第五話 キノと睦とカイバラと女装王子
1
話は、卒業式が終わって、春休み直前だった。
足立と真下を送り出したキノとマコたちは、教室のホームルームにいた。如月が教壇に立って話している。
「という訳で、クラスを男女均等に六班に分けます。この班で、四日間行動を共にします。各部屋での班長さんの指示に従って、学習スケジュールを立てていただきます」
星白高校は、県内唯一の進学校だ。三年になる学生は、春休みに学習強化合宿を行うことが慣例となっている。この合宿、旅館の一部を貸し切って行われていた。各クラスを班に分け、勉強部屋を作って、そこで男女学生が揃って、学習する仕組みだ。一説には、親睦を深めた結果、カップル誕生するっていう特典付きらしい。
如月の隣にいたマコは、黒板にその分けた班を書いた。クラスはその発表があると、異様に沸く。やはり仲の良いもの同士や特典目当ての者と一緒だと、ちょっと得した気分になるようだ。キノは机に頬杖を突き、それを眺めていた。
「きっ、キノさん、一緒の班ですね」
隣の席の海原は、はにかんで笑顔を見せる。キノはちらりと彼を目だけで眺めた。
「あっ、そう」
意外にあっさりしていたので、海原はじっとキノを見つめた。
「なに」
「いえ、別に」
彼がどう、ということではなく、キノにとって面白くないのは、マコと一緒じゃないことだけだ。友人同士で寝泊まりすることが嫌いな訳でもない。キノも賛成だ。
「僕たちの班は、海原と石井、藤井、結城か」
「キノちゃん! 私、凄くうれしい、一緒の班で!」
石井が体を付けるように迫ってきた。
「おまえは、海原とがいいんだろ」
「はあ? なにそれ」
彼女は、驚いたように、素知らぬ顔をする。
「なにって、おまえ……」
「鈴美麗さん、僕もよろしくね」
振り向くと、結城が立っていた。クラスでも目立たない存在だ。背はキノと同じくらいで、顔立ちは童顔である。何かに気づいたキノが顔を近づけて、見つめると彼は緊張した。
「結城君? だっけ」
「はっ、はい」
声が上づっている。
「君の肌、綺麗だね。それに目が澄んで、光ってる」
「えっ?」
キノの突拍子もない攻撃に、直視を耐えかねる結城だ。
「いや、ゴメン。何でもない。忘れて」
彼のあまりにも真面目な顔に、キノは驚く。
「鈴美麗、あんまし結城、いじめんなよ」
横から藤井が、指で背中を突いた。
「藤井、いじめてなんかないぞ。僕は本心から言った」
「ばか、おまえの本心が、それ、いじめなの」
「なぜ、僕が……?」
キノは腕を組んで、考え込んだ。石井は大笑する。
「はいはい、みなさん。班長さんを選出して下さいね」
教壇の上から手を叩いて、マコは言った。おもむろに、紙を配り始める。
「この紙に班長さんの名前を書いて、提出して下さい」
「誰が班長になりますか?」
海原がメンバーの顔を見渡しながら、訊ねる。
「海原、おまえがやれ」
キノは凄んで、言い放った。彼は一瞬困った顔になったが、石井が間に入って、紙に縦線を五つ書く。
「だめだめ、くじ引きで決めましょ」
「で、キノが班長になったのね」
夕食をとりながら、向かい側にいるマコは言った。
「石井の奴、なんか企んでいるような気がする」
「考え過ぎよ。だって、くじはみんなで、引いたんでしょ」
お茶を一口啜る。納得いかない様子だ。
「それよりも、四日間だから、着る物支度しなくちゃダメよ」
マコは立ち上がった。同時に亜紀那が、皿を片づけに入る。
「ああ、そうだね」
「キノ、あなた、何か忘れているようだから言っておくわ」
マコはキノの肩に手を掛ける。
「何のこと?」
「学習は男女同じ部屋でするけど、寝る時は女子とだからね」
キノは椅子から転げ落ちた。
「あら? 知らなかったの」
2
出発の日は晴天だった。大型バス三台が、学校の門の前に停車している。二号車がキノたちを乗せていた。定刻通りに出発し、無事宿泊施設に到着した。
「はーい、海原班はこっちー」
「きっ、キノさん、なぜ僕の名前なんですか!」
「面白いから」
キノは手を振って、メンバーを召集した。
「はい、我々の五班の学習場所は、『菊の間』です。一旦荷物を各就寝部屋に置いた後、大広間に集合して下さい。就寝部屋は……」
「ほほほ、就寝部屋では、邪魔は入らないわね」
石井はキノの背中で、不吉な台詞を吐く。聞こえていないキノの肩が、何故かびくついていた。
「一瞬、寒気がしたが……」
「キーノちゃん」
振り向くと千秋がいる。この前に喧嘩していたはずだが、もうすっかり元の通りの調子に戻っていた。
「千秋は、マコと一緒だよね」
彼女は三班で、マコと同じメンバーだ。彼女は嬉しそうな顔をしている。
「マコさんと一緒の部屋なんで、今晩ずっと話そうかと思って」
「なっ、何を?」
キノはこんな性格に、ついていけそうにない。
「何って、この間のことよ」
「この間……って、勝負の時のか」
またしても、両肩が上がった。先ほどの悪寒と似たものが、体中を駆け巡る。
「そう、あの時に聴きそびれている、愛の実践をね。アイドルミュから聴くの」
キノは慌てて、千秋の袖を引っ張った。
「こっ、こら! こんなとこで、何てことを言ってんだ」
持っていたノートを降り挙げる。あちこちに、筆記用具が散らばった。
「キノちゃん、顔赤いよ。何か変なこと想像してない?」
「ばっ、ばか」
「まあ、今日は同じ布団で、じっくり聴かせて貰うからね。じゃあ」
千秋は嬉しそうに走っていく。
「おい、千秋!」
彼女は三班へ合流した。マコと何かを言っている。離れているキノに気づくと、微笑んだ。キノは小さく手を振る。
「千秋、おまえは何するかわからんからな……。石井と同じで」
「おい、海原」
荷物を置いてあぐらをかいている、藤井は声を掛けた。海原は無愛想に無言で、振り向く。
「おまえって、最近石井と仲いいんだよな」
大男の動きが止まった。咳払いをする。
「そう、なんですか?」
結城はバックから学習用具を出しながら、訊ねた。
「石井さんは、柔道部のマネージャーしてくれてます」
海原は、木訥に答える。
「だって、あれほどおまえのこと変態扱いしていたのに、今じゃマネージャーって。普通、あり得ないぜ。何かないと」
藤井は立ち上がり、海原の近くに寄る。
「海原」
何故か小声だ。耳元に海原は弱い。
「なんスか」
「おまえ、やったのか?」
海原に衝撃的な、言葉が襲う。体の隅々にまで、過緊張なまでの筋肉の盛り上がりが、その焦りを表現していた。シャツの肩辺りが、破ける。鼻からの息が荒くなった。
「かっ、海原!」
その興奮の勢いに負けて、藤井は二、三回後転して、床の間の柱に頭をぶつけた。
「藤井君!」
結城は叫ぶ。海原は我に返った。
3
女子の寝室は、学習部屋の階下に陣取っている。男子の寝室は学習部屋と兼用されていた。先ほどからキノは、石井の視線に耐えかねている。
「石井、ずっと見てないで、自分のことしろよ」
「いいじゃない。時間はたっぷりあるんだし」
「ないよ。早く大広間に行かなくちゃ」
班長は正すように、言った。
「その後は、夕食があるから」
「夕食終わってから、お風呂行く?」
「なっ、なんで、石井とお風呂行くんだよ」
キノは体を仰け反る。
「何故って、だって、お風呂そこしかないし。でも大浴場と露天風呂は、ここ有名なんだって。知ってた?」
キノの手から、洗面道具が滑り落ち、床に転がった。額に汗がにじむ。思わず、石井の方を振り向いた。
「おまえと一緒にお風呂、入るのか」
「って言うか、私一人とだけじゃないじゃん。学年の女子みんなそうじゃない。私おかしなこと言ってる? どうしたの、キノちゃん」
石井は顔を覗き込む。確かに顔が真っ赤だ。
「いっ、いや! 何でもない!」
「キノちゃんのナイスボディを、間近に見れるなんて。考えただけで、ぞくぞくしちゃう」
「ははは、相当やばい、やばすぎる……」
大広間に生徒全員が集められ、今後のスケジュールが発表された。生徒会役員が壇上に上がる。生徒会長の斉藤美佳が挨拶した。
「最終日には実力テストがありますので、みなさん頑張って下さい。その後のお楽しみ会もありますから、期待して下さいね」
「ほほー。お楽しみ会ねぇ、私は毎日かも」
「石井……」
キノは、細笑む彼女を遠目で見ていた。その石井を別の角度から見ている海原がいる。
「……海原」
「キノ、しっかり」
ロビーの椅子に二人で座っていた。マコは優しく励ましくれている。
「なんか、すごく自信ない……」
キノにとって、マコ以外に一緒に過ごせる者はいない。置かれている境遇を理解しているのは、マコだけだ。キノは学校で過ごすくらいのストレスは、家に帰ったら発散できる。だが、一日中マコ以外の者と顔をつき合わせていることなんて、考えられなかった。
「キノ、ここでは私は助けてあげられないから、自分でなんとかしなくちゃダメだよ。別に普通にしてればいいじゃない。誰もキノが男だなんて知らないし、知ったところで、本当だとは思わないよ」
キノは複雑な顔をして、いつもの威勢がどこかに行ってしまっていた。今度ばかりは、扱いに困っている。
「大丈夫よ。ほら、ここには勉強しに来てるんだし、それに専念して」
心なし、元気がないキノだ。そんな何でもないことに悩んでいる姿が、マコにはいじらしく思えている。ふと思いついたように、彼女は言った。
「そう言えば、女の子じゃないよね、今週」
「え? うん。どうして?」
キノはマコを見る。
「何でもない。じゃ、みんな待ってるよ、行こう」
4
「鈴美麗さん、ちょっといいかな」
廊下を歩いているキノを、呼び止めたのは結城だった。
「結城、何か用か」
「この前、僕の顔見て言ったこと」
キノはしばらく考え込んでいたが、やめた。
「何か変なこと言ったっけ」
「その、肌が綺麗で、女みたいって……」
結城は俯いて呟く。
「あっ! き、気にしてるのなら、謝るよ。ゴメンね、バカなこと言って」
思い出し、申し訳なさそうにキノは言った。
「僕も女の子なんて、いきなり言われた時、随分落ち込んじゃたし。まあ、最近は慣れてきたけど」
結城はぽかりと口を開けて、見つめている。
「あの……、鈴美麗さん。僕もって、君は女子でしょ」
「うっ。あ、はあ、そう……だよね」
確かにとキノは思ったが、再び心に突き刺さる返答だった。何故かもう一度落ち込む。
「まあ、とにかく、ゴメンね」
キノは深く頭を下げた。
「いや、違うんだ」
結城は慌てて、キノの行動を止めようとする。
「え」
「鈴美麗さんみたいな素敵な人に、言われて……、その……」
彼は、はにかんでいた。
「……」
「嬉しかったんだ。言われて」
「はう?」
沈黙が続く。キノの頭の中はフル回転していた。立ち直り、腕を組んで頭を捻る。
「えっ、と……。何だっけ」
「鈴美麗さんを目の前にすると、とても参考になる」
いつしか結城は、キノの目の前にいた。彼の目は澄んで、煌めいていた。それとは裏腹に、話が見えずに、キノは混乱しかかっている。
「参考? いったい……」
「その……、変だと笑わないでね。あの……、女の子になってみたいんだ」
「はああああああ!?」
キノは突拍子もないこと言葉に、大きな声を出した。
「しっ! こっ、こんなこと、今まで、誰にも言ったことないんだ」
「言わないだろ、普通は」
「でも鈴美麗さんには、何故か信じてもらえそうな気がしたんで」
キノは結城が、自分の秘密を知っているのではないかと思った。
「どういう、こと」
キノは、結城を困惑した顔で見る。
「ゆっ、結城は、女装したいと思ってるのか」
「出来れば、それ以上」
倒れそうだった。キノは代われるものなら、そうしてあげたいとも思った。
「なぜ僕だと信じるととわかるの? この通り、石井と同じ女だぞ。おまえを変態扱いすることも出来るんだよ」
「でも、しないでしょ」
「何故、そう言いきれる」
「だって、容姿はすごく綺麗だけど、今まで鈴美麗さんの行動は、女らしくない」
「え」
図星とはこのことだ、とキノは思った。女らしい行動なんて、取れるわけがない。マコにも仕草から歩き方、言葉使まで教えて貰ったが、これまでの癖は抜けなくて当たり前だった。所詮、「私」ではなく「僕」なのだ。
「鈴美麗さんは、本当に男みたい」
「あ」
結城にこれだけ注目されていたことに、キノは驚いた。彼はじっと見つめている。
「本当は、男じゃない」
「そっ、それは……」
視点の行き場がなく狼狽えた。これを端から見たら、さながら告白されている場面になっていることだろう。しかし状況としては、窮地に立っている。これまでキノは男だと言い張って来た。が、この場の状況では、かえって知られたくないと思っている。なぜなら本当に知られたら、変態どころかそれ以上なるからだと、キノは理由をつけていた。
「鈴美麗さん、本当は女装してるの?」
「はあん?」
そんなものだったらいいけど。
「いつも考えていたんだ、君がそうなら」
キノはこれ以上、話をこじらさないように、半分諦めて言う。
「結城、僕は本当に女だ。ここはあるけど、ここはない」
キノは胸と股間を手で押さえた。彼の目がまだ疑っている。ため息をついた。キノはためらいながらも、言うしかなかった。
「僕は……、レイプされそうになったんだよ……」
彼の目が見開く。キノは、結城から顔を反らした。
「ごっ、ゴメン!。いっ、嫌なことを」
キノの困った表情に、今度は彼が狼狽える。
「僕は女で、結城の思う女装とは関係ない」
「ゴメン……。でも、鈴美麗さん、本当に僕は嬉しかったんだ。今度……あの」
「キノちゃん!」
石井が飛んできた。
「いしいー」
キノにはなぜだか彼女が、今は天使に見える。石井はキノの腕を掴むと、引き寄せた。
「何してるのよ、こんなところで。結城くん、私たち今からお風呂行くから、またね」
「あの……」
結城は言い掛ける。
「何かわかんないけど、すればいいじゃない」
間にいる石井は訳がわからず、二人を交互に見回した。
「鈴美麗さん、協力してくれる?」
「結城が本気で、そうしたいんだったら。応援だけね」
キノはちょっとだけ、口元を緩めた。
「ちっ、ちょっと! 何よ、二人だけで!」
石井は怒って、キノを結城から離すために引っ張っていく。女子部屋に入ると石井は叫んだ。
「キノちゃん!」
「なんだよ。大きな声だして」
キノは入浴道具を用意する。
「何の協力するのよ、結城君に」
「別に、石井には関係ないよ」
膨れっ面の彼女は、道具を片手に構えていた。
「マコさんに言いつけるから」
石井は鼻息荒く言う。
「なんで、マコが出てくるの。結城とは話をしていただけだよ」
「じゃあ、何話していたか言ってよ」
石井は腰に手を当て、キノの前に立ちはだかった。
「それは、言えない」
「きー!」
彼女の苛つきは、頂点に達している。
「やっぱり、女って面倒くさい……」
石井はバックの中を開けて、何かしていた。
「もしもし、マコさん。キノちゃんったらね、結城君と怪しいのよ!」
「いっ、石井! どこ電話してんの!」
携帯電話を持つ彼女に向かって、慌ててキノは叫んだ。
5
大浴場、露天風呂。湯煙がふわりと立ち昇り、とても心地よく、早春の風景を和ませていた。しかし、そんなことに気を回す男共ではない。さっきから、隣の女湯の気配を色々と想像しては、盛り上がっている。五班の海原と藤井は、湯船に浸かっていた。
「で、海原。どうなってんの、ホントのこと」
海原は無言だ。大きな掌で顔を洗う。
「何か教えてくれよ」
「話すことは何もないっス」
藤井はしつこく、食い下がった。
「全くないってことは、ないだろ」
海原はため息をつく。
「藤井君、何故そこまで、聞きたがるんですか?」
「だって、おまえ……」
と彼が言い掛けたとき、隣で歓声が上がった。男子の話が静かになる。動きを止めた彼らは、聞き耳を立てていた。
「藤井君」
「しっ! 黙ってろ」
彼は手を挙げて、海原の言葉を制止する。
「いや、その……、僕は」
「あの声は、山本だな」
藤井の分析が始まった。彼の耳がヒクヒク動いている。
「……はあ」
海原は心なしに返事した。顔をもう一度、洗う。眉間に皺が寄った。
「僕は……、石井さんのこと……」
「ぬ!」
思わず、藤井は叫ぶ。彼は微動だにしていない。
「……石井だ」
海原は、湯面を大きく揺らして、背筋を伸ばした。揺れた水面は、藤井の顔に直撃する。面食らったようだが急いで顔を手で顔を拭き、再び先ほどの体制に戻った。海原も隣でじっとしている。
「石井が来たって、ことは……」
藤井は顎に手を当てた。
「……鈴美麗さんも来てるんですね」
「わあああっ!」
彼は背中からのささやきに驚き、声を張り上げる。
「し、しぃー!」
藤井は湯船にいる男子全員から、非難を浴びることになった。
「なっ、なんだよ。結城」
「結城君……」
海原は白い肌の彼を見る。目が止まった。
「僕も鈴美麗さんを、……確かめたいんだ」
「キノさんを? 何を確かめるんですか」
海原は不審に思って、結城の顔を見る。彼は綺麗な素顔をしていた。
女湯から、石井の声が聞こえて、また歓喜が上がる。海原の不審感は、かき消されてしまっていた。
「本当に、僕も入るのか」
「何言ってんのよ。早くキノちゃん。みんな、もう行ってるから」
キノは立ち止まって、石井を見た。
「みんなって、クラスの女子もか」
「当たり前じゃない。大浴場なんだから」
自然に背中が仰け反るキノを、彼女は押す。半ば強制的に、『女湯』の暖簾をくぐらされた。
「マコさんも来てると思うよ」
「そっ、それはいいけど」
中に入ったキノは、辺りを見回し落ち着かない。生まれて初めてだから、仕方がなかった。
「キノちゃん、早く、早く」
石井に引っ張られて、脱衣所まで連れられた。
「鈴美麗さん、やっと来たね」
タオルだけでしか体を隠してない山本を見て、キノは叫ぶ。
「わぅ!」
「なに?」
驚く彼女を前にして、キノは思わず手で顔を隠して、反らした。
「どうしたのよ、キノちゃん」
「いっ、いや……」
振り向くと、石井はブラジャーを外して、胸が露わになっている。
「きゃう!」
キノの叫び声は続いた。鼻から熱いものが流れ落ちてくる。
「ちょっと、キノちゃん! 鼻血、鼻血出てるよ!」
「なっ、何でもないから、何でも……」
鼻を押さえ、努めて平静を装うキノだが、顔中真っ赤だった。そんな中、背中を突つかれる。おそるおそる視線を移すと、女子二人がいた。
「大丈夫、キノ」
「まっ、マコぉ!」
その声に反応する。と、目の前にもう一人が視界を遮る。
「じゃーん、キノちゃーん! お元気?」
千秋は丸裸で、迫ってきた。
「きゃあー」
かくして、熱い女性たちの洗礼を受け、卒倒する。今までにないほどの顔の赤さで狼狽え、震えるキノだった。
「ちっ、千秋、僕は何も見てないからな!」
手を目に当てながら、キノは叫ぶ。
「はいはい。ここ、女風呂だから、自由に見てもいいのよ。ねえ、マコさん」
「えっ、ええ……。まあ……」
マコは困った顔で頷いた。
「キノちゃんは、見てもいいし、私もキノちゃんを見てもいいのよね」
「ばっ、バカやろう!」
「お風呂入ろうよ、一緒に」
千秋は面白がっている。キノは後ずさりしながら、脱衣所から逃げようとした。
「ダメよ、キノちゃん」
石井がいた。
「石井、何か羽織れ」
「あなたのナイスボディを見ないと、それ!」
最終的に、女性に手を挙げないキノは、身ぐるみ剥がされた。
「……はあ」
「やっぱり……」
キノの艶のある色白の美しい姿態が、長い髪と相まってその存在感を際だたせている。
「マコさんも凄く、綺麗だけど、キノちゃんは特別だわ」
石井は改めて、納得した。他のクラスの女子も注目している。
「もう、じろじろ見るな」
膨れっ面のキノは、そそくさと一人で浴場へ小走りした。
「ゴメン、ゴメン」
石井は背後から付いていく。
「キノ、これも試練よ。頑張ってね」
細長い髪と小さいお尻の後ろ姿を見ながら、マコは呟いた。
「マコさん、毎晩あの綺麗な体を、独り占めしてるんだね。羨ましい」
「なっ、何、言ってるのよ。毎晩だなんて」
マコは、千秋の童心のような瞳を見て、焦る。
「へえ、時々は、あるんだ……」
「キノちゃん、そんなに急いで体洗わなくても……」
「ぼっ、僕は、長湯は出来ないんだ」
嘘だ。キノはゆっくり入るほうだ。長い髪の毛のケアは、それだけでも時間が掛かる。キノはこのクリーム色の髪だけは、最近大切に扱っている。おんなキノに敬意を払っている、というのが持論らしい。だがこの合宿ではそうも言ってられなかった。速度優先だ。
「じゃ、これで」
「何言ってるのよ、露天風呂に行かなくて、温泉じゃないわ!」
立ち去ろうとするキノを、石井は捕まえて言った。
「もう、いいよ」
「キノちゃん、マコさんに結城君と何かしていること、言っちゃうよ」
石井の目が光る。
「おっ、おい。脅かすなよ」
「どうかしたの?」
「千秋」
千秋が目の前に立っていた。如月に怒られそうなくらい随分見えているが、キノは顔を反らす。
「マコさんじゃなくても、本田さんにでも」
「わかった、やめて。行くから」
「なになに? 何か面白いこと?」
「何でもない」
千秋だと確実にこじれるはずだ。そうでなくても石井でも十二分に危なかった。
外に出ると、キノを見た女子が大騒ぎしている。恐らくその声は、男子にも届いているだろう。確かに校内でも屈指の美形キャラだから、騒がれても仕方がなかった。脱いでも、その容姿が継承されている。キノは恥ずかしさを通り越して、尋常ではないほど盛り上がりに戸惑いを見せていた。
「……アイドルみたい」
マコは複雑な顔で、ぽつりと呟く。
「学校内でも、知れ渡ってるから」
反対に千秋はなんだか、嬉しそうだ。
キノは、気にしてない振りをして、そそくさと湯船に浸かる。そして、ため息をした。声が止むまで目を閉じる。やがて、周囲の自然の音が聞こえてきた。
やはり解放感があるせいか、気分が良くなってくる。火照った体も、少し冷めて気持ち良かった。湯に身を沈めて、目を閉じる。キノの精神は落ち着き、沈とした自然の精気を感じ取っていた。
「何もかも忘れられる……。やっぱり温泉いい」
「なに、感傷的になってるのよ、キノちゃん」
キノは睨む。
「石井。お願いだから、座ってくれないか」
「キノちゃん、夜はこれからよ!」
ガッツポーズだ。
「おまえさあ、海原が呆れるよ」
石井は、キノの目の前に座った。
「あの、キノちゃん。何だか誤解しているよ」
「何が?」
「なぜ、私と海原をくっつけたがるの」
「だって……」
真顔の石井はじっと凝視している。額には汗が滴り落ちていた。キノは一瞬、彼女の本心が見えなくなる。
「石井は、海原のこと何もないの?」
「はああ? なんでそうなるの。海原とは……、お友達よ」
明らかに彼女は、否定していた。
「でも、おまえ柔道部のマネージャーしてるし。何でもないのなら、そんなことしないだろ」
石井は困った顔になる。
「だって、最初は海原のこと変態扱いだったじゃないか。それが文化祭の時には、良くなったし。知ってるよ、柔道部まで校庭を二人で歩いていたことなんて」
「それは……」
返事に、歯切れの悪いさが続いた。キノは彼女の一挙一動に、注意を向ける。
「とっ、とにかく、私と海原は何でもないんだから。っていうか、そんな変なことにはならないよ、……多分」
石井が、言葉に詰まっていた。困っているのがわかる。
「教えてよ、石井がどう思ってるのか」
「私は……、まだ、わからないよ」
彼女は呟いた。それから黙り込む。
「ふーん」
キノは石井を見た。意外なほど、困っている顔が素敵だ。
「この話題、もうやめようよ。面白くないし」
「はいはい。でも石井、はっきりしないといけない時は、あるんだよ」
キノは宥めるように言った。
「いつよ、それ」
「さあ……、わかんない」
6
朝から昼まで学習時間だ。昨晩は石井がずっと話していたが、キノはすっかり疲れて、すぐに寝てしまった。
「みなさん、お昼まで頑張りましょう」
と声を掛けたが、藤井も海原も眠い目を擦っていた。結城だけがしっかりとしている。彼はキノに目を合わせた。
「しかし、おまえらそんなに、夜更かししたのか」
キノは二人に訊ねる。
「ばか、泊まりとなれば、男が話すことなんて決まってるだろ」
藤井は鉛筆を手で、くるくると回しながら答えた。
「何かな?」
「そりゃ、女のことだ」
「やっぱり、男共はいやらしい」
石井は呟く。
「はいはい。海原も一緒になって話していたのか」
キノは藤井を見た後、海原に振った。
「海原くんは、じっと聞いていただけだったよ」
結城は本を見ながら言う。目だけでキノは彼を見た。
「おい結城、俺だけ変な奴じゃんか」
「わかったわかった。早く勉強しろよ」
キノは呆れて、宥めた。
「そういう、おまえらも話し込んだんだろう。鈴美麗は眠たそうじゃんか」
「いっ、いやー、僕はほとんど覚えていない」
「ちょ、ちょっとキノちゃん! せっかく、色々教えてあげたのに」
キノは笑う。
「何だよ、色々って? おまえらも二人で男の話でもしてんだろ」
今度は藤井が問い始めた。
「いっ、いや、僕はしないけど……」
結城の視線をキノは感じる。
「何でもいいじゃない、今は勉強よ!」
石井は声を上げた。
「そうだよ。早くやれよ。昼からは課題テストだぞ」
「えっ?」
五人は振り向く。そこには瀬尾が立っていた。
「どの部屋も、色々とうるさいがここもしかりだ」
「瀬尾先生、合宿、来てたんですか」
藤井が驚いて訊ねる。
「当たり前だろ。新学期からは担任だぞ。だから、頑張って成績上げといてくれよ」
彼女は苦笑いした。
「みんな、親睦を深めるのはいいが明日は総仕上げのテストだから、しっかりやっておかないとダメだぞ」
「明日、総合テストか……」
五人のため息が漏れる。
「じゃ、頑張って」
瀬尾は部屋から出ていった。
それからしばらくは、メンバーは無言になる。それぞれ取り付かれたように、机に向かっていた。
7
その日は昼食の後実力試験があり、夕食までの時間はその結果のやり直しと、メンバーは精神的に疲労していた。その後は今後の進路について、教務主任と担任との個人面談があり、キノは不安だった。
このまま自分は何になってしまうのか。進路以前に、自分の性別がわからない、人生の行く末がわからない。このまま一生女なのか、男に戻るのか。この問題はどんな入試問題より難しい。まして解答は神のみぞ知る。いずれは、どっちかになるしかないのだ。ただ迷う。どうしようもないが、迷う。
キノは考えを止めた。
この日が楽しければよい。そんな投げやりな気持ちになる。
「もう、はっきりしないといけないのか、おんなキノ……」
面談室となっている瀬尾たちの部屋から出ると、キノはゆっくり廊下を歩きだした。外の春めいた景色に足を止めて、じっと眺める。鳥たちが自由に飛び回っていた。
「いつかきっと、なんて言葉は忘れそう……」
キノは、その場で両手を振り上げ、背伸びする。
「風呂、入ってさっぱりしよう」
再び歩きだした。
露天風呂には誰もおらず、キノひとりだけだ。静けさの中に湯の落ちる音や、木の枝がざわめく音だけが聞こえている。
「こんな時ぐらい、千秋や石井のうるさい音が欲しいのに……」
ふと、この露天風呂を男女に分けてある壁が目についた。
「この壁の向こう側で、男子たちが騒いでるんだろうな」
おそらく自分も、いたに違いない。そう思うと、キノは悔しかった。
「まさか、クラスの女子の裸、みんな見るとは思わなかった」
壁一枚の向こう側が、キノにはそれは遠くに見えている。
頭に束ねたクリーム色の細長い髪の数本が、はらりと湯の上に浸った。ゆらゆらとそれは漂いながら、伸びていく。
「近くて、遠い……か」
それはどこまでも、あの壁の向こう側まで、伸びていきそうだった。
ため息をした途端、顔に湯が掛かった。
「柄にもなく、女らしくなっちゃって、どうしたの」
いつの間にか、マコが隣にいる。キノは落ち着いた表情に変わった。彼女の側が一番、居心地いいのだろう。
「あの壁の向こう側が、遠いなあって」
「あれのこと?」
マコは指さした。
「うん。あの向こう側に、僕はいたはずなんだけどな」
「……そうね」
彼女はキノの横顔を眺める。
「ねえ、男だったら私のこと、向こう側から気になっていた?」
マコはキノの肩に、自分の肩を付けた。揺れる水面が彼女の胸元を隠す。ついつい、そんなことろに目が行ってしまうキノだ。
「もっ、もちろん。今も、その……、凄く、気になる……」
「千秋ちゃんや石井さんの裸、見てても?」
「そりゃそうさ。マコとは違うもん」
マコはじっとキノの瞳を見つめる。
「エッチ」
「なっ、なんだよ。だって、男だよ。僕は」
キノは横を向いて、膨れれた。
「キノなら、いつ見られても構わないよ」
目を丸くして、仰け反る。
「ばっ、バカ」
「やっぱり、面白い」
キノは人差し指で湯を弾き、笑っているマコの顔に掛けた。彼女も反撃する。湯の弾ける音が、辺りを賑やかにしていた。
石井は、ようやく二人を見つけると、声を上げた。
「きっ! の、ちゃ……ん……」
二人で揃って並んでいる様は、誰にも崩し難い雰囲気を持っていた。石井には、さながら男と女が、寄り添っているようにも見えている。彼女は笑顔の二人に、声が掛けられなかった。
「やっぱり、マコさんが一番か……」
「そりゃ、当然よ」
石井は驚いて、振り向く。
「本田さん」
「キノちゃんが大切にしているのは、マコさん。マコさんが大切にしているのは、キノちゃん。誰もどこにも入る余地なんて、無いよ」
「でも、本田さんとキノちゃんって結構、仲良いよね。本気で喧嘩するくらい」
千秋は咳込んで、笑った。
「確かにキノちゃんは、私のことも大切にしてくれてる。でもそれは愛情とかじゃなく、なんて言うんだろう。そう、男同士の友情みたいな。だから邦彦にも海原くんにも、愛情じゃなく、友情が見える。萌える」
「男の友情……。キノちゃんが時々、格好いい男に見えるもんなぁ。そんな気持ちを持っているから?」
石井は納得できる部分を見つけたように言う。
「あの子、そんな心も持ってるから」
「羨ましい。何でも見通せるなんて」
「本当にそう思う? 私には大変に見えるよ……」
千秋は少し顔を曇らせた。
「今までキノちゃんの行動を見ていて、それが原因で大変な目に合っていると思う」
彼女の目は、キノを追っている。
「だから、マコさんがいないとダメなの。いいえ、マコさんじゃなきゃ、キノちゃんは支えられないの。絶対に」
石井は真剣な千秋の顔に、圧倒された。
「あの人がいなくなったら、キノちゃん、多分、崩れちゃう」
マコが佐伯と婚約した時の出来事を思い出しながら、千秋は断言する。怪我を追ったのは、確かに緒方のこともある。しかし傷心の体には力が入らず、気力がなくなってしまったせいだと、彼女は感じていた。
「そんな……」
ふと、二人の笑い声が聞こえてきた。
「本田さん、キノちゃん、好きなの?」
石井は、千秋の顔を見る。笑顔の彼女は言う。
「好きよ。大好き。私もキノちゃんを支えたいの。彼女が邦彦と私にしてくれたように」
「本田さん……」
見守る千秋の顔は、石井には眩しく見えた。
「やっぱり、叶わないなぁ」
「叶わないよ。あきらめな」
千秋は石井の方を振り返る。心なし、彼女の顔が寂しげな感じに見えた。
「石井さん、もっと近くを見なよ」
7
合宿最終日は、実力テストで幕を閉めた。終わってみるとなんだかみんな疲労困憊で、親睦を深める時間など無かった。
「みなさん、お疲れさまでした」
キノは言葉を掛ける。
「今日の夕食後、反省会があります」
「まだ、何かやんの。もう面倒くさいな」
藤井はキノに向かって、ぼやいた。
「仕方がないじゃんか。あるものは、ある」
キノも少々苛ついている。
「仕方ないですね」
海原は言った。石井は無言でやりとりを聞いている。昨日から元気がない。それは、キノにはわからない。
「石井さん、大丈夫ですか? 体調でも悪いのですか」
彼女は海原を見た。
「別に」
「そうなら、いいですけど。帰ったら、春の試合の……」
「うるさいな!」
石井は声を荒げる。室内は静まり返った。
「どっ、どうしたんだよ」
藤井は狼狽えた声を出す。キノは石井を見た。彼女は唇を噛んでいる。立ち上がると、部屋から出ていった。
「石井!」
キノは彼女を追う。海原は目を丸くしていた。
「何してるんだよ、海原」
「何って……」
彼も狼狽えている。
「なぜ鈴美麗が出て行って、おまえが追わないのかよ。石井の奴、なんか思い詰めてるぞ」
藤井は海原を諭した。
「海原君も、石井さんを追って下さい」
結城も同調して言う。
「早く行け!」
石井の後悔はすでにきていた。わかっているのに、感情を押さえることが出来なかったことに、恥ずかしい思いをしている。
「なぜ、あんなことを……」
じっとしていられなかった、キノがマコを欲しているのに、隙間などないことなのに、千秋から言われて悟ったはずなのに、出来なかったのだ。涙が出そうなくらい自分に、腹が立っている。
彼女はとぼとぼと廊下を歩いていく。ふと、角から飛び出した男に石井はぶつかって転倒した。
「すっ、すみません!」
ぶつかった男も転倒している。ここの宿泊施設は、貸し切りではないため、一般の客も出入りしていた。
「痛てえ! 痛てえよ! お嬢ちゃん!」
浴衣姿で、帯や浴衣が緩んでいた。シャツが出ている。
「すっ、すみません! 大丈夫ですか!」
明らかに男は酔っていた。吐く息には、鼻を摘むようなアルコール臭が混ざっている。
「お嬢ちゃん、こりゃあ骨が折れたわ! 痛ててて」
「そんな!」
石井は酒臭いのを我慢をして、抱き起こした。
「あーあ、こんなところにいた。おい、どうしたんだ」
男と仲間らしき者が、二人来る。
「すみません、私がこの人にぶつかってしまって」
男たちは、ちらりと石井を見た。
「あっ、いいの、いいの。気にしないで。こいつ、いつも酔うとこんな調子だから。怪我なんてしてないよ」
石井は幾分か安堵する。男から離れた。
「でさ、こんな奴よりも、俺らとお話しない?」
「えっ?」
一人の男が石井の手首を掴む。
「ちょ、ちょっと」
「なに君、学生さん? どっか高校?」
「放して下さい」
彼女はもがいた。
「わかってるよ、俺らの部屋行こうよ。色々お話しよう。部屋行ったら、お友達も呼んでさ」
「なっ」
石井は、手を振り解こうとする。しかし無駄だった。
「放してよ、大声出すわよ!」
「まあまあ、そんな怖がらないで」
と言いながら、男たちは石井の体を引きずっていく。
「たっ、助けて!」
彼女が叫んだ時だった。
「あひいいん!」
先ほど酔っていた男が、廊下脇にある庭園の池に飛んでいき、沈む。
「なんだ?」
振り向いた男たちの目の前に、大きな体の男が立っている。眼光鋭く、見据えていた。
「放しなさい」
「てめえ、誰だ」
「彼女を、放しなさい」
男たちは石井をまだ、連れている。
「海原!」
「何、お知り合いかよ。じゃあいいよ。彼女の後始末してくれる。床に頭付けて土下座して詫び入れてよ」
「そんな!」
男たちは、啜り笑った。海原はゆっくり膝まずく。
両手を床についた。
「海原! やめて!」
彼はそのまま、床に擦り付けるように額を付けた。
「彼女を放して下さい」
男の一人が海原の前に立つ。彼の視線は、床を凝視していた。
「ぼくちゃん、わかってないな。土下座ってのはこうするんだよ」
男の足が海原の頭を踏みつけ、顔を更に床に擦り付ける。
「おい、もっと言うことあるだろう。目上の人への口の聞き方が、なってないなぁ。許して下さい、お願いします、だろ」
「海原、やめ……」
彼の顔は紅潮している。目が細い。
「ゆ、ゆるしてください……、お、ねがい……」
「海原!」
石井は叫んだ。
「……します」
彼の体が震えている。廊下についている指が、廊下を押さえつけていた。指先の爪の色が白くなっている。
「あははは、バカだねこいつ。言っちゃったよ。せっかく、女の子にいいとこ見せるはずだったのにな」
男の足が、海原の頭を更に踏みつける。
「いいんじゃない。暴力反対で。俺、暴力嫌いだから」
石井を押さえつけている男も笑った。
「いいね。でもさ、どうよ? 許してあげる?」
男は口元を上げる。
「そりゃ、許すさ。彼の誠意は良く伝わったよ。完璧と感動。あとは、こっちの女の子に、誠意を見せてもらわなきゃな」
「な」
海原の細い目が、開いた。
「女の子には、どうしてもらうの?」
「そうね。何がいいかなぁ。色々あるけど、やっぱ、一人じゃ寂しいから、部屋の友達呼んできて、合コンやろうよ」
「そんな! もういいじゃない! 彼があそこまでしてるのに!」
男は石井を引き寄せる。
「何言ってんの、そっちが悪いんでしょ。僕たちの友だち突き飛ばして。あの男は、池に投げちゃうし。被害者だよこっちは。警察に言ってもいいんだよ僕たち」
「ひっ、卑怯者!」
男は、石井の耳元で囁いた。
「大人なめてると、酷い目に合っちゃうよ」
「友達呼んでよ、可愛い子たくさん」
男たちは笑う。
「い、いや!」
石井は首を振った。
8
「あー、お取り込み中、すみません。僕の友達、返してもらいますよ」
「あーん?」
男たちは、声がした背後を振り向く。
「おう!」
彼らは驚き、動きが止まった。目を丸くしている。
「きっ、キノちゃん!」
「石井、おまえ、何してると思えば」
キノはため息をついた。
「き、君は、この子の友達かい」
「そうです」
男たちは、キノの頭から足の先までを、執拗に嘗め回すように見ている。
「そうかい、いやー良かった。今ね、呼びに行こうかとこの子と相談してたんだよ。君なら最高、大歓迎」
「へー」
キノは、石井たちの先いる大男を見た。足で頭を押さえつけられている。
「あの男も君の友達かい? ごめん、ごめん。君に免じて、許してあげるよ」
男たちは笑った。
「何してんだ、海原。おまえ、凄く格好悪いぞ」
「き、キノちゃん! 海原は、私のために」
キノは、石井を見ていない。海原の姿を直視している。
「おいおい、あの美人に格好悪いって、言われちゃったよ。かわいそう」
海原の頭に足を置いている男は、ケタケタと同情を込めて笑った。キノはじっと、額を床に付けている海原の頭を、見つめている。
「ははは、哀れな奴。キノちゃんだっけ、行こうよ、あんなキモイ奴ほっといて」
男がキノの手を、掴もうとした時だった。
「海原は今ものすごく、格好悪い。けど、そんなことをやらせているあんたたちが、もっと格好悪い。最悪」
「何か言った? 君、可愛いからって、大人にその口の聞き方はないんじゃないの。立場がわかってないなぁ、キノちゃん」
キノは男を睨む。その眼光に、男の体が押さえつけられた。
「キノと、気安く呼ぶな」
「なっ、なんだと」
男は形相を変える。キノは男が掴もうとしていた手首を、反対に持って引き寄せ、回した。男の片手が軸となり、その体が実に一回転する。鈍い音を立てて、廊下にたたき付けられた。男は、ぴくりとも動かない。
「こっ、この女!」
キノの元に走り出そうとした男を、大きな手が掴み、後ろに戻した。背後の大男はむくりと立ち上がる。細い目が見開いていった。
「ひっ、ひぃぃぃ!」
男は海原の顔を何回も殴打する。彼の唇が切れた。
「海原!」
キノは叫ぶ。海原は掴んでいた男を、前方に放り投げた。
石井の側を、キノが一瞬で通り過ぎる。彼女の頬を、クリーム色の長い髪が愛撫していった。石井は、かすめていくその髪に、大浴場でのキノとマコの姿を思い出す。
「あの髪を触れるのは、マコさんだけ……」
前方から向かったキノが放った技は、男を空中で三回転させて庭に落とした。
「言っておくよ。僕は、女じゃない」
石井には、キノの凛々しい後ろ姿が見えている。
「私が好きだった、キノちゃん……」
キノが振り向くと、髪が扇のように空中に広がった。石井は驚く。
「石井」
キノは廊下をゆっくり歩き出し、やがて石井の前に立った。
「きっ、キノちゃん」
突然、キノは彼女を抱き上げる。長い髪が二人を包んだ。
「キノちゃん?」
「あいつは、最低に格好悪いが、最高に男らしい奴だ。僕は、そう思う」
石井は、キノの顔を見る。赤い顔だ。
「おまえの目の前に、いるのは、僕じゃない」
彼女の目に、涙が溢れる。
「……そうね」
石井はキノに、強く抱きついた。クリーム色の髪に触れ、撫でる。
「ありがとう、キノちゃん」
やがて、彼女の力が抜けていき、キノから離れていく。
「石井」
「わかってる……」
彼女は、直立している大男の側に、立った。
「石井さん……」
「海原、ごめんね」
額に血が滲んでいる。
「こんなに、床に押しつけていたの……」
石井は、ハンカチを差し出した。
「石井さん、僕……」
彼は立ったまま動かない。
「睦、でいいよ、海原」
「むっ、睦さん、あの……」
石井の目は、海原を見ている。
「たっ、大会のこと、よろしくお願いします。僕、頑張りますから」
「うん」
彼女は頷いた。
「おまえら! なにやってんだ!」
藤井が駆けつける。彼は三人の男が失神しているのを見て、驚いた。
「げ! やりやがった!」
結城も後から駆けつける。そしてその光景の中の、キノを見た。
「やっぱり、鈴美麗さんは、男だ……」
8
最後の夜は「打ち上げ会」と称した、班対抗の出し物大会だ。なんでもこれも、点数化されるらしい。俄然、気合いが入る。
「ということで、俺と海原と結城でコスプレをする事になった」
「ちょっと、藤井君、どういうことになってるんスか。ねえ、結城君」
「いいんじゃないですか。僕は本領発揮で、嬉しいです。豪傑な海原君も頼もしいですよ」
キノと石井は引いている。
「やっぱり、海原は変態だったか」
「私、やはり考えを改めさせていただきます」
石井は深々と頭を下げた。
「睦さん!」
「もう、睦って呼ばないでください」
「石井、僕も言い過ぎた。あいつはいかん」
何故か二人は、息が合っている。特に石井は、始終笑顔だ。
「それと、鈴美麗と石井は、男装だな」
「まて、それはいかん」
つかさず、キノは言う。
「こんなことは滅多にない。俺らの学制服を貸すから」
藤井は指を立てて、囁いた。
「学制服!」
キノは興奮する。学制服と言えば、千秋が作った物しか着たことがない。更にいつも、女物を着ているせいか、無性に男物を着たい衝動にも狩られる。押さえきれない感情だ。
「睦さんには、僕のを貸します」
「大きすぎだよ。キノちゃんと二人で入れるよ」
石井は笑っている。
「つ、使って下さい」
「うっ、うん」
彼の真剣な形相の目に、思わず息を飲む石井だった。
「鈴美麗さんは、僕と交換ってのはどうですか?」
結城は、自分の学制服を指さした。
「交換?」
「そう、丁度背は同じですし、大きさがちょっと違うだけです。胸周りがきついかな、僕のは。鈴美麗さんの制服は着れると思います」
「なるほど、……って、おい。結城が僕の制服を着るのか」
キノは声を上げる。
「ダメですか。僕は一度着てみたんですけど」
キノは、「僕はもう二度と着たくない」と言いたいのを、我慢している。ひとつだけ気掛かりなのは、おんなキノの事だった。別の男子が制服に触れる事を拒みたいような気持ちもある。制服で何かが変わるとは思わないが、踏み切れないキノがいる。
「じゃあ、俺が着てやるよ、鈴美麗」
横から藤井が口をはさんだ。
「おまえは絶対、変なこと想像するから、嫌だ」
「キノちゃーん、そんなはっきり」
藤井は情けない声を出す。
「お願いします。僕に協力してくれるんでしょ、鈴美麗さん」
「あ、いや、それは……」
確かにキノは、彼に言っていた。
「はい、そしたら、決まりということで」
結城は、やる気満万だ。
「結城、おまえなあ……」
キノは、呆れる。「何故、女装癖なんてあるんだ、こいつ」と睨みつけるが、彼は陽気だった。
こうして五班の出し物は決まり、物いりの決戦が始まった。
大広間に集まった学生たちは、思い思いの出し物を披露していく。歌や踊りはもちろん、寸劇、コント、マジックショー、学校の先生のレアなものまねネタなどなど、意外なほどおもしろかった。
五班の一番手は、藤井コスプレだ。バスタオルを胸まで巻き、リボンをつけて登場する。口紅はどこからか調達してきていた。あまりのバカさ加減に会場から笑いが消え、静かになる。藤井は五班の出し物の主旨と、挨拶をした。しかしこの事態におじけついた海原の足が止まる。尋常ではないほどの冷や汗が、額や頬に流れ落ちていた。塗った口紅がぶるぶると震えている。そんな彼の背中を石井は突き飛ばした。
「海原! 行くよ」
石井は海原から借りた学生服の袖を、半分以上巻き上げていた。また裾は、膝まである。二人の登場で、会場の静けさは更に増すかと思われた。大きな男が頭に黄色のリボンを二つつけ、厚い胸板にはバスタオルが巻かれてある。更にバスタオルが短いせいか、野太い脚が露出して、逞しさとコスプレのアンバランスが妙だった。また石井の方も、海原のそのあまりにも大きい上着に包まれている姿が、愛くるしさを与えている。
会場は一気に盛り上がった。
「石井の奴、いつの間にか手をつないでやがる」
「じゃあ、鈴美麗さん行きましょう」
「いいけど、やっぱりその格好なのか」
キノは結城をまじまじと見る。
「もちろんです。せっかく、制服借りてるんですし」
「別に、僕の制服じゃなくても、女物の洋服でいいのに……」
「ダメです」
結城はきっぱり言った。
「僕の最終形は、鈴美麗キノなんです」
「いっ、いや……だからって、かつらまで用意することはないだろう」
キノの目の前には、クリーム色の長い髪の結城がいる。それが自分の制服を着ているのだ。
「最終形ですから」
「大体おまえ、何しに来たんだよ、ここに」
「これのためです」
「あほう」
石井が舞台から手招きして、呼んでいる。
「行きますよ、キノさん」
「ちょっ、結城!」
結城を追いかけながら、キノたちは舞台へ出ていった。舞台に出た途端、驚きの声が上がる。
9
「おい、あれ」
「す、鈴美麗さんと男子? 二人ともクリーム色?」
「なんか、違う気がするけど。誰? 綺麗な人」
「五班って誰がいたっけ?」
マコと千秋は、じっと見つめている。
「あれ? キノちゃん?」
結城の制服を着ているキノを見て、マコはなんだか胸騒ぎがした。
「いやん。キノちゃんの男子似合う! 萌えすぎ」
「きっ、キノ? なっ、何してるのよ!」
マコは思わず立ち上がる。
「まあまあ、マコさん」
千秋は無理矢理座らせた。マコは手を握り締める。
会場は、美人二人の登場に沸いていた。舞台の結城は、それこそ似合っている。女子だった。完全に「鈴美麗キノ」に成りきっている。
「なんか、おかしいよ。キノの制服見ていると、自分が自分でなくなるような。おんなキノを、捕らわれたような気がする……」
結城がくるくると、スカートを翻えす仕草を見せていた。
途端に心臓が鳴る。制服に重なるように、おんなキノが、見えた。
「僕、おかしい……」
「キノちゃん」
石井がキノの側に寄り、背中に手を添えてさする。キノは少し落ち着いてきた。
「石井、僕、結城があの制服を着ていたら……なんだか」
キノは浮かない顔をしていた。再び心臓の鼓動が高鳴る。
「せっかく、男子の制服着ているのに、ちっとも、嬉しくない」
「何のこと? キノちゃん?」
石井はその言葉の意味が、解らないでいた。
「キノ?」
会場にいるマコは、キノの異変に気づく。
「あの子、苦しがっている!」
「どっ、どうしたの、マコさん」
千秋は再び立ち上がった彼女に、驚いた。
「ちょっと、どけて!」
マコは生徒の間を縫って、舞台に駆け上がる。突然の乱入に会場が騒ぎ出した。
「マコさん!」
石井が叫ぶ。
「キノ、どうしたの」
「マコ、なんかおかしい。僕、凄く胸が痛いんだ」
キノの体が震えていた。
「あの時、僕は……、決めた。おんなキノを、守ることを」
「キノ。ここはいいのよ、安心して」
マコはキノの手を握る。震えていた。
「やっぱり、だめだよ。あの制服は、おんなキノのものだ。キノが悲しんでいる」
「キノ! 待って!」
マコは叫んだが、聞こえていない。キノは舞台で回っている結城の両肩を掴んで、止めさせる。
「どっ、どうしたの? 鈴美麗さん」
「結城、お願いだ。今すぐキノの制服を脱いでくれ。僕もおまえにこれ返すから」
上着のボタンを外した。会場は騒然となる。
「いっ、今? ここで?」
「ここでも、なんでもいい。早く脱げ」
キノは上着を結城に、押しつけた。
「そんなぁ! どうして!」
藤井と海原は目の前で、服を脱ぎ始めたキノを見て慌てる。
「おい! 何してるんだよ、鈴美麗! そんなことすることになってないぞ!」
会場はその光景に盛り上がった。
「むっ、睦さん、マコさん! キノさん止めて下さい!」
10
「何これ? 寸劇なの?」
男子は喜んで、手を叩いている。
キノはズボンも脱いで、結城に投げつけた。キノの白く長い脚が、照明に当たる。マコはキノのもとに、駆け寄った。
「結城君、お願い。早く脱いでキノに渡して!」
海原が前に出る。おもむろにバスタオルを広げる。
「げえー! 海原ー何してんだ!」
藤井も同じように海原の横に立ち、広げた。
「藤井ー! おまえもかー!」
「海原、藤井……」
キノは呟く。
「結城、勝手なこと言ってゴメン。でも僕には責任がある」
「責任? どんな?」
石井が、キノを海原の学制服に包む。
「キノちゃん、みんなに見せちゃダメ」
「石井……」
「結城君、あなたの凄いことはみんなに伝わったわ。キノの制服を返してあげて。海原君や藤井君も、協力してくれているから」
マコは結城の上着とズボンを持って、渡した。彼はため息を付く。
「そうだね。もういいかも」
結城は、何かしら事の重大さに気づいたようだった。キノの制服を丁寧に脱き、マコがそれを受け取る。彼女はそれを抱きしめて、キノのもとに近寄った。
「はい、キノ」
キノはマコから受け取ると、大事そうに両手に抱え、力が抜けたように床に座り込む。
「ごめんね、キノ……」
キノは呟いた。マコはじっとそれを見ている。
「嫉妬心なんて、もうない。わかってる。おんなキノが頼れるのはおとこキノしかいない。それを守ってあげれるのも、おとこキノしかいない……」
マコも決意していた。
「どういうことであれ、二人を引き離すことなど出来ない。私は二人の全てを、守り抜く」
キノは元の制服に身を包んだ。それまでの動悸は嘘のように、無くなっていた。マコはキノに近づく。
「マコ、ごめん。その……、僕はね、おんなキノのことは……」
マコはキノを抱きしめ、そして髪を撫でた。
「いいの……」
更にキノの耳元で囁く。
「私は、二人とも好きよ」
石井はそんな光景をじっと眺めていた。
「やっぱり、叶わないな。うん」
「ちょっと結城君、それ」
何かに気づいた石井は、指さした。
「ああ、まあ、一応女装なんでこれも一アイテムで」
結城は微笑む。
「それ、おまえの物だよね」
「でも、見覚えある」
マコは、思い出して言った。
「すみません」
結城は恥ずかしげに、頭を掻く。
「どういうこと。まさか……」
キノは目を丸くした。
「成りきるには、必須のアイテムです。制服を借りに行った時、バックからはみ出していたものを、拝借してしまいました」
「はあぁ? おまえ、それ」
「鈴美麗さん、服着ていると華奢なのに胸は結構大きいんですね。さすが、ナイスボディです」
詫びるどころか、感心している。
「結城、何してんだ! それ下着泥棒だろ! まさか、パンツまで盗ってないだろうな!」
「そこまでは、やめておきました。良心が咎めたので」
深々と頭を下げる結城だ。
「バカ野郎! とにかくそれ、返せ!」
キノは、ブラジャーを指差す。
「そりゃ、おんなキノも怒るはずよ」
マコは呆れて、呟いた。
「おい! パンツはいいから、もう終わったのか!」
藤井が叫ぶ。海原は失神寸前の状態で立っていた。
結局、五班は最下位の得点で幕を降ろしたのだった。
さて、それから数日後のある春の日に、キノは亜紀那より重大な事を聞かされるのである……。