ただひとつの想い
あれだけ騒がしかった周囲が、一瞬で静かになる。見れば誰もが息をのんでいた。
聞こえるのは遠くの方の人たちが話す声と、楽団の演奏だけだ。
クロードから放たれる凍えた空気に、ジレットは硬直する。
(クロード様が怒っていらっしゃるの、初めて、見た)
ジレットはそれを見て、今までどれだけ優しくされてきたかを悟った。クロードはジレットに対して注意したりはしたが、決して怒鳴ったり感情を削ぎ落としたような声はしなかったのだ。
気のせいだろうか。周囲の温度が下がっているような気がする。
ジレットはどうしたらいいか分からないまま、ひたすらにネックレスを握り締めていた。
そんなジレットを庇うように彼女の前に立つクロードは、男の手をひねったまま口を開く。
「……答えないのか? それとも、答えられないのか?」
「あ、そ、の……っ」
「何も言わないのであれば、彼女に無礼なおこないをしていたのだと、そういうことにするが。……もちろん、それ相応の対価を払ってもらうつもりだが」
「ッッッ!! も、申し訳ありません!! あなた様のお連れ様だとは知らず……っ!」
男の腕が、ミシミシと悲鳴をあげるのが分かった。ジレットは手のひらを握り締める。
(落ち着いて……落ち着きなさい、ジレット……!)
ジレットはそう自分に言い聞かせた。そして止まりかかっている頭を無理矢理回す。
(今クロード様は、この男の人に、何か危害を加えようとしている)
クロードは吸血鬼の中でも、温厚なほうだ。アシルが「クロードは優しい」と言っていたから、間違いではないだろう。
そんな彼が怒っている。怒りを向けられている男の命が危ういことが決して大げさなことではないぐらい、ジレットにだって分かる。
しかしこの場でクロードを止められそうな者は、残念ながらいない。皆一様に顔を青くし、距離を置いているからだ。
(この状況をどうにかできるのは、少なくとも、わたししかいない)
ジレットの頭の中で、そんな結論が出た。
彼女は震える足に内心叱咤し、前へと進む。
心の底から敬い傾倒する、クロードのもとへ。
そんな中クロードは、男の心を確実に追い詰めていく。
「ほう。わたしの連れでなかったのであれば、彼女のようなか弱い娘をどのようにしてもいいと? 随分と尊大な態度を取るのだな、若造?」
「あ、の、も、もう、し、わけありま、せんっ……! おねがい、します、命だけは……っ」
「さて、どうしたものか」
少なくとも、彼女の手を掴み無理矢理引っ張っていこうとしたその手は、切り離させてもらうが。
そう、無表情のまま言うクロード。
絶対強者からの絶望的な宣告に、男の体が恐怖で震え出す。
男の腕があらぬ方向にひねりあげられ、嫌な音が聞こえた。腕がねじり取られる、生々しい音である。
今にもちぎられる。
そんな、ときだった。
「――クロード様!!」
ジレットが、クロードの腕にすがりついたのは。
クロードは、ジレットの行動に驚きねじろうとしていた手を止める。
「ジレット、離すんだ」
そして、聞き分けのない子どもに諭すかのように、優しい声でそう言った。
それを聞いたジレットは確信する。
(この方は、とても、優しい方だ。わたしが知っている、美しく尊い方だ)
そんなひとが今、同胞であろうひとに危害を加えようとしている。そんなことは決して、あってはならない。
ジレットはそう思った。
彼女は必死になってクロードの腕を抱き締める。
「クロード、さま。おやめください……っ」
「ジレット」
「わたしは、なんともありません。ですから、どうか、どうか……!」
「……ジレット」
どうにかしてクロードを止めようと、ジレットは懇願する。全身が震え続けていたが、構わなかった。
ここで止められなかったほうが後悔する。
そう言えるだけの、想いがあったのである。
ジレットは瞼を固くつむりながら、嫌だ嫌だと首を横に振った。
少しの間沈黙が落ちる。
その後、クロードのため息が聞こえた。
「……分かった」
クロードはそう短く告げると、へし折ろうとしていた手を離す。
男はその場に、へなへなと座り込んだ。
クロードはそんな男に、蔑んだ瞳向ける。
「消えろ。その顔を二度と、わたしの前に見せるな」
それだけ言い残し、クロードはジレットを大広間の外へと連れ出してくれた。
庭へと降り立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。外は暗く、大広間の窓から漏れる光だけが差し込んでいた。
肩がむき出しになっているためか、ジレットは先ほどとは違った意味でぶるりと震えてしまった。
そんなジレットを見たクロードは、上着を脱ぎ肩にかけてくれる。
「あ、ありがとうございます……」
「いや……」
そこで、再び沈黙が落ちた。
ジレットはネックレスを掴んだまま、ぐるぐると思考を巡らせる。
(ああ、わたしったらどうして、クロード様に抱きついてしまったの、はしたない……!!)
そしてジレットとクロードは、今仲違いのような状態になっていたのである。先ほどはそんなことを考える余裕などなかったため、すっかり頭から抜け落ちていた。
ジレットは色々な意味で、顔を青くする。
(あああ……! 今度こそ嫌われてしまうわ……っ)
ジレットは唇を噛み締め、肩を震わせた。
しかしかけられた声は、彼女の予想に反したものだった。
「ジレット。すまなかった」
「……え?」
「君を、怖がらせてしまった」
ジレットが顔を上げると、クロードが憂い顔をして目をそらすのが見て取れた。
しかし彼女はわけが分からず、目を丸くする。
クロードはなおも告げた。
「あれだけ大口を叩いておきながら、肝心なときに君を守れない。本当にすまない……わたしは、最低な男だ」
「そ、そんなことはありません!!」
ジレットは、自嘲するクロードに向けて言葉を紡いだ。
「クロード様は、わたしを助けてくださいました!! 今回だけでなく、今までだってずっと!! わたしはそんなクロード様だからこそ、尊敬しているのです!」
「しかし……君を怖がらせてしまったことは事実だ。頭に血がのぼっていたとはいえ、あの態度はまずかった。……わたしは君の主人に、ふさわしくない」
ふさわしくない。
その言葉が、ジレットの頭を再び殴る。
(ふさわしいとか、ふさわしくないとか……そんなこと、どうでもいい。わたしは別に、そんな言葉欲しくない)
ジレットは唇を噛み締めた。
(大切だから。だから、そばにいたいと願った。その気持ちだけじゃ、ダメなの?)
ジレットがクロードのそばにいるのも。
今回クロードのことを止めたのも。
クロードのことが何よりも大切だからだ。他の者などどうでもいい。ゆえにジレットは別に、先ほどの男がどうなろうが良かった。
我ながらひどい女だと、内心嘲笑う。
そう内心嗤いながらも、ジレットはまっすぐクロードのことを見つめた。
「それを言うのであれば、わたしとてクロード様にふさわしくありません」
「……ジレット?」
クロードが困惑した声をあげたが、ジレットは構わず告げた。
「わたしがクロード様のことを止めたのは、あなた様が悪役になるのが嫌だったからです。別に相手の男性がどうなろうが、どうでも良かった。……そんな醜いわたしを、クロード様は自身の使用人としてふさわしくないと。そう思われますか?」
「そんなこと、あるわけないだろう」
クロードは間髪入れず、ジレットの言葉を否定した。
ジレットはそれを聞き、笑う。ひどく安心したのだ。ゆえに表情を緩めたまま、穏やかな声で言う。
「わたしも、クロード様と同じです。ふさわしいとかふさわしくないとか、そんなのはどうでもいいんですよ。ただお側にいさせて欲しい。……ただ、それだけなのです」
ふわりと、風が体を駆け抜けていった。
ジレットは幾分か清々しい気持ちを抱いたまま、微笑む。
「この度は本当に、ありがとうございました。クロード様が来てくださったとき、とても嬉しかったです。……怖くて怖くて、たまらなかったので」
そう言うと、クロードは眩しそうに瞼をすがめた。
「君は、本当に……」
「……クロード様?」
クロードはそうつぶやくと、ジレットとの距離を詰めてくる。ジレットは、胸が高鳴るのを感じた。
離れてしまった距離が縮まる。
それが、ここまで嬉しいことだなんて、ジレットは知らなかった。
残りの距離は、ちょうど一歩分。
クロードはそれをいとも簡単に越え、ジレットのことを抱き締める。
ジレットは目を見開き、硬直した。
「本当に、すまなかった。君はこんなにもわたしに近づこうとしてくれたのに……そんな君を、わたしが遠ざけた」
「……はい。とても、とて、も……寂しかった、です……」
「ああ。もう二度と、あんなことはしない。誓おう」
「……本当ですか?」
あなた様がわたしを見捨てることはないのだと。そう受け取っても、良いのですか――?
ジレットの心が、そう叫ぶ。
胸の内側から、何かが溢れて張り裂けそうだった。
そんな彼女の心をすべて受け止めるかのように。クロードは宣誓する。
「これから何があったとしても。わたしは決して、ジレットのことを離さない。この名のもとにそう誓おう」
それを聞いた瞬間、ジレットの胸の内側から何かが溢れ出した。
(やだ……っ。今、すごく、すごく、幸せ……っ)
目の前がじわりと滲み始めたが、化粧をしているためなんとかこらえる。
今のような幸せな時間が、一分でも一秒でも長く続けば良い。そう本気で思うくらい、彼女は幸せだった。
しかしそれは長続きしない。
クロードのほうが、ジレットを離したからだ。
どうしたのかと、ジレットは顔を上げた。されど肩を掴まれ、クロードの腕の中に引き込まれる。とくりと、心臓が跳ねた。
「クロード様?」
クロードはジレットの声に応えることなく、鋭い視線を闇の中へ向ける。
「覗き見とは趣味が悪いな?」
そして、そんなことを言った。
ジレットが首をかしげていると、けらけらという笑い声が聞こえる。ジレットはその声に、聞き覚えがあった。
「やだなぁ。上手くいくか不安だったから、見守っていただけなのに」
「嘘を言うな。この性悪が」
「あはは。あいっかわらずヒドイ」
声の主は闇の中からゆっくりと姿を現した。
そこから出てきたのは、アシルである。
「あ……」
ジレットが思わず声をあげると、アシルは楽しそうに手を振ってきた。
「やあ、ジレットちゃん。さっきぶり。ほら、上手くいっただろう?」
「えっと……」
ジレットは困惑した。何を言ったら良いのか分からなかったのである。
その一方でクロードは、アシルに冷めた瞳を向ける。
「それで、なんの用だ」
「クロード、君毎回同じこと聞くよね!?」
「うるさい。要件を早く言え」
「横暴だよ!!」
ジレットはテンポよく繰り広げられる会話を聞きながら、「これは、仲が良いのかしら……?」と首をかしげていた。
そんなジレットの心情などつゆ知らず、アシルは腰に手を当てて言う。
「ちょっと、中で話さないかい? ジレットちゃんも色々と、聞きたいことがあるだろうし?」
「お前……」
クロードは一瞬尖った視線を向けたが、ひとつため息をこぼすとジレットを見る。
「……ジレット。君は構わないか?」
「は、はい……」
「よし、じゃあ決まり。いらっしゃいー」
アシルは楽しげに笑うと、くるりと一回転した。
そうして三人は大広間を離れ、城の個室に移動することになったのである。




