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キノは〜ふ!2  作者: 七月 夏喜
6/8

第六話 キノとみんなの奇跡と


 屋敷の中は、春うららかな陽気が差していた。小鳥のさえずりも心地良い。しかしそれとは正反対に、神妙な顔で、静かに道場内で正座している者がいた。

 キノは亜紀那から打ち明けられた事実に、戸惑い、震えている。

「どうしますか、キノ様」

 後藤が背後から声を掛ける。

「どうって……、僕が口を出す事じゃ、……ない」

 割り切っては言っているが、心の動揺は隠しきれない。言葉が途切れ途切れだ。

 今まで一緒にいた大切な人のひとり。家族同然に暮らしていたひとり。

「その亜紀那さんが……」

 キノは口に出せない。大腿の上で手を握りしめた。

「けれど僕には……、亜紀那さんを、ここに束縛することなんて、出来ない……」

 体が震えている。

「キノ様、お気持ちはわかりますが、相手はフェイルですぞ」

 聞かされていたが、もう一度聞くと、それもショックだった。一度は逢えないと思っていたひとり。再会したのはついこの間だ。目まぐるしい、日々の中で、もう忘れようとしていたのだ。強くなると決意もした。

「……フェイル」

 亜紀那もフェイルも、姉であり、兄であり、亡き母父の面影さえ抱いていた二人だった。その二人が、今いなくなってしまう。これまで当たり前だった日常が、突然消えてなくなった気がした。これまでに何回か味わった、寂しさと悲しさの両方の感情が押し寄せている。キノにとって、この衝撃はとても耐えがたいことだった。

 歯を食いしばる。しかし、体の震えと共に歯が鳴って、止められない。顔から血の気が引いて、白くなっていた。

「キノ様、お気を確かに」

 後藤がそっと肩に手を置く。振り向いたキノの唇の桃色は失せていた。

「ごめん、取り乱しそう。部屋に戻ってもいい」

「そうですな。お部屋まで、お連れいたします」

 彼はキノの顔を見て取ると、言う。キノは立ち上がれない程、腰が完全に抜けていた。

「マコを、呼んで」

「はい。只今」

 後藤は、道場内のインターホンで、マコの部屋にコールした。


 暫くして、マコが小走りにやって来る。後藤はキノの肩を支えて、立っていた。彼女は驚いて駆け寄る。

「すみません、マコ様。お呼び立ていたしまして」

「いっ、いえ……、そんなことより」

 後藤は穏やかに言ったが、マコにはキノの心の動揺が激しいことを目配せした。彼女は頷く。

「ほら、キノ。しっかりして。部屋に戻るよ」

「う、うん。ごめん……」

 後藤とマコに支えられて、キノは道場を出た。マコは手をしっかりと握っている。

「キノが、こんなになっちゃうなんて……」


 丁度テーブルには、二つのカップがある。亜紀那はリビングで、後藤と向き合っていた。

「キノ様がそんなことを」

「ただ事ではないぞ、亜紀那」

 彼は、真摯な目で彼女を見ている。

「……わかっています」

「儂は、あんな姿のキノ様は初めて見た。立ってられないほど、精神を立て直すことが出来ないとは」

 後藤は肩の力を抜いた。

「おまえのことを、心底慕っておいでじゃ。悔しいがフェイルもな」

 彼はコーヒーを一口飲む。亜紀那はじっとカップを見つめている。

「亜紀那、どうしてもか」

「……はい。もう決めました」

「そうか。キノ様はどうなる?」

 亜紀那の顔も切なくなる。手に持っているハンカチを握りしめた。

「私がいなくても……、マコ様が支えてくれます」

「それはそうだが」

「あの二人は、相思相愛。私の役目は終わりました」

 後藤は亜紀那の気持ちが、わからないわけではない。長年使えてきただけに、あまりにも鈴美麗家に浸りすぎた。家族の一員であると行っても過言ではない。深く関われば、それだけ、喜びと悲しみも背追う。しかし、所詮使用人なのである。その枠からはみ出すことなど出来ないのだ。

「しかし、だ……」

 後藤は、それでも納得できなかった。

「おまえとキノ様は、まるできょうだいのように、過ごしてきたのではないか。この絆を無に出来るのか……」

 亜紀那はハンカチを顔に当てていた。泣いている。後藤はそれ以上、言葉を発さなかった。


 翌朝早く、キノは目が覚めた。正確には眠れなかったと言うべきだろう。昨晩の亜紀那からの話の後、キノは自分では動けないほどショックを受けた。後藤とマコに付き添われて部屋まで、ふらつきながら帰る始末となったのだ。

 寝息が聞こえる。マコはキノの腕を抱き止めながら、隣で寝入っている。

「一緒に寝てたんだ」

 同じベッドにいたことすら、覚えていないキノだった。彼女を起こさないように、静かに絡めている腕を抜く。彼女の体が少し動いて、寝返りを打った。キノがベッドから足を降ろして、床に指先が付いた瞬間。

「……泣いちゃ、ダメだよ……」

 キノは振り向く。マコは、さっきと同じ格好だった。顔を手で触りながら鏡を見つめると、ひどく顔が荒れていた。

 そのままキノは道場へ向かう。扉を開けると、人の気配を感じた。辺りを見渡すと、掛け軸の側に座っている者を見つける。

「誰?」

 キノは身構えた。その背中からは重い空気が発せられ、キノに伸し掛かる。片手で払い除けた。

「フェイル」

 キノが呟くと、その者は立ち上がり振り向く。

「一体何をするために、来たの」

 フェイルは真っ直ぐ、突き進んで歩いて来た。キノの体が後方に擦り下がる。

「止まって!」

 キノは叫んだ。彼はその場に立ち止まる。額に汗が滲んでいた。

「……迎えに来たのですよ。キノ様」

「誰を」

「亜紀那から聞いているはずです」

 キノは沈黙する。それ以上の問答など無意味だった。

「フェイル、どうしても連れていくの」

「亜紀那が、それを望んでいるならば」

 彼は立ち止まった位置から、身動きしない。

「そう……」

 キノは肩を落とした。

「キノ様、私を憎みますか。あなたの大切な人を、連れていくのですよ」

 彼の目がキノを見据える。言葉を出そうとするが、体のこわばりがそれを許さなかった。暫くの間、目に見えない激しい感情の波が幾度となく、体に当たっている。

「きっと憎んでいる、悔しい……」

「それでいいのです。もっと私を憎みなさい。あなたのもとから、もう誰も失わないように」

「フェイル!」

 フェイルの目が険しくなった。眼力に圧倒される。

「キノ様、私と戦うのです」

 キノは構えた。道場内に張りつめた空気が漂う。一瞬の隙は、ダメージを受ける。

「あなたに教えたのは、半分だけ。本当にどれくらい強くなりましたか」

 フェイルの姿はキノの視界から消えた。

「そんなことくらい!」

 キノは左方向に、空気の僅かな揺れを感じ取る。上腕を振り上げ、払う。しかし、その腕は空を切った。素早く体を翻し、腰を落とす。右に体が流れ、バランスを崩しそうになる。風が起こっていた。

「甘いですよ、キノ様」

 フェイルはキノの袖を取り、引き寄せる。

「くっ!」

 左の下腿で踏んばるが、更に引き寄せられていく。額からの汗が飛び散った。襟元を取られ、キノの体が浮いていく。

「このぉ!」

 首を振ると、長い髪が流れた。その細い髪先がフェイルの目を狙う。彼は予測していた行動に、軽く顔をよけた。上半身、下肢の重心もフェイルに持って行かれる。払い腰でキノの体は、空中を半回転して床にたたきつけられた。キノの息が一瞬止まる。じっとしている場合ではない。すぐに起き上がり、構えた。胸の前で腕を十字に組む。空気の壁が襲い、道場の端の壁まで飛ばされた。背中に再び激痛が走る。あの時の傷が疼いた。

「やっぱり、……強い」

 壁を背に辺りを見回す。彼は、中央にじっと立っていた。直立しているだけだが、隙はない。

「もう、終わりですか。まだキノ様は力を出し切っていない」

 フェイルはキノを直視する。キノの目が泳いでいた。

「あなたが本気にならなければ、亜紀那どころかこの鈴美麗家なぞ守れませんぞ」

 キノは壁から離れて、フェイルの前まで歩いてくる。

「ひとつだけお教えしましょう。なぜ私がこの鈴美麗家を離れたのか……」


「キノは、また失うの……。あの子、一体どれくらい悲しみを背追うのよ」

 マコは一向に戻ってこないキノを、ベッドで待っていた。時計を見て、おもむろに立ち上がり、鏡に向かう。この時間になれば、亜紀那が来るはずだった。鏡で顔を見ると、酷く元気のない顔をしている。

「なんて顔してるの、真琴。あなたが、しっかりしなくちゃ」

 マコは鏡の中で、ニッコリと微笑んだ。

「あの子は、私が絶対、守る」

 ノックする音がする。

「はい」

「マコ様、よろしいですか」

「亜紀那さん!」

 マコは急いで、扉を開けた。いつもと同じ出で立ちで、彼女は立っている。マコはその姿を見た途端、それまでの空元気が、不安気な顔つきになった。

「亜紀那さん……」

 彼女は頷く。

「入ってもよろしいですか。マコ様に、聞いていただきたいことがあるのです」


 大きな音が鳴った。キノと床に振動が伝わる。もう何回投げられているか。力や技のぶつかりあいに限界が来ていた。互角などと言う状態ではない。一方的にキノは、床に叩きつけられていた。

「あなたが本気でかかってこなければ、もう、勝負はついています。やめましょう、キノ様」

 そうも言いながら、フェイルの警戒は解かれていない。キノは体の隅々に、硬直感を感じていた。

「どうして、私がこの鈴美麗家を去ったのか。あなたが、原因です」

 キノは思いがけない言葉に驚き、咳込む。

「ぼっ、僕が……」

「私がここへ入門した時、あなたは丁度三歳になったばかりだった。誕生会をしていたことが懐かしい」


 フェイルはキノを見ていた。幼い頃を思い出しているようだ。

「当時あなたは、ご両親を交通事故で亡くされる前で、この本家とは離れて暮らしておいででした」

「僕が祖父と暮らし始めたのは、両親が亡くなってからだから」

 キノは彼を見つめる。フェイルは腕を組んだ。

「そう。あなたがここへ来てから、御尊父は変わられた」

「変わった?」

「あなたに特に厳しくするように、分別がつかぬ子供の、教育係とお世話係りとして、私に申しつけられた」

 キノは両親の顔をあまり覚えていない。三歳の時では記憶の片隅にも置けないだろう。写真もあるが、三人で映っているものは、数枚しかない。キノはいつしか、フェイルを父親として見ていた。

「なぜ、御尊父があなたに厳しくされたのか」

 自然にフェイルの顔は優しくなる。

「それは、あなたのお父上がなれない以上、あなたがこの鈴美麗家の後継者になっていただくからでした。この家に伝わる様々なことを、覚えなければならない必要があったのです」

「僕は、嫌な思い出ばかりだ……」

 キノの顔が曇った。拳を握り込む。当時のキノは稽古ばかりで、友人と遊ぶことすら出来なかった。

「お気持ちはお察ししたしますが、仕方ありませんでした。ただ私が唯一、助かっていたのは、あなたは負けん気が強かったということです」

 フェイルは苦笑する。

「逆境にあっても、何か策を考え出し困難に立ち向かおうとされる。あなたはには、真の心がある。今でもそれは、ご健在ですな」

 彼はキノをじっと見つめた。困惑しているその姿を見ているのが、楽しそうに、じらしながら言葉を選んで発している。

「でも、僕がどう関係するの」

「実は、あなたのご両親の交通事故は、相手の車との正面衝突でした。互いの者は亡くなりました。しかし奇跡的に相手側の後部座席にいた少女だけが、助かったのです。彼女はまだ中学生でした」

「なぜ、そんなことを……」

 キノは察した。勢いで立ち上がる。フェイルは目を伏せた。

「彼女には身寄りがなかった。御尊父は寛大なお気持ちで、彼女をこの鈴美麗家に引き取った」

「まさか……、そっ、その人って……」

 キノは戸惑う。両親を奪った相手の娘が、同じ屋根の下に暮らしていた事実が信じられなかった。途端にキノの息が荒くなる。


「そんな……、キノは知ってるの」

 ベッドの上で、二人は座っている。

「もう、フェイルが話しているでしょう」

 亜紀那は顔を手で覆い、頭を下げた。背の高い彼女が小さく見えている。マコは肩にそっと触れようとした時だった。

「私は、キノ様を憎んでいました」

 震えているその肩の上で、マコの手が止まる。

「亜紀那さん……」

「事故の後で、身寄りのない私に声を掛けて下さったのは、この鈴美麗家の大旦那様でした。この屋敷に初めて来た時、私は暖かく迎え入れられました」

 亜紀那は両手を顔から少し離し、床をじっと見つめていた。マコの手は、宙を舞っている。

「そして三日経った時、道場でフェイルに逢いました」

 彼女の瞳に、透明なものが光った。

「フェイルさんに」

 ゆっくり亜紀那は顔を上げてくる。マコは彼女がフェイルと出逢ったことが、これまで生きてこれた理由だと悟った。

「更に三日後、大旦那様は、子供を連れてこられました」

 マコははっとして、口を出す。

「子供って、まさか……、キノ?」

 亜紀那の方を向く。彼女は顔を緩ませて、頷いた。

「可愛い方でいらしゃいました」

「なぜ、キノを憎んだの」

 亜紀那は立ち上がる。そして、ゆっくりとキノの机に近づいた。指で机上をなぞる。そして、鞄を手のひらで触った。そこで彼女の手が止まる。

「キノ様は、フェイルを奪っていかれた」

 マコはベッドから立ち上がって、反論する。

「でも、それはキノだって、寂しかったんだし。まだ子供だわ」

「わかっています。ただ当時私は、拾われた身。その卑屈な感情を忘れたかったのです。今から思えば、すがる何かが欲しかった。そう、生きていく上で何か、希望のようなものが」

 亜紀那はじっと、キノの鞄を見つめている。

「キノ様が、フェイルと一緒にいらっしゃるのを、遠目で見ながら、いつも考えていました。あのお方と自分は境遇は同じでも、全く立場が違うと」

「今でも、そう思っているんですか」

「それは……」

 亜紀那は俯き、窓の方を見た。道場の様子を、気にしている。彼女はマコの方を振り向いた。

「お二人が出逢われてからです」

 マコは、キノの初恋相手が自分だと知っている。おそらく、キノのマコに対する行動は、周囲にはわかっていたのかもしれない。

「キノ様が、マコ様を池から救いあげた時の、あの一途な想いは忘れません。あなたを守ると言った、あの言葉の重みを、私は考えもしませんでした」

 マコは、キノの想いを改めて亜紀那から聞くと、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られた。

「私の憎しみの感情など、小学生のキノ様よりも随分幼いものだと……」

 亜紀那の頬に涙が伝う。

「かけがいのない者を守るということ。それは、全てを愛すること……」

 マコは彼女の肩に、ようやく手を置くことが出来た。振り向いた彼女の顔は、少し安堵感が見られる。

「その時キノ様のために、私の持ちうるだけの愛情を持って、尽くそうと決めました」


「あなたがいたからこそ、私は去るべき必要があった」

 道場でキノとフェイルは向かい合ったままだ。

「どうして……、フェイルが出て行かなくちゃいけなかったの。あの時、僕はとても……」

 キノの力が落ちていく。柔らかい細長い髪は、指に絡みついていた。

「キノ様……」

 彼は言葉を失う。以前、高校の柔道場で、キノの涙を見ていた。それ故に、フェイルは次の言葉を掛けるのを躊躇った。

「亜紀那が、あなたを必要としていたからです」

「……亜紀那さんのために」

 キノは呟く。

「私は亜紀那を愛してしまった。彼女が幸せになるなら、それでも良いと思ったのです」

 キノは胸を押さえた。動揺している自分を押し殺そうとしていた。

「ここの格式は厳しいのです。門下生とその使用人との恋沙汰など、御法度ものです。あなたへの教育に影響があると、亜紀那へ二度と逢わないために、大旦那様は、私に鈴美麗家から出ていくように、言い渡されました」

 フェイルは目の前のキノをじっと見ている。

「おじいさまが……。それで、取り返しに来たの、亜紀那さんを」

「もう十分、彼女はキノ様に尽くしましたと思います。むしろ愛情全てが、あなた様だったのかもしれません。マコ様と出逢い、この鈴美麗家に向かい入れられたことで、彼女は役割を終えた」

 キノも彼を凝視した。互いに眼孔を飛ばしている。

「わかっているはずです。いつまでも、亜紀那とともに過ごせないことを」

「言わないで!」

 キノは怒鳴った。認めたいが認めたくない心の葛藤を、感じているようだった。

「キノ様の力がこの程度なら、まだまだ修行が足りません。亜紀那が必要ですか」

 フェイルは口元を締めた。風が道場内に吹き込む。

「私は亜紀那を守りたい。キノ様がマコ様をそう思うように」

 キノは先程よりも、深く息を吸って構えた。

「フェイル、僕、本気でいくよ」

「望むところです」


「亜紀那さんの願いは、キノが幸せになること。そして、キノの願いは、亜紀那さんが幸せになること。私の願いは」

 マコは彼女が立ち去った後、まだベッドに腰掛けてる。暫く何かを考えていたが、急いで服を着替えだした。そして、道場へ向かって走る。

「戦うだけでは、意味なんてない。もう、決まっている」

「亜紀那さん!」

 廊下を歩いていた、彼女は振り向く。

「マコ様」

「道場に、一緒に来て」

 マコは亜紀那の手を取った。


 キノの動きは明らかに、先程と違っている。機敏な動きで、フェイルに間合いを縮ませない。

「逃げてばかりでは、私は倒せませんぞ」

「逃げているわけじゃないよ」

 キノは彼の正面に、立ち止まり、髪を振り回す。

「それは、先程……」

 今度の長い髪はまるで生き物の様に、とぐろを巻き、フェイルの目の前で、放射状に広がった。彼は視界からキノを見失う。

「これは」

 フェイルが後方に左足を一歩引いた時だった。キノは、彼の胸元に体を這わせ、襟元を掴んだ。フェイルのバランスが、キノに寄りかかる。

「む」

 だが、彼は右足で崩れを立て直し、袖を振り払った。次の瞬間、今度は右に大きく傾く。彼の体はいとも簡単に、まるで操り人形のように、左右に動かされる。

「やりますね」

 そこまでだった。フェイルは床に足を振り降ろす。大きな音が道場内に響いた。振動が窓を揺らす。彼は目を閉じた。五感を集中するように動き停止する。

 キノは背後にいて、フェイルの腰を引いた。そのままバランスを崩そうとする。彼の重心の位置がずれた。

「落ちろ」

 キノの両手が、フェイルの胴を回し取る。勢いと共に、彼の両足が床から離れた。

「なんの!」

 フェイルの体は、空中で翻ってキノの背後に降り立つ。今度は逆にキノの体が掴み取られ、浮いた。

「うん」

 とっさに頭を振る。鋭い勢いのまま、クリーム色の艶やかな髪が、フェイルの顔を襲う。その隙を見て、腰を落とし、足を地につけた。そのまま内股へ移行する。しかしフェイルの掴んだ腕は、再びキノを引き寄せた。

「さすがです。これでこそ、キノ様。切れが先程と、全く違う」

「フェイルもあの頃と違わない」

 キノとフェイルは互いに組み手を交わしたまま、向かい寄っている。

「ひとつ、聞いてよろしいか」

 彼は、キノの息が感じられる側まで、近づいた。

「亜紀那をお離しになる、お考えですね」

「それは……」

「わかっています。わざと負ける気でしょう」

 フェイルの目は、じっと懲らして見る。キノの目は泳いでいた。

「わかり易いお人だ。だが、それがあなたの弱点です」

 フェイルは、手に力を込め、キノの体を持ち上げていく。重心がフェイルの背中に移っていく。半分以上の体重が彼の肩に掛かった時だった。キノは掴んでいた両手を離し、フェイルの顔を覆う。背追い投げは決まらなかった。

「なに」

 キノは両手で頭を掴み、離さなかった。そのままフェイルにキスをしたのだ。フェイルは油断する。

「!」

 円を描いて着地したキノは、つかさず彼を引き寄せ、背追い投げの体制になった。フェイルの体はいとも簡単に、キノの術に掛かった。

「それぇ」

 小振りな体制からの背追い投げ。フェイルの体は鋭い回転をしながら、床に叩きつけられた。

 見事に決まる。道場内に、静けさが戻った。フェイルは、立ち上がる。そして笑った。

「見事としか言いようがない」

「必殺、千秋投げ」

 キノは舌を出す。

「キノ様。あなたが勝った。亜紀那は」

「フェイル、亜紀那さんをお願い」

 キノはフェイルに背中を向けた。髪が絡んで玉になっている。

「僕は、あの人が幸せになるなら、……それがいい」

 道場の出入口に向かって、歩き出した。

「キノ様」


「キノ!」

 キノが顔を上げると、息を切らしたマコと亜紀那が立っていた。

「亜紀那さん、マコ……」

「キノ様」

 亜紀那はキノをじっと見て、不安な顔をしている。

「終わったよ、亜紀那さん。もう僕の世話はいいから、すぐここを」

「キノ様……」

「大丈夫。フェイルが幸せにしてくれる」

 キノは二人の側を、通り過ぎた。キノの肩が落ちている。マコはそんな姿を見なかった。彼女の目は真っ直ぐ、道場のフェイルを見据えている。


「何、やってるのよ」

 キノは立ち止まる。

「マコ様」

 亜紀那は振り向き、小さく声を上げた。

「自分だけで、決めて、自分だけ辛い思いして……」

 キノは立ち止まったまま、動かない。拳が震えている。

「いつもそう、何でも自分だけで背追って、何でも我慢している」

 マコは目を伏せた。

「人にはお節介ことばかりして、ものを言うくせに、自分のことには何も言わないのね。意気地なし」

 キノは唇を噛む。

「もっと素直に、もっと、わがままになりなよ!」

 マコはキノの方を、振り向いた。

「マコなんかには、わからない。僕がこれからずっと、鈴美麗家を支えなくちゃいけないことを」

「わからないわよ! そんな男みたいな人の考えることなんて!」

 彼女は睨む。瞳には涙が溜まっていた。

「そんなに大事なの! 鈴美麗家よりももっと、大切なことがあるでしょ。古い習わしなんかにこだわっていたら、先に進めないじゃない。キノが鈴美麗家の後継者でしょ、だったら壊しちゃってよ、そんなもの!」

「マコ! 幾ら君でも、言っていいことと悪いことがある! そんなこと許さない!」

 キノは真剣に怒鳴った。マコはその声の凄みに驚き、息が止まる。辺りは沈黙した。


「……いや、マコ様のいう通りです」

 フェイルはようやく、静かに呟く。

「キノ様には、幼少の頃からずっと、この鈴美麗家の継承者として厳しく育てられました。何よりも一番に、このお家を考えなけれならない者として、周囲からも一目置かれた存在になっていました。そのようなお考えにしたのは、むしろ大旦那様や周囲、私や亜紀那に至る者たちです。やはり、我々の責任も重大です」

 彼はゆっくり歩きだした。

「私たちは、何もかも、キノ様に背追わせようとしました。将来に渡って、鈴美麗家を絶やさないことというエゴイズムを、まるで脅迫観念に捕らわれたように。その結果、キノ様は、大事なものを亡くされた。ありのままの自分というものをです」

 亜紀那はキノの方を見つめる。

「自分を隠すこと。お友達に優しく、お世話なことをしていたのは、そんな気持ちからだったのでしょうか」

 キノは唇を噛んだまま立ち尽くしていた。

「こんなに健気で、優しいお人に、そんなお気持ちを知りながら、私は自分たちまでの将来を託すなんて……」

 彼女は、持っているハンカチを握りしめる。フェイルは亜紀那の側に並んだ。

「もう、いいのよ、キノ」

 マコは優しく言う。

「キノ、言いなよ、素直になりなよ」

 

 眩しい朝の光が、道場内や屋敷内に入り込んで来た。

「しかし、僕は……」

「大旦那様は、いつも考えておられた」

「後藤さん」

 彼は、腰を叩きながら、廊下の奥から出て来る。

「あの日、交通事故に逢われたご両親の代わりに、キノ様を引き取られた。大旦那様は、夢を見られた。鈴美麗家の跡取りとして、キノ様を」

 彼は腰を叩く。

「厳しくすることで、跡取りとしての格式や振る舞いを身につけさせることを考えておられた。じゃが、池でマコ様と出逢い、仲良く過ごされるのを見て以来、変わられた」

 後藤はキノの側に立った。肩に手を掛ける。

「大旦那様も不器用なお方じゃった。口に出してはおしゃられん。深く悩んでおられた」

「おじいさまが……」

 キノは後藤を見る。

「キノ様、大旦那様は、息を引き取られる時に、儂にこう言われた

『キノが女の子だったら、こんなに辛い思いなぞ、しなかったろう。すまない。鈴美麗家を出て行きなさい』と」

 キノは両手で顔を覆った。瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、幾度も筋を作って流れていく。

「キノ!」

 マコは駆け寄った。両手で体を覆い、強く、強く、抱きしめる。キノは崩れ落ちるように、床に座り込んだ。

「いいんだよ、もう。いいんだよ、わがまま言ってよ、キノ……」

 マコは頭を撫でる。キノの声が道場内まで響いた。


「大旦那さまは、そんなことを……」

 亜紀那は呟く。彼女も泣いていた。

「人の強い想いや願いは、時として奇跡を起こすのじゃよ」

 後藤は寄り添う二人の姿を、見つめている。

「キノ様が女の子になったのは、その奇跡のせいか」

 フェイルは亜紀那の肩を抱き寄せた。

「もしくは、キノ様ご自身が、心の何処かで隠れる場所を探していたのか、そう願っておられていたのか」

 亜紀那は、フェイルの手を握る。

「キノ様……」


「キノ、キノ!」

 キノの額に自分の額を付けて、マコは叫んでいる。

「マコ、僕にわがままを言わせて」

「うん、うん」

「みんな……、このまま」

「うん、みんなね……」

「行かないで。もう、いなくならないで」

 マコはもう一度、キノを抱きしめた。


「キノ様……」

 亜紀那はフェイルのもとから、歩み出て来た。

「亜紀那さん」

 マコは振り向く。彼女の腕の中にキノはいた。

「私をもう少し、ここにいさせてください」

 彼女は膝を着いて、座り込む。フェイルも床に正座し、頭を垂れた。

「キノ様、私のようなものが発言する立場ではないのですが、亜紀那を願いできないでしょうか」

 マコはキノをゆっくり立たせた。

「フェイル、亜紀那さん、二人とも……、ここに帰ってきて」

 キノは小さな声で言う。マコは微笑んだ。


「え?」

 フェイルは驚いた。

「キノ様。しかし、私は、この鈴美麗家を破門された身……」

「それはもう、おしまい。ここに帰ってきて」

 キノは微笑んだ。まだ瞳が潤んでいる。戸惑う彼の姿を見て、後藤が大笑いした。

「見事よ、キノ様。フェイル、おまえの古い考えは、もうなしじゃ」

「しかし……」

「フェイルよ、この鈴美麗家の主は、キノ様だ。あのお方がおしゃるならば、そのようにするがよい」

 もう一度、後藤は笑った。マコも微笑する。フェイルは彼女を見つめた。

「マコ様、その……、よろしいのですか」

「キノが決めたんだもの、私は大歓迎。新しい家族が増えて、賑やかなのがいいです」

「……マコ様」

 亜紀那はマコに向かい合う。

「それに、まだ亜紀那さんに、教えてもらわないといけないこと、いろいろある。鈴美麗家のいい奥さんにならないとね」

 マコは、腕組みした。

「後は、旦那様」

 細いクリーム色の艶のある髪。大きな潤んだ瞳に端正な顔立ち。四肢が細く、長い。

 マコは思わず、見つめてしまう。

「人の想いや願いが叶うなら、きっと戻れるよ、キノ」

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