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Flowers in My Eyes

作者: 松上遥

 人生で初めて恋をしたのは、学校みんなが憧れる高嶺の花。

べつだんほかの生徒と比べてのすごいオーラを放っているとか、いかにもプライドが高そうとか、そんなことは一切なくて。いっそそれっぽく振舞ってくれればこの気持ちを知らなくて済んだかもしれないのに、そう思うと愛しいはずの彼女らしさが憎らしくさえ思える。

 僕はそんなにロマンチストじゃないのに、彼女に恋をしたのにはなんともロマンチックな言い訳が存在する。あくまで現実派の、余分なものは映さずに生きてきた眼鏡に映ったのは、桜の木の下にいた彼女だった。それまで自分が見てきた何よりもきれいで、この世に生まれて初めて出会った美しさ。意味の分からない一目惚れ。まるで映画とか、小説の中の世界のようで。

 彼女の声を初めて耳にしたのは、その一目惚れから一つ季節が移った頃だった。うだるような暑さの中、まぶしいほどに白い腕をのぞかせる彼女は、人差指で僕の肩を突っついた。成績優秀才色兼備、そんなタイトルをとっくに総なめしていた彼女が僕みたいな奴に急に話しかけてくるから、周りにいた生徒たちはざわついた。もちろん、隅っこにしかいられないような、彼女と正反対な存在の僕の心も。

「あの、いまちょっといいですか?ちょっと聞きたいことがあって…」

こんな苔みたいな奴に聞きたいことってなんだ、と周りの誰か、それか、自分の心が囁いた。

 初めて聞いた声はあまりにもきれいで、可愛くて、でもそれだけじゃなくて、澄んでいて、ずっと聞いていたいと思わせるくらい魅力的な声。もっと聞きたい、なんて。

 下心の存在を認めつつ、彼女になんとか頷いてみせた。声は出せなかった。どうしようもない緊張のせいで。

 あろうことか高嶺の彼女は僕の手首をつかんでやさしく引っ張った。ずかずか廊下を進んでいく彼女と引かれるばかりの“メガネ”に、生徒たちは明らかにざわつきながらも道を空けた。そりゃそうだあたりまえなんだ。全力で俯いて早足で彼女についていく。こんな日の当たらない場所にしか生きていられなさそうな僕を、日の当たるところでしか生きてこなかったはずの彼女が手を引いていくなんて。

 彼女に触れられた手首が熱く、痺れてさえいるのかと思うくらいになったとき、やっと彼女は手を離してくれた。

 連れられたのは誰もいない空き教室のようなところで、あまりにも静かだった。同じ空間に彼女と二人きりでいるというのはそれまでの僕には考えられなかったにも程があるシチュエーションで、頬や耳がどうしようもなくあつくて、彼女の耳に届いてしまいそうなくらい心臓がはねてしかたなかった。彼女はそれに気づく気配もなく、僕にパイプ椅子に座るよう促した。彼女に声をかけられた時からなにも言えない僕とは正反対で、彼女はいきいきと話し始める。

「望月くん、いきなり連れ出してごめんなさい。今お時間大丈夫でしたか?」

僕はできる限り大きく頷いた。まともな声一つ出てくる気がしなかった。

 そのぎこちない反応を見て、彼女は「ありがとう」とほほ笑んだ。たとえそれは営業スマイルだったとしても、僕に向けられた初めての笑顔だった。

 彼女は僕と向き合うようにして椅子に座り、メモを手に取る。彼女の視界に自分が入ることすら先ほどまで考えられなかったのに、彼女と二人きりの部屋で、彼女と何かしらの話をすることになるなんて、一体どういう風の吹き回しなんだろう。もしかしたらこの部屋を出たら最後、強烈な不運が僕を包み込んで、奈落の底に突き落とすかもしれない。それでもいい、そんなことはどうでもいいとか思えるくらい、僕はその空間で息をするのに必死だった。

「あなたに聞きたいことがあります。が…その前に、ここがどこだかわかる?望月くん」

彼女の澄んだ瞳が僕をとらえる。吸い込まれそうな瞳から何とか逃れて、見覚えのない部屋を見渡した。視聴覚室にありそうな白い長机、その上には紙やペン、ときどきコンピュータ。周りには印刷機や本棚、模造紙なんかが置いてある。部屋はどちらかといえば狭くて、学校の授業で使えそうなスペースには思えない。

「…わからないです」

絞りだしたかすれかけの声を彼女は拾って、「そうだよね」と軽く笑って見せる。

「ここはね、今年できた文芸部の部室。あなたが知らないのは無理ないよ、だってたった二人の部員以外、だぁれもしらないもん」

彼女の砕けた話し方を聞いたのはその時が初めてだった。そもそもついさっき初めて声を聞いたわけだけれど。

僕は何とかそっか、と返した。一度出してしまえば声はすんなり出てくれて、彼女の表情もその時に何だか柔らかくなってくれた気がして、ほっとした。

「でね、何となく察しがついたと思うけど」

いいえ、頭が回らなくてさっぱりです。

「私は文芸部員として、小説を書くの」

なるほど、やっぱり君は何でもできる才女というわけだ。

「でね、私はいつもおはなしを作るとき、モデルが必要なの」

よく聞く話だ。小説家がいろんなところに取材に行って物語を作るのは、たびたび耳にする。

「そして、望月くん。あなたに、私の描く小説の主人公になってほしいの」

そうか、それで僕のことをここに…って、

「え?」

こんな苔みたいな、日陰で生きてきた僕なんかにそれを頼むの?メガネで、ひょろっちくて、猫背で、彼女に執着される理由が見当たらない僕なんかに。

「なんで僕なの?」

すんなり出てきた自然な疑問に、彼女は落ち着いた様子でメモに目を通す。

「今度描きたい物語、私が得意としているジャンルの主人公じゃいまいちで。悩んでた時、もう一人の部員があなたのことを教えてくれたんだ。失礼ながらここ数日あなたのことを見させてもらって、やっぱりあなたがぴったりだって思っちゃって…それでつい、つれてきちゃった」

えへへ、と恥ずかしそうな顔。早口で話し続けたせいか、その頬は少しだけ桃色に染まっている。きっとこのことになると言葉が出てきてたまらないのだろう。みんなに憧れられる彼女にも、やっぱりそういう夢中になれることがあるのだ。

息を一つ吸って、「ごめんなさいっ」と、彼女は可愛らしく手のひらを合わせてみせた。そんな仕草で君に言い寄られて、許さない男がこの世にいないことを知っているのかな…そう思うのは、君に心から惚れ切ってしまった僕だけかもしれないけれど。

「いいよ、でも、なんで僕みたいな人なのか知りたい、です」

上がりっぱなしの心拍数は悪戯に僕の声を止めたり、動かしたりする。ああ、彼女の前でこんなにぎこちない話し方をしたくないのに。それに気づいてか気づかずか、彼女は視線をふいと逸らす。

「ほんとうに?」

期待の込められた声。

「ほんとうだよ。できるかぎり、期待にはお答えしたいし…」

彼女はまた僕の目をとらえる。もう逃げられないように、しっかりと。

「言ったね、やくそくだよ」

わたしたちのやくそく。

 彼女の細長い小指に、自分の小指を絡める。

 心臓がおかしくなったのかと思うくらい、はねてたまらなかった。


 彼女はホワイトボードを引っ張り出してきて、勢いよく黒のマッキーを走らせる。夢中で三行ほどの文章を書いて、ばん、と大きな音を立ててボードを叩く。手についたインクも気にしないで、彼女は口を開く。

「あのね、私の描く話には君みたいな人が必要なの」

「もう少しわかりやすくお願いします」

「あなたみたいに魅力的で、誰にも演じることのできないミステリアスさを兼ね備えた男子高校生は他にいないの。この学校にも、私の描く小説の中にも」

…それはちょっと、いや大分かいかぶってるんじゃないか。

 僕が何も言い返せずに座っていると、彼女はふふ、と笑ってみせる。ここで断ることは許さなさそうな、自身に満ち溢れた瞳。

「ほんとうですか?」

「嘘はつかないよ、あなたは本当に魅力的なひとなの。自覚がないのもあなたらしい、やっぱりあなたにしかできない…部長の目はやっぱりすごい」

自信たっぷりのそれは恍惚そうな瞳にかわる。

もう逃げられないよ、その声は実際に彼女の口から発せられたのか否かはわからない。

 彼女は椅子に座りなおして、メモのページをぱらぱらと捲る。

「一度してみたかったの、インタビューってやつ」

 彼女の雰囲気はもとのふわりとした、柔らかいものに戻る。

「長くなるよ、あなたに聞きたかったことはたくさんあるの」

 望むところだよ、となんとか絞り出すと、彼女はとびきりの笑顔を見せた。

 やくそく、したもんね。


 それからかれこれ二時間ほど、僕は放課後の時間を彼女に拘束された。あなたの好きな食べ物はなに、好きな教科はなに、部活ではどんな活動をしているの…そんな基本的なところから、

 好きな女の子のタイプは?

 初恋はいつ?

 身体や心がおかしくなるくらい情熱的な恋をしたことはある?

 だんだん踏み込んだ質問になっていく。恋愛観とか、結婚観とか、心の底にあるかどうかもわからないものをほじくり返されて無理矢理吐かされた感じ。僕の回答を聞くたび彼女は満足げな顔をしたり、驚いてみせたりした。ここまでくるくる変わる高嶺の花を見たのは、もしかしたら学校で僕だけかもしれない。いつも笑顔で器用に振舞ってみせる彼女が、ここまで豊富な表情を見せるのはいろんな意味で心臓に悪かった。

 僕が彼女に惚れていることを彼女はもちろん知らない。高嶺の花への無謀すぎる恋なんて、その花が知るべき意味なんてないんだから。好きな人は目の前のあなたです、初恋は桜の木の下、あなたを目にしたそのときから。そんなに素直に言えるわけもなく、嘘に嘘を積み重ねる。いま好きな人はいません。初恋はあったのかさえ覚えていません。からだやこころがおかしくなるくらいの恋なんて、経験するかもしれないのはまだまだ先の話で。

 本音を隠し続けて質疑応答を続けて、やっと彼女はメモ帳を閉じた。

「これが最後の質問です、望月くん」

まっすぐな瞳が僕を射抜こうとする。

「あなた、嘘が下手だね?」

彼女の口角は上がらない。初めて見た、何の感情も読み取らせない顔。

「最初の方は下調べ通りの本当のことを教えてくれたけど、後半は嘘だよね。調べてなくたって分かるよ、目が違うもの」

ああ、彼女は何でもできるんだなあ。その澄んだ瞳にはきっと、僕には見えないものがたくさん移っているんだろう。

「ねえ、本当のことを教えて。私はあなたのことを知りたい」

真剣な声色。ほんとうのことなんて、一番目の前の君に言えるわけがないのに。

 彼女は深く溜息をついた。呆れたわけでも落ち込むわけでもなく、彼女は再び口を開く。

「ここまでは想定済みだよ。初対面の相手に緊張して、深い質問に答えづらいのは当たり前」

彼女はメモ帳を閉じる。夏の空はまだ明るかったが、とっくに午後の五時を回っていた。

「わかった、私の友達になってよ。望月くん」

今度は指ではなく、手が差し出される。綺麗な手。何でも器用にやりこなしてしまう、僕のとは正反対の手。

 僕は彼女の手を取った。果たしてそれだけで僕は、彼女の友達になれたのだろうか。まったく違う人種の二人が、握手ひとつで仲良くなれるものだろうか。彼女はスマートフォンを取り出して、ラインを無理矢理追加させる。桃色の花の写真のアイコンに、“かづき”という名前。なんだかまた彼女の知らない一面を知れた気がした。

「ね、私のこと名前で呼んで。あなた今まで一度も、私のことを呼んでくれてない」

彼女は机からルーズリーフを一枚引っ張り出して、ボールペンを走らせる。

「私の名前、別のクラスだし知らないっけ」

小声のごめんとともに渡されたのは、彼女の名前が書かれた紙。“望月華月”…知ってるよ、君の名前なんて、とっくに調べたんだから。

 だけど、彼女が名前呼びを希望する理由はその時にやっと分かった。

「名前で呼ばないとわからないよね…同じ苗字だし」

彼女は笑った。この辺りは望月さん多いもんね、と。望月のせいで名前に月が二つも入ってるんだよ、とも。

「じゃあ、あなたの名前も書いてくれる?望月くん」

そっか、もちろん君は僕の名前を知らないんだね。当たり前だよね、僕みたいな人が君の名前を知ったって、君が僕の名前を知っているわけじゃないんだから。

 彼女のペンを借りて自分の名前を書きつける。彼女はそわそわしながらそれを待っている。彼女に書いた紙を差し出すと、彼女はゆっくりとそれを読み上げた。

「望月、晴稀…はるき、でいいよね」

僕は頷いた。僕の名前を彼女が呼んでくれる日が来るなんて、思ってもみなかった。

「晴稀くんっ、ほら、私の名前呼んで?」

「…華月、さん」

「あはは、何照れてるの、耳赤いよ?」

本当に彼女は他人のことを良く見ている。本当に彼女には僕にできない色んなことができる。けれど重要なところでどうしようもなく鈍感らしい。それが唯一僕の気づけた、でも最大の彼女の欠点だった。

 その後すぐ彼女は僕を解放してくれた。教室から出ると少しだけ涼しい空気が自分の熱い頬を撫でた。運動部のランニングの声を背に、渡り廊下を全力で駆けていく。夏の暑さを思い出したように、頬はまたすぐに熱くなる。これならきっと、この赤い頬は暑さのせいにできるはず。静まり返った教室に入って荷物をまとめて、すぐに教室を出た。駅に向かって歩いていく途中で、彼女からラインが入った。

『晴稀くん、今週末のどっちかを私にくれませんか?』

流石文芸部、独特の言い回しだけれど、きっとそれが「会わせてくれ」という依頼に繋がるのは僕にでも考えられる。彼女は僕なんかに興味津々で、もっと仲良くなりたいとか、綺麗なものしか知らない頭でわくわくしているんだろう。

『土曜日ならいいですよ』、立ち止まってそう返信すると、すぐに既読のマークがつく。思わず「はやっ」と漏らした時にはもう可愛らしいくまのスタンプが到着していた。



 彼のいた余韻が消え切らないうちに、三年生の部長が部室にやって来た。ついさっきまで勉強でもしていたんだろう、短い髪はいつにも増してぼさぼさで、目は半分くらいしか開いていない。

「華月さん、あの男子はどうだった?僕の検討は当たってたかな」

「はい、完璧です!やっぱり瀬戸口部長はすごいです、私も見習わないと」

「あはは、後輩に思いっきり褒められて嬉しいなあ…後輩がいてくれるだけで十分嬉しいのに」

 部長はいつもの席に腰を下ろす。古い椅子はぎしっと音を立てる。この空間にいる二人で文芸部の部員は全員。三年生で引退の近い部長に春熱烈な勧誘を受けて、中学生のころからこっそり物語を作るのが好きだった私はすぐに入部を決めた。周りのひとたちに「華月ちゃんみたいなキラキラした子が文芸部に入るなんて」とか散々に言われたけれど、結局一ミリも迷うことなく入部届を出した。

 部長はパソコンを立ち上げて、ワードのファイルを開く。今年の文化祭で配る冊子に載せる予定の小説を描くためだ。本来この部活では三年生は文化祭前に引退し、配布する冊子に作品を載せなくてもいいことになっているらしいのだが、さすがに今年は部長の作品がなければ私一人のうすっぺらな冊子になってしまうから見かねた部長は忙しい合間を縫って作品を描いてくれる。「僕が誘ったからね」と笑顔で請け負ってくれる部長は最高にかっこいい。

「ねえ華月さん、彼を主人公にしてどんな話を描くの?」

 部長が手を休めて聞いてくる。私はメモ帳を手に取り、ピンク色の付箋のあるところを開く。一週間前に買ったのにもうぼろぼろで、まるで何年も使っているみたいな見た目だ。

「青春恋愛ものです。あんまり普段は描かないんですけど、今にしか描けないかないようなことを描きたくって。せっかく今青春を過ごしてるから…」

「で、なんで彼みたいな人が欲しかったのかな。他にも使えそうな人はいたと思うんだけど」

「え、そうですかね…私にはもうあの人しか考えられないです。他のどんな可愛い女の子も、肌の黒い漢気のある男の子も、彼には敵いませんよ」

「そっか…まあよかった」

部長は眼鏡を掛けなおして、作業に戻る。静かな部屋にキーボードが叩かれる音だけが響く。私はスマートフォンを開いて、先ほど追加したばかりのアカウントにメッセージを送る。

「ふふ、ぎこちないの」

不意に漏れた言葉。部長は聞こえないふりをしてくれた。



 彼女はいったい何を考えているんだろう、僕みたいな男に、夜眠る時間になってから電話をかけてくるなんて。

『あー、出てくれたっ!ありがとう、もしもしー』

 色々逆なところはあるが、燥ぐ声が可愛いので何かを許してしまう。

『ねえ、土曜日!朝八時学校の近くのあの大きい桜の木のところに集合ねっ!』

 …えっと。

『一日デートをするのです。えっとお金はいらないよ、私が出します!無理矢理連れ出すわけだし、その辺の責任は…』

 そこじゃないんだよ華月さん、君は本当に鈍感だね。

『とにかくよろしくね!楽しみにしてるっ!』

 おやすみなさい、と通話は切り上げられる。その一言で、胸に何か重いものが溶けていく初めての感覚。ぞわり、だけど嫌じゃない感覚が僕を包む。なんだ、なんでこんな当たり前の挨拶に、計り知れないほどの破壊力があるんだろう。

 切られた通話のあとの周りの空気が、静かすぎて落ち着けない。ああもう、こんなに乱されるなんて…



 それから学校の廊下ですれ違うたび、彼女は必ずとびきりの笑顔で会釈をしてくる。彼女と一緒にいるクラスメイトは僕と彼女を見比べて、ぎょっとした目をしてみせる。そりゃそうだ、僕も同じ目をしているんだから。

 僕に刺さる目線は痛い方がいっそ楽なのに、“不思議”でしかないのが逆に苦しい。週末を迎えるまでの二日間、僕はただただふわふわと変な気分で過ごしていた。たくさんの人たちの中で、彼女だけがすぐに目につく。目につくたびに胸のあたりが締め付けられる。前から彼女のことを見つけるのが早かったのだけれど、なんだかデートのお誘い以降もっとそれが早くなった気がした。ふわふわ以上に不思議な感覚。じわじわ、ぞわぞわ、ちくちく、いろんな感覚が僕を襲った。ああ、もうおかしくなってしまいそう…

 そうしてとうとう土曜日になってしまった。それまでになんとか一番まともに見える服を選んで、財布にはなるべく多めのお金を入れておいて、スニーカーの洗濯までしておいた。他人が見れば、きっと彼女が見たって呆れるだろうけれど、それほど僕の一目惚れの想いは大きかったのだ。だから許してほしい。

 桜の木の下で待ち合わせ、というのは偶然か運命かわからない。彼女はどこまで僕の心を見通しているのか、いや鈍感だからきっとただの偶然だろうとか。

 待ち合わせの20分前に来たはずなのに、彼女はもうその木の下にいた。ノースリーブの白いワンピースに水色のポシェットを下げて、木を囲むベンチに座って文庫本を読んでいた。高校生にしては完璧すぎる。何が完璧かはあんまりよくわからないけれど、とにかくすべてにおいて完璧のラベルが貼られていた。一目惚れしたその場所にある木は、今度は桃色の花びらではなく深緑の葉に埋め尽くされていた。

 ねえ、僕は君に何度惚れればいいの?

 また胸がきつく締め付けられて、もうどうしようもないくらい。

「あっ、おはよう晴稀くん!早いねえ」

 彼女のはじけるような笑顔。言葉で表せないくらい、どうしようもないくらい、愛しくておかしくなりそうで。

「か、華月さんも早いね、いつからここにいるの?」

彼女は本にしおりを挟み、ポシェットにしまう。

「一時間くらい前からだよ」

「なんでそんな前から」

えへへ、と彼女は笑う。「ここが好きなの。高校に入った時からずっと」

 そっか、だからあの日もここにいたんだね。

「どんな本読んでたの?」

僕のぎこちない質問に、彼女は笑顔で答える。

「恋愛ものだよ、勉強の一環だけどね」

「べんきょう?」

「うーんと、小説を描くための勉強。恋愛小説にはそれ特有の、独特の表現とか、雰囲気とか、たくさんあるから…そういえば晴稀くん、本とか読む?」

「本はね…ちょくちょく読むよ」

僕はベンチに腰を下ろす。彼女と目線の高さが同じになる。…こんなのなんだか、恋人同士みたいだ。

「どんなジャンルの本を読むの?」

興味津々な彼女の顔。今はこの顔は独り占め。

「んーと、科学に関するものとか、ミステリーものとかが昔から好きだよ」

「そうなんだぁ、なるほど」

そう言いつつ彼女は光の速さでポシェットからメモ帳とボールペンを取り出して、ペンを走らせる。

「え?なんでメモ?なんで?え?」

僕が混乱していると、すぐにメモを取り終わった彼女は笑顔で答える。

「私は、あなたのことを知りたいの、晴稀くん。だからね、おねがい、今日一日あなたを観察させて…」

ね?潤んだ目が僕を見つめる。僕が君の可愛らしいお願いを聞かないわけがないのに。ねえ、そのことを君は知ってるの?どこまで君は分かっているの?

「いいよ、やくそくだもんね」

「うんっ!」

一つにまとめられた長い髪が揺れる。その謎の色っぽさは策略か無意識か。

 彼女はメモ帳を手にしたまま、勢いよく立ち上がる。

「さあ出発です晴稀くん!今日一日よろしくね!」

差し出された彼女の手を握る。また胸のあたりが締め付けられる。この感覚をこのあと何回味わえばいいんだろう。考えるだけでも恐ろしくて、知りたくもない。だけど早く味わいたい。

 こんな気持ちは初めてだった。もう二度と引き返せない道に、一歩踏み入れたような気持ち。


「まあまだどこのお店も空いてないから、まずはこの辺りの散歩をしつつ取材を進めるのです」と、彼女は桜の木のある坂を下りながら話した。この長い坂を上に行くと自分たちが通う高校があって、下には最近作られた広い公園、その向こうにおしゃれな繁華街がひろがっている。きっと彼女はそのあたりでデートを繰り広げるつもりなのだろう。

「まず一つ目の質問!」

彼女は人差指を立てる。

「今日は何時に起きて、準備にどれだけの時間をかけたの?」

「そこかあ…それ聞くかあ…」

思わず出た言葉にさえ彼女は耳を傾ける。歩きながら残された走り書きの言葉は“明らかに素で困る”。

「え、えぇ…」

「えへへ、聞かれたくなかったのかな?」

いたずらっぽい笑み。「やくそく、したよね?」とかいう決め台詞。

「今日は…六時に起きて、準備には一時間弱位かけました…」

ほうほう、と彼女はメモを取る。

「結構長めだね、女の子みたいにメイクとかも必要ないのに?」

彼女が質問を重ねる。興味津々、そんな瞳で僕を見つめる。

 …君は、卑怯だ。

「そう、だけど。緊張してたから…してるからっ、準備にどうしても…時間が必要で」

僕はたまらなくなって、足元を見つめた。彼女がどんな反応をしているかなんて知りたくない。恥ずかしくて、なんだか、なぜか悔しくて仕方なかった。

 彼女は再び質問をするでもなく、黙ってただ足を動かしていた。その手がメモを取っていたのかどうかはわからない。しばらく歩いて、その坂の傾きが緩やかになったとき、彼女が口を開いた。

「晴稀くん」

彼女が僕の名前を呼ぶ。その声が体の中にじわりと響く。

「いまも、緊張してる?」

そんなの当たり前だ、君は鈍感にもほどがある。大切なことは見落として、他のところは何でも見通してしまうんだ。なんでかな、僕は君に勝てる気がしない。

「…してる」

そ、っか。

たぶん、ペンがメモの上を走る音が聞こえた。

気づけば僕たちは、坂の下にある公園についていた。彼女は僕の半歩前を歩いていく。かすかに見覚えのある公園の中、彼女は中心の広場に向かって歩いていく。広場に着いて、彼女は花壇の前にあるベンチに腰を下ろした。僕にもそうするように促す。僕が座ると、彼女は不服そうな顔をした。

「遠いよ、晴稀くん」

僕と彼女の距離は30センチ物差しが一つ分ほど。遠くにある可愛らしいふくれっ面。

「…はい」なんとかす少しだけ距離を詰める。間に入るのは僕の手一つ。

「よくできました」

彼女は満足げに微笑んだ。そしてまたメモに何かを書きつける。書き終わると彼女は顔を上げて、僕の目をまっすぐに見つめる。彼女は澄んだ瞳で、僕の目をよく見る。まるで肉食動物が、草食動物を狙うみたいに。

不意に、僕の手に何かがふわりと載せられた。

「こういうのは、初めて?」

 僕の手に重ねられたのは、彼女の手。

 何でもできる、綺麗なものしか掴んでこなかっただろう、きめ細かくてなめらかな手。

「…初めて」

 彼女はそれを聞くと、視線を正面に移す。目の前の花壇に咲き誇る夏の花を眺めていた。僕の心臓がはねて仕方ないのに、まるで気づきもしない彼女。

 彼女には勝てるはずがない。きっと一人の人間としての、経験値の差がありすぎるんだ。


それからしばらくそうしていた。汗ばむ僕の手を包む彼女の手は、ずっと重ねられたままだった。彼女は景色を見つめて、ときどき僕に話しかけた。

「晴稀くん、目はどのくらい悪いの?」

「とっても。これがなきゃ何にも見えないくらい」

 …そういうのも、小説の主人公に反映されるのかな。

「どんな女の子がタイプなの?」

「…さあ、よくわからない」

「あー、ぼかしたぁ」

 …そんな、好きなタイプなんて。僕には君のことしか考えられないのに。

「いじわる」

「えへへ、意地悪ですよーだ」

そうやって話して、僕の緊張が麻痺してしまったのかと思うころに、やっと彼女は立ち上がる。僕もそれに倣って立ち上がって、離された手の汗をズボンですぐに拭う。彼女はポシェットを肩にかけて、またすぐに僕の右手を取る。

「出発のお時間になりました、行こっか」

意地悪で、どうしようもなく可愛くて、逆らえない彼女についていく。彼女と僕の取材の旅は、これからが本番なのだ。


 彼女が最初に向かったのは、文字通りの“おしゃれなカフェ”だった。

「デートっぽいデートでしょ、やっぱりこうでなくっちゃ。あ、キャラメルフラペチーノのショートのホイップ多めと、いちごのパンケーキをください。ほら晴稀くん、注文」

「えっと、カフェラテの…中くらいのサイズを一つください」

「アイスとホットどちらにいたしますか」

「え、ええと…アイスで」

「1260円になります」

「あ、えと」

「はい、このポイントカードもおねがいしますっ」

「か、華月さん、いいよ、」

「1260円丁度頂きました、レシートになります。あちらのランプの下でお待ちください」

「はーい」

 お盆を手に軽快に階段を上っていく彼女に後ろからついていく。このようなおしゃれな人たちが来るような場所は初めてで、上の階に広がるおしゃれな空間にあるテーブルや椅子、窓から見える街並みにお洒落としか言いようのないインテリア。僕には縁遠い筈の空間。

 彼女は二人用のテーブル席に着き、僕を手招きする。困った顔をしている僕に苦笑い。僕が席に着くと彼女はカフェラテを差し出す。

「ねえ、お金払うよ。流石に…」

「いいよ、だって私が連れてきたんだもん。私がしたくてやってることなだし、ね」

でも、と言い返す僕をスルーして、彼女は「いただきますっ」と手を合わせる。ナイフとフォークで一口分の生地を切って、ホイップクリームをつけて口に運ぶ。

「んー、おいしーっ」

「そんなのもあるんだね、カフェって」

「え?晴稀くん、こういうカフェに来るのは初めて?」

「うん。僕のような人間はあんまり、こういうところには来ないよ」

「へえ、そうなんだ」

彼女はまたパンケーキを口に運ぶ。そしてまたその味に喜んでみせる。これなら店員さんも働き甲斐があるだろう。

 僕はカフェラテを飲みながら、彼女がおいしそうにパンケーキを食べていくのをぼんやり見ていた。ひんやりと涼しいエアコンの風が彼女の前髪をときどき揺らす。

 油断していると、視界をカラフルな物体が覆っていた。声も出せず驚いていると、彼女は言った。

「はい、あーん」

え、なにそれ。

「ほーら、周りに人そんないないし。いいでしょ?」

いや、いいでしょじゃなくて。躊躇う理由が多すぎる。君は気にしないの?何とも思ってない男の子に間接キスとか、いや、それ以上にあーんとかそんなの。まるでそんなの、まるで…

「かづき、さん」

「なぁに?」

首をかしげる姿は、きっと天然のもの。

「あなたがどんな反応をするのか知りたいの、ね?」

「…はい」

 仕方ない。これは不可抗力なんだから。

 意を決して、フルーツが載ったパンケーキを口にする。

「どう?」

彼女のわくわく顔。初めて声を聞いてから数日で、こんないろんな表情を見ることができるなんて。

「…おいしい」

「お世辞じゃない?」

「ううん、初めて食べた、こんなに甘くて、ふわふわしたパンケーキ」

「うん、うーん…待って、メモとるから今の言葉」

「えぇ…」

彼女が開いたページには、もうびっしりと、たくさんの文字が書き込まれていた。そこにある台詞なんかから紡がれるのは一体どんなキャラクターなのだろう。いくら僕に似ていたって、彼女に創られるんだからきっと彼の方が幸せなんだろうな、なんて考えたりした。

 彼女はパンケーキをぺろりと平らげて、ホイップクリームがたくさん載った飲み物も残さなかった。女の子らしい細い体格からは考えられないくらい、いい食べっぷりを見せた。彼女は僕に何度もパンケーキを食べさせてきて、デジタルカメラでときどき僕の写真を撮った。「男の子が何か食べてるのっていいよねー」というのは、「男の子」の僕には理解しかねる。

 そのあとカフェを出て、彼女はおしゃれな街にずかずかと足を踏み入れていった。僕には縁遠い世界。けれど彼女はもうその街の一部になったかのように、すいすいと歩いていく。僕だけが切り取られてしまいそうなのを、彼女は手を掴んで離さないでいてくれる。

 レンガの上を、彼女はパンプスでこつこつと歩いていく。ずっと俯いて歩く視界には、ネイビーの踵だけがうつっている。しばらく、とは感じてもほんのちょっとの距離だっただろうか、僕と彼女はショッピングモールに入っていく。そのままついていくと、僕はどこかの服屋さんに迷い込んでいた。視線を上げるとそこには勿論たくさんの服が並べられていて、男性用の服と、女性用の服が同時に目に入った。僕が初めて来るような店。

「ねえ晴稀くん、あなたが女の子に洋服をプレゼントするとしたら、どんなのを選ぶ?」

「え、どんなの、って…」

「そうだね、どんな女の子かにもよるよね…」

いや、そこじゃない。問題は決してそこじゃない。

「じゃあいいや、今目の前にいる私のコーディネートをして、晴稀くん」

これも取材の一環なの、お願い。彼女が両手を合わせる。

「…わかった」

 とりあえずカラフルな、可愛らしい服が並んでいるところに移動する。そこにはスポーツをやりそうな人が着がちなトレーナーや、男女でお揃いにできそうなパーカーから、女子が好きそうな可愛い服や小物まで並べられていた。

 鼻歌を歌いながらご機嫌でアクセサリーを眺める彼女を振り返る。

「ねえ、華月さんがどんな系統の服が好きかだけでも僕に教えてよ。このくらいなら聞くんじゃないかな、実際何かを僕がプレゼントするとしたら」

彼女はふぅん、と漏らす。

「なかなかねえ、いいよ、教えてあげます」

彼女は店内を見まわす。少しして、苦笑いとともに答えた。

「ごめん、どんなジャンルも好きだなあ、ここにあるのなら」

「…わかった」

どんなジャンルでも、綺麗な君には似合いそうだけれど。

 彼女が帽子をかぶったりとったりしている後ろで、僕は人生で初めて他の人の服を選んだ。


「華月さん、選んだよ」

僕の手の中にある布数枚を見て、彼女はまたふぅん、と漏らす。

「ありがとう、ちょっと貸して」

彼女は僕の手から服を取る。そしてそれを持って、店員さんに何か話しかける。そのまま店員さんに案内されて、彼女は店内にある小さな部屋に入る。…え?

 戸惑う僕に気づいた彼女は上手にウインクを決めてみせる。彼女は「試着室」と書かれているプレートのある個室に入ってしまった。

 五分ほどして、試着室の扉が開いた。

「晴稀くん」、彼女が少し開いた扉の隙間から手招きをする。近寄ると、扉の隙間に僕の選んだ服を着ている彼女がいた。

「えへへ、晴稀くんはセンスがいいねえ」

「そう…なのかな」

彼女が着ているのは、レースと花の模様のついた桃色の、なんだかよくわからないけれどふわふわしたトップスと、明るめの紺色のショートパンツ。カジュアルなものも似合いそうだけれど、彼女の長い髪にはいかにも女の子らしい服が似合うと思った。…自分の好みかもしれないけれど。

「ねえ、私に靴を選んでみてよ」

「え?靴?」

「うん、靴がないとコーディネートは完成しないよ?」

僕は仕方なく靴が並べられているところへ向かう。カラフルだったりいろんな柄がついていたりするスニーカーが多かったが、やっぱり彼女に似合う(と僕が思う)のは…

「あら、パンプス好きなの?晴稀くん」

「へえ、これもパンプスっていうんだ」

彼女は試着室で白い、レースなどの装飾がたくさんついているパンプスを手に取る。さっそくそれに足を入れてみて、試着室の近くをくるりと歩く。

「おー、ぴったり」「それはよかった」「じゃあ店員さん、これ着て帰りたいです!」

…えぇ?

 彼女は店員さんとレジに向かう。僕はそれをただ立ち尽くして見ていた。

 会計を済ませると、彼女は僕のところにやって来て呼びかける。

「気に入ったから買っちゃった、えへへ」

えへへじゃないでしょ、買うなんて言ってなかったじゃないか…

 僕の不満げな心の声が聞こえたのか、彼女は店を出ながら話す。

「晴稀くんの好みがよくわかったよ、参考にするために買います、っていうのは建前なんだけど…」

彼女は少しだけ俯いて、恥ずかしそうに話す。

「これは私事だけど、男の子に服選んでもらうって、そうそうないじゃない?」

嬉しかったの…わがまま聞いてくれてありがとね

 僕はぶっきらぼうに「どういたしまして」と返す。その言葉に対して彼女がどんな表情になったのかは、知らない。

 時々出てくる照れた表情の破壊力は、あとで一人になったときに食らおうと思う。


 その後も彼女に引っ張られて、おしゃれなレストランで昼食をとったり、プリクラというものを撮ったりした。どこもそれまで踏み入れたことのないところだった。そのあと街をふらふら歩いていたらだんだん暑さも和らいできて、彼女は朝にいた公園に戻ろうと切り出した。

 公園の、今度は噴水のある広場のベンチに座った。噴水の周りで小さい子供たちが遊んでいたり、ときどき噴水の中に入ったりしていた。

「ねえ、」

彼女が不意に口を開く。

「今日は、楽しかった?」

ああ、その言い方はもうこれが最後になるってことかな。

「うん、楽しかった」

「ほんと?」

「うん。こんなに疲れるまで街を満喫したのは初めてだし」

街に溶け込む君を、一歩後ろからだったが見ているのはとても楽しかった。

「そっか、いいことしたかな」

「そうだね」

彼女はまた僕の手に手を重ねる。

「私に協力してくれてありがとう。いい小説が描けそうだよ」

彼女の髪が風に揺れる。その動きの一つ一つが、僕の心をどうしようもなく刺激する。

 僕は最初から最後まで、君に振り回されてばかりだったね。



 彼女による「取材」から、ひとつ季節が移った。

僕の通う高校では毎年11月に文化祭が開かれる。文化部は展示やパフォーマンスなんかを披露し、三年生はクラスごとにカフェや映画製作なんかをしたりする。

 僕は部活には入っていないので、同じように部活に入っていない友達と回っていた。割とこういうのは参加者としているだけでも楽しいもので、普段隅っこで黙って本を読んでいるようなやつでも暇にならないのだ。

 化学部の体験教室のようなもので作ったスライムを割りばしでぶすぶす潰していると、不意に前の方から呼びかけられる。

「こんにちは、文芸部ですっ」

見上げると、なぜかメイド服に身を包んだ華月さんがいた。手にしている籠の中にはたくさんの、紙のまとめられたものが入れられている。その中から一つを取り出して、僕のスライムの上に差し出してくる。

「ご主人様、これもらってくれますか?」

「それは…メイド?」

「そうです、こうやってご主人様とお嬢様たちに部誌をもらっていただくのです!」

彼女はえへへ、とはにかむ。僕と友達が部誌を受け取って唖然としている間にも、彼女は周りを歩く生徒や小さい子や、大人の人たちにも部誌と笑顔を振りまいていく。ときどき学生たちに求められる写真にも笑顔で応じてみせる。なんだこの空間。

「ご主人様、お嬢様、展示もあるのでぜひ来てくださいね!」

僕にちらりとその視線が向けられたのは、多分気のせいじゃない。


 友達とそのメイドの後についていき、校舎の三階にある教室に入る。教室は真ん中で半分に分けられていて、後ろ半分はパソコン部が利用していた。こうやって分けないと部屋が無人になってしまうのだと彼女は教えてくれた。文芸部の場所には黒板や壁にいろいろな展示がされてあった。僕がそれを見ていると彼女は席に座るように促して、言った。

「ねえ、あなたにはすぐ小説を読んでほしいの…いいかな」

そんなこと、僕が断わるわけがないって分かっているのに君は言う。

「あなたをモデルにした作品の名前はね、」と小声で耳打ちする彼女。そんなの駄目押しだ。

 僕が部誌を開いたのを確認して、彼女はまた部誌を振りまきに廊下に出ていく。彼女のよく通る声が響く。

 目次で彼女の名前のあるところを見ると、いくつもの作品の題名が並んでいた。その中に、彼女が教えてくれた「Bouquet in Glass」という題名がある。

 その作品のページを開くと、当たり前だがそこにはびっしりと文字が印刷されていた。この文章を彼女がすべて作ったんだと思うと、なんだか今自分が手にしているものがものすごいもののように思える…まあ実際ものすごいものなのだけれど。

 何だか変に緊張した。

でも、そこから逃げようとは思わなかった。



Bouquet in Glass

~Prologue~

望月華月

 

 人生で初めて恋をしたのは、隣のクラスの大人しい男の子。

 地味なわけでも引っ込み思案なわけでもなくて、その優しい笑顔は私の心をきつく締め付ける。いっそ私より上手だと思って振舞ってくれればこの高鳴りは少しはましなのに、そう思うと愛しいはずの彼らしさが憎らしくさえ思える。

 私はそんなに素直な女の子じゃないのに、彼に恋をしたのにはなんとも可愛らしい、普通の女の子みたいなエピソードがある。翳んだモノクロの世界の中に現れたのは、桜の花びらの中にいた彼だった。それまで自分が見てきた何よりもきれいで、汚れることをしらないかのような美しさ。まるで絵画とか、芸術作品の様に鮮やかで。

そのときすぐに分かってしまった。私がいつか彼の、純粋な瞳を見てしまったら、私はきっと恋に落ちてしまうということを。変に心が波打ってしまって、知らない感覚で、怖くて、知りたくなくて、気にしたくない、それでもなぜか身体が無意識に求めるその感覚に、私は手を伸ばした。

想いのままに伸ばした手は、ちょんと指先だけで彼を捕まえる。

 私の心と同じように戸惑う彼。戸惑いながらのお互いの声が、一番に聞いた声。眼鏡の内側に自分の想いを隠そうと必死で仕方ない、素直すぎる声。初めての感覚を運んでくる声。

 私は彼と一緒にいるためのやくそくをした。口実に近いやくそく。ちょっとだけ、だけどそれは最初の嘘。指切りをしたときにまるで自分が慌てないように見せかけた、それは二つ目の嘘。

 その嘘はちっとも楽じゃなった。彼に触れたら最後、彼の世界が私を包み込んでしまった。素直で、澄んで、優しく、鮮やかで仕方ない彼の世界のおすそわけ。モノクロな私の世界とは、正反対で刺激的な世界。

 ほら、やっぱり。

彼の瞳は、彼の心は、彼の世界は、私のことを簡単に射抜いてしまった。

 でも、彼の世界には、きっと私みたいに本当は引っ込み思案で、素直じゃいられない女の子は似合わない。彼の世界に映りたいがために、素直で可愛らしい性格の女の子を演じるのに精いっぱいな、私なんて。

やっぱり彼に触れたその後は、周りの世界が全部ぜんぶ輝いて見えた。それは私に色んな初めてをくれた。街ゆく人の心の豊かさ、木々の青さ、鳥のさえずりの美しさ、君の頬がほんのりと、わずかに赤く染まるのにも。

初めての感覚に戸惑う私の隣にいるのは、同じように戸惑っている男の子がいた。同じように戸惑って、違うところを見ていて、お互いのことで頭がいっぱいのふたり。

理想的かな、ふたりは、幸せに見えているのかな。

重ねた下にある彼のひとまわり大きな手は、私の知らない感触をしていた。そして、もっともっと、周りの世界に色を付けた。音やにおいや感覚も、全部鮮やかに豊かに、いきいきとして。

 彼の瞳に、彼の世界に映る私は、綺麗な盛りの花だけを集めた花束でありたかった。翳むことを知らない世界の中で、邪魔にならないように、綺麗に咲き誇っていたかった。

でも、花はいつまでも盛りのままじゃいられない。

花は貪欲なの。美しいままではいられない。いつか枯れてしまって、誰もそれを見向きしなくなる。誰の世界にも映れなくなる…きっと、彼の世界にも。

これは、わがまま。

花が枯れても、その美しさを他の誰もが忘れても。

あの瑞々しい世界の中で永遠に生きていたい。

 もっと隣で、綺麗な世界を眺めて生きていたい。

 ねえ、おねがい、これは何に願えばいい?

彼の世界の隅っこでいい、私を置いて。

映して。

とじこめて、もう二度とはなさないで。

 私のことを受け入れて。醜い心を隠す素直じゃない私を、あなたが思っているより汚くて仕方ない私のことを。

 青く晴れ渡るあなたの世界で。

稀望ばかりのあなたの世界で。

私は生きていたい、その世界に映りたいの。







ねえ、答えは?


では、さようなら。

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