【第一幕】 女の一念
日本橋本町に、伊勢屋という裕福な小間物問屋があった。
大店の総領息子の例にもれず、息子の伊之助は大変な放蕩者で、店に居る時間よりも廓で過ごす時間の方が多いような男だった。
ある時、親や意見をしてくる親族と衝突して駆け落ちし、折よく江戸から長崎に向かう奉行の供となって、長崎の地へと渡った。
長崎に行っても伊之助の放蕩癖は治らず、その地の芸者、お園と深い馴染みになる。
主人が江戸へと帰ったあとも伊之助は長崎に残り、お園と二人で小さな裏店を借り、手間仕事などをして夫婦として暮らすようになった。
お園は大変美しい女で、芸者上がりには珍しい優しい性格で、伊之助もこの夫婦生活に満足していたが、一年ほど経つと、ふと江戸が無性に恋しくなってきた。
この長崎で暮らすようになって以来、自分の過去の過ちをしきりに悔いるようになった伊之助は、江戸に帰りたい気持ちが段々と抑えられなくなってくる。
・・・・しかし、お園を連れて江戸に帰ることは難しく、さんざん悩んだ末に、思い余ってお園を置き去りにしてこっそりと長崎を出て、単身江戸へと逃げてしまった。
置き去りにされたお園は、自分が捨てられたことを深く悲しみ、伊之助を激しく恨んで彼の後を追って江戸まで行く決心をする。
・・・・所詮女の身で、たった一人で遠国までの道のりを歩いてゆくのは難しいこと・・・。
そう思ったお園は、乞食となって艱難辛苦を舐めながら江戸へと下ってゆく。
数年後、とうとうお園は江戸へと到着した。
ボロを纏い、洗わない髪は枯れ草のようにバサつき、垢にまみれた姿は、昔の美しい姿とはまるで別人のようになっていた。
伊之助から聞いていた屋号を頼りに、日本橋本町の伊勢屋にたどり着いて店の前で突っ立て居ると、伊勢屋の番頭が出て来た。
「なんだいお前さんは、乞食かい?・・・物乞いに来たのか・・・・店の前に立たれると商売の邪魔だ、どこかへ行っておくれ」
「・・・あの、こちらの若旦那にお目にかかりたく存じます」
「なに、若旦那に?・・・・ウチの若旦那はな、お前のような汚い乞食に知り合いがいるはずがないよ、とっとどっかに行きな!」
「一度、若旦那にお会い出来れば判る事ですので、どうかお願いいたします・・・」
「おまえさんもしつこい人だね、殴られないと分からないのかい!」
そう言って、店の前で騒ぎとなっているのを、帳場に座っていた伊之助が聞き付ける。
暖簾の陰からそっと外の様子をうかがい、伊之助は心臓が止まるほど驚いた・・・・汚い乞食のなりをしているが、その顔を見忘れるはずがない。
長崎で妻としたお園なのである・・・・。
江戸に帰ってからは、生まれ変わったように堅くなり、店の仕事に精を出していた伊之助だが、ここで図らずも長崎に置き去りにしてきた妻と再会して、覚悟を決めて親へと打ち明ける。
息子、伊之助からその事を聞いた父、伊勢屋甚兵衛も母親も大変に驚いた。
「・・・・私の若気の至りでございます・・・・大変申し訳ございませんでした」
伊之助は目に涙を浮かべながら、両親の前で畳に額を擦り付るように深々と頭を下げる。
父、甚兵衛も驚いたが、同時に女の身で単身伊之助を追って江戸まで出て来た息子の昔の妻をいじらしく思った。
「・・・そのお園さんとやらは、お前の後を追って乞食になってまで江戸へとやってきたのか・・・・」
母も、お園の苦労を思い涙を浮かべる。
「長崎からここまでの道中、さぞ苦労したことでしょう・・・・」
「お前の事をそれほどまでに想っている情の深い女ならば、とりあえずこっそりと裏口から入れて会ってみようではないか・・・・」
そう言って番頭に命じて、裏口から密かにお園を入れて対面する。
ボロを纏い、垢にまみれた汚らしい乞食女だが、その表情は柔和で、芯の強さが感じられる。
「長崎を出て、千辛万苦を凌いでここまで参りました」
そう言ってお園は泣き崩れる。
「・・・・・お園・・・すまない・・私が悪かった・・・苦労をかけたな」
伊之助も彼女の手を握り、それだけ言うのが精いっぱいだった。
伊之助の母ももらい泣きをしていたが、そんな光景を父の甚兵衛はじっと眺めていた。
それから、まずお園を風呂に行かせ、髪を結い直して再び甚兵衛が対面すると、なるほど息子の伊之助が妻としたのももっともな絶世の美女である。
そのうえ話してみると、大変に心根の優しい貞淑な女であることが判った。
なによりも、その一念だけで乞食となってまで息子に会いに来た情の深い女である、しきりに前非を悔いている息子も、この女と夫婦になるのが幸せであるに違いない。
甚兵衛も、息子伊之助と、このお園を夫婦にしてやりたいという気持ちになった。
甚兵衛の妻も同意見であった。
・・・・しかし、そうするには難しいある事情があったのである。