第21話 助言に従って
――唯瀬美紀はまだ自分のことを許せないでいた。
中学1年の初夏。昼休みの図書室で、私はただ暇を潰すために本を開いていた。特別に読書が好きなわけではない。ページを閉じてぼんやりと考え事をしていると、席を一つ空けた隣の席にひとりの男子が腰を下ろした。凪山サトルだった。
彼とは小学校の頃から母親同士が「ママ友」で、自然と話す機会も多く、仲も良かった。だが成長するにつれて男女の意識が芽生え、次第に話すこともなくなっていった。
そう私は思っているが、彼がどう思っていたのかは聞いていないのでわからない。久しぶりに目にした彼は、どこか陰りを帯びた表情をしているのが気になった。
その彼が、ふいに口を開いた。
「最近ここにいることが多いけど、どうしたの?」
思いがけない問いかけに、胸が少しざわめいた。
「部活で団体戦のメンバーに選ばれて、先輩と同級生に僻まれてる。他校との練習試合でも負けて、私のせいだって言われて……正直、落ち込んでるんだ」
彼は静かに耳を傾け、そして言った。
「唯瀬さんは小学生の時から薙刀頑張ってたもんね。みんなはその努力を知らないんだな。知ってたら僻んだりできないって」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。私は母が師範を務める道場に小さい頃から通っていて、日々上達したいと頑張ってきた。だけど、好きだった薙刀を、今は素直に好きになれない自分がいる。
「たまには仮病でも使って部活休んじゃおうか。付き合ってほしい場所があるんだ」
「凪君は部活、大丈夫なの?」
「俺はよくサボってるから大丈夫」
全然大丈夫じゃないと思ったけれど、どこかへ行くのはいいと思った。今は部活をやりたい気分になれないから。
「じゃあ、あの公園に自転車で集合ね」
よく一緒に遊んだ、懐かしい公園。どこへ行くつもりなんだろう。
「おまたせ。それじゃあ今から海へ行きます」
「海って……ここから40分くらいかかるよ!」
「お互い、体力には自信あるでしょ?」
真夏のような日差しの下、汗を滲ませながらペダルを踏む。部活を休んだはずなのに、結局は全力で走っている。先を行く凪君に置いていかれないように、必死で追いかけた。
「着いたー! あそこのベンチに座ろう」
その言葉にうなずき、息を整えながら自転車を置いて歩く。
自販機で買ってくれた冷たいドリンクを飲み、干からびそうだった体が潤っていく。
「どう? この景色。青い空に、青い海。何度も打ち寄せる白い波」
「きれいだね……。頑張ってきたから、余計に達成感があるよ」
「ちょっと海、入ってみる? タオル持ってきたよ」
「冷た!」
「冷たいねー」
浜辺で足だけ海に入ってみたが、初夏の海はまだ冷たい。足の裏で感じる砂粒の感触が気持ちがいい。部活をサボって私は何をやってるんだろう――そう思いながらも、楽しくて笑えてくる。
木陰に腰を下ろし、潮風に吹かれながら海を眺める。
「凪君はよく来るの?」
「うん。ここに来ると、嫌なことを忘れられるんだ」
「私も今日来てよかった。この景色を見ていると、悩みなんてちっぽけに思える」
「唯瀬さんは今の悩みが吹っ切れたら、もっと強くなると思うよ。応援してる」
「……ありがとう。きっと大丈夫」
帰り道も長い距離を漕いだが、不思議と心地よい疲れだった。たった一日部活を休んで出かけただけなのに、遠くへ旅したような特別な日になった。
次の日からは部活に打ち込み、図書室に逃げ込むこともなくなった。
中学2年の春、私はまた図書室へ足を運ぶようになった。
「また何かあったの?」
当たり前のように、凪君は私の隣に座り、声をかけてくれる。
「クラスの女子から無視されるんだよね。私が色目を使ってるらしい」
「友達の好きな男子が自分のことを好きって言い出したみたいな?」
「そう。まさにそれ」
凪君は肩をすくめて笑った。
「ありがちだね。でも今の唯瀬さんは一段と綺麗になって、小学校からの縁がなかったら話しかける勇気は出なかった思う。周りに人がいても声かけられないな。『誰だあいつは』ってなる」
「大げさだよ。美しいって罪ね」
「おー、そのセリフは女子なら一度は言ってみたい言葉ベスト3に入るんじゃない?」
「冗談だよ。……はぁ、私は悪いことしてないんだけどな、居場所がない」
「唯瀬さんがよければ、図書室以外でも俺が行って一人にさせないけど」
「そしたら凪君が誰かの恨みを買うかもしれないから、ここでいいよ。しばらく一緒にいて」
「もちろん。いつまででも」
その言葉に救われるように、私はしばらく図書室に通い続けた。凪君の優しさに甘えながら。だがある日を境に、孤立は終わった。元凶となった友達の思い人が、女にだらしない奴だと発覚したからだ。
また私は図書室から足が遠のいた。理由はもう一つある。母親に凪君と関わらないように言われたのだ。理由は教えてくれなかった。ただ「ママ友の間で悪い噂がある」とだけ。
――中学3年の終わり、凪君の両親が離婚していたことを知った。私は悔やんだ。なぜ私は母の言うことを真に受けて、彼から距離を置いてしまったのか。
彼は私を助けてくれたのに、私は何も返せていない。あの日、海に誘ってくれた時、彼はすでに問題を抱えていたのではないか。
その翌日以降、図書室に行っても彼には会えなかった。かといって彼のクラスまで行って話すほどの仲でもない。いや本音を言うと怖いのだ。最後に図書室で会ってから1年近く経つ。距離を置いてしまった私は薄情者と罵られるかもしれない。
その日も彼がいるかもしれないと思い、図書室にやってきた。そこで誰かを探している男子を見つけた。それは凪君と仲の良い風間君だった。
「風間君、誰か探しているの?」
「サトルを探してるんだ。ここならいると思ったんだけど」
「凪君ってよく図書室にいたけど、何でか知ってる?」
「図書委員をやっていたからだよ。それも1年から3年までずっと。自分が当番でない時も昼休みはいつも図書室に行ってたな。バスケに誘っても、一人の方が気楽だからって断られてた。もう3年は委員会の活動も終わりだから、来るの止めたんだろうな」
そのまま中学校を卒業した。高校は進学希望なら大半が同じ高校に通う。凪君も同じ高校だった。1年の時はもしかしたらいるかもしれないと思って図書室に行ってみたが、会えなかった。
2年では同じクラスになり、軽く言葉を交わせるくらいの関係にはなれた。元気そうに見えたが、ふとした瞬間、その表情に影が差すのを私は見逃さなかった。周りにはわからないようにしているけど、何かを抱え込んでいるように見えた。
私は凪君としっかり話をしてみたいと思った。薄情者だと思われていたとしても。だから何度か校門で待ち伏せして、やっと話すことができた。そして彼は言った――「消えたい」と。
その言葉に、私は息を呑んだ。
中学の頃、彼が私を助けてくれたように、私も彼を助けられていたら。そうすれば、こんなにも長く苦しい思いをさせずに済んだかもしれない。恐らく段々会わなくなった小学生の時点で、彼は辛さを抱えていたように思う。
その痛みに気づける距離にいたのに、手を伸ばすことすらできなかった。そんな自分を、私は今も許せずにいる。
ただ最近、彼は変わったように思う。外に目を向けて、人と関わろうとしているように見える。私の言葉や存在が、その助けになれていたら嬉しい。
同時に、気づいたことがある。――私が、彼に惹かれているということだ。
彼を助けたいと願う一方で、沙理さんや雪村さんと親しくする彼の姿を目にするたび、胸が締めつけられる。アイさんと一緒にいる時間が長いのは従妹だから、そう自分に言い聞かせてみるものの同居していると知った瞬間、心の奥に複雑な感情が広がった。
彼を助けたい。近くにいたい。でも、それだけじゃない。だから私は伝えようと思う。今の私の全てを、彼に。
◇
「凪君おはよう。アイさんは大丈夫?」
「おはよう。土日挟んだけど、まだうまく動けないみたい。トイレは自分で行けるから安心して」
「ふふっ。よかったよ、ほんとにならなくて。ところで今日の昼休み、時間ある? まじめな話をしたくて」
唯瀬さんの力強い眼差しを受けて、緊張感が走る。
「大丈夫だよ」
「よかった。――昼食後に屋上前の階段踊り場でね」
唯瀬さんに耳打ちされる。
どんな話なのか気になって、昼休みになるまでの授業はずっと上の空だった。




