其の七
――王国歴1476年 トロン植物園
「イグナ、この施設が何で植物園として設立したか知ってる?」
「世間の目を欺く為でしょう?」
園内の枯れた森をイグナとモルモアラが歩いている。イグナは左腕を失っており、それに伴って少しアンバランスな歩き方になってしまっているが、モルモアラはそれに気を使ったりはしていない。モルモアラはイグナとは十歳以上離れているが、イグナの柔軟な発想には尊敬の念を持っており、自身の研究所内にはイグナ専用の机を用意するなど、非常に良好な関係であった。そんな二人だが、研究所外で話をするのは実はこれが初めてであった。
モルモアラは、頭の半分を刈り上げており、残りの半分は長髪である。この奇抜な髪形も相まって、世間一般でもそこそこに有名人で、マグナと言えば『あの半分刈り上げてるやつ』と言う者も少なくはない。モルモアラは短く刈り上げた方の頭をさすりながら、イグナに応える。
「それもあるけど、ここは『種子保管庫』としての役割を目的にイブリスが設計したんだってさ」
「種子保管庫? 何故?」
「俺が最初に聞いたときは、車輪運動の研究のために遺伝のデータをとる為だと思っていたんだけど、そうじゃなかった」
モルモアラが美しい蘭の花を手でもぎ取り、握りしめると、その場に捨てた。その下に落ちた花に、魔力を込める。イグナは、魔力が見えないうえ、何がしたいのかわからず、それをただ見ていた。このただ見ているという行為が、父の仕事を見ている時になんだか似ていて、少しだけ懐かしく思った。
「今、俺は治癒魔法をかけた。だけど見ての通り、この花から少し根のようなものが生えただけで、治癒としての効果は得られなかった。これは、単純にこの花には既に生命力が残っていなくて、治癒魔法の根幹である、生命力の前借が出来なかった、という現象だ」
イグナは、花から直接根が生えた得体のしれない物体を見ながら「なるほど」と言おうとした。しかしモルモアラは、返答を待たずに続ける。
「魔法は万能ではない。それは誰しもが知っていることだ。枯れた花を生かすには治癒魔法ではなく、環境と水と土壌だ。俺たちは、土壌に良い薬を作ったり、生育環境を整えたり、水を与えたりすることしか出来ない。つまり、魔法は不可逆の事象に対してどうしようもなく無力な場合があるということだ」
「一つのテストケースに対して、随分と確定的な物言いをするんですね」
「まあ、チャンゴのような変身魔法を見ると、なんだか、常識が壊れていくような気持ちにならなくもないけどな。お前の失った腕が元に戻らないように、基本的には死者を生き返らせたりする魔法は無いということだ」
「蘇生、魔法か」
「話は戻るが、どうやら、イブリスは自身で、あるいは世間の事象として、この大陸の破滅を思い描いていたようだ。その際に、植物が絶滅しないようにと、種子をこの施設で保管していたらしい」
「大陸の破滅、具体的にはどのような?」
「さあな、俺もイブリスに聞いたが『聞いたところで当たるか分からない予想を聞くもんじゃない、競馬では時として直観に頼る場面が出てくるものだよ』と、あしらわれてしまったからな」
イグナが片腕を失い、魔法に関する能力を全て封印され、このトロン植物園に戻ってきてから既に半年が経過していた。イグナを含む魔導師達は、このトロン植物園に戻ってすぐイブリスの死を知ることになった。誰一人として、イブリスが死んだ瞬間を目撃した者はいないが、このトロン植物園は彼女の魔力に呼応して稼働する施設であったため、植物を管理するための魔法器具が停止し、次々と枯れていくその様が、女王の死を物語っていた。
何故か、ルストリアからイブリス処刑の告知がされることは無く、もしかするとイブリスが生きているかもしれない、と皆が皆、口には出さないが思っていた。だが同時に、重症で戻ってきたアーリーや、作戦実行の首謀がベガであることを認識すると、生存している確率は限りなく零に思えた。
「まあ、零じゃなければ、可能性は無限大」
ぼそりと呟いたモルモアラの言葉が、あまりにもイグナの思っていたこととリンクしたため、イグナは目を丸くしてモルモアラを見ると、彼は力なく笑っていた。
「モルモアラ、実は……」
「ああ、いいよ、ここを出ていくんだろ? お前は聡明だからな。やりたいことでも見つかったか?」
「……はい」
「そうか。もし俺がこの先も生きながらえているなら、お前の思惑の成功を願っているよ」
「モルモアラ、あなたも……」
「あぁ、いい、いい。俺はイブリスの作ったこの組織が好きで研究をしているんだ。この組織が無くなるなら、その時は俺が死ぬ時だろう。この組織は俺のゆりかごにはならなかったが、棺桶にはなってくれそうだ。アーリーには適当に言っておくから安心しときな」
アーリーは重傷でここに辿り着いてから、イブリスの死を理解し始めると、すぐさま新たな当主としてマグナ内に通達を出し、マグナの組織を掌握した。そして、全てのマグナ信者に対して、自身の強化を優先させるように命令を行い、自室で毎日限界まで魔法使いを喰った。
更に、良質な魔法使いを車輪運動に加えさせる為、大陸全土で略奪を行い、資金を調達したり、直接人さらいを行うなど、行動は過激になっていった。
アーリーはイグナに対して、封印を解くように様々な人間をあてがい、多様な方法で解除を試みたが、それが実現することはなかった。専門家であるサングスタですら解くことは出来ず、封印を施した張本人であるチャンゴでも解除は成功しなかった。魔法こそ使えないものの、軍師としての才能は申し分ないイグナはいくらでも使いようはあったが、本人が現在のマグナの体制に疑問を感じ、そのことをアーリーに伝えると「あの一件で、弱気の風に吹かれたな」と一瞥され、別の人間が軍師として使われるようになった。
この大きな体制の変更にイグナは、研究所に籠り世界のあらゆる書物を読み漁っては、時々モルモアラの仕事を手伝ったり、サングスタに解除の相談をしにいったりするという日々を送っていた。
やつれた顔のイグナは、モルモアラの目を見て言った。
「それでは、また」
モルモアラは、イグナの目を見つめて言った。
「ああ、またな」
モルモアラと別れ自室に戻ってくると、扉の前でチャンゴが待っていた。
「終わったか?」
「ああ」
チャンゴは、長期にわたって自身の体や魔法に関して不調を訴えていたが、アスラが壊滅し、ここに戻ってきてから更に悪化の一途を辿った。変身自体は以前よりも洗練されているので、魔法の出来に関して言えば好調と言えるのかもしれないが、問題は魔法を解除しチャンゴに戻った時に生じる。
まず、変身した人間の態度や、口調が抜けにくくなり、更には肉体の一部が元に戻らなくなってしまうこともしばしばであった。そんな様子を見たマクレガーが、チャンゴの体調を気遣い、車輪運動の活動から無理やりに外すと、チャンゴの精神状態はますます悪くなってしまった。このような状況ではあったが、イグナが自身の研究としてメインで取り扱っていた『人間の心と魔法の関係』の知識が、チャンゴの不安定な精神を安定させるために使われ、どうにか現状で保たれていた。
(俺の体調が、魔法が不調になることを予測して、先んじて研究してくれていたんだ)
チャンゴは、前にもましてイグナを敬愛するようになった。妄信とも呼べる程に。
「チャンゴ、体調はどうだ?」
「……」
イグナの私室に入り、声をかけたもののチャンゴから返事が無い。
「チャンゴ?」
「ん? チャンゴか」
チャンゴは、イグナから言われた名前を復唱し変身しようとしたが、自分がチャンゴであることに気が付くと、恥ずかしそうに笑った。
「いつもの癖で、お前から名前を呼ばれると変身しちゃいそうになるぜ」
「はは、チャンゴは相変わらずだなぁ」
「……」
チャンゴは安定剤を飲んでいる影響で、少しぼーっとしているようだった。そんな様子を見てイグナは、ソファーに腰を掛けるように勧める。
「ありがと」
短く答えると、チャンゴはソファーに横たわった。
「チャンゴ、今晩俺たちはここを抜ける。安心しろ、俺はお前を置いて行ったりなんかしない。俺たちは家族よりも固い絆で結ばれた親友だ。俺が誰よりも頼りにしているのはお前だし、お前にとってのそれも俺でありたいと思っている」
「……おう、そうだな。少し恥ずかしいけど、お前は俺の親友であり、無敵のパートナーだ……」
チャンゴは、夢見心地になりながらイグナに応える。眼前のイグナは、ぐにゃぐにゃと揺らぎ、耳で聞こえている声と口の動きが一致していない事と、焦点が定まっていない事に気が付いたが、その状態がどうしようもなく気持ちが良いので、そのまま見惚れることにした。
その後、イグナはジェニーに話を聞きに行こうと廊下に出るとマクレガーとばったりと会った。ちょうど良いということで、マクレガーに車輪運動の状況を確認したが、特異魔法の付与には至らない、という結論がジェニーから先ほど出たという話を聞いた。
ジェニーは先月から自室に閉じこもって出てこないらしい。マクレガーも疲労困憊の表情である。
「やっぱりね、特異魔法は人為的には生み出せなかったか」
「……あ、あぁ、失敗だ。ジェニーの身体も心配だから、実験をこれ以上続けるのも難しいかもしれない」
「そうか、お疲れ様」
特異魔法の付与さえ出来れば、今後イグナがやろうとしていることの手順をいくつも短縮できる、非常に役に立つ要素になることは間違いなかった。しかし、研究とは期待して失望していく事が日常なので、イグナは落胆しなかった。寧ろ、難題や未解明な事柄が彼にとっては大きな養分であり、原動力である。チャンゴのように、唯一無二、正体不明の魔法はいくつあっても良い、研究され尽くしている魔法より、未知を知りたい。イグナはそんな事を想っていた。
話を一通り終え、自室に戻りチャンゴの状況を確認したうえで、二人はトロン植物園を後にした。
――王国歴1476年 ミクマリノ南部 ナチャロの村
イグナは事前に準備していたシーナの富豪とのコネクションを使い、ミクマリノへと渡っていた。現在、マグナ・ディメントの幹部は大陸内で指名手配されており、自由に動くことは難しかったが、シーナの富豪、ひいてはシーナ軍の上層部、最たるもので言えば国王でさえマグナ・ディメントとの関りが根深く、安易に切り捨てることは出来ない関係性にまで至っていた為、助力を得ることは簡単であった。しかし、この助力も時間の問題で失われるであろうと、推測していた。
「マグナ・ディメントの強力なカリスマは、やはりイブリスあってのものだよ」
「俺もそう思うぜ。現にアーリーさんに代替わりしてから数十人は脱退してるしな」
「アーリーの胃袋に収まった人間もいる。自己強化のために身内に手をかける者が、当主を務めても長く続くわけがない」
「あれじゃ偉大な王じゃなくて、ただの狂王だな」
これから滅びゆく団体に法を犯してまで助力を行う富豪は多いとは言えない。当然、富豪たちが望む、違法薬物や、造形の良い奴隷、長寿に効くという秘薬などがある限り、一定数の富豪は支援し続ける。それを理解しているモルモアラは、簡単に脱退などという言葉は吐けないのもイグナは理解していた。薬品開発、生産にはモルモアラは必須だ。だが、それもルストリア軍の摘発が本格的になっていけば、富豪たちは取引をやめてしまうだろう。
アーリーが如何に強者であろうが、人間の範疇を超えることは出来ない。大陸全土が一丸となって、マグナを否定しようとすれば必ず淘汰されてしまう。この世界には誰にも望まれない存在など無いが、それよりも狭い見識で見れば、大勢の人間に存在を否定される存在はあるということだ。そして、民衆の意識が集合し『大陸内の異物を処理する』と判断されれば、糞のように大陸から排泄され処分されてしまうのだ。この度の、マグナに関して言えば、大陸の住人にとって確かに有害な異物であった。
「民意なんてさ、善悪の判断から最も遠いところにある存在だと思わないか?」
イグナの問いに、チャンゴは呆けた表情で応える。
「善悪ねぇ……この数年で基準なんて無くなっちまったな」
「良いことを言うね、チャンゴ! 俺たちが描く未来に、基準なんて要らないんだ」
「……なんか分かる気がするよ、イグナの言いたいこと。この魔法のせいで、人格の基準さえ曖昧になっている俺には、尚更な」
少し淀んだ表情でチャンゴがそう言うと、イグナはポンっと、肩を叩いて笑った。
「人間は心の底に『排他する意識』を抱えている。この狭い大陸の中で、何者かを排斥し、何者かに排斥されないか不安を抱え、ぐるぐるぐるぐる椅子取りゲームをやっているんだ」
「滑稽だな」
「あぁ。そんな滑稽極まりない人間の行いを、人々は正義と呼ぶらしい。笑えるだろ?」
(それよりも笑えるのは俺の行いか。思い返せば、俺の人生は導きの人生だった。今後、苦悩しか生まない人生を生きるキールに、死という救済へ導いてあげた。物の優劣がわからないが為に自身の価値を見誤ったホーキンスを、車輪運動の円環に導いてあげた。今度は自分を、至高の領域へと導こうとしている。これは、本当に俺がやろうとしているのか? 当然、俺がやろうとしている。俺にしかできない、重要な使命がある。必ず、成功させる。必ずだ)
大陸東部に位置するミクマリノの南部には、小さな山岳地帯がある。この山岳地帯は、ミラグロ山岳と呼ばれ、比較的なだらかな斜面が続くということもあり、街道も通っているし、登山の初心者などがここを訪れることも多い。
現在、ミクマリノとシーナが交戦中の為、封鎖されてしまっているが、街道は南東の国境要塞にも通じており、商人が貿易の為に使うことの多い街道であった。道の通行量が多くなれば、必然的に生まれるのが宿場であるが、このミラグロ山岳も例に漏れず、宿屋が立ち、宿場が生まれた。ナチャロという村は、いくつかある山岳地帯の村の中でも比較的新しく大きな宿場村であった。特産品は、山菜と猪で、これらを煮込んだ鍋は絶品だと、大陸内のグルメ達に密かに人気が出ている。
村の外枠には低い垣根があり、これは放牧している羊が村の中に入ってこないようにするためのものだが、この垣根はあまりにも低く、村の中には乗り越えた羊がウロウロしていることもしばしばだ。村の中央にはミクマリノの英雄であるレオニード国王の等身大の石像が設置されており、これは元々異民族出身である村民達が声をかけ合い、丸一年かけて精巧に彫り上げたもので、レオニード国王のカリスマ性や、国王としての度量を表していた。
また、住まいのほとんどが、木の骨組みに動物の皮や、糸を紡いで作った布を被せたテント型の建造物になっており、この特徴的な住まいを観光しに来るものも少なくない。と言うのも、このナチャロという村は低地にあり、長雨にさらされるとこの土地は川の下に沈んでしまうのだ。その為、ここの村民は手早くたためて、素早く設置することのできる住居をかまえ、雨が降れば高台へと移動するのだった。
そんなサイクルで行動する村人であったが、例外として石造りの建物をかまえる者が数名いた。この数名は、職業上、気軽に物を持ち運ぶのが難しいということで、やむなく高台に住んでいる者達であるが、本来、川底に沈んでしまう場所に居住する方がよっぽど珍しいわけで、この村は、付近の街道を通る人間のサポートを行うという使命をどこかに感じており、これが村人の精神に深く根付いていたのは、この付近一帯にあった異民族達の和平を取りまとめたレオニード国王に対しての敬意に他ならなかった。
高台に住む者の大半は、日が昇ると同時に獣道を伝って村に下りていき、村人の仕事を手伝いながら仕事を行った。仕事と言うのは具体的に、刃物を鍛造する鍛冶屋が、村人に刃物を売ったり、医師が往診したり、商人が村の特産品を集めて馬車に積んだりしていた。唯一、高台の中でも離れにある図書館の主人は非常に変わり者で、年間に一度降りてくるか来ないかという感じではあったが、村民は学問に対して関心が低く、図書館を利用することなど皆無で、その主人が危害を加えてくるわけでもない為、村民からは幽霊のような扱いを受けていた。
「先生、いつもありがとうね」
老人がテントの中で横になりながら、背中に湿布を張られている。先生と呼ばれた男は、にこにこしながら老人に言う。
「いえいえ、あなたの遺産目当てで優しくしているだけなので、お気になさらず」
「まぁーたっ! 先生はいつも冗談ばかり言って! あたしが誰かに残せるものがあるとしたら、せいぜい金魚の金ちゃんくらいだよっ!」
「ふふふ、そしたら、金魚の金ちゃんを私がもらって、愛情を注いで育てて、大きくなったら食べちゃいましょうかねぇ」
「ほーんと、先生ったらユーモアねぇ」
先生と呼ばれた男は、老人の背中をバンっと景気よく叩き「はい、終わりましたよ」と言う。叩かれた老人は起き上がると、肩をぐるぐると回し「本当、先生の魔法を使わない治療には助かっているよ、ありがとう」と言うと深々と頭を下げ、テントを後にした。
大陸内で盛んに行われている魔法治療は、生命力を前借して、体調の悪い部分に補填するというやり方が基本である。その為、前借する生命力の少ない高齢者には、あまり適さない治療方法であった。そもそも、この大陸では原魔結晶石信仰が主であり、その教えの中に「死して石の麓へ行く、肉体死せども、魂はめぐる」とある。
これは要約すると「死んだら大陸を巡る魔力になって、生まれ変わります」というようなもので、その教えは「老いてなお、生きながらえる必要は無い」と解釈する者も少なくなく、魔法治療が行えなくなった高齢者は、生存の方法などは模索せずに、緩やかに死を待つのが一般的であった。しかし、このナチャロという村の医師であるこの男は半年前から魔法による治療をやめて、薬学というあまり聞きなじみのない学問を駆使し、治療を始めた。
比較的高齢者の多いこの村では、魔法治療院があまり役に立たない、と考えてのことで思い立ったとこの医者は言っていたが、実のところそうでは無い。
「次の方どうぞー。って、あれ? 見ない顔ですが、観光ですかね?」
「えぇ、昔に此処へ妻と旅行に来た事があるのですが、先日先立たれましてね。懐かしく思い、最後にもう一度来たくなったんです。ですが、道中で腰をひどく痛めてしまってね」
「そうでしたか、まずは横になってください」
老人は促されるまま、横になり施術を受ける。村医者は、妻との思い出話を延々とする老人に、優しく頷いたり、時には冗談を交えて笑いあったり、楽しいひと時を過ごした。
「本当にありがとうございました。それでは、また」
「はーい! また必ずお会いしましょうね! お元気でー!」
――――
「どうだった?」
「ばっちりだぜ。忘れないうちに残りの部分を今日中に見ておきたい」
「分かった、早速今夜取り掛かろう」
イグナとチャンゴが訪れたのは、ここナチャロの村であった。
イグナがある程度下調べをして、目星をつけていた村のうちの一つで、条件としては世間との繋がりが確立された村であること。更に、国家ともつながりがあれば尚良い、と考えていたが、二人は一つ目の村で当たりをひいた。ナチャロは大きな街道に沿う宿場村であるし、かつてレオニードが異民族間の争いを終結させたという記念の村であり、ミクマリノ国内では知名度があり、年に数回王族や、軍の上層部がここを訪れる。
現在、指名手配されているイグナが、わざわざ国家と関わろうとするのには、理由があった。もっと言ってしまえば、この行動には秘策があった。
「はい、先生。次は、悲壮の五番からの笑顔の三番! これは簡単だ。お腹が空いている時に、目の前に大好物が置かれたときのリアクションです」
イグナは、手に持った羊皮紙につづられた文字を読みながら、椅子に縛られている白衣の村医者に声をかける。
「そ、そんな。む、無理だ。お前たちはなんなのだ、突然押し入ってくるなり」
イグナの後ろにはチャンゴがおり、村医者の表情を観察している。イグナは、村医者の頬に短剣を突き刺す。突き刺さった短剣は、器用にも、頬以外の肉には傷がつかないように配慮されていた。
村医者は、声を上げたいが、この短剣が少しでも動けば死んでしまうと、考え、痛みに伴う呻き声だけが、小さく響いた。
「先生、簡単なお願いには簡単に答えてくれないと。別に、俺はあんたじゃなくてもいいんだ。あんたが駄目なら別の村人、別の村人が駄目なら、別の村に行く。その上で、もう一度お願いするよ。笑顔の三番、空腹時に大好物を出された時の反応」
村医者は、短剣が抜かれると、頬から血をぼたぼたと垂らし、表情筋を滅茶苦茶に使用しながら不器用に笑った。
「チャンゴ、どうだ?」
イグナが、チャンゴに何かを確認すると、チャンゴは首を横に振った。
「先生、もう少し頑張ろう。あと二つくらいの問題で終わりだから」
足をがたがた震わせる村医者は、涙を浮かべてこう言った。
「さ、さっきも、あと二つくらいと……」
「あと二つ、っていうのは、つまり、あと二個あるってことなんだよ。お前がいつ、一個消化したんだ? 満足に表情が作れるようになってから『あと二個』になるんだ。こういうのは、なんていうんだったかな? そう、先生が大好きなユーモアだよ!」
村医者は、恐怖と怒りと絶望で声が出ない。
「はい! チャンゴ、絶望の四番!」
チャンゴは、手元にある羊皮紙にメモをとりながら、村医者の表情を観察する。
イグナとチャンゴは新たな魔法の実験をしていた。これには、いくつかの条件をクリアする必要がある。その中でも最も面倒なのが、複雑な表情の機微を全て観察し、記憶しなくてはならない。その観察が終わったあとで、とある条件を満たし、発動する。
「でもイグナ、この魔法ではイグナの体にかかった封印を解くことは出来ないし、長年かけて組み上げた、肉体のルーンも全て消えてしまう。しかも、この魔法が解ける確証も無ければ、元に戻ることが出来る可能性も、ほぼ無いと思う。それでも……やるのか?」
「ああ、封印の話か。まあ、魔法が封印されていても出来ることはある。元の体に戻れない? それも好都合だ。なんせ、俺は腕を失くしてしまっているからな」
「そうか、それなら、続きをしよう。このペースなら、夜明け前には終わりそうだ」
チャンゴが、部屋にかかった時計を見ると夜の十一時を指し示していた。村医者は、終わり、という言葉に過剰に反応し、イグナに声を荒げる。
「お前ら、一体、何をしようと……」
「そうだな、俺である貴方にも伝えておこう。大陸を救済する為の壮大な未来の話だ」
――――
こんにちは。チャンゴです。
今日、面白いことがありました。イグナが買ってきたサバサンドに芋虫が入っていたのです。
俺の、じゃなかった私の頭の中にいる奴みたいだね、と言ったら、じゃあこの芋虫を食べればお前の頭の中の芋虫は居なくなるな、って、本当に笑っちゃいました。
彼はユニークな人だ。頭の中に芋虫なんかいない。いるとすれば、ホーキンスの頭の中じゃないか、って思ったんだけど、その時名前が出てこなくて悔しかったなあ。
僕はただ友達が欲しかったんだと思いました。面白いよね。
そうそう、最近ハマっているものがあって、カリカチュアと呼ばれる戯画を集めています。
とは言っても、イグナに買ってきてもらうんだけど。今、僕が住んでいる古書堂で、暇だから読んだらはまっちゃいました。特に、カッツェという画家の書いた作品は最高に笑える。是非会ってみたい。
こんな魔法を持っていて言うのは変だけど、生まれ変わったらカッツェのような画家になりたい。
もちろん、カッツェに会えばカッツェになれるんだけど、カッツェのような画力は身につくのかもしれないけど、面白い続きを書くことは出来ない。
魔法は俺の全てだが、魔法が無い時の私は一体誰だったのだろう。
それこそ、頭の芋虫が答えてくれるのかもしれないが、生憎俺はイカれてはいない。
特に好きな戯画は、全てを失った男が全てを得た男を討つ物語だ。
この話と同じように結末は既に決まっているのだ。
例えばイグナが実行する『間引き』に、この俺でさえきっと含まれている。いや、それは決定事項だ。僕はそんなこと起きるなんて思っていない。
私はイカれてなどいない。
僕はイグナのパートナーだ。
イグナの目標は私の目標だ。
何者でもいいけど、何かは嫌だ。存在の意味だけは失いたくない。
頭が痛くなってきた。最近、今まで出会った人間の顔を思い出せないことに気が付いた。
僕は、イカれているんだね。
芋虫の言う通りだ。
俺は処分されてしまうのだろうか。もし、明日があるのなら、続きは明日書こう。
――一カ月後
「本当にこの村で間違いないのかぁ?」
「うん、先月この村の医者が妙な魔法を使って俺たちの仕事を邪魔しやがったんだ」
「俺たちガラッパファミリーに手を出そうなんて、よっぽどの親知らずみてぇだな」
「ピート兄貴、親知らずは歯のことだよ。命知らずでしょ?」
「知ってんだよ、んなこたぁ。とにかく、俺たちみたいなはぐれ者は舐められちゃおしまいだ。舐めたことするクソ医者は、見せしめに公開去勢してやる」
「ピート兄貴、去勢は……」
「わかってんだよっ! 言い間違えただけだ! とにかくひでぇめに合わせるって意味じゃ、処刑も去勢も変わんねぇだろうが!」
そんな言い合いを、村の目の前でやっていた為、その大きな声に村人が集まってきた。
「おい! じじぃ! この村の変な魔法を使う医者を呼べ!」
声をかけられた老人は、特にたじろぐ様子も無く、村の奥の方を見ながら言った。
「あんた達も、先生の『見えない魔法』を見に来たのか。先生もすっかり評判だねぇ」
「ああ? 見えない魔法だぁ?」
ピートは『見えない魔法』という言葉に対して、この村の人間は魔法の素養が無く、魔法を黙視することが出来ないので、その医者は神格化されているのだと気が付いた。しかし、ピートは曲がりなりにもミクマリノ軍に魔導傭兵として加わり戦地に赴いていた過去があり、この手の現象は大陸の僻地で過去に何度か見たことがあった。
「先生の魔法はよぉ! 例えばこんな感じかなぁ!!」
ピートは右手から火球を生み出し、目の前の地面に叩きつけると足元一帯を黒く焼き焦がした。それを見た老人はやれやれといった具合で、奥の方へと歩いて行ってしまった。
「んだぁ? びびって声も出なくなったか、稚魚が!」
「ピート兄貴、そこは雑魚が正しいよ。そんな間違え方する?」
「知ってんだよ、んなこたぁよ!」
そんなやり取りをしているうちに、村の奥から白衣を着た医者が歩いてきていた。
「おやおやぁ、これまたとんだ客人ですねぇ」
医者は、話しかけながら黒く焦げた地面を一瞬見て、山賊の二人に向かって手を叩いた。
「ピート兄貴、あいつだ! あいつがこの前、俺に変な魔法をかけて仕事の邪魔しやがったんだ!」
「てめぇ、こらぁ! 俺の弟が随分世話になったみてぇじゃねぇか! おおん?」
ピートが威嚇すると、医者は笑いながら言った。
「あはは、あれを仕事と言うんですか? 全く盗人猛々しいとはこのことですね。そんなことよりもお二人さん、私の魔法は理解出来ていますか?」
「てめぇのちゃちな魔法なんざたかが知れてるんだよ!」
勢いよく食ってかかるピートに対して、医者は人差し指を立てて横に振ると、こういった。
「既に、既にあなたの右手に私の魔法がかかっている。少し集中すると右手の違和感に気付くはずです。さぁ、試しに火球を作ってみなさい」
「ああ? そんなわけが……」
ピートが右手で火球を作り出すと、どういうわけか先ほどよりも火球が小さい。動揺するピートを見ながら医者は続ける。
「ね? ほら、どんどん火球が小さくなっていくでしょう? 段々と小さくなっていく。もっと右手に集中してください」
医者が言う様に、火球はみるみる小さくなっていき、ついには跡形もなく消えてしまった。
「な、なんだ、これは? 何をしたっつーんだ!」
「兄貴、俺の時もこんな感じだったんだ、次は……」
医者は弟の言葉を紡ぐように、ゆっくりと大きな声で説明を始める。
「次は、呼吸です。実は、既にお二人の呼吸器官に魔法を施しています。あ! 無理に呼吸をしない方がいいですよ! 余計に危ない! 意識を失い、最悪死に至ります」
医者は両の手を山賊の胸に向けながら、ジっと見つめる。すると山賊の二人は、みるみる苦しくなっていき、呼吸がままならなくなる。次第に顔は青ざめていき、弟が気を失ってしまった。それを確認した医者は、パンっと手を叩き、険しい表情と重く低い声で警告する。
「ほら、このままではお連れさんが死にますよ。早くここから立ち去りなさい」
兄はふらふらになりながらも、弟を担ぎ、捨て台詞を言う余裕もないままに村を後にした。逃げ帰る山賊を見ながら、医者は大きな声で言った。
「また遊びましょうねー!!」
魔法は、思い込みから生まれる。
思い込みは、心の理から生まれる。
「さてと、そろそろ患者が来るころですねぇ。どれどれ……」
そう言って、診察室に戻った医者は机の上に置いてあるカルテを手に取る。
「今日はこの子か、容態も安定しているしそろそろ次の段階にいっても……」
と医者が呟きかけると、診察室の扉が開く。そこには幼い女の子が立っており、扉が開くなり腕を組み言った。
「もう時間ですよ! 先生! 今日はどんな魔法を教えてくれるんですか?」
「おやおや、ヴァルヴァラちゃん、いらっしゃい。その魔法の話は先生との秘密なんだから、そんなに大きな声で言っちゃあいけないよ」
「はーい!」
医者は、カルテに再び目を落とす。そこには、ヴァルヴァラという名前と、結晶計画という言葉が書かれていた。診察室には熱いぐらいの日差しが差し込み、そのカルテを強く照らした。医者は、この先の到達点に想いを馳せる。
「……んせい! 先生!」
「ん、ああ、すみません。立ちながら夢を見ちゃってました」
「んもぉー! 先生は冗談ばっかり!」
残念ながら、これは冗談ではないんだよ、ヴァルヴァラ。私は、常に夢を見ている。夢に従っている。
「ほんと、しっかりしてよー!」
しっかりか。しっかり、しないとな。これからが本番なのだから。
「聞いてるのぉー?」
ええ、いつだって聞こえていますよ。
「ヴィクト先生っ!」
では、始めましょうか。
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