしれないと思った。兄妹の再会を祝福してくれているようで、アイの優しさが胸に沁みた。
離れていた時間に何があったのか、話は尽きず、夜は更けていった。
だが――のぞみの保護はできても、元凶である母親をどうにかしなければならない。
理想は宗教から離れてもらうことだが、一筋縄ではいかないだろう。まずは会って話すしかない。明日は忙しくなりそうだ。
日が変わって日曜日、ダイニングに入ると、テーブルの上に一枚のメモが置かれているのが目に入った。そこには短い文が綴られていた。
「お兄ちゃんへ、ごめんね。私、またあそこに戻るね」




