エンプティ
「うー、全然浮かばない……」
右手に持ったシャープペンの先を、ノートに何回打ち付けただろうか。俺の大学ノートにあるのは、そばかすのような黒点と、没アイディアが詰め込まれた消しゴムのカスだけだ。
「先輩、期限まであと1か月もあるんだから、そんなに根詰めなくても大丈夫じゃないすか?」
1年後輩である安田は、紙パックのお茶を飲みながら携帯ゲームをしていて、適当に言葉を返していることがばればれである。
「お前、原稿用紙少なくとも40枚以上は必要なんだぞ? しかも、本当に送りたいのは200以上の長編部門だし……絶対無理だー!」
そう言いながら、俺は座ったまま背伸びをする。古いパイプイスはそれに合わせて軋んで、音を立てる。
「文芸部してますね、先輩は」
「何もしたくなくて文化部入ったお前とは違うんだよ」
「でも来てるだけでもいいでしょ? 部員は8人いるのに、いつも活動日に来るのは先輩と俺と光浦だけですよ?」
安田が目線を送る先には、何故かこの文芸部部室に置いてあるソファーに寝転びながら本を読む「光浦」と呼ばれる少女の姿がある。彼女も1つ下の後輩である。
「光浦って呼ぶな、安田。殺すぞ」
「赤フレームの眼鏡なんか買うからだよ、意識してるだろ」
「してないし、黙れ」
本当の名前は光浦ではなく高山である。赤いフレームの眼鏡をかけて、基本無愛想なので安田が勝手に付けただけだ。
「まあ、緩い部活だからな。 実際文化祭で文集を出して、俺と高山がコンテストにたまに出すぐらいだし……幽霊部員の遊び場にされるぐらいなら、来ない方がましだ」
「んで、そのコンテストに出す小説が書けないと」
「そうなんだよ、今回は絶対出したいんだけどなー」
俺が今書こうとしているのは、俺が個人的に大好きな出版社が企画しているコンテストである。それで最優秀賞を取るとデビューに繋がるチャンスを得ることができるのだ。
「小説家になったら、俺を主人公に書いてくださいよ」
「お前を主人公に何を書けばいいんだよ」
「俺で世界を救いましょう、技とか覚えてて。 逆に敵のどんな攻撃も無効化できる能力とかもいいですね」
「ラノベかよ」
高山はそう言いながら読んでいる本のページを捲る。
俺の夢は小説家である。
父親が読書を趣味にしている影響で、小さい頃から本を読むのが好きで、中学生からは実際に書くようになった。当時の作品は恥ずかしくてもう読みたくもないが、恋愛や部活をテーマに書いていたような気がする。そして、高校に進学して大学に進もうかという3年生になっても、小説を書く行為に飽きることはなく、寧ろ生業にしていきたいという気持ちが強くなり、結果としてそういうこととなった。
「小説家はどうなんだろうな、でも。 実際出版社あたりに入れれば上出来かなって感じだけど」
現実を加味した言い方をして、俺はシャープペンを置いた。持っていた中指がじんわりと傷んだ。
文芸部の部室は、校舎3階の奥まった場所にあり、窓からは自分たちが住む町と校庭を望むことができる。6月が始まったばかりの空は、そろそろ梅雨が本格化することを予見させるような淀んだ灰色をしている。
「今日、雨降るのかなあ」
安田は立ち上がり窓に近づいて外を眺める。
「予報では夜の9時ぐらいに降るらしいよ」
その問いかけに高山が答える。何だかんだ周りの話を聞いていて反応してくれるのは彼女の良いところだ。
「じゃ、それまでに帰れば大丈夫かな。 今5時か……先輩、今日も7時ぐらいまでいるんですか?」
「そうだな、少しでも書いておきたいし」
俺はもう一度ノートに目をやる。殆ど何も書かれていないそれは、もう消しゴムの擦りすぎで紙自体がくしゃくしゃになっている。努力の跡というよりは、紙と時間の無駄遣いを感じさせる姿だ。
「でも、今日も書けないのかな」
それを見て、思わず弱音を吐いてしまう。実際ここ3か月以上「書きたい」という意識を持って、活動日は部室で、それ以外も図書室へ行ってペンを握っているのだが、全くストーリーが浮かんでこないのだ。何か浮かんできても、それは物語として成り立たず、結局はスタート地点に戻るということをずっと繰り返している。
「無限の猿定理みたいに、適当にパソコンでキーボード叩きまくってたらできるんじゃないですか?」
「お前が壁をすり抜けるまでぶつかり続けるなら、その横でやってやるよ」
「俺が壁をすり抜けて、先輩がシェイクスピアの作品書いたら凄くないですか?」
「うるさい、黙れ」
また遠くで高山が突っ込む。大体シェイクスピアの作品を打ち出せたところで、シェイクスピアの作品だから意味がないじゃないか。
「先輩が書きたいのって何ですか?」
「え?」
安田の割には普通すぎる質問が飛んできて、俺はすぐに答えられなかった。
「書きたいもの?」
「そうですよ、それを書けばいいじゃないですか」
書きたいもの。その質問に脳内が活発に働き始める。実際何が書きたいのか。
読んでいる人が感動してくれるもの?
ワクワクドキドキしてもらえるもの?
笑いあり、涙ありのもの?
「先輩はコンテストのために書いてるから、浮かばないんじゃないですか?」
脳内会議をぶった切るように、高山が言葉を発してくる。彼女の方を見ると、本を読むのをやめていて俺の方を見ている。まっすぐな瞳は、不愛想な表情とは釣り合わないぐらい、瑞々しかった。
「そんなんじゃ書けないし、できた作品もつまらないですよ?」
「おお、光浦良いこと言うね」
「光浦って言うな、ゲームのしすぎで死ね」
「じゃ、それぐらい面白いゲーム俺にくれ」
「ゲーム機ここから投げるぞ」
部室は安田と高山の小競り合いで埋まっているが、俺はそれに耳を貸せないほど、自分に問いかけていた。
書きたいものって何だろう。
したいことって何だろう。
何で小説を書きたいんだっけ?
何で。
何故。
どうして。
俺は腰を上げる。膝から下に血が巡るような感覚がし、俺はまた大きく背伸びをする。言い合っていた二人も、俺が急に立ち上がったことで、その動向を伺おうとしているようだった。
「飲み物買ってくる」
そう言って俺は部室を出た。3階の廊下は電気が消されていて、曇り空のせいでとても薄暗く、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の音がやけに不気味だった。
体育館横に設置してある自動販売機に行くまで、部室からそれなりの距離がある。音が全くない訳ではないが、普段の雑多な音が聞こえない校舎は、孤独を与えるような不安感があった。
高山の言葉は痛い程胸を差し、そしてそのまま網を張ったように心を捉えたままだった。
俺はずっと考えていた。自分が何をしたいか、小説を書く行為が、自分にとってどういうものなのか。でも良くわからなかった。
中学生の時は、ただ憧れだけが先行して、何も考えず他の話を低クオリティで焼き増したようなものだけ書いていて、それがただ楽しかった。自分も小説家の一人になれたようなやけに誇らしい気持ちになった。
だけど、書いていく内に自分に蓄えてあった構想は底を尽き、色んなものに触れる中で、「似たものは書けない、パクリになる」と思うようになり、そんなのを騒がれるはずも無いのに、勝手に消去していった。そして今、自分がいる部屋の中は空っぽになっている。自分が何をしたいかも分からないような奴が、紡げる言葉なんて何も無いんだ。
校舎を出て、体育館まで続く渡り廊下を歩くと、校庭や体育館で活動する運動部の声が煩く響いている。自分はここにいる、と強く叫ぶその声の出し方を俺は今忘れている。雨が降りそうな空は、窓越しで見るより重く町を覆っている。蒸すような湿度の高い風が吹いて、ズボンから少し出てしまっているシャツがはためいて、俺はそれを直しながら、尻ポケットにある財布を取り出した。
自動販売機の近くに来ると、そこには女子の先客がいて、飲み物を選んでいるようだった。
俺は3m程後ろに立ち、買い終えるのを待つことにした。中々決まらないようで、飲み物の陳列を1列ずつ見るような行動をした後、もう一度全体を眺めている。そして俺の存在に気付いたのか、後ろを振り返る。
「あ、亮太君じゃん」
「おお」
その女子は知り合いだった。同じクラスの子で図書委員なので、よく図書室を利用する俺とは結構話す間柄だった。知り合い以上のものはないのだが。
「ごめん、先買っていいよ」
そう言って彼女は俺に先を譲ってくれた。俺はいつもカフェオレを買うと決めているので、迷うことなく小銭を入れて、カフェオレのボタンを押した。
「いつもそれだね」
彼女は軽く笑いながら言ってくる。確かにいつも飲んでいるし、よく会う図書室でも、これをよく横に置いて作業をしているために、知っていたのかもしれない。
「これが最強」
「ふふ。 今日は図書室に来てないんだね、どうしたの?」
「今日は部活があるから部室にいるんだ」
「あれ、亮太君って何部だっけ?」
「文芸部だよ」
「あ、もしかして図書室にいる時って何か書いてるの?」
「そうだね、中々できないんだけどね」
「へえ、でも毎日頑張ってるんだね。 凄いなあ」
全然だめだよ、と言う前に彼女は飲み物を決めたらしく、小銭を入れてボタンを押した。
俺は途切れた間を埋めるように、カフェオレにストローをセットする
「同じものを買ってみました!」
そう言って彼女は俺が持っているのと同じカフェオレを、笑顔で見せつけてきた。その笑顔はとても可愛いもので、薄暗い午後を少し恨んだ。
「いいね」
そんな言葉しか俺は返せなかった。でも身体が中心からゆっくり温かくなるようなくすぐったさが、血のように巡る。
「不味かったら、図書室使用禁止ね」
「それはやめてくれ」
「冗談だよ。 書いてるもの、できたら見せてよ」
言葉はいつも無責任で、誰の味方もしてくれない。この言葉もただの社交辞令に過ぎないと分かっているのだが、それでは片づけられなかった。
「頑張るよ」
「うん。 じゃ、私は図書室戻るから、頑張ってね。 ばいばい」
手を振る彼女に、俺も小さく手を振って応える。
心臓がいつもより大袈裟に鼓動を刻んでいるのが分かった。恋とかではない、病気でもない。多分これは幸せだ。
俺はカフェオレを一口飲み部室へ、来た時よりも速いスピードで向かう。
書きたい。
小さい幸せがあったことを。
誰かに読んでもらいたい。
こんな幸せがあったって。
思ってもらいたい。
自分の周りにも、それがあることを。
階段を二段飛ばしで上り、部室のドアを開ける。もう言い争いはしていないのか、相変わらず携帯ゲームをしている安田と、ソファーに寝転び本を読む高山の姿が、古びて整理もされていない部室に溶け込んでいた。
「お帰りなさーい、遅かったですね」
出迎える気が全くない言葉を安田は返した。
「お前、ずっとゲームやってろ。 アイディアが浮かんだから黙ってろよ」
俺は勢いよく、自分の定位置に戻り、ノートを一枚捲って、ペンを握った。
「マジですか? ついに俺を主人公に書いてくれる気になりました」
「それはないだろ。 どんなお話ですか?」
高山が安田に突っ込み、一緒にどんなものが浮かんだかを聞いてくれた。
果たしてこの衝動が、ノートにどれだけ発散できるか分からない。それがコンテストで必要な枚数になるかも分からない。
でもそんな不安より、今はただ。
俺はシャープペンのノックキャップを2,3回押して芯を出して、答えた。
「普通の高校生の話だよ」