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キノは〜ふ!2  作者: 七月 夏喜
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第四話 キノと千秋と想いの真実


 次の日の放課後、キノは教室に残っていた。額を机に付けて、考え事をしている。時折頭を上げ、周囲を見渡し、再び同じ位置に戻るという行動を繰り返していた。

「これは、千秋に聞くわけにもいかないな。とんでもないことになるような気がする。海原はわからんだろうから、とすれば如月か? しかし今日はマコと生徒会に行ってるし。うー」

 キノは唸る。机を掴んで、揺すった。

「指輪のこと、誰に相談出来る?」

「俺がどうかしたか?」

 机を揺する手が止まる。キノの目は見開いたままだ。

「鈴美麗、どうかしたのか」

 もう一度彼は言う。

「如月、今日生徒会では?」

「俺の仕事は、今日は済んだ。花宗院はまだ掛かるようだ。卒業式の準備委員だからな」

「そうか……」

 キノは額を机に付けたままの姿勢で、腕を組んだ。

「如月、千秋とは今日は?」

「あいつは、同人誌の原稿の仕上げとかで、早く帰ったよ」

 彼はため息をつく。

「じゃあ、今から僕に付き合ってくれない?」

「何だ。花宗院を待たなくていいのか」

 キノはゆっくりと顔を向ける。不敵な笑みを浮かべた顔を見て、如月はたじろいだ。

「大丈夫。今日は先に帰るように、メールしておく」

 キノは上体を起こすと、鞄から携帯を取り出し、メールした。額は赤い。

「いったい、何するんだ?」

「いいから、ついてきてくれたら教える」

 キノは鞄を持つと、軽やかに教室から出ていく。

「おっ、おい、鈴美麗! 何処行くんだ!」

 如月も慌てて、その後を追った。


 街は卒業や新入生、新社会人などに向けた装飾が多く、うるさい程目立っていた。町全体が春の雰囲気を漂わせている。また日が落ちるのも長くなったせいで、少し寒いが暖かさもある。そんな中、キノと如月はジュエリーショップにいた。目映いばかりの、輝く華やかな空間だ。如月は戸惑いを隠せなかった。

「おい、いきなりここは何だ」

「えっ。指輪と言えば、こんな店だよな」

 キノはショーウィンドの中のダイヤの指輪を見ながら言った。ケース内を見つめている。

「そうじゃなくて、何故こんなところに。しかも指輪って何のことだ」

「おおっ。凄い」

 キノの瞳は輝いていた。

「おい、聞いているのか。この店に俺ら、凄く場違いだぞ。大体、制服で入るか」


「ええーと、お客様……」

 ある店員が不審そうに、声を掛ける。振り向いた二人に、その口は絶句した。

 如月の長身で、引き締まった顎、切れ長の目、整った鼻筋。その顔は美形だ。そしてその隣には、クリーム色の長い髪を掻き上げるキノがいた。その頭から足の指先まで、容姿端麗である。キノは屈んで、ケース内を見つめていた。そのスカートから延びてくる両脚は、細長く美しい。

 彼ら二人の絡みは、さながら美男、美女の正しくあるべき姿を映し出していた。その実状を知り得ない店員は、倒れそうなくらい圧倒されている。

「こんな人たちって、あり得ない」

 店員から、ため息が漏れた。店内にいたカップルからもささやきが聞こえる。

「ねぇ見て、見て、あの二人。素敵。雑誌のモデル関係かしら」

 彼女は呟いた。

「ほっ、本当だ。でも高校生?」

 男性は、見入ってしまう。

「女の子の方は、人形みたい」

 かくしてその二人は、店内の注目を一斉に集め、羨望の眼差しを浴びることになった。


「如月、いろいろあるんだな。これ見て見ろよ」

 キノは彼の手を引っ張って、一緒に覗く。周囲など気にはしていない。おかまいなしだ。如月はその度胸に感心する。

「鈴美麗。わかったから。何故指輪が必要なのか、教えてくれ」

「うっ、うん」

 キノの顔は赤らんでいった。先ほどまでの威勢がなくなる。如月は、キノの方を向いて言った。

「まさか、自分でつけるのか」

「ばか。僕がこんなもんつけるか」

 小さな声で言う。

「じゃあ、誰がつける。花宗院か」

 キノは振り向かなかった。真っ直ぐに、ケースの指輪を見つめている。

「おまえじゃないとすれば、花宗院しかいないよな」

 如月はケースに映っているキノの顔に、気づいた。ため息を吐く。

「幸せそうだな、鈴美麗」

「おまえには関係ない」

 頬を膨らますキノだが、まんざらでもない。

「ほー、なぜ俺はここにいる」

「僕もひとりでこんな所、入れないよ」

 照れているが、如月の方は向かない。

「男同士だったら、いいってか」

「そんなとこ。海原は当てにならないし」

 キノは腕組みした。

「まあ、言えてるな。しかし海原じゃなくて俺でも、こんな品のある店じゃ、身がもたん。花宗院だったら、確かにここ以上ぐらいが相応だと思うが、俺には敷居が高すぎる」

 彼も苦悶している。

「そうなの。じゃあ、何処か知ってる?」

「駅前に行こう。いいところがある」

「そう。行こう」

 キノは微笑んだ。


「ちょっと、お二人。よろしいですか」

 キノと如月が店から出たところで、声を掛けられ振り返った。

 途端に、眩しい光が二人の顔に当たる。その場が夕刻なのに、明るくなった。

「なっ、なに」

 手をかざして、キノは目を細める。

「お二人はおつき合いされている、恋人同士ですか?」

 訊ねたのは女性だった。しかし、様子が違う。手に何かを持っている。マイクだ。

「まあ! なんて素敵なカップルだこと」

 女性は驚嘆の声を上げた。

「鈴美麗、テレビの取材だよ」

 如月はようやく事態が飲み込めたらしい。

「えっ」

「ほら、あれ」

 彼は指さす。指された方向に、中継車があった。そして、目の前にキャスターがいたのだ。マイクを持って、二人の前に立っている。先ほどの答えをもらうために、矢継ぎ早に質問をしていた。

「お二人のおつき合いは、いつ頃からですか」

「おい、鈴美麗。何か言ってやれ」

「なんで、僕が……」

 如月はキノの背中を押す。マイクが、キノの頬に付き刺さった。

「誤解のないように、説明してくれ。俺は苦手だ」

「あなた方って、本当に二人とも美男美女ですね。両方とも綺麗です。見入っちゃいます」

 女性キャスターは、意外なほど恍惚となっていた。

「あっ、あの……」

 カメラがキノに寄る。照明が否応なしに浴びせられ、顔が真っ白になった。キノは片手で光りを遮る。

「一体、なんの取材なんですか」

「街角カップルインタビューでーす!」

 にこやかなキャスターは大きな声で言った。

「は? カップル?」

「とても素敵な彼氏ですね。あなたも凄くいい。お似合いの恋人同士ですよ。是非ともインタビューしたいと思いまして……」

 キノたちの周囲には、野次馬が取り巻き始めた。

「如月知ってる、この番組」

「いっ、いや。この時間、学校にいつもいるし」

 キャスターはしきりに話しかけている。キノは愛想笑いをしているが、鬱陶しそうだった。如月はキノの袖を引っ張る。

「鈴美麗、来い!」

「おう!」

 キノは待ってましたと言わんばかりに、走り出した。二人の行動にキャスターとテレビカメラは、二人を見失う。

「あっ、あれ。美男美女は?」


 キノと如月は商店街を駆け抜ける。しばらく走って、公園の前にある自販機の前で立ち止まった。二人は息を整える。

「何か、飲む」

 キノはポケットから小銭を出して言った。

「おお」

 如月も財布を出す。

「如月、いいよ。おごるよ。僕が誘ったんだし」

「そうか」

 如月は公園のブランコに座った。そのままの体制で、二、三回足でブランコを揺らす。キノはその場所まで駆けてきた。缶コーヒーを、如月に渡す。リングプルを開け、一口飲んだ。キノは隣のブランコに座る。

「指輪。どうする?」

「なんか、疲れちゃった」

 ため息とともに、ブランコが揺れた。

「どうするつもりだったんだ」

「マコにね。贈りたいんだ……」

 キノも一口コーヒーを飲む。

「僕ら一緒にいるくせに、互いに何も贈り物していないんだ」

「そんなものなくたって、花宗院は気にしないだろ」

 キノは如月の方を向いた。しばらく見つめる。

「なっ、なんだよ」

「如月、おまえだって、千秋にメガネ買ってるくせに。かなり意識してるよな」

「そっ、それは……」

 如月は口ごもった。

「別に責めたりしてる訳じゃないよ。僕がそのことを千秋に訊ねた時、とても嬉しそうだったから。だから、いいなあって」

 キノはもう一口飲む。

「僕とマコの間には、そんなものがない……」

「……鈴美麗」

 如月は、目を逸らした。

「俺には二人が物なんかより、もっと強い絆で結ばれているよう思えるけどな。俺と千秋なんか目じゃないくらい、もっと深く」

「……」

「物を介してのつながりは所詮、自分に自信がないのさ。何か目に見える形がないと、不安になっちまう」

 如月は一気にコーヒーを飲み干した。

「逢っていても、千秋がまだあいつのことを考えている時があるよ。俺の入る隙間なんて、まるでないように感じる。それが堪らないんだ」

 キノはコーヒーを持つ手を見る。

 マコはいつも握ってくれる。いつも抱いてくれる。

「おまえの前で、こう言うと怒られるかも知れない。情けないけど、あのメガネは俺の精一杯なんだ。悪あがきっていうか」

「なんか……、ゴメン。茶化して……」

 キノは肩を落とした。

「僕、自分だけ舞い上がってて、如月のこと考えなかった」

 彼は首を振る。

「鈴美麗のせいじゃない。おまえは、俺の気持ちをはっきりさせてくれた。今も感謝してる。ただ、まだ俺が臆病なだけだ」

 キノは太陽が落ちて、オレンジ色に染まっていく公園の滑り台を見つめる。

「でも、千秋は嬉しかったんだよな。メガネ」

「うん。嬉しそうだった。間違いなく千秋は、おまえを見てるよ。そのメガネでね……」

 キノは微笑んだ。

「もっとおまえみたいに、俺も強くならないとな」

 如月は缶を握り潰す。

「鈴美麗、さっき言った店、連れていくよ」

「如月……」

「おまえも一応男だもんな。気持ちはわかる」

「一応って何だ」

 二人は笑う。立ち上がると、同時に走り出した。

「如月、男のよしみで、ひとつだけ強くなる方法を教える」

 キノはスカートを翻し、振り向いて言う。

「なんだ」

「千秋に、早くキスしろ」

 キノの後方で、彼が転んだ。


「デートしよ、キノ」

「いつも、学校に一緒に行ってるじゃない」

「違うの、日曜日に」

「日曜日……、って何が違うんだよ」

「違うの。男として行くの」

「ひょっとして、男装する?」

「だって、デートって男の子とでしょ」


 あの日から、そう、マコに体をずっと預けていた夜からだ。彼女のことが愛しくて堪らない。頭から手足の先まで、全てが可愛いい。以前以上に、離れると切なくなってくる。今いなくなったら、自分はどうなるのか。考えるだけで怖い。

 如月から教えてもらった店で、指輪らしきものを買った。決して高くはない。でもキノにとっては二人の間を繋ぐ、特別な物としての価値が十分にあった。

 キノは赤い小箱を机の上に置いて、見つめていた。椅子の上で両足を抱え込み、その膝の上に顎を乗せている。時々身体を揺らして、椅子を左右に動かした。

 花宗院真琴との付き合いは、この半年で急速に発展した。それまで恋心は抱いていたが、幼なじみという枠から一歩出ることが出来なかった。もし、真琴が誰か知らない男と恋に落ちたとしても、それに関わることなど考えられなかった。いつまでも仲の良い友達という関係が、この先にも永遠に続いていくものだと感じていたのだ。互いを知っているという気恥ずかしさが、かえって二人の間に大きな溝を造って、遠ざけていたのかも知れない。また気持ちを知ることで、関係が崩れてしまうのが怖かった。いずれはお互いが別々の道を歩むものだとも思っていたのだ。

 しかし事態は急変した。男から女に変化したことにより、真琴との距離は接近した。一緒に暮らすようになり、時々互いの身を寄せ合い、深く支え合うようになっていた。だが、如月が言っていたように、もう二人は見えない心の絆で、しっかりと結ばれているのだろうか。自分がまだ女の姿だからこそ、真琴が一緒にいてくれるのではないか。この先もずっと変わらない気持ちを、持ち続けていくことが出来るのだろうか。

 男になった時の想像が、出来ないでいる自分がいた。最近おんなキノの心が、瞬時的に出てくる。女になりきってしまう、あの日は身体の感触さえ違っている。いつか心が変わってしまうような不安感も、日毎に大きくなっているのだ。

 キノはゆっくりと椅子を回す。クローゼットの側にあるスタンドミラーに、今の自分が映った。情けないほど不安で歪んだ美しい顔がある。それを隠すように、一層膝に顎を押しつけた。細く柔らかい髪がはらりと落ちていく。ついには顔を伏して、目を閉じた。

 如月の千秋に対する不安も、今の自分にとってみれば些細なことのように思えてくる。まどろこしかった。彼は頑張れば、必ずうまくいくはずだ。素直になるかどうかだ。しかし、自分は願っても叶わない。

 キノはため息が出た。

 如月は男だ。どんなに見ても男だ。それだけでも自分よりも勝っていた。

「何か、考え込んでる?」

 キノは背後から抱き抱えられる。頭を上げて、振り向く。入浴後のマコがいた。

「どうしたの、怖い顔して」

 キノは突然立ち上がる。

「あ……」

 マコの手を無理に取って、ベッドに押し倒し、唇を重ねた。彼女の頭に巻いていたタオルがベッド上に広がり、パジャマのボタンが一つ外れる。

 前にも同じことをした。あの時はこうなることは、想像も出来なかった。

 キノは彼女のパジャマから荒々しく、乳房を掴んだ。クリーム色の髪が、マコの大きく開いた胸元に落ちていった。大きな悲しげなブルーの瞳が、彼女を見つめている。マコの瞳は、最初見開いていたが、やがて優しくなった。キノの手の力は、次第に抜け落ちる。

「キノ……」

 キノはそのまま、頬をマコの胸に埋めた。

「……欲しいの?」

 彼女の両手がキノの頭を愛撫する。大きな瞳は、乳房を掴んだ手を見ていた。目を閉じると、吐息が出る。押しつけた胸に彼女の体温を感じた。

「いいよ……」

 なぜそんなに、優しいのか。優しくなれるのか。マコは本当に僕のことが好きなのか。

「好きじゃなかったら、こんなことしないよ、キノ」

「こんなこと……」

 キノは我に返って、慌てて飛び起きる。マコの顔を見ると赤面した。

「ごっ、ごめん。僕、何を」

「謝らないの。キノだから……、キノだから、いいんだよ」

 優しいマコの茶色の瞳に見つめられて、更に赤面する。

「あっ、あ、あ、あの、これっ」

 机の上の赤い小箱を、マコに差し出した。キノにとって、実に格好悪い渡し方だった。今後二度とないくらい、ムードも何も無い。

 マコは暫く、小箱を開けて反応がなかった。キノはその顔を不安そうに見つめる。

「……ありがと」

 マコは背中を向けた。その肩が小刻みに震えている。

「まっ、マコ。ほら、その婚約の指輪とか、何も贈ってないから」

 気恥ずかしさを隠しながら、キノは震える肩に手を置く。しかし、肩はなおも震えていた。

「私って、やっぱり、バカ……」

「え」

「キノを離したくなくて……、私……」

 キノはマコを抱きしめる。

「離れないよ。本当はそんな物で、何かが変わる訳じゃないけど、受け取って」

「ううん」

 マコは潤んだ瞳で、振り向いた。

「嬉しいよ。キノから貰ったの初めてだもん」

 彼女は赤い小箱を胸に抱く。

「僕たちに必要なのは、信じ合えるかどうか。こんな女の子の格好をした僕をね」

「うん」

 ふと、キノは不安な顔になる。

「あのさ、マコ。もし僕がずっと女の子のままだったら……」

 マコは少し微笑んだ。

「私は、ずっとキノの側にいるわ。一緒におばあちゃんになろう」

 キノは複雑な顔に変わる。

「絶対ダメ! 男に戻ってやる!」

 拳でふくよかな胸を叩いた。

「それで、言われてもねぇ」


 次の日、事態は思わぬ方向へ進んでいた。

「昨日のテレビ見た」

「見た、見た。あれって、如月君と鈴美麗さんでしょ。あの二人、結局、付き合ってたの?」

「どうなってるのよ、二人」

 昨夕のテレビ中継の話題が囁かれている。

「如月って、鈴美麗を振っちゃたんじゃなかったっけ、文化祭の時」

「俺、フリーだって思ってたのに」


「……やばいな」

 キノはそう呟いた。廊下を歩いていると、どこからともなく昨日のテレビの話が聞こえてくる。その度に頭が重くなっている。教室に入ると石井が飛んできた。

「キノちゃん、あれ何よ! 何してたのよ、如月君と!」

「いっ、いや、別に、何も」

「ジュエリーショップから二人が出てくるのって、何か怪しいよ」

 石井の目は光っている。

「石井、それ以上言ったら、ぶっとばすぞ」

 千秋が教室に入って来た。廊下側の一番後ろの席に座る。キノは彼女に近寄った。

「あの、千秋……」

「なに」

 彼女は、鞄からノートと教科書を出して机に広げていた。

「あの……さ」

 千秋は上目使いで。キノを見る。

「テレビのことでしょ」

「う、うん」

 彼女の声の低さに、キノは震える。

「別に、何も聞かない」

「そっ、そう……」

 戸惑うキノ。はっきり言って欲しい。

「それと、キノちゃん」

「はい」

「もう、話したくない」

「えっ?」

 千秋からの思わぬ台詞に、キノは呆然となる。彼女は、無表情で授業の支度をする。

「相当頭にきているのか」

 今までキノは、こんな彼女の態度を見たことはなかった。

「なんで、千秋……」

 キノは昨日の如月の本音と、今の千秋の態度を合わせて考える。

「やっぱり、おまえら足りないよ。まだ」

 キノは千秋の両腕を掴む。そして無理に立たせる。

「キノちゃん」

 彼女はもがくが、身動きは取れなかった。おとこキノの力は強い。

「離してよ」

「ふん。千秋たちは、あれくらいで壊れちゃうの」

「あれくらいって……」

 石井と山本が近寄ってくる。

「ちょっとキノちゃん、何やってるのよ! 本田さん、嫌がってるよ!」

 二人は困惑していた。キノと千秋の喧嘩なんて、見たことがなかったからだ。

「たった、あれくらいだよ。ただテレビに映っただけだろ」

「ちょっと、離して!」

 相変わらず、キノの力は衰えなかった。かえって、握力は先ほどよりも、更に入っている。

「痛いってば!」

「如月が言ったか、テレビのこと。千秋に話したのか」

 キノの目は鋭く、彼女を見据えた。両腕には石井と山本が引き離そうと、引っ張っている。

「えっ」

「あいつはな、如月はな……」

「やめろ、鈴美麗」

 如月が後ろに立っていた。

「如月、千秋のやつはな」

 彼の右手は、キノの頬を平手する。教室全体にその音だけが、こだましたような感じだった。

 キノの持つ手が緩んだ。千秋は石井と山本に支えられ、保護される。頬を押さえたキノは、佇んでいた。

「鈴美麗、おまえの気持ちはわかる。だが俺らのことは、ほっといてくれ」

 如月は俯いて言う。キノは彼を睨み返した。

「バカ!!」

 キノは、唇を噛んで、悔しそうな顔をする。そして、教室を飛び出した。千秋は思わず、振り返る。

「キノちゃん!」


 マコが朝の生徒会の会議から終わって、階段を上っていた。両手に書類を持っている。ふと、顔を上げるとキノが階段に座っていた。

「キノ?」

 マコはキノの近くまで上って、書類を渡す。そして、隣に腰掛けた。

「どうしたの。ほっぺが赤いよ」

 彼女は指で、キノの左の赤い頬を這わせる。

「ぶたれた」

 マコの指が止まった。

「もう、何故朝からそんなことになるのよ。登校する時は、嬉しそうな顔してたのに」

「如月に」

 マコは考え込んで、手を叩く。

「昨晩話してくれた、テレビのこと」

 キノは頷いた。むっつりしている。

「千秋が、僕ともう話したくないって」

「ふーん。千秋さんがね……」

「どう思った? 僕と如月が一緒というの」

 キノは階段の踊り場を見つめる。

「まあ、驚いたけど。でも理由は知ってるから」

「やきもち、ある?」

「ないと言えば、嘘かな。キノだって、私が如月君といたら考えるでしょ」

 マコは目配せする。キノは目を丸くした。

「うー」

 しかし、唸った後は口を尖らせて言う。

「マコを信じてるから。それにあいつには、千秋がいる」

「まあね。正直私には、キノと如月君や海原君たちとは、男同士のつき合いに見える。お互いが友情があるっていうか。それよりも、おんなキノが私のライバルだから」

 キノのぶたれた赤い頬に、マコはさりげなく握り拳を当てる。

「そっちが、私は心配……」

 そこで、マコは口を塞いだ。キノの目が真剣に見つめていたからだ。マコは咳払いをする。


「千秋さんが言ったのは、本心じゃないよ。あの子、キノのこと大好きでしょ」

「僕も、千秋は好き」

 マコは一息付いて、肩の力を抜く。

「あなた、お節介なことしてるでしょ」

「だって……」

「キノは、男の子と女の子の両方の友情を持ってる。それは、誰にでも出来ることじゃない。でも、それがわかるから、こじれちゃうのかもね」

 キノは気落ちして、頭が下がる。

「大丈夫。私も協力するから」

「それって、女の子の友情?」

 キノはマコを見た。

「違う、愛情よ」


 その日の放課後、千秋はひとり教室に残っていた。机で何かを描いている。マコはたまたま、教室に生徒会の資料を取りに来ていた。先程から、千秋はマコを気にしてる。

「あっ、あの、マコさん」

 ようやく声が掛かった。マコは両手に資料を持って、千秋の机まで寄って来る。

「あの、もう、聞いていると思いますけど……」

「テレビのことね。ビックリだったね」

「う、うん。それで……」

 千秋は頷くが、もっと核心を話したがっているようだった。言葉の歯切れが悪い。

「あの……、キノ、ちゃん。何か、言って、た?」

 千秋の顔を眺めると、不安気などこか寂しそうな目がメガネの奥から見えた。

「キノと絶交したこと」

 彼女はその言葉に慌てたように、持っていた鉛筆を落とす。それは原稿用紙の上を汚しながら、転がっていった。

「ぜっ、絶交だなんて。そっ、そこまではまでは言ってない」

 千秋は狼狽える。

「でもあの子……、それくらいに思っている。かなり、落ち込んでたよ」

「えっ」

 千秋の目が丸くなる。椅子から立ち上がった。

「マコさんは、どう思いましたか」

「キノと如月君?」

 千秋は頷く。

「リアルで見てないから、わかんないけど、二人とも映りよかったって。美男美女」

 マコは小さく笑った。

「いっ、いや、そんなことじゃなくて……」

「夕方、テレビ見てたら、二人が出来てたもんだから、驚いた。キノちゃん、迷惑そうな顔してたけど、なんだか楽しそうにも見えた」

「ふーん。だから?」

「邦彦といて、楽しそうなキノちゃん見てたら、なんか……」

「そっか。やきもちだ」

「マコさん」

 千秋は腕を振り回す。

「キノちゃん、朝、私の手をもの凄く掴んで、怒って言ったの」

「どんなこと言ったの?」

「まだ、足りないって」

 マコは困惑している千秋を見て、黙った。

 キノは人一倍、いつかはいなくなってしまう人への想いが強い。今ここで、何もしないで通り過ぎたら、もう二度と帰ってこないことを、幾つも経験してきた。悲しいくらいに。

「私も、いなくなる一人だったんだよね、キノ。だから、堪らないんだ」

 彼女は呟く。

「いったい、何が足りないの?」

「千秋さん、それは自分で、あの子に聞かないと」

 マコは書類を机の上で揃えた。

「そう。キノのこと、私にも全部はわからないし」

 その資料を両手に抱える。

「そうなの……」

「ところで、如月君には、聞いたの? 二人がいた理由」

 千秋の勢いがなくなり、沈黙した。

「聞いてないんだ……」

 彼女は転がったペンを眺めながら、メガネを外した。

「千秋さん。如月君ともしっかり話さないと」

「わかってる、けど……」

「キノは今、柔道部にいるよ。それじゃあ、会議があるから」

 マコは静かに教室を出ていく。千秋ひとりが残された。


 道場内に、大きな音が響き渡っていた。柔道部では、キノが海原を投げ飛ばしている。

「ちょ、ちょっと、キノさん!」

 キノは止まる。

「なに、海原」

「なに、じゃないですよ。型が崩れて、力の配分がなってないです」

 キノは掴んでいた胴着を放した。海原は見据えている。

「まだ、気にしているんですか」

 切れの悪さを指摘されて、キノはちょっと苛ついていた。

「千秋のこと? ふん、あんな奴、別になんとも」


「あっ、そう。そんな奴だよ、私」

「ちっ、千秋さん」

 道場に千秋は立っている。腰に手を当てて仁王立ちだった。キノを睨んでいる。

「キノちゃん!」

「千秋、おまえ、そこに立ってるってことは、僕と勝負する気だな」

 スカートの下に、紺色の学校ジャージを着込んでいるキノは言った。千秋を指さす。

「なっ、何言ってるんですか! キノさん!」

 海原が慌てて、口を挟んだ。額に汗が流れている。両腕を広げ、「待った」の形になっていた。

「女の子には、手を上げないんでしょ」

 千秋は口を尖らす。

「試合となれば、違う」

「どういう、基準?」

「千秋、僕と勝負するなら、そのメガネを賭けろ」

「なっ、なんで? メガネなのよ」

 千秋は、メガネに手を掛ける。

「おまえが、そのメガネを掛ける資格があるかだよ」

「掛ける資格ぅ?」

 千秋はたいろいだ。キノは真っ直ぐ、彼女を見ている。千秋は観念するように呟いた。

「キノちゃんは、何を賭けるのよ」

「千秋の欲しいものでいい」

「私の……」

 千秋は考え込み、やがて、不敵に微笑む。

「何でもいいのね」

「男に二言は無い。それに千秋は、僕には勝てない」

 キノは胸を張った。

「いいわよ。じゃあ、レイズ王子とのキス」

 場内に沈黙が流れた。キノの目が点になっている。

「もちろん、屋上の時みたいに頬じゃ、ないわよ」

 千秋は指さして叫んだ。

「口よ、唇よ!」

 キノは口が塞がらない。

「そっ、そんなことって」

 海原の妄想が走り出した。

「千秋さんとキノさんのキス……」

 血走った目と顔は、今でも失神しそうになっている。

「キノちゃんが何考えてるか知らないけど、この条件は変えられないわ」

 千秋の目も強く、見つめている。

「いいよ」

 キノも目が座った。


「ちょっと、二人とも!」

 海原は叫ぶ。二人の顔をかわるがわる、見回した。

「でも、分がないわ、私には」

「わかってる。ハンデをつけるよ。僕は、右手と空気の壁は使わない。それにこの赤いリボンを取ったら、千秋の勝ちだ。僕は千秋のメガネを取るから」

 上着のリボンを腰に差し込む。

「随分、ハンデをくれたね。そんなことしたら、本当に勝っちゃうよ。私こう見えても、体育祭の騎馬戦得意なんだから」

 メガネの奥の瞳が笑った。キノは、円らなその瞳が好きだ。

「そう。千秋、何かジャージ履け」

 千秋が強がって言っていることぐらい、キノにもわかっている。何故、断らなかったのかが重要だ。

「海原! 合図!」

 キノは左手を上げて、叫ぶ。

「ええっ!? でもキノさん、それでも無理ですよ!」

 海原は苦悶の顔をした。

「海原君、見損なわないで、私、本気だから。キノちゃんに勝つんだから!」

 彼は驚き、つい手を振り上げる。

「あ」

「キノちゃん、私、負けたくないけど、勝てない……」

 キノは素早い。幾ら左手とは言え、それは修業を積んでいる身だ。伊達ではない。早くも千秋の背後に回った。

「千秋、本気で来い! 本当に取るよメガネ! 大事な物だったら身を張って守れ!」

 千秋は背後からの声に、振り向く。がもうすでにそこには、キノはいない。

「ダメだよ、キノさん。差がありすぎる。何をしたいんだ。千秋さん、怪我するぞ」

 気迫が彼にはわかった。真剣そのものだ。先程の海原が投げられていた時と、全く違う集中力を肌で感じていた。


「えっ」

 石井の言葉に、如月は驚いた。丁度、会議が終わったときだった。廊下で待っていた彼女が、声を掛けてくれたのだ。

「如月君、止めに入ってよ! 海原じゃダメなの。お願い!」

 彼女は懇願する。

「何故、そんなことに?」

「よくわかんないけど、メガネとキスを賭けて試合しているらしいの」

 彼は立ち止まった。

「鈴美麗、あいつ……」

「本田さん、もう二回投げられちゃって……。キノちゃん、やめないの」

 石井はちょっと不安になっている。

「あいつには、俺も海原も勝てん」

「朝のことが原因だったら、ちょっと酷いよ。だから、早く」

 石井は、如月の腕を引っ張る。しかし彼は止まったままだ。

「如月君?」

 彼女は顔をのぞき込んだ。

「千秋は、二回も投げられても、試合を続けてるんだな」

「えっ、ええ」

 石井は頷く。

「そうか……」

 彼は拳を握り締めた。不安気な彼女の顔が、見つめている。


 道場内は、千秋の荒い息使いだけが、聞こえていた。キノはゆっくりと動いている。力の差は、歴然だ。ただキノはメガネを今だに、奪い取っていない。

「きっ、キノさん! もうやめてください! 千秋さんもう、立てませんよ!」

 海原は、場内に倒れている千秋のもとに走った。

「海原! どけ!」

「いっ、いい加減にして下さい! いくらなんでも、僕も怒ります!」

 海原がキノの前に立ちはだかる。彼はキノを睨んだ。重い空気が場内に立ちこめる。キノは彼の集中した気力を感じた。

「海原、これは僕と千秋の問題だ。おまえには関係ない」

 前に出る。海原の体は、すでに動かなくなっていた。

「むうぅ!」

 彼は両足で踏みしめるが、畳の上で踵が後方にずれていく。壁が彼を襲っていた。

「海原、お願いだ、そこをどけ」

「キノさん……、どうしてもですか」

 彼は精一杯に止めているが、限界が見える。額から汗が流れ落ていた。

「どうしてもだ。おまえが前に出るのなら、容赦しない」

 キノは右手を加えて、構える。

「真剣勝負です、キノさ……」

 海原が言葉を終える前に、キノは一気に懐に飛び込んだ。彼の胸の下から、さらさらのクリーム色が鋭く浮き上がってくる。胴着をすでに捕まえられていた。

「くふぅ!」

 彼は息が出来なくなる。手を振り払おうとするが、力が入らない。

「こっ、このおぉ!」

 海原は腰を落とし、体を支えた。だが、もの凄い力で上半身が、引き寄せられていく。

「ぬうぅうぅ!!」

 大きな上体が、次第に浮き上がった。キノの長い髪が海原の鼻先をかすめる。

「いい匂い……」

 海原の足先が天井と見事に向き合い、弧円を描きながら空中を舞った。畳の埃が立ちこめる。巨漢は沈みながら、何故か顔は微笑んでいた。

「なんか、気持ち……、いい……」

 背追い投げに陶酔した男の姿が、視界から消えると、その先に目を丸くした千秋がいた。キノの力を目の当たりにして、千秋は呆然となっている。

「千秋」

 彼女はスカートや膝の埃や汚れはそのままに、壁にもたれて立っていた。キノはゆっくりと近づいていく。彼女は立つのに精一杯だった。膝が震えていた。やがて、キノは目の前に彼女を見据える。千秋は歯を食いしばり、乱れた髪でキノを睨み返した。

「まだよ、キノちゃん」

 彼女は緩く構える。

「もう、やめたら。ごめんなさいって言って、メガネくれたら、この試合やめてあげる。怪我するよ本当に」

 この言葉が、千秋を刺激した。

「キノちゃん!」

 彼女はキノの胸ぐらを掴む。

「千秋、そんなにそのメガネが大事?」

「関係ないでしょ、キノちゃんには!」

 服を掴んだまま、キノを押していた。

「おまえ、如月はそれで、ちゃんと見えているのか」

「えっ?」

 キノの左手は千秋の肩を取り、払い腰する。彼女の体はいとも簡単に、空を半回転して、畳に叩きつけられた。

「けほっ!」

 千秋にはもう立ち上がる気力がない。キノは仰向けになった彼女を跨いで、座り込んだ。

「千秋、僕の勝ちだね」

 キノは千秋のメガネに手を掛ける。ゆっくりと外されていく。

「いや、キノちゃん、やめて……」

「このメガネじゃ、見えないよ。傷だらけで、曇ってるよ、これ」

 千秋の瞳に涙が溜まる。彼女は動きたくても動けない。涙はやがて、耳に向かって伝っていった。

「いやぁ……」

 キノの手が止まる。千秋の瞳をキノは大好きだ。

「千秋、どれくらい如月と仲良しになったか」

 道場内は、静まり返っていた。海原は横たわり、失神している。風が吹く度に、何処かできしんだ音が聞こえていた。キノは千秋の上に乗ったまま、顔を見ている。

「こんなものなくても、千秋には如月が見えるはずだ。だのに何故見ない。おまえが見ている奴は、一体誰なんだ」

 千秋は怒濤のように泣き出した。


 石井は如月が走り去った後を見ている。

「石井さん、如月君、帰ってこないけど、どうした」

 声を掛けられた方には、マコがいた。

「まだ、会議の途中なんだけど」

 マコは辺りを見渡す。そして、石井の顔を見た。彼女の顔はなんだか寂しそうだった。

「花宗院さん……」

「どうしたの」

 彼女の表情の変化に、気づきながら素知らぬ返事をする。

「好きな人のためだったら、何でも出来るの?」

 マコは生徒会室の扉を静かに締めた。

「彼、行ったのね。千秋さんの所に」

「……うん」

 石井は下を向いて、壁に体を預ける。

「それで」

「なんか如月君って、本当に本田さんのこと、好きなんだなって」

 マコは頷いた。石井の顔は沈んでいる。

「石井さんは、好きな人いる」

 彼女は振り向いた。少しぎこちない愛想笑いをする。

「海原君?」

「海原? どうかなぁ。まだ、わかんない」

 石井は少々困った顔で、答える。

「意外といいと、思うけど」

「そうかしら」

 マコは、石井の物の言い方に違和感を覚えた。何か歯にでも挟まっているかのように、真の言葉が出ていない。

「石井さん、何か言いたいことある?」

「あの……、花宗院さん。昨日キノちゃんは、何故、如月君と一緒にいたのかしら」

 マコは石井が、それをずっと気にしているように思えた。

「それは……。何か必要なものがあったらしいの」

 キノが必要としていたもの。マコは学校では身に付けていないが、鞄の中に入れて大切にしている。

「必要なもの?」

 彼女は首を捻る。再びマコをじっと見つめる。

「でも、キノちゃん、別に如月君と行かなくても、あなたと行けばよかったのに、なぜだろう?」

「そっ、それは私は今、忙しいから」

「じゃあ、本田さんとでも良かったのに。それなら、こんなにこじれないのに。不思議。女の子じゃダメだったたのかな」

 マコは、話を早く別の方向に修正したかった。

「私、柔道部に行くわ。キノの様子を見てくる」

「会議はどうするの」

「石井さん出ておいて」

「えっ!?」

「じゃあ、行く」

 マコは走っていく。

「ちょっと、花宗院さん!」

 石井は肩を落とした。

 入り口が開く。石井は驚いて、振り向いた。生徒会役員の男子が顔を出す。辺りを見渡し、石井に気づいた。

「あれ、君、誰? 如月と花宗院は何処行った?」

「愛する人のもとへ、行きました」

「は?」

 石井はマコと如月が走り去った廊下を、もう一度振り返って見た。口元がゆっくりと動く。

「あのね花宗院さん。私……、キノちゃんも好きみたい、……なんだけど」

 彼女の口は少し震えていた。

「キノ? 鈴美麗がどうかしたか?」

 入り口で顔だけ出している男子は呟く。

「はっ!? は、は、は、何でもありませんから。私、代理人みたいです。会議参加します」

 手を上げながら、愛想笑いをする石井だった。


「鈴美麗! やめろ!」

 道場内に靴のまま、如月は乗り込んだ。キノは目だけで、視線を彼に送った。

「鈴美麗、お願いだ、やめてくれ! 千秋を責めないでくれ!」

 彼はキノの側まで走ってくる。キノの肩を掴んだ。

「如月、これは千秋との勝負だ」

「こんな事が勝負なのか。いくらおまえでも、度が過ぎるじゃないか」

「じゃあ、止めたら」

 キノは顔を彼に向ける。肩の手を払った。

「止められるもんなら」

 ふらりと立ち上がり、千秋から離れ如月に向き合う。

「鈴美麗……」

「如月、見えないものは、見る努力がいる。互いが努力しないと、何も変わらない。おまえがいくら千秋を、目を懲らして見ても、あいつは見ようとしていない」

 キノは千秋を指さす。如月の視線が逸れる。

「おまえもそうやって、千秋が見ていない現実を、知らない振りをしてきた。千秋に触りさえも出来ずに」

「鈴美麗に何がわかる!」

 如月は叫んだ。

「何もわかりたくない」

 キノは言う。横たわっている千秋の目は、涙が幾筋も伝っていた。

「現実は、今だけだ。過去なんてものは帰ってこない。今を息している者が側にいることが、大切なんだ」

「キノちゃん……」

 千秋はようやく、ふらつきながら起きあがることが出来た。

「キノちゃん、私、やっぱり忘れられないんだよ、あいつのことが……」

 彼女は泣き崩れる。キノを挟んで、二人は黙り込んだ。

「鈴美麗、俺はどうしたらいいんだ……」

「僕に、聞くな」

 キノは横たわっている海原に、目を向ける。口元が緩んだまま、幸せそうな顔をしている。

「もっと近くに寄って、触れ合って、お互いが特別な存在になんなきゃ。おまえら、足りないんだよ」

 キノは海原の上体を起こした。

「如月、海原を起こすよ」

 彼は千秋の側に寄って、体を支える。彼女は必死に彼にしがみついた。

「千秋、何度投げられたんだ」

「三回」

「ひどいな。でも何故、やめなかった。勝てる相手じゃないだろ」

 千秋は如月の顔を見た。

「メガネ取られるから」

「そんなに、メガネが大事なのか」

「メガネが良いって、言ってくれたあいつが忘れなかった。だからこだわっていた。やっぱり、このスタイルを変えられなかった……」

 彼女は如月の胸に顔を当てた。

「バカだね。あいつを忘れるのが怖かったの。だからいつまでもこんなこと。忘れなきゃいけないのに」

 千秋の肩は小刻みに震えている。

「でもテレビでキノちゃんとあなたを見た時、何だか本当の恋人みたいで、凄く悔しかった。だって似合ってたんだもん。やっぱりなあ、って思った」

 如月は、彼女を抱きしめた。

「千秋、俺も一緒だ。怖い。俺はあいつに勝てないのかと……」

「え」

「この世にいない奴から、千秋、おまえをどうしたら奪う事なんて出来るのか。俺はどうすればいいのかわからなった」

 如月の戦慄く声が、彼女の耳元で聞こえる。

「俺に出来るのは、見守ること。それが、おまえを支えることだと思っていた」

 彼の体の震えが、千秋に伝わる。彼女はその振動を体で受け止め、感じていた。

「千秋、俺、おまえとあいつの二人なんて、無理だ。もうあいつのことは忘れろ。いや忘れてくれ。そして、俺だけを見ろ」

 彼女は如月の顔を見上げる。彼女の涙で腫れた顔は、未だに滴が流れていた。

「邦彦は、私をあいつから忘れさせてよ」

 千秋も如月に手を回す。

「千秋……。俺は、ずっとおまえだけだ」

「私、見る。本当の目で邦彦を見ていたい」

 千秋はメガネを外して、如月にそっとキスをする。彼は彼女を抱き上げた。

「やっぱり、暖かい……。キノちゃんが言った、息をしている人」


「おいおい、なんで千秋からなんだ」

 キノは呟いて、手刀を振り上げる。

「もう、起こしていいね」

「キノちゃん、勝負は……」

 千秋は如月から離れて、側にやってきた。

「自分からメガネ取ったら、勝負にならないよ」

 キノは肩の力を抜いて、大きく笑う。

「メガネ取るまで、待ってたんでしょ」

 千秋も微笑む。

「そうかな」

 彼女の素顔の瞳は光っていた。キノの頬が赤くなる。

「でもね……、勝負はもう、ついちゃった」

 彼女は両手でキノの顔を包み、自分の顔の前に近づける。キノは海原を押さえているので、なすがままだった。

「千秋?」

 かくして、彼女の唇とキノの唇も重なった。

「んん……」

 キノの目が丸くなる。千秋の顔の外側に、赤いものが見えた。

「なっ、何を、千秋!」

 体を仰け反り、両手の囲いから離れる。彼女は赤いリボンを右手に持って、振りましていた。

「だから、ほら。私が勝ったの、キノちゃん」

 千秋は勝ち誇った目で言う。

「いっ、いつの間に……」

 キノの両手の力が抜け、海原はズルリと横に倒れ、頭を畳で打ち、転がった。

「う」

 彼が呻く。


「おとこキノの唇キープ」

 という言葉の後に、千秋とは反対側へ、両手で顔を無理に向けられる。突然口を塞がれて、キノはあたふためいた。そしてさっきとは違う、柔らかい唇を感じる。目の前にマコの顔があった。

「まっ、マコ」

 一体どうなっているのか、わからなくなったキノ。

「マコさん。王子のキスを奪いに?」

 千秋は立ち上がった。 

「キノはダメよ」

 マコもちょっと、頬を膨らませて立ち上がった。

「違いますよ。今のは『鈴美麗キノ』ちゃんじゃなくて、『レイズ王子』として頂きました。今回二人の王子のキッスをゲットしました」

 千秋は舌を出して、ガッツポーズする。

「如月の後に、僕ってことは……、おっ、男と間接キッス……」

 キノは、おぞましいものを見たかのように、震えた。

「王子って、まさかあれ」

 千秋は指を立てて、左右に振る。そして手招きした。キノの頭の上で、彼女の近くにマコは顔を寄せる。

「なに?」

「そして、おまけでアイドルミューもいただき……」

 千秋はマコの顎を引き寄せた。

「ダメー!」

 焦ったキノは、マコの手を引っ張る。

「千秋、おまえ、そんな性格だったか! 如月! こっ、こいつをどうにかしろ!」

 間一髪でマコを救出したものの、キノはバランスを崩した。そのまま転倒し海原の股間の上で頭を強打する。

「あうぅ!」

 ついに海原は目を大きく見開き、起きた。と同時に身を丸くし、股間に手を添えて悶絶する。

「お、お、お」

 呻く大男。震えている。口から泡も吹きかけていた。

「大丈夫、海原君」

 千秋が言った。

「大丈夫じゃないよ。男にしかわからない痛み。しかし、こいつの股間が頭にあったとは、気持ちが悪い。今日は男どものせいで大変だ」

 キノは立ち上がり、腕組みして、頭を撫でる。

「全く、おまえら、おかしいよ。涙が出るくらい。なあ、俺もそんな風に自分を出さないとな」

 如月は苦笑した。


「千秋、足りない分は、もっと、ずっと一緒にいろ」

「キノちゃんとマコさん、みたいに?」

 二人は顔を見合わす。そして互いに照れた。

「そっ、そう」

 キノは、はにかんで頷く。

「じゃあ、二人でいつも何やってるか、教えて」

 千秋はメガネのない、円らな瞳で見つめる。二人は赤面して、黙り込んだ。


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