je me souviens de lui.
***
とある昼下がり。
その日は珍しく銃声が聞こえない、穏やかな時間が流れていた。
ここ、サトス基地の狙撃部隊が非番になることはあまりない。
狙撃部隊は戦闘任務だけではなく、偵察や監視を任されることもあるからだ。
前線に立つ以外に隊内の風紀を取り締まっている特殊部隊を除けば狙撃部隊が群を抜いて忙しい小隊だろう。
久しぶりにそんな多忙な部隊を指揮している弟子と非番が被った。
「師匠って、どんな子供だったの?」
彼が作った昼食を取っている際に、ふとそんなことを尋ねられた。
「うーん……」
どんな、子供だったのだろうか。
すぐに答えられる程単純な幼少期ではなかった。
あまり子供の頃のことを思い出したくない、というのも本音なのだが、弟子に言えば、彼は目に見えて申し訳なさそうにするだろう。
其れは想像に難くない。
十も離れているとは思えないほど大人びていて、気が効くのがヴェール・ディサイプという男だ。
「もしかして、聞いちゃいけなかった?」
現に黙り込んでいる俺を見て不安そうに眉を下げている。
「え、いや?そんなことないよ。どんな子だったかなぁって、思い出していただけ。」
そう笑うと、弟子はほっとした表情を浮かべた。
彼は本当に、俺に甘い。
俺が嫌がることを酷く嫌う。それが自分の行動でも、他人の行動でも。
その甘さに俺は小さく苦笑した。
そして、再度口を開く。
「あんまり頓着しない子供だったよ。」
「頓着……?」
人間にも、家柄にも、何事にも興味がない人間だった。
今もそうだけど、と自嘲してからふと、背の高い黒髪の男のことを思い出した。
「…そういえば、『つまらないクソガキ』って言われたことがある。」
「うわ、なにそれ。」
ヴェールが身を少し乗り出した。
当時を思い出してくすりと笑った。
「聞きたい?口の悪い使用人の話。」
弟子が勿論、と笑った。
***
「ロイ・ラスフォールです。」
それは、俺が九歳になる頃だった。ある日突然新しい使用人が家に来た。
「本日付でこちらにお世話になります。宜しくお願い致します。」
まっくろなひとが来た、と思った。
くろい髪に三白眼のくろい目。
若干の恐怖を覚えるビジュアルに反して、そのひとは恭しく頭を下げた。
「彼には、イルバ様のお世話をお願いすることにしましたが、旦那様。」
執事長がこの家の長に是非を問うた。
「ああ、好きにして構わん。」
長は俺の方を見向きもせずに言った。
新しく来る人は大体俺のお世話係になる。これはこの家では当たり前のことだ。
今回も例に漏れず、そうなるらしい。
家長がそう言うと、くろいひとが最後列にいた俺の前まで歩いてきた。
俺はいつものように笑った。
俺には使用人なんて要らないのに。何も面白くない。
そう思っていたけど、笑った。
「よろしくお願いします、ロイさん。」
いつものように穏やかに微笑んで挨拶をした。
すると、
「……つまんねえクソガキだな。」
耳元で低く、色の無い音が響いた。
何を言われたのか、理解できなかった。
それが自分のことを指していることに気づくのにも時間がかかった。
周りはいつも通りの光景が広がっている。
嘘と、建前で塗り固められた光景が、変わらずに広がっている。
きっと、あの悪口は俺とそれを呟いたそのひとにしか聞こえなかっただろう。
いつもの笑みが、危うく剥がれるところだった。いや、もう剥がれてしまったのかもしれない。
それ程までに衝撃的だった。
「不束者ですが、宜しくお願い致します、坊っちゃん。」
そのひとは何事もなかったかのように再び恭しくこうべを垂れた。
これが、俺とロイさんの出会いだった。
*
「起きろ、クソガキ。」
朝、くろいひとは決まった時間に俺を起こしに来る。
いや、『起こしに来る』という言葉はこの状況を表現するのには正しくないものだ。
かれが来る時間には、既に俺は起きているのだから。
「…おはようございます、ロイさん。」
「何がおはようございます、だ。ヘタな芝居打ちやがって。」
そのひとは今日も変わらず、眉間に皺が寄っている。今にも舌打ちをしそうな、嫌そうな顔で悪態をつくのだ。
かれが邸に来て、数日が経つが相変わらず俺のことをクソガキと呼ぶ。
そろそろ怒ってもいい頃だろうか、とまるで他人事のように俺は思った。
決して、腹が立っていないわけではないのだ。
俺にはちゃんと名前があるのに、呼んで貰えない。それどころか、クソガキなんていうバカにされたあだ名で呼ばれている。
誰だって怒るに決まっているのだ。
でも、怒り方が俺にはわからなかった。
なんて怒れば俺のこの感情は目の前のこのひとに伝わるのか、わからなかった。
だから、何も言わずに今日も笑顔を貼り付ける。
「今日は午前中に経済学、午後にヴァイオリンのレッスンでしたね。」
朝は毎日こうしてその日の予定を確認する。
「……お前、使用人いらねえじゃん。」
この、砕けた話し方にも微塵も慣れなかった。周りに(言い方は悪いが)乱暴な喋り方をする人が今までいなかったからだ。
「父や、執事長が決めたことですから。」
「それ。」
唐突な指示語にきょとん、としてしまった。
このひとと話していると、話の展開が早くて時々ついていけなくなる。
「なんで敬語なの?お前、使用人にもそうじゃん。」
初めて、聞かれた。
少し細かい話になってしまうが、ギリアム語には敬語が存在しない。
他人に対して尊敬や謙遜の意を表さなければならない場はあるため、文法による敬語表現はあるのだが、敬語という括りに分類される言葉は存在しないのだ。
自分と対等な立場や自分より立場の低い人間に対して敬語表現を使うことはまずもってない。
それどころか、目上の人を敬いなさい、などと東の異国のような風習もこの国にはあまり伝播していない。
そのためギリアム人が『敬語』なるものを使うことはかなり稀なことなのだ。
「えっと、その。」
にもかかわらず、若干九歳にして終始敬語表現を用いて話しているのは、確かに不可解なのかもしれない。
でも。
初めて聞かれた質問になんと答えればいいのか皆目見当もつかなかった。
「あの、癖、なんで……」
「…………ふぅん。」
たっぷり間の空いた返事におもわず俯いてしまった。敬語表現は、笑顔を貼り付けているのと同じ。
自己防衛なのだ。相手との距離を保つための。自分の心に踏み込まれないようにするための。そうすれば、俺自身も相手も傷つかずに済む。
「大変だな。その歳で妙な癖がついちまっているのは。」
かれの手が俺の頭を優しく撫でた。
その手には、いつもの不機嫌さは微塵も感じられなくて、慈しみさえ込められているような気がした。
人に、頭を撫でられたのは、何時ぶりだろうか。
そして、このある種の悪癖を彼は忌むことも無く大変だなと言った。
その言葉にも嫌味を含んだ印象はなかった。寧ろ、本気で心配しているようなニュアンスだった。こんな風に心配されることなど、今まであっただろうか。
「え、と。」
突然の心配にどうしていいかわからずに俺はかれを見上げた。
「…やっぱり、クソガキだな。」
かれは、手を俺の手の上から離して、俺の着替えと靴を準備してくれた。
真っ白なシャツとサスペンダーのついたグレーのパンツ、白いソックスとブラウンの革靴。いつも通りのきちんとクリーニングされた服に磨かれた靴を纏うのはほんの少しだけ億劫だった。
まるで。
「お人形みたいだな、クソガキ。」
は、と我に返った俺をかれはまっすぐ見つめた。
自分と同じことをかれが思っているなんて、予想できなかった。
「ほっそい脚を晒すのは、奥様の趣味か?」
奥様、というのは俺の母親だろう。
「どうでしょう。わからないです。」
「脚出さない方が、お前の場合はいいな。細過ぎて見てられない。」
嫌味たらしい言葉のチョイスだったのに、俺はかれの言葉に何の棘も感じなかった。
「お前は暗めの服のほうが似合いそうだな。」
そう言いつつ、かれは俺に白いシャツを渡した。
「僕も、そう思います。」
「……ほう、お前センスあるじゃん。」
かれがにやりと笑った。
「クソガキはもっと家に従順なのかと思った。」
「あの、うちになにか恨みでもあるんですか?」
かれの台詞が妙な言い回しだったことに、俺は疑問を抱いた。
だから、尋ねてみた。
「恨みはねえよ?別に。」
恨み『は』ない。じゃあ何が在るんだろうか。それも聞いてみたかったけど、ドアのノックの音が聞こえて、俺は開いた口を閉じた。
「坊ちゃん。朝食の支度が出来ました。」
扉の向こうから聞こえてきたのはメイド長の声だった。
彼女は決して、俺の部屋に入ろうとはしない。だからこうして扉の向こうから声をかけるのだ。
それが、俺の自室での生活の邪魔をしないようにと配慮しているが故なのか、それとも別な意図があるのか、俺にはわからなかった。
知ったところで何の得にもならないということも理解していたから、俺も詮索をしていない。
「かしこまりました。有難うございます、メイド長。」
かれが眉間に皺を寄せ、その顔つきに反した恭しい声色で声に応えた。
かれの表情の意味が分からなかった。どうして、かれがそんな顔をするのか。
「さて、行きましょうか。坊ちゃん。」
かれが笑みを浮かべて、俺にそう言った。
「……はい。」
俺もいつも通りの笑みを貼り付けて、応えた。
こうして今日も、億劫な一日が始まるのだ。
*
初めまして、お久しぶりです。伊月です。
久しぶりの投稿になります。月桂樹の新作です。
本来は折本にしてデータ配信する予定だったものです。バタバタしているので先に此方に投稿させていただきました。もう少し続く予定です。
折本は追々……やる、はずです。やるやる詐欺してすみません。
続きはもう少しお待ちください。それでは。