エピローグ
1
そう、僕は権威と伝統を重んじるこの鈴美麗家から、逃れたかったんだ。過去からの産物に負い目を感じながら、変えられない自分に腹が立っていた。出来ればいっそのこと、この家が無くなるか、自分がいなくなってしまえばいいとさえ思っていた。
でもそんな荒んだ気持ちを救ってくれたのは、マコだった。池で彼女を助けなかったら、今はなかっただろう。彼女のためだったら、なんでも出来る気がしていた。守っていく自信があった。
しかし祖父が亡くなると、この家は牙をむき出し更に重圧は増した。この家を絶やさないことが、自分の生きている価値のような気がしていた。そんな価値はいらなかった。もっと自由に、何でもしたかった。普通に暮らし、普通に学校に行って、普通に彼女を作って、笑いたかった。
わかっていた。そんなことが出来ないことぐらい。
変わりたかった。何もかも違う自分に。ちょっとでも変わったら、何かが出来そうな気がしたんだ。この世界から逃避したかった。
そんな僕の想いは、見事に遂げられた。
女の子になった。しかもただの女の子じゃなかった。可愛くて、綺麗で、美しくて、スタイルが良くて、明るくて、強い。
世界はまるで、今まで見たこともない風景を映し出し、取り巻く人間も優しかった。何でも出来た。いつしか、僕はこのままでもいいと思い始めていた。
だが、心と体のバランスは、その食い違いをいち早く見通していた。男であることを拒否するように、より一層綺麗に、体に磨きがかかったように、おんなキノが目覚めていった。レイプされそうになった時、明らかにおんなキノだった。
心の何処かでは、拒否していた。多分これ以上、おんなキノをここに留まらせることは、彼女を不幸にすると感じていた。僕は本来の場所へ、帰るべきなんだ。帰らなくては、いけない。
そう、思う。
おんなキノ、僕は、もう大丈夫だから。
2
「どっ、どうしたのよ、キノ!」
玄関先でマコは目を丸くして、声を上げた。
「はう? イメチェン。似合う」
キノは、はにかんで答える。
「イメチェンって、し過ぎよ、それ!」
マコの驚きと後悔に似た声は、更に上がった。
「どうされました、マ……」
玄関先を掃除していた亜紀那の、持っていた外箒が、手から滑り落ちる。
「そっ、そんなに、おかしいかなあ」
キノは頭を掻きながら、道場へ向かって歩いた。途中、庭の植木の剪定をしていた後藤は、少し飛び上がっる。そして着地後、腰を押さえた。
「あうぅ」
キノは唸る。道場の外では、フェイルがひとり稽古をしていた。大木の枝に付けた割り木を蹴っている。
「フェイル!」
「キノさ……」
キノのイメチェンに気づいた彼は、木を蹴り損ねて、床に転がった。急いで立ち上がるが、それ以上の言葉が出ない。開いた口を閉じることは、出来なかった。
「ふん」
3
夕食の後、マコは亜紀那とキッチンで後かたづけをしていた。
「何かありましたか、マコ様」
亜紀那が心配そうに、声を掛ける。
「べっ、別に、何もないですよ。喧嘩したわけでもないし……」
「それなら、いいのですが」
亜紀那は安心したように、食器を棚に入れ、揃えた。
「私の一番の、お気に入りだったのに」
マコは呟く。亜紀那はマコの指に目が止まった。
「マコ様、それ……」
「あっ、うん。キノから貰ったの。似合わない……、かな」
マコは照れて、左手の薬指に手を掛ける。
「キノ様が……。いえ、よくお似合いですよ」
亜紀那は、マコを見つめた。
「キノ様は、マコ様が本当に大切なのですね」
「やっ、やーね」
マコは先ほどよりも、もっと赤くなって照れている。
「亜紀那さんも、フェイルさんと、もっと一緒にいて下さい。ここを私もやってるのは、それもあるんですからね」
「そうなんですか」
「そう、そう。はい、これ。フェイルさんに届けて下さい」
マコはコーヒーを入れ、お盆に乗せて亜紀那に差し出した。
「しばらく、戻ってこなくていいですからね」
彼女は微笑む。亜紀那はちょっと照れていた。
キノはシャワールームにいた。目の前にある鏡を見る。そこに映る姿は、いつもと同じだ。端正な顔立ちも細い四肢もスタイルも変わりない。曇った鏡をシャワーで洗う。もう一度、鏡に映っている自分を見た。
「ごめんね、キノ。君の大切にしていた、綺麗なクリーム色の細長い髪を、切っちゃった……」
映った、顔の輪郭を指でなぞる。そう、今鏡に映っているのは、短い髪のキノだった。その髪が、指に絡みつくことは、もうない。
「僕は男になるよ。決めたんだ。もう、長い髪はいらない。いいよね」
キノは曇った鏡に額を付け、そのまま唇を鏡に触れさせた。
「さよなら、キノ。今まで、ありがとう」
4
その日は、何故か寝苦しい夜だった。先程から何度も寝返りを打っている。体の中に憤る何かを感じていた。
「眠れないの?」
マコが心配気な顔で、覗き込む。
「そうなの、何か胸がドキドキして寝れない」
マコはキノのベッドに潜り込んだ。
「そんな時は、私が抱いてあげる。キノにふれていたいから」
彼女はキノの腕を取って、抱きつく。短くなった髪の頭を撫でる。マコは切ない顔になった。
「ショックだった? この髪」
「うん、正直ショック。だって、キノはこの髪が素敵だったもん。キノじゃないみたい」
「ごめん……。でも決めたんだ。おんなキノにも別れを言った」
マコは頭を上げて、キノを見つめる。
「本気で」
キノは真剣な顔で言った。
「絶対に」
笑って、ベッドの上で幾つか会話する。いつしか二人は寝てしまっていた。
『ガンバれ』
頭の中に、声が響いた。
池の上に浮かんでいる、金色に光っているもの。
ベッドの中でキノの体の周りに、白い靄が取り巻き出した。キノには夢なのか現実なのか区別がつかない空間が、漂っているように思えている。
小さい手が、その金色の物体を掴もうとしている。見覚えのある手だった。物体は、その手からすり抜けようとしている。その手をキノは思わず、握った。
「やっと、掴んでくれたね。ありがとう、おとこキノ」
小さい子供が、微笑む。
その瞬間、辺りが目映いばかりに光りに包まれた。
「何かが……」
5
「……ゴツゴツしてる」
マコは抱いていた腕を、寝ぼけ眼で見た。目の前にショートカットの頭と大きな瞳が、見つめている。
「キノ?」
しかし、いつもと感じが違うことにマコは気づいた。彼女は全体的に柔らかくないと思ったのだ。マコはキノに抱きつき、そのまま胸に手を置く。
「胸が……ない?」
とっさにマコは、離れようとした。しかし、胸に置いた手を掴まれ、引き寄せられる。体が密着する。
「マコ」
「キノ、おとこキノ……」
キノは彼女にキスをした。そして互いに抱きしめ合う。マコがキノの胸をもう一度触った。
「おとこキノの体、初めて……」
「マコの体、凄く、柔らかい」
キノの掌は、彼女の乳房を触る。マコの緊張が、指先に伝わった。
「……恥ずかしいよ」
彼女は顔を赤らめて、目を逸らす。
「僕だって……」
それから二人は沈黙した。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでくる。ベッドにいる二人の起伏のシルエットが浮かんだ。
マコはキノの顔を見つめ直して、指で顔を撫でる。
「男になっても、やっぱり綺麗ね……」
「そっ、そう」
彼女はキノの頬に、自分の頬を付けた。
「暖かい、これは女の子の時と同じ……」
「マコがいたから、僕はここにいる。本当に君に逢えてよかった」
キノは、もう一度マコを抱きしめた。
「君を失わないで、……よかった」
キノは、耳元でマコの息使いを感じる。
「私もよ、キノ。……愛してる」
「……マコ」
僕も、ずっと愛してる。
そして生涯、君を守っていく……。
おしまい