お井戸とオケ
「藤の花簪」続編、糸之視点になります。
猫がお膳の上に陣取って、でん、と座っている。
この三毛猫の名はオケ。いつも桶の中で丸まって寝ているから、オケ。
糸之の箸を、オケは真面目な顔でころりと転がす。また、ころりころり。
お行儀が悪いねぇ。お前さんの場所じゃあねぇんだよ、片付けられないじゃないかい、と何度言って聞かせてもどこ吹く風で、聞いてくれた試しがない。
「お井戸はオケになめられちまってるからねぇ」
猫は、本気で怒る人間かどうかすっかりわかってやってんのさぁ。
寝起きのねぇさんは襦袢姿で胡座をかき、カカカッと笑う。
やろか、と別のねぇさんが箸でつまんだ練り物をオケに見せると、可愛らしくニィと鳴いて擦り寄っていった。
「ほれ、今のうちに片しちまいな。オケはあんたに構って欲しくてそんな所に陣取ってんのサ」
「ああ、まるで誰かさんみたいだねぇ」
またカカカと笑い声が起こる。
「笑い事じゃあないですよ、本当に...」
井戸の中から拾われた赤ん坊だから、禿の時分までお井戸と呼ばれ、今は糸之と名を貰った。
見世に出るようになって、やっとこれから世話になってきた人達に恩返しが出来ると思ったのに。
今夜はくるのだろうか。
あの、自称てておや殿が。
「おめえさんを井戸に捨てたおとっつぁんだ」
「俺を殺してくれ」
「おめえのかかは恨んでいる、夢にすら出てこねぇ」
はじめて座敷に上がった夜、あの男はしこたま酔って自分を殺せ殺してくれと詰め寄ってきた。
こんな生業のこの見世で赤子の頃から育ってきた糸之としては、またしち面倒くせぇ客に当たっちまった、としか思わなかった。
「そうだねぇ、そりゃ、女衒から目の前で銭受けとってるのを見たらねぇ。それにしたって、たいした額でもなかったはずなのに、なんだって年季の長い事長い事」
「本当だよぉ。お使い頼むにしたってもう少し渡すってもんだよぉ」
あの日、自称父親殿を見世の兄さん達に叩き出して貰った。
一晩寝て寝起きに膳を受けとる頃には、見世中のねぇさん達が昨夜の騒ぎを知っていた。
「なんだって?おとっつぁんが乗り込んで来たって?」
「赤子の時分に攫われた我が子を探して...!...て、なんだい違うのかい」
「はぁ?自分で捨てた?だから殺せ?
あたしらみたいのが人を殺めたりした日にゃ、見世ごと無くなっちまうよ!寝言は寝て言えってんだ!」
正直、自分の父親の事など「何処かの見世の女孕ませて、それすら知らずにいる客かなんかだろう」としか考えた事がなかった。
と言うよりそんな話しは周りにありふれているので、自分は処分されなくて良かったな、程度にしか思った事がなかったのだ。
「あたしにゃ、おとっつぁんもおっかさんもいませんよ。
ねぇさん達が育ててくれた。本当のおとっつぁんかどうかもわかりゃしないし、そもそもなんであたしがあの人を殺さなきゃならねぇんですか」
「そうだねぇ、ちょいとばかし頭がいかれちまってるねぇ」
糸之は頷きながら、
「そもそも、父親ってどんなもんですかい」
と聞いてみた。母親代わりのねぇさん達はたくさんいたが、兄さん達が父親代わりでいいものだろうか。
先の会話のように、はした金で売り飛ばされた、と言うねぇさんがほとんどで、恨みこそすれど、会いたいと思う相手ではないと言う話しばかり聞く。
だが、
「...恨んでいるさ。だけど、あたしを売った銭で家族が冬を越せたんなら、それでいいよ」
「もう、顔もおぼろげだけど、勘弁してくれな、って声だけは消えないんだよ。難儀なもんだねぇ」
「あたしは...、頭を撫でてくれたあの手を忘れちまいたいよ」
年季を無事にあけて、ふるさとの家族に今一度会える遊女はほとんどいない。
いい身請けがあれば郭から出る事も可能かもしれないが、二十後半の声を聞ければめっけもん、大概は病にやられて投げ込み寺行きだ。
たとえ年季があけるまで五体満足でいられたとしても、世間から別の世界に引き離されて身を置かれ、幼い頃から身体を酷使しその生活しか知らない女達は揃って早死ばかりだ。
「...知らないってのは、救いなのかねぇ。
いや、それでも恨む相手も、恋しがる相手もいねぇってのは、やっぱり救いじゃない気がするよ」
くたばる時に、あの子は誰を思えばいいのさ。
「...おう、変わりはねぇか」
「へぇ、主さんも」
「...おう」
出入り禁止になりかけた父親殿だったが、もう二度と騒ぎは起こさねぇと楼主に土下座をして事なきを得たらしい。
来るとまるで猫のオケのように糸之の前に陣取る。
糸之にとっても、まだ馴染みの客もついていない分、話しをして帰るだけの客を断る理由もない。
客がつかなきゃ稼ぎがない。なけりゃお茶をひくしかない。
遣手婆には睨まれるし、腹は減るし、見世から借りた事になっている金は増えて行く一方だ。生きるのには金がいる。タダで飯は食えない。
だから、この男の話しに乗ってみる事にした。
「それで、わっちの母様はどんなお方でござんした?」
男はそれは嬉しそうに語りだした。
案の定、母親は元々遊女であった人らしい。何度も、誰それに似ていると言われた事があったから、もしかしたらその名前の中に母親の名もあったのかもしれない。
なんと無事に年季をあけて、男と所帯を持ち子まで生したと言うのだから、自分の将来にも期待が持てる。
病に負けず、生きて行けるかもしれない、その点において。
年季をあけて外に出たいとか、惚れた男と所帯を持ちたいと言う思いは一切ない。
郭の女達の中で語られる物語りとしては人気があるが、それがどれだけ夢物語りであるかは物ごころついた時から嫌と言う程に見せられてきた。
それでも、女達は夢をみる。
いつかここを出て、あの人と真っ当に暮らしたい。
それは、故郷の家族であったり、密かに思っていた相手であったり、より辛そうなのは思い合った相手がいた女だ。
ここしか知らない糸之には、怖くて仕方がない感情だ。
人恋しさで、人は死ぬ事もあるのだから。
「わっちにゃ、郭から出たいと思う理由がありゃんせん。
そりゃあ、一度くらいは見てみたいとは思わなくもござんせんが」
そう言った時、男は酷く苦い顔をした。
「ならば、なおさら身請けをしてやらにゃならねぇな」
残念だが、糸之の身請けはそれこそ本物のお大尽様でもなければ無理な額が必要だろう。
元々は捨て子だ。育てる為の世話をし金をだしてくれたのは、売れっ子であったねぇさんで、そのねぇさんが居なくなると、不憫に思った他のねぇさん達が世話してくれた。
見世では下働き等はしていたが、居ることを許されていたのは年頃になれば見世に出て客を取るのが大前提であったからだ。
普通に銭で買われてきた女より、手間暇も銭もかかってしまっている。ろくに稼ぎもしないうちにはした金で手放す事はまずない。
ねぇさん達が、町人の一人二人が身上つぶしたぐらいじゃあたしらを身請けなんてできゃしないよ、と笑いながら言っていた。
この自称父親殿がよほどの人物であるならともかく、そこそこの身なりはしているが、どう見ても銭を持っているようには見えない。
「ご無理はしなすんな。命あっての物種でござんす」
男はさらに苦い顔になった。
...しまった。責めたつもりはなかったのだが。
その後、男は本当に身請けの話しを遣手婆に持っていったらしい。
てっきり箸にも棒にもかからないと思っていたのだが、なんと男は高名な絵描きでお上お抱えであるとかなんとか。
身分が知れると、事態は進んでいった。
楼主様曰く、本当の父親かどうかはわからないが、話しを聞く限りその可能性は高い。はじめはお井戸から聞いた話しをしているのかと勘ぐったが、お井戸本人も知らないような事もつとと語ってみせたそうだ。
「わしらだって、ここで育ったお前さんが可愛くない訳じゃない。ただ不幸になる為に身請けされるなら反対もするが、父親が迎えにくる子なんていないのが本当の所だ。
ただ、今回ばかりは本当じゃないとも言いきれん。
お前さんがどうしても嫌じゃなければ、この話、受けてみるかい?」
どうやら父親殿は自分を抱えている上の人間に持っていったらしい。
どこでどうなったものやら、
恋女房を亡くしずっと探していた赤子が郭で育てられ遊女になっている。父親の人生をかけて囚われた一人娘を救い出す為に粉骨砕身、その心意気や良し、天晴なり!
...と当の本人の糸之が知らぬ間に、自分を井戸に投げ捨て殺そうとした男がまるで父親の鏡のような扱いをされているらしい。
芝居の演目にされたとかで、その芝居をみた糸之と歳変わらぬ娘を持つ客が話しをしに訪れる事が増えた。
まるで悪役のように語られる楼主様が気の毒でならない。
確かに女が身をひさぐ仕事をさせているが、ここで働いているのは売られてこなければとっくに飢え死にしていたような者ばかりだ。
自分のような捨て子まで直接でないにしろ育ててくれたのに、酷い扱いである。
「本当はわしらも腑に落ちない所もあるのだが...。
世間様からの突き上げが酷くってね。身請けも支度金も真っ当に準備すると言ってきている。どうかね。父親の所へ行ってみないか」
断りようがなかった。
あれよあれよと話しは進み、客を取る事もなくなり、井戸に捨てられていた赤子の奇跡の成り上がり話しが、花街中で語られる事になってしまった。
まったく実感がなく、まるで他人の事のようだ。
見世のねぇさん達は泣いて喜んでくれたが、複雑な気持ちでいる人も少なくないのはよくわかる。遣手のねぇさん(直接遣手婆と言うと飯を抜かれる)なんかは、
「お前がこうなっちまったから、皆妙に浮かれちまって仕事に熱が入らなくてね。まったく、そんな夢物語がそうそう起きるもんかね」
と愚痴る。いつかあたしも、と夢みる者、なんであいつだけ、と羨む者。最近は直接悪態をつかれる事もある。
「あいすいません」
と何時ものように頭を下げれば、
「あんたのせいじゃないのはわかってんだよ。あんたの意思じゃないのもね。でも皆、自分の好きでここで暮らしてんじゃないからね。どうしても羨ましくなっちまうんだろうよ」
堪忍してやってな。
「はい...。でもねぇさん、あたし、ここから出るの...怖いです」
世間の事は何も知らないけど、世間から、実の父親から捨てられたあたしみたいなのが、そちらに行ってはいけないのではないか。
やっとここでの一人前になれたと思った所だったのに。
「難儀だね」
一言もらすと、遣手婆は糸之を抱きしめた。
「もう、舞台は出来上がっちまってる。あんたは歩いて行くしかない。だったら自分の足で歩きな。
笑いながら、あたしが一等の幸せもんだと思いながらだよ」
もうあんたは夢物語の主役になっちまった。
あんたには悪いが、ここで生きる女達に夢をみせちゃくれないか。
いつかきっと、自分にも迎えがくる、そうでも思わなきゃこの地獄で生きていけないんだ。
あんたがこれから歩む道が幸せかなんて、本当は誰にもわかりゃしないのにね。
遣手婆の腕の中で泣いた。涙が枯れるまで泣いた。
いつだって味方であったねぇさん達が、急によそよそしくなったのも悲しかった。帰る故郷もない、自分より可哀想な子だからあんたの相手してやってたのにと言われた時はしばらく言葉の意味がわからなかった。
何もかもがなくなってしまったような気がして、急に地面がなくなって地に足がついていないような気持ちになってしまった。
涙が枯れた時、ここを出る時はせめて笑顔でいようと決めた。
「難儀だね。本当に難儀だ。
どうせあたしらは常識なんて教わってないんだ。せいぜいおとっつぁんを困らせてやんな」
駄目だったら、戻っておいで。
枯れたと思った涙がまた溢れそうになった。
「糸之ー!!」
「糸之ーっ!」
「幸せにおなりよ!」
「糸之ー!」
あちらこちらから声がかけられた。
遊女ではなくなり、町娘が着るような着物を着せられた。
髪結いさんや甘味屋の姉さんのような姿だと思った。
その姿で見世を出て、はじめて乗る籠に足をかけた時、ねぇさん達が泣きながら名を呼んでくれた。
「てっきり...、憎まれているとばかり...」
呟きを聞いた見送りの楼主は笑顔で言う。
「そんな訳がないだろう。お前を育てたのは誰だい?
あの子らだろう」
自分が育てた子が幸せになって、本当に憎むような娘はうちの見世にゃいないよ。
「だから、幸せにおなり」
「...はい。ありがとうございました」
「糸之ー!」
「糸之ーっ!」
一際凄みの聞いた声が聞こえた。
「お井戸っ!二度と戻ってくんじゃないよっ!」
遣手のねぇさんだ。
いつでも戻っておいでと言っていたくせに。
「はいっ!ありがとうございました!」
上手い言葉も見つからず、そう叫び返す。
「さ、もう籠へ」
父親に促され籠に乗り込むと、ニィ、と鳴いてオケが飛び乗ってきた。
「オケ!」
「ニィー」
「駄目だよ、あんたは連れて行けないよ」
そっと降ろしてもまた飛び乗ってしまう。
「オケも連れてってやんなよ!」
「いっとう糸之に懐いてたんだ、引き離しちゃ可哀想だよ」
「あの子達もああいってる。連れておいき」
楼主の言葉に、糸之の膝の上を陣取ったオケがニャーと返事をする。
父親も笑いながら頷いた。
外の世界も、花街も、思ったより違いはなかった。
不幸はどちらもそこかしこに転がっていて、同じように幸せもあちらこちらに散らばっていた。
糸之を身請けした金子のほとんどはお大尽様からの借入で、父親がいくら働いても決して生活は楽ではなかった。
それでも、芝居の演目にもなり、あの不幸な親子を助けたお大尽様、と評価をあげた大名様からの支援は続き、まだ若くそれなり器量のいい糸之に嫁入り話を持ってきたりと心を砕いてくれてはいる。
「あのお方は、どうにも派手な事がお好きでなぁ」
いつの間にやら、自分が井戸に投げ捨てた赤子なのに、その赤子を必死に探していた事に話しがすげ変わってしまっていた父親は、どうにも据わりが悪いようだ。
お大尽様の手前、否定してまわるわけにもいかず言葉に詰まっている。
当たり前だ。なんていいおとっつぁんだろうね、あんた幸せ者だよ、と見知らぬ人達に声をかけられるこちらだって、なんて答えりゃいいのか毎回迷うのだ。
少しぐらい父親殿にも困って貰わねば釣り合いが取れない。
父親との生活ははじめこそぎこちないものであったが、オケを間に何となくでなんとかなっている。
郭言葉をやめて普段ねぇさん達と話すように会話をすれば、
「ちぃっとばかり口が悪いな、お前さん」
と言われる始末。
「まあこれから少しづつ、だな」
そういやお前さんのおっかさんもいい女なのにちっとばかし口が悪かったな、と嬉しそうに笑った。
だいぶ姉さん女房であったと言う母親の事をよく褒めた。
気は強いが優しかった。いい女だった。お前さんは面差しはかかぁと瓜二つだが、性格は俺に似ちまったかも知れねぇなあ。
流されやすい、と言われたが、流されるしか選択肢がなかっただけだと返すと、
「やっぱり、俺じゃねぇ、かかぁ似だ」
と笑った。
人を井戸に投げ捨てて、好き勝手に生きた父親になど似てたまるか、と思った。
殺されたいとほざく程には後悔していた父親だったが、母親を投げ入れたと言う寺に連れていかれた。母が眠ると言う無縁仏の塚の前で、二人手をあわせた。
「やっとかかぁに謝りにこれた」
これで、夢でくれぇなら会ってくれるかなぁ。
そう呟いてはじめて涙を見せた男に、ああ、本当にこの人があたしのおとっつぁんなんだ、とすっと胸に落ちた。
理由などなかったが、そう思った。
おとっつぁんは寺の住職に頼み込んで、襖に立派な藤の花を描いた。
おっかさんと出会った時、おっかさんが死んだ時、つまり糸之が生まれた時、藤の花が咲いていたと言う。
流されるだけ流されて、今いるのがこの場所なら流されてみるのもそう悪かないと思う。
自分が不幸だとは思わないが、世間様が言うような特別な幸せ者だとはやはり思えない。
ただ、運は良かったなと思う。
井戸に捨てられたのに、たまたま井戸は枯れ井戸で運良く生きていた、そしてすぐに拾いあげられた。
ああ、それだけで十分に特別な幸せ者なのかもしれない。
「オケ、オケ」
「ニィー」
見世にいた頃よりも、ちょっときかん坊になって、少し薄汚れたオケ。
でも前より元気な気がする。
今日も猫に餌をやる。
明日のあたしは、いったい何をしているだろうか。