神話の国のキャロル
キャロル・アシェム大尉は操縦桿を傾け、攻撃ヘリの機体を敵戦車に向けた。ヘルメットのディスプレイで射撃権が移っていることを確認し、ミサイル発射ボタンを押した。カチリというボタンの感触が指先から腕を伝って脊髄にまで上っていった。
AGM−114ミサイルが白煙を吐きながら飛んでいく。キャロルはパキスタン軍のアル・ザラール戦車が粉々に吹き飛ぶことに何の疑いも持っていなかった。AGM−114はヘルファイアの愛称を持つ。ヘルファイアのヘルはヘリコプターのヘリから来ているのだが、その凄まじい威力から地獄のヘルと解釈されていた。
爆音と衝撃波がキャロルの乗ったAH−64Dアパッチ・ロングボウに届いた。
だがキャロルは違和感を覚えた。
着弾にかかる時間は四秒の筈だった。だが体感ではまだ二秒ほどしかたっていなかった。目を凝らし黒煙の中を窺うと何か青いものが透けて見えていた。
キャロルは自分の感覚を信じていた。ヘルファイアの射線上を何かが塞ぎ、ミサイルを途中で爆破させたのだ。突如、障害物が現れ、敵戦車の破壊を妨害したのだ。
戦場に吹く風が瞬く間に煙を消し去り、その青い障害物の正体を露わにした。
キャロルは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
戦闘で最も重要なのは状況判断能力だ。先入観を持たず、事実のみを把握するのだ。
ヘルファイアは絶対的な命中精度を誇る。
ヘルファイアは確実に発射された
しかしそれは敵の戦車には届かなかった。
なぜなら、ミサイルの射線上に突如、何かが現れたからだ。
ミサイルはその何かに当り、爆発した。
その何かは青い色をしていた。
それは煙の中から姿を現した。
あり得なかった。あり得ないものが現れた。
キャロルは笑みを浮かべた。不合理、不条理、逆境、苦境こそが自分の能力を発揮できる、そして自分の存在を実感できる場所だった。
インド生まれのインド人でありながら、ブロンド、ブルーアイの少女の人生には一度たりとも平穏な時はなかった。この状況もキャロルの前に現れた困難の一つに過ぎないのだ。
キャロルは対戦車攻撃隊の隊長に状況を報告した。
「こちらKL1。敵戦車の撃破に失敗。追撃不可」
「おい、何だあれは? キャロル・アシェム大尉、お前にもあれが見えているのか?」
隊長の声には動揺と恐れがにじんでいた。
しかしキャロルは隊長をあざける気持ちも、不甲斐なく思う気持ちもなかった。
「見えています。攻撃しますか?」
「攻撃? お前、何を言ってるんだ? あれが何か分かっているのか?」
あり得ないものが現れたのなら、見間違いか、あり得ないという思い込みが間違っているのかのどちらかしかない。簡単な話だ。
キャロルは自分の眼の方を信じた。
「見たままですよ、隊長。戦いの神、アスラ神族のラーフですね」
キャロルはアパッチの正面に立つインド神から目を離さずに言った。
ラーフ神が実在して目の前にいた。身長は十二メートル。青い肌。腰巻だけで上半身は裸だった。見知った絵の通りの姿だった。
「そんな訳、無いだろう。俺もお前も頭がどうにかしているんだ。そうか、パキスタン軍の仕業だ。何か幻覚を見させられているんだ。あり得ないだろう、ラーフ神だなんて」
キャロルは一瞬だけ、集団幻覚を見せる秘密兵器の可能性を考えた。ヘルファイアも幻覚か?
キャロルにとっては秘密兵器の方があり得なかった。
「あの四本腕と太い尻尾は間違いありません」
攻撃ヘリを百メートルの距離にまで近づけた。キャロルとラーフ神は正面で対峙した。
強い太陽の光を受け、ラーフ神の肌は青い光を放っているようだった。四本の腕の内、上の二本は手のひらを空に向け、下の二本は胸の前で合掌していた。
キャロルはヘルメットのバイザーを上げた。この信じられない状況はビデオに録画されているのだろうか。世界中に放送されるのだろうか。世界中の人々は神が降臨したことに驚くのだろうか。
いや、良くできたCG画像だとして一時の話題になるだけだろう。
キャロルは改めて巨大なラーフ神の顔を見つめた。その顔には怒りも、敵意も浮かんでいなかった。そこにあったのは憐れみの表情だった。
キャロルが最も苦手とする感情だった。敵意や憎しみ、侮蔑には対抗できるが、なんら争うつもりのない憐憫には、自分が無価値で無力な存在になった気にさせられるだけだった。
キャロルは前部座席の射撃手のマヘシェに視線を向けた。狭い座席で膝を立て、頭を埋め丸まっていた。マヘシェの頭の処理能力を超え、現実逃避を行っているのだろうと判断した。まだ十代のマヘシェが対応できなくても無理はなかった。
「さてと、どうするかな」
ラーフは闘いの神、闇の神族アスラの一人だ。ヘルファイアが効かないのは確認済みだ。そして敵意は持っていない。巨大な神がその気になれば一瞬で、対戦車攻撃部隊は壊滅するだろう。
パキスタン軍にも何の動きも無かった。マヘシェと同じ状態なのだろうと思った。
キャロルはチェーンガンのトリガーに指をかけた。どうせ適切な命令が下ることはない。
キャロルはM230 30mmマシンガンをラーフ神の顔面に打ち込んだ。一分間に六百二十発の弾丸が音速の二倍の速さで飛んでいく。全弾、命中。ラーフ神の顔面をズタズタに切り裂くはずだった。しかしかすり傷一つ、負わせることは出来なかった。
最初から神を倒せるなどと思っていなかった。ただ状況判断を確実にするための情報が欲しかっただけだ。キャロルはアパッチをラーフ神の足元の着陸させた。
エンジンを切り、コクピットから飛び降りてラーフ神に近づいた。ヘルメットを脱ぎ、小脇に抱えた。束ねられたブロンドの髪が背中で揺れていた。
キャロルはラーフ神を見上げた。彼女に選択肢はなかった。逃げるなんてあり得ない。頭を抱えてうずくまることもあり得ない。戦争を続けるしかないのだ。
「ラーフ神、そこに突っ立ってられると邪魔なんだよね。どっかに行ってくれる?」
インド人の多くは非常に信心深かった。ほとんどの家に何かしらのインド神の絵が飾られている。持っているスマートフォンの壁紙をインド神にしているものも多かった。
金運の神で象頭、四本腕のガネーシャや、愛と美の女神のラクシュミー、芸術の神サラスバティ―、そして最高神ヴィシュヌ、破壊と恩恵の神シヴァなどだ。
キャロルはインド人として当然、彼ら神々に対する知識はあったが、信仰したことは一度もなかった。軍人であるキャロルにとっての神はAH−64Dアパッチだった。
ラーフからの返答はなかった。最初から神とコミュニケーションが取れるとは思っていなかった。やるべきことを一つずつこなしていくだけだった。
「何か用があるなら、さっさと済ませてくれない?」
突然、黒い影が日光を遮った。頭上に巨大なラーフの尾が現れたのだ。
キャロルは死を覚悟した。やれること、やるべきことをやろうとしたのだ。神の尻尾に叩き潰されたとしてもそれは仕方がない。物心ついた時から自分がいつか死ぬことは分かっていた。それが今日になっただけだ。
顔を上げ、自分の死を受け入れようとした。しかしラーフの尾はキャロルの頭上を通り過ぎていった。
ラーフは地響きを立てて足を踏み鳴らし体の向きを変えた。
キャロルがラーフの視線を追うと、パキスタン軍の前線にもう一体のインド神が立っていた。ラーフと同じくアスラ神族の一人、ジャランダラだった。尾は無いが、六本の腕を持っていた。その左手の一つには巨大な剣が握られていた。
「ジャランダラよ、邪魔をしないでくれ。私は人間の戦いを止めたいのだ」
「人間に関わっている場合ではないだろう」
五百メートルほど離れて神々同士が会話を始めた。
その時、ジャランダラ後方の装甲車から若いパキスタン軍兵士が一人、降りてきた。肩にはRPGを担いでいた。
キャロルはヘルメットを放り投げ、パキスタン兵士に向かって走り出した。
「止めろ! 撃つな! 相手を見ろ。殺されるぞ」
パキスタン兵士は駆け寄ってくるキャロルに気づくことなく、RPGを発射した。
RPGはジャランダラの背に命中し、轟音をたてた。
ジャランダラは振り向きざまに左手の剣でパキスタン軍を薙ぎ払った。若い兵士は装甲車や隣の戦車ごと断裁された。鉄くずと化した装甲車と戦車が、地上軍に降り注いだ。
キャロルは地面に身を投げ出し、爆破の衝撃から身を守った。
「やめろ、ジャランダラ。人間に手を出すな」
頭上でラーフの声が響いた。キャロルは立ち上がり体の砂埃を叩いておとした。キャロルはインド軍とパキスタン軍の中間、ラーフ神とジャランダラ神の中間に立っていた。
「お前も人間に関わるな」
「私は、彼らの争いを止めたいのだ。彼らの争いも止められないようでは、デーヴァ親族との戦いを止めることは出来ない」
パキスタン軍は報復攻撃をしなかった。混乱しているのだろう。
「ラーフよ。分かっているだろう。無駄なのだ。人間は僅かばかりの土地のために殺し合い初め、やがて核を使い滅んでいくのだ」
「いや、私は信じたい」
もはやキャロルには戦闘を続けようと意欲は無くなっていた。アスラ神族が一人いるだけでも持て余すのに二人も現れたのでは手の打ちようがなかった。
そしてキャロルは気づかされた。ラーフ神が現れたのはキャロル自身が戦闘の口火を切ろうとしたせいなのだ。そして、そのまま戦闘に突入してしまえば戦争はエスカレートし核戦争を引き起こすところだったのだ。
だがこれで核戦争が防げた訳ではない。キャロルのミサイルが敵に届かなかったため、今回は大規模な戦闘に発展することはなかった。しかし単に延期されただけだ。いずれ誰かがキャロルの代わりに引き金を引くのだ。
ラーフとジャランダラはどうするつもりなのだろうか。
キャロルは首を振った。神々の意思を推測しても仕方がない。だが腑に落ちないこともがあった。ラーフとジャランダラはアスラ神族で闘神のはずだった。そして人間の悪事に祟ることもある神だった。
人間に災厄を振りまくのも人間のためを思ってなのだろか。
突然、眩い光が辺りに満ち溢れ、視界が真っ白になり何も見えなくなった。突風が吹き、キャロルは吹き飛ばされないように片膝をついた。
白い光は消え視界はすぐに戻って来た。前後を見たが、インド軍もパキスタン軍も動いた様子はなかった。立ち上がり、二人の神を仰ぎ見た。
ラーフとジャランダラも、キャロルのように顔を上げ、天を見ていた。
そこには、ヴァルナ神がいた。実体ではないようだった。上半身だけが空中に浮かんでいたからだ。
ヴァルナ神はラーフやジャランダラが属するアスラ神族の長にして、天空神であり正義と契約の神だった。
キャロルは大物の登場に身構えた。人類を救おうとするラーフを抑え、人類に罰を与えに来たのだと思った。宗教画で見たように四本腕で両手に一つずつ縛竜索を持っていた。
「ラーフよ、ジャランダラよ。戦線に戻るのだ。インドラたちデーヴァ神たちの力が弱まっている今こそ、やつらを倒す機会なのだ」
「ヴァルナ神よ、デーヴァ神との闘いに終わりはありません。闘いを終わらせるための秘密は人間にあるのです」
「何をいう、ラーフよ。闘いを終わらせるにはインドラを倒し敵をせん滅するしかないのだ。さぁ、闘いを終わらせるために戦線に戻れ」
冷静に状況を見極め、常に正しい決断を繰り返していく。これがキャロルが誇る戦闘能力だった。しかし、それが揺らいでいた。
「ラーフに、ジャランダラに、ヴァルナ神。おまけにインドラ神か。もう、私の手に余る状況だわ」
ヴァルナを長とするアスラ神族は、デーヴァ神族と敵対していた。そしてそのデーヴァ親族の長がインドラだった。インドラはヴァルナ同様に天空神だった。そして軍神、英雄神でもあった。
キャロルにとってはインドラの方がなじみ深かった。アスラ神族は阿修羅、魔族として、そしてデーヴァ親族は正義の神々として語られることが多かったからだ。そして何より軍神としてインドラは軍人たちに人気があった。
赤褐色の肌に四本の腕を持ち、雷撃の武器、金剛杵ヴァジュラを携え、三つの頭を持つ白い象に乗り空を飛ぶのだ。
「こうなったら、インドラにも会いたいものだわね」
キャロルは優れた軍人で現実家だった。神話の神々が現れた状況に「信じられない、あり得ない」とひたすら喚き続けるなんで無駄なことは一切しない。これが現実でも、夢でも幻覚でも関係ない。ただ自分が出来ることをやるだけだった。
中空のヴァルナが縛竜索を放り投げた。それは生き物のように自ら動き、伸びてラーフとジャランダラの胴体を縛った。
ヴァルナが目を閉じると蜃気楼のようにヴァルナ自身の姿が消えていった。そして縛竜索に繋がれたラーフとジャランダラの姿も霞んでいった。瞬く間に彼らの頭は見えなくなり、首、胸、腹と順に消えていった。そして神々の巨体が塞いでいた視界が広がり、山岳の景色が見渡せるようになっていた。
神々は去っていった。
キャロルはラーフが立っていた後をじっと見つめていた。自分の胸から戦意が消えてしまっていることに気が付き、愕然とした。キャロル・アシェム大尉は軍人としてのキャリアをスタートさせてすぐに、軍人のなかの軍人として評価されることになった。禁欲的で決して弱音を吐かず、仲間を見捨てることは一度もなく、理不尽な敵には容赦がなかった。そのため戦いの女神のあだ名をつけられてもいた。そんな自分が空っぽになったような気がしていた。
キャロルは、自分が呼ばれていることにしばらく気がつかなかった。
「戦士よ、女戦士よ、なぜ、お前は敵の兵士を救おうとしたのだ」
頭の中で声が聞こえていた。ラーフ神のようだった。たぶんRPGを発射した間抜けなパキスタンの若い兵士のことを言っているのだろうと思った。
さあ、なぜかしら。心のなかで声に応えた。
キャロルは両方の手のひらを見た。透けて黄土色の地面が見えていた。軍服ごと腕も足も透明になっていった。
自分がこの世から消えてしまうことに身構えた。
テントの隙間から入ってくる風に吹かれてブロンドの髪が揺れていた。乱れた髪が何度もキャロルの寝顔を撫で続けていた。
ほのかに明るい光の中でキャロルは目を覚ました。軍服のまま広いテントの中のベッドに寝かされていた。ここがどこでなぜ自分が気を失っていたのか分からなかった。
腰のフォルスターにブローニング・ハイパワーがあることを確認すると、意識がはっきりしてきた。持ち物はブローニングだけだった。腕時計はしていたが止まっていた。ブローニングを取り出し、マガジンに9mmパラベラム弾が装填されていることを確かめると、ベッドから立ち上がった。
まずは状況判断が必要だった。テントの出口に向かおうとした途端、外に人の気配を感じた。
キャロルは入り口の側にしゃがんみこんだ。入って来た人間の後頭部に素早く銃を突きつけるためだった。
しかし、入口の布が捲れ入ってきたのは人間ではなかった。
銃をフォルスターにしまって声を掛けた。
「私に、何かよう?」
それは振り返った。ほんの一メートルたらずの距離に人間の体に鷲頭の獣神ガルーダがいた。長身のキャロルより頭一つ背が高く、真っ赤に光る体をし、翼をもっていた。インドだけでなくタイやインドネシアなど近隣諸国でも崇拝されている聖鳥だった。
猛禽の眼光と鋭い嘴に気圧され、キャロルは後退りし銃を向けてしまいそうだった。だがなんとか恐怖心を抑え込んだ。相手が半神だからといって臆するようではインド軍兵士の名が泣く。
「ついて来い」
ガルーダはそう言って、テントを出て行った。
キャロルはラーフ神たちとの邂逅を思い出した。今はまだ、見知った軍隊生活には戻れないようだった。覚悟を決めて外にでた。
そこは緩やかな起伏のある草原で暖かな光に満たされていた。大小様々なテントが見渡す限り設置されていたが、どれもインド軍の軍幕テントと異なり真っ白だった。キャロルはすぐにここが前線近くの野営地であることを悟った。
左右を見回したがガルーダの姿が見当たらなかった。
「おーい、ワシ頭、どこに行った?」
自分を鼓舞するように軽口を叩いたのも嫌な予感がしたからだった。
予感は的中し、巨大な翼がはためく音がして、両肩をかぎ爪に捕まれ空中に持ち上げられた。肩の痛みは大したことがなかったが、自分で操縦せずに空を飛ぶのは怖かった。
ガルーダに掴まえられ、丘の頂上を目指し、一直線に空を飛んでいった。アパッチなみの速さでグングンと山肌に沿って上昇していく。
頂上付近で一瞬、垂直に持ち上げられると、足元から真下に降下し、神殿の前に降ろされた。神殿と見間違えたが急ごしらえで作られた本営だった。キャロルの横に舞い降りたガルーダが歩いて本営の中に入っていった。キャロルも後に従った。
大本営の中は大型軍用輸送機スーパーハーキュリーズの格納庫よりも広かった。巨大なテーブルや椅子があり、キャロルは自分が小人になってしまったような錯覚を覚えた。
地響きをたててラーフ神が近づいて来た。他の神々は見当たらなかった。
「兵士よ。お前に頼みがあるのだ」
キャロルはラーフの言葉が耳に入らなかった。変わり果てたラーフの姿に愕然としたからだ。全身に傷を覆い、手当てした布には血が滲んでいた。さらに四本の腕の内、左手の一本が失われていた。
偉大なるインド神が傷つき、血を流していた。キャロルが意識を失っている間に戦闘があったのだろうか。神々の戦いが。
キャロルは自分が涙を流していることに気が付かなかった。
「兵士よ、我、頼みを聞いてくれないか」
「どうなのだ、兵士よ」
横に立つガルーダもキャロルに声を掛けた。
キャロルはどう答えればよいか分からなかった。神の頼みを断れるはずもなかったが、自分が神の役に立つとも思えなかった。
「私の名前はキャロル。キャロル・アシェム大尉」
そう答えるのがやっとだった。
それをラーフは承諾の返事と受け取ったようだった。
「キャロル・アシェム大尉よ。私は戦線を離れる訳にはいかないのだ。そして私では駄目なのだ。中立な存在でなければ」
キャロルはインド軍兵士の自分が中立だとは思えず、黙ったままラーフを見つめ続けていた。そして頼みを聞いてからでは断れないだろうと思った。その頼みがどんなものであってもだ。断るなら頼みを聞かされる前の今しかない。
「キャロルよ、承諾してくれ。このラーフ様の姿を見てもなんとも思わないのか」
「一体、どうしたの?」
キャロルは、話に入って来た隣の鷲頭に尋ねた。
「ラーフ様は戦闘中の前線に降り立ち、休戦を呼びかけ続けたのだ。一切の抵抗もせずに。しかしデーヴァ神族は戦いを止めるどころか、ラーフ様に攻撃を集中させたのだ」
「そして、あなたが助け出したって訳だね」
「そうだ。ガルーダが私を助けるために、デーヴァ神たちを次々に打ち倒したのだ。そのため、もう休戦の交渉はできなくなってしまったのだ」
頭上からラーフ神の声がした。命を助けてもらったガルーダを責めているように聞こえた。
「そのまま、ガルーダにデーヴァ神たちを倒してもらったら? 戦争を止める確実な方法は相手をせん滅することじゃないの?」
キャロルは思い出した。ガルーダは神々を打ち倒すほど強い存在だったはずだ。デーヴァ神族の王、雷神インドラの雷撃をものともせずに互角に戦えるはずだった。
「兵士よ。我々、アスラとデーヴァたちの戦いは千年の長きにわたるのだ。互いに相手を打ち倒そうとして、ただひたすらに傷つけ合い殺し合っているのだ。そして、この戦いはまるで終わりがないのだ」
「そもそも、何の争いなの? どうして神々が戦うことになったの?」
キャロルは尋ねた瞬間に自分の浅はかさを嘆いた。なんて馬鹿な質問をしてしまったのか。神であろうが人間であろうが戦争の理由は決まっている。光の神族デーヴァと闇の神族アスラの戦いも、インド軍とパキスタン軍の戦争と同じ理由で始まったに違いないのだ。
「私も、それが知りたいのだ。それが分かれば戦いを止めることが出来るはずなのだ」
「えっ? 知らないの?」
「いや、キャロルよ。ラーフ様がおっしゃりたいことはそうではないのだ。元々の原因はアムリタなのだ」
アムリタ。不老不死が得られる霊水。
人間は金や富を奪い合って戦う。神々が奪い合うのはアムリタなのだ。戦争とはそういうものだ。インドラたちデーヴァが手に入れれば呪いも解け、力が復活する。アスラが手に入れれば不老不死となる。
ガルーダの説明は続いた。
「なぜ殺し合う代わりにアムリタを分け合うことが出来ないのだろうか。なぜ自分たちだけのものにしようとするのだろうか」
そんなの分かり切ったこと。そう思ったが、どう言葉にすれば良いか分からなかった。今まで考えたこともなかったからだ。ただ、そういうものとしかいえなかった。
突然、轟音がし、地響きがなった。地面がうなり、キャロルはよろけてガルーダの翼にぶち当たった。
軍幕の外はあわただしく、鬨の声も聞こえていた。
「また戦いが始まった。近いぞ」
ガルーダがつぶやいた。
「ガルーダよ、行くのだ。キャロルを連れて行け。このものが鍵になるやもしれん」
「ちょっと待ってよ。私はまだ何もいってないわよ」
キャロルの言葉は続けざまの爆音にかき消された。
ガルーダはラーフに頷くと、キャロルをテントの外に押し出した。
「嫌よ。私を引っ掴んで飛ぶなんて止めてよ。絶対、嫌だからね」
キャロルはガルーダから離れ、腰のブローニングに手をやった。
「心配するな。お前を運びながらでは戦えないからな。早くその乗り物に乗れ」
いつからあったのか、ガルーダが嘴で指し示した先あったのは攻撃ヘリAH−64Dアパッチ・ロングボウだった。
雷撃や火炎矢の攻撃が辺りを襲っていた。それに追い出されるように軍幕テントからアスラ族の神々が飛び出していた。誰も皆、どこかしら負傷しているようだった。
キャロルは愛機の運転席によじ登った。ヘッドアップディスプレイ付きのヘルメットが置いてあるだけで射撃手のマヘシェはどこにも見当たらなかった。経験の浅いマヘシェがいても邪魔なだけだ。素早く後部の操縦士席に乗り込みエンジンを始動させた。
ガルーダは翼を広げ空に舞い上がった。敵の攻撃ラインに並行して飛んでいった。
ガルーダは何も言わなかったが、キャロルにはついていく他はなかった。
「まったく、どこにいくのやら」
ガルーダは時速200kmを超える速度で飛んでいた。赤く光り輝く聖鳥の姿は優雅に見えた。ガルーダが攻撃を縫うように飛んでいたため、ピッタリと後を追って飛んでいるだけで攻撃を避けることができた。
ガルーダが急に左に旋回した。キャロルも操縦桿を左に倒し後をついていった。
眼下にはアスラ神族とデーヴァ親族の戦いが繰り広げられていた。
神々はそれぞれの武器を手に、打ち合っていた。ところどころに鎧をまとった巨大な象や、戦車が互いの戦線を押し返そうとしていた。
その頭上をアパッチは爆音を響かせて通り過ぎていった。
ここが激戦地帯のようだった。
「攻撃が届かないところで待機していろ」
ガルーダの声が操縦席の内に響いた。神の声はホバリングの音に邪魔されず、キャロルの耳に届いた。キャロルのつぶやきも外を飛ぶガルーダには聞こえるのだろう。
ガルーダは自らは急降下していった。翼を折りたたみ、砲弾のように一直線にデーヴァ神の群れに突っ込んでいった。
ガルーダは数十人のデーヴァ神を吹き飛ばしながら敵地の真っただ中を突き進んでいった。ガルーダが目指す先には一際激しい戦いが見て取れた。
そこではヴァルナとジャランダラが大勢のデーヴァに囲まれて苦戦していた。神々の戦いは人間の戦争とは違い大将自ら先陣を切って戦うものらしかった。
ヴァルナ神は巨大な亀に乗って進軍していた。四本腕に持った縛竜索を振り回し襲ってくるデーヴァを次々と打ち倒していった。その打撃は凄まじく、一撃で複数の敵神の身体を粉砕していた。次々とぶつ切りにされた腕や首、胴体、足が空を舞っていた。
ホバリングしているアパッチまで血しぶきが飛んできていた。
ジャランダラが剣を振うと、閃光がひらめき敵の神々、戦車は真二つに両断された後、炎に包まれ消滅していった。
アスラ神族は圧倒的な攻撃力を奮っていたが、捨て身で襲ってくる途切れることのない大群に僅かずつだが傷を負わされていた。
キャロルは吐き気を催していた。
人間の近代戦争では、ほとんど敵兵の死体を目撃することはなかった。空爆やミサイル攻撃が主流になっており、血の臭いを嗅ぐこともなかった。
神々の戦いはほぼ肉弾戦だった。いくらかの矢が用いられていたが、剣、槍、こん棒、斧が主体だった。ひたすら相手の肉体を破壊する残虐で陰惨な光景だった。神話の中の神々が喚き、叫び、悲鳴をあげていた。
キャロルは操縦桿が血でべとついているような錯覚を覚えた。
瞬く間にヴァルナとジャランダラは味方のアスラ神族と分断されてしまっていた。
ジャランダラのダメージが少しずつ蓄積しているのか、彼を取り囲む敵の円陣は少しずつ狭まっていた。
その時、旋回して戻って来たガルーダがヴァルナとジャランダラの周りのデーヴァ神たちに突っ込み、その嘴、翼、かぎ爪で蹴散らし、退路を作った。なおも進もうとするヴァルナとジャランダラだったが、ガルーダに押しとどめられているようだった。
ガルーダは上空に舞上がると、敵陣の奥を翼で指し示した。
ヴァルナとジャランダラは揃って、ガルーダが指し示す方向に視線を向けた。
キャロルもアパッチをデーヴァ軍の奥に向けた。
小山ほどの炎が凄まじい勢いで近づいていた。炎そのものと見間違えたのは牡牛に乗って突撃してくるのはアグニ神だった。
デーヴァ神族を率いる雷神インドラの弟の火神。ガルーダと同じような赤い体は炎に包まれていた。三つの顔はどれも憤怒の形相をし、むき出しにした牙は黄金色に輝いていた。それぞれの口からは時折、七枚の舌が現れ舌なめずりをしていた。
「勝てる気がしない」
キャロルはつぶやいた。例え天空神ヴァルナであっても破壊神ジャランダラであっても勝てないのではないかと思った。ガルーダもそう判断したのだろう。
アグニ神の突進を避け損ねたデーヴァたちが何人も巨大な牡牛に跳ね飛ばされていた。
ジャランダラはアグニの突撃を見て、引き下がるどころか雄叫びをあげて向かっていこうとしていた。それを必死にガルーダが留めようとしていた。
アグニの乗る牡牛の地響きが近づいていた。周りのデーヴァたちは飛びのき、アグニとジャランダラとガルーダの周りには誰もいなかった。ヴァルナも後方からジャランダラに退却を命じている。
近づいてくるアグニは突撃を緩めることなく、右手の斧を振り上げた。その斧が一瞬、光ると炎に包まれた。そしてその炎の斧を大きく振りかぶった。
その瞬間、時間が止まったように感じた。
アグニは炎の斧をジャランダラに向かって投げつけようとしていた。そして、その中間にはアグニに背を向けて翼を広げているガルーダがいた。
これは神々の戦いなのだ。けっしてキャロルの戦いではなかった。キャロルはアスラ神の味方でもデーヴァ神の味方でもなかった。どちらかの味方をするつもりもなかった。
だがアパッチのM230チェーンガンが発射される音を聞いた。大口径の30mm弾が数十発発射されアグニを襲った。
アグニは致命傷を負うことはなかったが、血が肩から噴き出していた。放たれた斧は狙いを外れ、ガルーダとジャランダラの側を掠めて飛んでいった。
「ちぇっ、指が勝手に動いてしまった」
アグニは立ち止まり様子をうかがっていた。その隙にアスラ神族も体制を立て直し、戦陣を組み直していた。
この瞬間の戦力は互角に見えた。雑兵の数はデーヴァ軍が上回っていたが、最高格の神はアスラ軍のヴァルナ、ジャランダラに対して、デーヴァ軍はアグニのみだった。しかもアスラ軍の聖鳥ガルーダはアグニと互角と言われていた。
突風が吹き、アパッチは大きくバランスを崩した。突風の原因はガルーダだった。すぐそばで翼をはためかせ、風を起こし、アパッチを上空に押し上げていたのだ。
「戦線を離脱するぞ」
キャロルの頭の中にガルーダの声が響いた。怒気を含んだ大声だった。
ガルーダはアパッチの前で体を反転させ、また前線に沿って飛び始めていた。
キャロルはしばらく空中に留まっていた。最高神を攻撃したことによる天罰を待った。だが何も起きなかった。どこかでアグニへの銃撃の責任を取らなければならないことは間違いなかった。だがそれは今ではないようだった。
キャロルは肩をすくめて、ガルーダの後を追った。
戦場を後にし、無人の荒野をしばらく飛ぶと岩石散らばる不毛地帯に入っていった。やがて山岳地帯に入り幾つかの山谷を抜けた先にひと際高くそびえる山が見えてきた。
ガルーダはその山の中腹に向かって飛んでいった。アパッチが着陸できる場所に降り立ち、上空のキャロルに顔を向けた。
キャロルはアパッチをガルーダの横に着陸させた。
「こんなところに何のようがあるのかしら」
キャロルは殺風景な天界の山の景色に飽きて独りごちた。
メインローターが停まるまで待ってからゆっくりとヘルメットを脱ぎ、機体から降りて、辛抱強く待っているガルーダに近づいた。
「ねぇ、なぜ、私のチェーンガンはアグニ神に傷を負わせることができたの? ラーフ神にはまったく効かなかったのに」
「呪いのせいなのだ。天界が荒涼した地になり、デーヴァ神族が不死の力を失ったのも呪いのせいなのだ」
「呪いって解けないの?」
「アムリタを飲めば良いのだが、もうほとんど残っていないのだ。あのアグニ神でさえ与えられていないのだ」
「なるほどね。この戦いは少ない資源の奪い合いってわけね」
「さぁ、行こう」
「ちょっと待ってよ」
キャロルは背中を向けたガルーダに慌てて声を掛けた。
「まだ、何をするか聞いてないわよ。それに私は協力するとも言ってないんだけど」
ガルーダは振り返って鷲の目でキャロルを見つめた。キャロルが何を言っているのか分からないようだった。神の依頼を断ることなど想像できないのだろう。
「戦いを止めるのだ」
「それは聞いたわよ」
戦う使命を帯び、戦うことを生業とし、戦うことに生きがいを見出してきたキャロルだったが、人殺しが好きな訳ではなかった。戦わなくても済むならそれにこしたことがない。だが、どうやって戦いを止める?
戦争を無くすことなどどうやっても不可能なのだ。
「どうやって、止めるの?」
「それは私にはわからない」
「ちょっと、鷲頭さん、私をこんなところまで連れてきて、分からないは酷いんじゃない? もうそろそろ帰りたいんだけど」
「待て、兵士キャロルよ。ヴィシュヌに知恵を借りるのだ」
ヴィシュヌ神。シヴァ、ブラフマーとともに三位一体の最高神の一人だ。インド人なら知らないものはいない最も有名な神だった。ヴィシュヌ派でないキャロルでもその姿を簡単に脳裏に浮かべることができた。
千の頭を持つ竜王ナーガラージャの一人シェーシャを従えた神。太陽の輝きと共に描かれ、四本の手に円盤、こん棒、法螺貝、蓮の花を持つ偉大な神。
そして十のアヴァターラ、つまり化身を持っていた。
第一の化身、半神半魚のマツヤ。
第二の化身、宇宙を支える亀のクールマ。
第三の化身、大地を復活させる巨大な牙を持つ猪のヴァラーハ。
第四の化身、人身獅子頭のヌリシンハ。
第五の化身、三界を跨ぐ小人のヴァーマナ。
第六の化身、斧を持つ聖仙のパラシュラーマ。
第七の化身、魔王ラーヴァナを倒す英雄ラーマ。
第八の化身、褐色の親愛神のクリシュナ。
第九の化身、仏教の開祖のブッダ。
第十の化身、世界を終末から救う白馬の王のカルキ。
こんな偉大なヴィシュヌ神なら、戦いを止めることが出来るかもしれない。だがどうやるのだろうか。
「とりあえず付いていくわ。私の役割がヴィシュヌへの生贄でもいいわよ」
キャロルはヴィシュヌ神に問いただしたかった。この世から戦争を無くすことが出来るかどうか。
ガルーダは頷いて山を登り始めた。
「ちょっと、鷲頭さん、生贄のところは否定してよ。冗談なんだからね」
その時がくればきっと自分の役割は分かるのだろう。キャロルはガルーダからの説明は諦めて歩き出した。
しばらく上り続けると山肌に掘られた巨大な神殿が現れた。アンコールワットが山に埋め込まれているようだった。しかも極彩色に彩られていた。
キャロルは圧倒された。まさにこの世のものでは無い建物だったが、その大きさや装飾のせいではなく、神聖な霊力のようなものが溢れ出していたからだ。入口から目に見えない霊気が流れ出し、キャロルの身体に纏わりついてくるようだった。
一歩一歩と神殿の入り口に近づくにつれ、水の中を歩いているように足が重くなっていた。
巨大な門を幾つもくぐり、やっと建物の中に入った。そのころには神聖な空気にもなれキャロルの歩みも通常に戻っていた。
その様子をガルーダが満足げに見て頷いた。
「何よ、そのしたり顔は。悪いけど、あんた達の期待には応えられないわよ」
ガルーダとキャロルは石の広間を奥に進んでいった。天井は高く、左右にはいくつも石柱がたっており、壁には様々な種類の宝石とレリーフで装飾が施されていた。窓から差し込む光のせいで、中はとても明るかった。床の石は磨かれ、自分の姿が映るほどだった。
キャロルはいつヴィシュヌが目の前に現れてもいいように気を張り詰めていた。
「あんなのが突然、現れたら絶対、心臓がとまってしまう」
独り言をつぶやくと少し肩の力が抜けたような気がした。喋ると言葉と共に無駄な力が抜けていくようだった。
石の広間が終わり階段の前に辿り着いた。階段を数段、登るとさらに広間が続いているようだった。
突然、視界の隅で赤い影が動いた。石柱の陰から何かが飛び出してきた。
「キョエーーッツ」
耳をつんざく叫びと共にそれが襲い掛かって来た。
ガルーダが翼を広げ、その攻撃を受け止めた。一瞬、柄の長い棍棒が見えただけで敵の姿は確認できなかった。
狙われたのはキャロルだった。
キャロルは床を転がり、距離をとった。起き上がりながらブローニング・ハイパワーを抜いた。
片膝立ちの態勢で銃を構え、引き金を二度引いた。
銃弾の発射と全く同じタイミングでガルーダが翼を閉じた。
翼の陰にいた敵はキャロルの姿を目にした瞬間に、避ける間もなく眉間に銃弾をくらった。
半獣神のハヌマーンだった。片手に棍棒を持ち、兜を被り、首には幾重にも首飾りを巻いていた。
ブローニングの9mmパラベラム弾は猿の英雄神になんのダメージも与えていないようだった。
キャロルはハヌマーンの右目を狙って再度、二発撃った。敵の追撃を抑止するための銃撃で、致命傷を負わせられると期待した訳ではなかった。
銃弾は傷を負わせるどころか当りもしなかった。ハヌマーンの身体が一瞬で子猿ほどの背丈にまで縮んだのだ。弾丸はハヌマーンの頭上を通り過ぎた。
キャロルはさらに後方へ飛び下がり、また距離を取って膝立ちで銃を構えた。
「止めろ、ハヌマーン!」
ガルーダが叫び、翼を広げたが、さらに小さくなったハヌマーンはその下を潜り抜けてキャロルに迫って来た。
キャロルとハヌマーンは直接対峙することになった。
キャロルは迷わず、ハヌマーンの膝に向けて撃った。
「小さくなればなるほど、弾丸の威力は増すんじゃないかしら」
これで効果がないなら、もう打つ手は残っていない。
銃弾はハヌマーンの膝には命中せずに股の間をすり抜けて行った。
「クケッーーツ」
ハヌマーンは瞬時に巨大化した。三メートルほどの巨大な猿が怒りの表情で棍棒を振り上げた。
「でかくなれば、動きは鈍くなるんじゃないかしら」
キャロルは棍棒の柄の中心に残りの七発を全弾、打ち込んだ。全て命中し、柄にめり込んだが破壊するまでには至らなかった。
キャロルは横っ飛びでハヌマーンの一撃をかわした。巨大な棍棒がさっきまでキャロルのいた石床を叩き、粉砕した。
キャロルは凄まじい衝撃と振動によろめきながらもブローニングのマガジンを交換した。だが、それは軍人としての習慣がそうさせただけで、もう撃つつもりはなかった。
「次はどうする? 私を丸飲みにしてくれれば、胃袋の内側から撃ちまくってやるんだけど」
キャロルは両手を下に垂らしたまま立ち上がり、ハヌマーンに向かい合った。
ハヌマーンはキャロルの方に体の向きを変えながら、棍棒を再び振り上げた。
その時、バッキッという音がし、柄の中心が折れた。キャロルの放った弾丸がハヌマーンの棍棒に損傷を与えていたのだ。
しかし、支えを失った棍棒の柄頭がキャロルの頭上に落ちてきた。
脱力していたキャロルには避ける隙もなく、咄嗟に腕を上げて顔を覆うしかできなかった。
だが、柄頭はキャロルに当たることはなかった。間一髪でガルーダが飛んできて柄頭に体当たりしたのだ。柄頭は轟音を立てて、壁にめり込んだ。
ガルーダはハヌマーンの横に降り立つといった。
「止めろ、ハヌマーン、このものはラーフ神の使いなのだ」
「だから攻撃したのだ。邪魔をするとお前も容赦はせぬぞ」
「アスラと敵対するいわれはなかろう」
「いや、アスラが攻め込まなければ天界は平和だったのだ」
「それを言うのであれば、デーヴァがアムリタを独占することに非はないのか?」
キャロルの頭上でガルーダとハヌマーンが諍いを始めだした。
「ちょっと待ってよ。二人とも勘違いしないでよ。まず私はラーフ神の使いじゃないわよ」
キャロルが抗議したが、ハヌマーンは黙殺し、ガルーダに詰め寄った。
「お前も俺と同様に、インドラ神の祝福を受けたもの同士ではないか。お前がアスラの味方をするのも解せぬ」
「私はアスラの味方をしているわけではないのだ。ラーフ様が戦を終わらせようとしているのを手伝っているだけなのだ」
銃声が二発、石の宮殿に響いた。キャロルがガルーダとハヌマーンの間に入り天井に向けて撃ったのだ。
二人の半獣神は揃ってキャロルをみた。
ハヌマーンはガルーダやキャロルと同じサイズになり、柄だけになった棍棒の残骸でまたもキャロルに打ちかかろうとしていた。
キャロルは微動だにせずに、ハヌマーンを睨みつけていった。
「謝りなさいよ」
ハヌマーンは動きをとめた。
「何だと?」
「私をラーフの使いと思って攻撃してきたのよね。あんたは勘違いで私を殺すとこだったのよ」
ハヌマーンは言葉を詰まらせ振り上げた腕を下ろした。そして改めてキャロルを見た。ブロンドの長髪を後ろに束ね、青い目をした人間の女兵士が不死の英雄に怯むことなく立ち向かっていた。
「女よ、では、お前は何しに来たのだ」
キャロルは腹を立てていた。警告もなくいきなり攻撃されたのだ。子供の頃、大好きだった不死身の猿の戦士だったが、許すわけにはいかなかった。
「ちょっと、お猿さん、話を変えないでよ。まず、ちゃんと謝罪してよね」
ガルーダが間に入って何か言おうとしたが、キャロルがガルーダに視線を送り黙らせた。
「何をいうのだ、人間の分際で。ここがどこだか分かっているのか。ヴィシュヌ様の神殿で……」
キャロルが片手を挙げて、ハヌマーンの言葉を遮った。天界でも『黙れ』のジェスチャーは通じるようだった。
「また、話を変えようとしたわね。あんたは変幻自在で、山をも運び、不死で、時間の流れさえも止める力があるのよね。そんなあんたが、謝るなんて簡単なことができないの?」
ハヌマーンの赤い顔はさらに赤くなっていった。
たまりかねた様子のガルーダが静かに声を掛けた。
「キャロル、もう許してやれ」
キャロルの怒りは収まらなかったが、ガルーダに免じて許してやることにした。だがキャロルにはもう一つ、片づけないといけないことがあった。
「まぁ、いいわ。貸しにしておくからね」
キャロルはガルーダに向き直った。
「じゃあ、次は、あんたの番よ。あんたが私を連れて来なければこんなことには、ならなかったのよ。ちゃんと説明してよ」
今度はガルーダが目を剥く番だった。
「分かった。説明する」
「今よ、今」
「分かっておる。お前からヴィシュヌ様に頼んでほしいのだ。ヴィシュヌ様は、どちらか一方の頼みは決してお聞き下さらないのだ」
キャロルは腕組みをした。自分がヴィシュヌに会うのも口をきくのも全く想像できなかった。
「争っている当事者の片方の望みは聞けないってわけね。贔屓しないってことなのね」
ガルーダはハヌマーンに顔を向けた。
「ハヌマーンよ、我々をヴィシュヌ様に取り次いでくれ。この果てしない血みどろの戦いを止める方法をお伺いしたいのだ」
「分かった。この先の階段を上って奥に行け、ヴィシュヌ様をお呼びしておく」
ハヌマーンは言い終わらないうちに、奥の広間に向かって飛んでいった。
「逃げたわね。まぁ、いいわ。それと、あいつは空も飛べたのね」
「さぁ、キャロルよ。頼みをきいてくれ」
「分かったわ。戦争を終わらせる方法があるなら私も知りたい。でも、もう一つ聞きたいことがあるの」
キャロルは組んでいた腕をほどいて、自分の頬に手をやった。
「なぜ私なの?」
「ラーフ様がお前の中に何かを見出したのだろう」
ガルーダをそれだけ言うと先に進み始めた。
キャロルはこの旅、あるいはこの幻覚がもうすぐ終わりに近づいていることを感じていた。偉大な最高神ヴィシュヌに会えばすべてが片付くはずなのだ。
キャロルは首を振った。そんな簡単なことではないかもしれない。超越した存在に助けを求めるなんて『いかさま』なのではないだろうか。
「まぁ、会えばわかるわね」
キャロルとガルーダは明るい広間を進んでいった。
遠くの巨大な玉座にヴィシュヌ神がいた。
その背後からは光が溢れ、直視するのも畏れ多い最高神に、キャロルは思わずひれ伏しそうになった。実際、ガルーダに背を押されなければそうしていたかもしれなかった。
やがて声が届く距離まで近づいた。巨大な姿で鎮座していた。四本の腕や、円盤、蓮の花などの持ち物も巨大だった。
キャロルは、その存在に押しつぶされそうになりながら、必死に誇りを保ちその前に立ち続けた。ヴィシュヌの横にはハヌマーンもいた。励ますような表情をしているように見えた。
キャロルは視線をあげ、真っ直ぐにヴィシュヌの顔を仰ぎ見た。
沈黙が続いた。ガルーダも黙ったままだった。
キャロルは自分の役目が今、来たのだと知った。
「神々の戦いは終わることなく、このままでは天界はすさみ神々自身も滅んでしまいます。
戦いを終わらせる方法があるなら、それをお教えください」
なんとか、それだけ言い終えて肩で息をした。
「ハヌマーンから話を聞いています」
辺りに響き渡る、鐘の音のような澄んだ声で話をつづけた。
「この戦いは僅かな霊水アムリタの奪い合いがきっかけです。このアムリタを十分に授けましょう」
キャロルは眉を寄せた。そんなことが出来るのか。いや、最高神ヴィシュヌなら、どんなことでも可能なのだろう。
何か違和感があった。それが真の解決になるのだろうか。
「アムリタを手に入れるためには、デーヴァ神族とアスラ神族が互いに協力し合わなければなりません。大海にあらゆる種子を入れ用意しましょう。その大海をこのマンダラ山で千年の間、かき混ぜるのです」
キャロルは自分の口が開いたままなのに気が付いた。千年とか、この山を使うとか、ただの人間でしかないキャロルの理解の範疇を超えていた。
「どうやってかき混ぜるのかしら」
キャロルはそうつぶやくのが精一杯だった。
「大海に入れたマンダラ山に竜王ヴァースキを巻き付けるのです。その頭と尾をデーヴァ神族とアスラ神族が引っ張り合えば、大海は混ぜ合わされ乳海となり、千年の後、アムリタが手に入るでしょう」
ヴィシュヌはそれだけ言うと音もなく消え去った。
最高神との会話はあっけなく終わった。
キャロルは振り返って、すぐ後ろに控えているガルーダの顔をみた。鷲頭の表情は読みにくかったが、満足気で興奮しているようにも見えた。
「よくやった、キャロル。ヴィシュヌ様が我々にアムリタを与えてくださることになった。さっそく、ヴァルナ様とインドラ様に伝えよう。もう戦う必要はなくなったのだ」
キャロルは漠然とした疑問を口にすることが出来ず、黙ったままだった。
「キャロル、お前はラーフ様のところに戻り、このことを伝えるのだ。ラーフ様がヴァルナ様にお話しされるだろう。私はこのままインドラ様の元へ向かう。聞いているのか、キャロルよ」
「えぇ、聞いているわ。それで私の役目は終わりね。アパッチの燃料も残っているし帰り道もわかるわ。あなたの方はデーヴァ軍に近づけるの」
「心配はいらぬ。私とインドラ様は友の誓いを立てているのだ。インドラ様はアスラの言葉に耳を傾けずとも、私の言葉はお聞きくださる」
キャロルとガルーダは広間を戻っていった。ハヌマーンは見送りのつもりか二人の後をついてきたが、その間、ずっとしゃべり続けていた。
「この山を使って海をかき回すのか。それは見てみたいものだ。さぞ、凄烈な眺めだろうて。なぁ、人間の女よ。お前も見たことがなかろう。想像だに出来ぬだろう。ガルーダよ、いかに貴様でもヴィシュヌ様のお力の前にはひれ伏すしかあるまい」
二人ともハヌマーンに返答することなく、黙っていくつもの石柱の間をとおり、出口までたどり着いた。
愛機AH−64Dアパッチは忠実な愛犬のようにじっと主人を待っていた。
「じゃあ、ここからは別行動ね。ヴィシュヌの申し出をインドラもヴァルナも断ることはないだろうからラーフもやっと悩みから解放されるでしょう。じゃあ、鷲頭さんも猿の大将もこれでお別れね。どうせ私はアムリタが出来上がるところは見れないし、もうここにはもどらないでしょうから」
「お前のおかげだ。ラーフ様の思惑どおりだった。我々にはヴィシュヌ様は力は貸さなかったからな」
キャロルは肩をすくめて見せ、アパッチに向かって歩き出した。ガルーダとハヌマーンの視線を背中に感じていたが、もう振り返らなかった。
アパッチに近づいたとき、景色がゆがみ、青い壁が現れた。
視界を塞いだのはラーフ神だった。傷は治り腕も元通りになっていた。
「あら、ちょうど、あなたの話をしていたところよ。戦いは終わらせられるわよ」
キャロルは見上げていった。
「戦いが、最後の戦いが始まった」
ラーフの声には悲壮感がただよっていた。
「あなたは本当に心配性ね。もう神々がお互いを傷つけあうことはないの。これからは協力しあうのよ」
ラーフがしゃがみ込み、顔をキャロルに近づけた。
「そうではないのだ。キャロルよ。お前の、お前たちの戦争のことだ」
「どういうこと?」
「インド軍がパキスタンに向けて核ミサイルを発射した」
キャロルは想像すらしていなかった事態に絶句した。
「パキスタン軍もただちに報復の核ミサイルを発射したのだ」
うそだ。そう思ったが、神が嘘をつくはずも間違えるはずもなかった。
「私を人間界に戻して!」
キャロルは叫んだ。
「今戻っても、お前も死ぬだけだぞ」
いつの間にかガルーダとハヌマーンも側にいた。
「うるさい、早く、戻して!」ガルーダを睨みつけた。
「キャロルよ、お前のために、一度だけ力を貸してやろう」
キャロルは涙でラーフの顔もよく見えなかった。
「まだどちらの核弾頭も破裂も着弾もしていない。ガルーダを連れていけ。ガルーダがミサイルを防ぐだろう」
「俺も一緒に行こう」
キャロルは袖で涙をぬぐった。ぼやけていた視界が戻ってきた。
あたりには轟音が響いていた。耳になじんでいるアパッチのローター音だった。
キャロルはアパッチに乗り、空を飛んでいた。手に握る操縦桿は現実のものだった。
また目を擦った。戻ってきたのね。それとも夢を見ていただけなのかしら。
「時間がないぞ。それほど長くは時間の歩みを止められないのだ」
前部の射撃席にハヌマーンがいた。子猿ほどの大きさで座席の上で立ち上がり、キャロルを見ていた。
キャロルは切迫したラーフの顔を思い出した。
「お願い、ミサイルを止めて」
アパッチのパイロット席からはミサイルは見えないし、レーダーにも映っていなかった。だが、すぐ側を飛んでいるに違いなかった。
ホバリングしているアパッチの横を赤い影が通り過ぎていった。ガルーダがミサイルを追っていったのだ。
「核ミサイルをどうするの?」
キャロルは尋ねた。涙を拭きパイロット席に戻った時には、もうパニックは過ぎ去っていた。
「人間の作った兵器など、俺もガルーダも一飲みさ」
「爆発しても大丈夫なの?」
「いや、腹のなかで爆発はしないだろう。そのまま消し去るだけだ。たとえ爆発しても問題ない。俺とガルーダは不死なのだ」
「放射能は?」
「ハハハッ、人間よ。そんな取るに足らないものは神通の力により消し去ることができるのだ」
「へぇー。それは都合がいいわね。じゃぁ、ミサイルを食べ終わったら、戻ってきて頂戴」
ハヌマーンは姿を消した。ガルーダとハヌマーンはどちらが早く飛べるのだろうか。キャロルは、場違いな疑問が浮かんだことに笑みを浮かべた。
ここは最初にラーフと出会ったカシミール地方の戦闘地域だった。
「こちらKL1、キャロル・アシェム大尉。Sベース、隊長、聞こえますか?」
雑音が続いた後に返信が返ってきた。
「キャロルか? いままでどこに」
「そんなことより本気で我が軍もパキスタン軍も核ミサイルを発射したのですか?」
「あぁ、だが、双方、誤射と発表した。参謀長も更迭された。冷静さを取り戻したが遅すぎた。あと数秒後に核爆発が起きる」
キャロルは通信を切った。
アパッチでカシミールの空を飛んでいた。
戦争が激化し、州都も放棄された無人の土地だった。
こんな土地の奪い合いのために人は殺し合いをはじめ、挙句の果てに核ミサイル。人間は馬鹿だ。隣通しで核ミサイルの打ち合いをすればどうなるか、分かりきったことなのに。
いつまで待っても爆音も衝撃波もキノコ雲もなかった。
アパッチの横にガルーダが現れた。赤い体に翼を広げ並んで飛んでいる姿は勇猛だった。
消えた時と同じように突然、ハヌマーンも現れた。前部座席に立ちこちらに顔を向けている。
「終わったよ。第二弾、第三弾は来ないようだね」
「いずれ来るわ。しばらくないかも知れないけど、五年後か、十年後か、五十年後か、必ず戦争は始まるのよ。結局、奪い合いからは逃れられないのよ」
「じゃあ、俺たちは帰るよ。達者でな」
「ちょっと、待ってよ。あなたは私に借りがあるわよね。その借りを返して欲しいの」
「なんだ? 言ってみろ」
ハヌマーンは一瞬、眉を寄せたが目の奥を輝かせた。
「このあたりに放射線を撒いてくれないかしら。植物もしばらく育たないくらいに放射能で汚染してもらいたいのだけど」
「ちょっと、げっぷすればよいだけの簡単な話だが、なぜだ?」
「戒めのためよ。人類を滅ぼしかけた罪を忘れないための。そして戦争を終わらせるためよ」
「どういうことだ?」
「資源の取り合いが戦争の原因だったのよ。その資源がなくなれば争いも起こらないのよ。汚染された土地など誰も欲しがらないからね」
「うむ、分かった。もったいない気がするが、これで貸し借りなしだな」
ハヌマーンはアパッチの外に飛び出した。上空でホバリングするアパッチの下で巨大化した。そして地面に放射線を吐き続けた。
広い土地だったが、巨大化したハヌマーンはあっという間にこの土地を放射能まみれにした。
ガルーダが側に寄ってきた。
「こんなことをして構わないのか?」
「自然破壊は両国に影響を与えるでしょうね。でもそれは自業自得。払うべき高い授業料と思うしかないの」
「お前は大丈夫なのか?」
「私は狂人としてどこかに収容されるでしょうね。こんなことは誰も信じないから」
だが、キャロルにはなすべきことがまだ残っていた。
キャロルは操縦桿を倒しアパッチを前進させた。コレクティブレバーを操作し、夕日に向かって速度を上げた。
操縦席の窓ガラスがオレンジ色の光を反射していた。無人の大地の上空を轟音とともに戦闘ヘリが突き進んでいた。右後方には猿の姿をした神の戦士ハヌマーンが、そして左後方には鷲の頭と翼を持つ聖鳥ガルーダが後をついて翔んでいた。
「どこに向かっているのだ?」
「天界に戻るのよ」
「なんのために?」
「決まってるでしょ。戦いを終わらせるためよ」
「それならばもう問題はないだろう」
「大海攪拌では問題は解決しない。アムリタが手に入っても仲良く分け合うなんてことにはならない。また神々たちは争いを始めるわ」
「だったらどうするのだ」
「知れたことでしょ。戦いの原因、アムリタを奪い取るのよ」
ガルーダとハヌマーンは空中に静止した。
「何してるの? さっさと行くわよ」
半獣神たちは慌ててヘリの後を追いかけた。
キャロルは左右に英雄神を従えて大空を突き進んでいった。
(了)