これからも、そばに
景色がみるみると流れ、気づいたら屋敷へと戻ってきていた。
クロードは庭に着地すると、そっとジレットを下ろしてくれる。
彼女はつま先を地面に付けると、クロードに向かって頭を下げた。
「ありがとうございました、クロード様」
「いや。むしろ気持ち悪くなったりしなかったか?」
「はい、大丈夫です。とても気持ちが良いのですね、空は」
「そうか。なら、良かった」
そこで、沈黙が落ちた。
すっかり満開になった薔薇の花が、月夜を浴びて優しく揺れている。その中に佇むクロードは、まるで一枚の絵のようであった。
(もう少し。もう少し……このままでいたい)
それに、渡したいものもあるのだ。
しかしそれがなんとなく言い出せず、ジレットはまごつく。ぎゅっと袋を抱き締めた。
そんなときである。
「ジレット」
クロードが、口を開いた。
ジレットは顔を上げる。彼はとても真剣な顔をして、ジレットのことを見つめていた。
「あらためて、言わせて欲しい。あのときは本当にすまなかった。わたしは自分のことでいっぱいいっぱいで、君の気持ちを考える余裕などなかったんだ。それがどれほどまでに愚かなことか、知りもせず」
ジレットはそれを聞き、唇をわななかせる。
良いんです、わたしは大丈夫でしたから。
そう言おうとして、言えなかった。
(だって……だって、大丈夫なんかじゃ、なかったもの)
ジレットだけが無理矢理同じ生活をしようとしても、決して同じにはならない。それを思い知った瞬間だった。
この世で最も敬い尊ぶ存在が、消えてしまったのである。そのつらさは、今でも胸を突き刺してくる。
痛かった。つらかった。怖かった。
ただ、ひたすらに。
クロードが二度と出てこないのではないかと、そんなことを思って。そしてそれを思っている自分が嫌で、仕方なかった。
そしてその気持ちをここで口にしなくては、意味がないと思ったのだ。彼がわざわざ謝罪をしたのは、ジレットと対等であろうとしてくれている。そういう意味なのだから。
ゆえにジレットは、涙をこらえて笑みを浮かべる。
「わたし、は。あの日クロード様に拒絶されて。とても、つらかったです。怖かった、です。あなた様に捨てられるのではないかと。いらないと言われるのではないかと。そう考えて、そんなことはないと考えて、それが何日も何日も、続いて。……とて、も、苦しかったです……っ」
「ああ。……こんな言葉じゃ気休めにもならないかもしれないが、本当にすまなかった」
「本当、ですよ。怖かったん、ですから……!」
ジレットはこのときはじめて、クロードに対して文句を言った。
しかしクロードから感じたのは恐れていたような態度ではなく、とても優しい笑み。
「言葉だけじゃなく、これからは行動で表すようにする。ゆえにわたしは、これから決して君をそばに置き続けることで、それを証明したいと思う」
「……本当、ですか? 決して手放さないと。そう、誓ってくださいますか?」
「ああ」
ジレットは思わず、笑ってしまった。
(本当に、お優しい方。先ほどお城でだって言ってくださったのに……屋敷に戻ってからも、そう言ってくださるだなんて)
律儀なクロードのことだ。城でのやり取りなど、謝罪にカウントしていないのだろう。
それがおかしくて、でも嬉しくて。ジレットは声を上げて笑ってしまう。
クロードが少し困った顔をしているのが、またおかしかった。
「ありがとうございます、クロード様。わたしを気遣ってくださって」
「何を言っているんだ。当然のことだろう?」
「ふふふ。それを当然の一言で済ませてしまうところが、クロード様なのだと思います」
ジレットはそう言ってから、少しばかり意地悪をしたくなった。ゆえにクロードに「少し、目を閉じていていただけますか?」と言う。
クロードは驚いた顔をしていたが、どうやら叩かれるのではないかと思ったらしい。潔く目を閉じてくれた。
(本当に、素敵な方)
だからこんなにも、心が惹かれてしまうのだ。
そんなことを思いながら、ジレットは袋の中をあさり始めた。渡すなら今しかないと、そう思ったからである。
(赤と青。どちらが良いかしら)
一瞬迷ったが、直ぐに赤いほうにしようと決める。
理由は、夜だからだ。夜は吸血鬼の時間。だからこそ、彼本来の色を灯した髪紐にしようとそう思った。
ジレットはクロードに近づくと、その髪をそっと手に取る。そして今結んである紐を外し、手作りの赤い紐を結んだ。結び方は、悪戯の意味を込めてリボン結びにしてある。
しかし結んでみると予想以上に馴染んでしまい、声を上げて笑ってしまった。
何が起きているのか分かっていないクロードが、眉をひそめるのが見て取れた。
ジレットはくすくすと笑いながら言う。
「クロード様。目を開けてください」
「……何をしたんだ、ジレット」
「ふふふ。……わたしからの、ささやかなプレゼントです」
手作りなので不恰好ですが、付けていただけたらと。
そう締めくくり一歩引くと、無性に恥ずかしくなってきた。
(大して上手くできていないから、余計に恥ずかしいわ……でも渡せるものなんて、これくらいしかないし)
そう頭の中でぐるぐると考えていると、クロードが恐る恐る瞼を開く。
そして自身の髪を見ると、目を見開いた。
「……髪、紐?」
「はい。青いものも作りました」
「わたしのために、作ってくれたのか?」
「もちろん。このネックレスのお礼、なんて言ったらおこがましいですが……」
クロードは髪紐に触れると、破顔する。
「いや、とても嬉しい。ありがとう、ジレット」
「そう言ってもらえると、わたしも嬉しいです」
ジレットはクロードの言葉を聞き、満面の笑みを浮かべた。そしてゆっくりと口を開く。
「クロード様。これからもどうか、わたしをメイドとしておそばに置いてください。お願いいたします」
そう言い終えてから、深々と頭を下げた。
少しの間、沈黙が落ちる。
しかし直ぐにクロードの笑い声が響き、ジレットは困惑したまま顔を上げた。
するとなんということだろうか。あのクロードが、腹を抱えて笑っているではないか!
ジレットは見たことのない姿に、ポカーンとしてしまった。
(あ、あのクロード様が、こんなにも笑うだなんて……わたし、何か変なことを言ったかしら?)
しかし考えたところで、答えなど出ない。途方に暮れた。
「わ、わたし、何か変なことを言ってしまいましたか……?」
ジレットは意を決して疑問を投げかける。
先ほどアシルといたときも、同じようなことを思った気がする。どうやらジレットは、そういう面があるようだ。
それと同時に、思わず聞いてしまうくらいに、彼女は困惑している。
されどクロードは顔を横に振り、口を開く。
「いや。ジレットらしいと、そう思っただけだよ」
「わ、わたしらしいですか」
「ああ。まったく。君はどうしてそんなに、わたしの予想に反することばかりしてくれるんだ」
「そんなこと言われましても……」
身に覚えのない言いように、ジレットは釈然としない心持ちになる。
だがクロードの新たな一面を見れたのだから、ある意味良かったのではないかと思い始めた。
(そう、そうよ……こんなにも笑われるクロード様はとても珍しいのだから、しっかり記憶に刻んでおかなくては……!)
そもそもクロードは、あまり笑わない。微笑んだりすることは多いが、声をあげて笑うところなど今日初めて見た。
そう考えると、今回の件はとても良いことのように思えてくる。
(というより、色々なことはあったけどその分クロード様の美しい姿を見れたのだから、割には合っているわよね。やだ、わたしって幸せ者だわっ!)
ジレットがひとり脳内ではしゃいでいるとき、クロードがぽつりとつぶやく。
「どうやったら自覚してくれるのか。どれくらい時間をかけたら本当の意味で落ちてくれるのか。考えただけで楽しいよ。……君は本当に、わたしを飽きさせない」
そんな不穏な宣言は残念なことに、ジレットの耳には届いていなかった。
現実に戻ってきた彼女は、ハッとした表情を浮かべ慌てる。
「な、何かおっしゃられましたか?」
しかしクロードはくすりと笑い、
「いや、大したことじゃない」
そう言った。
ジレットは首をかしげる。
されどその疑問は、クロードの行動により吹き飛んでしまった。
彼は右手を胸元に当てると、腰を折ったのである。それはまるで、王子様がお姫様をダンスに誘うときのワンシーンのようであった。
(こ、これは、どういうことなのかしら……)
何をしたら良いのか分からず困っていると、クロードは片手を差し出し言う。
「お手をどうぞ、お嬢さん。屋敷に戻りましょうか」
「あ……」
ジレットはそのとき、自身の姿を見返した。
ミントグリーンのドレス。
それを身にまとった自分は今、お嬢さんと言われても問題のない見た目をしている。
クロードが「もう少しだけ浸っていたい」というジレットの気持ちを汲んでくれたのだと気づき、パッと表情を明るくさせた。
ジレットは頬を赤らめつつ、手を伸ばす。
「……はい」
差し出された手を取ると、クロードはジレットのことをエスコートしてくれた。
そのエスコートはとても紳士的で、余計に嬉しくなってきてしまう。
「言えていなかったが。とても綺麗だよ、ジレット」
「……ッッ!! こ、このタイミングで言うなんて、クロード様は、ずるいですっ!」
「事実を言ったまでだが」
「〜〜〜〜っ! も、もうっ!!」
そんなやり取りでさえ、楽しくて仕方がない。
胸は幸福感でいっぱいだった。
胸のドキドキも。頬の火照りも。しばらくおさまりそうにない。
ふたつの影は繋がったまま、屋敷の中へと入っていく。
空で煌々と輝く月だけが、その様子を見守っていた――




