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キノは〜ふ!2  作者: 七月 夏喜
3/8

第三話 キノとマコと初恋の人


 一枚の葉書がマコの机にあった。キノは辺りを見回しながら、手紙を突く。差出人は知らない名前だった。

「『花宗院真琴 さま』か……。誰だ、こいつ」

 キノは座り込んで、机にへばり付く。葉書と机の浮いた隙間から覗ぞこうとしていた。見えるはずなど無いことはわかっているが、気になっている。

「何見てるのよ」

 肩をつり上げて振り向くと、マコが腰に手を当てて立っていた。頭に巻いたタオルと湯上がりのガウン姿にキノは焦る。

「は、は、は。何にも」

 葉書を指で弾いた。

「全く……」

 溜め息をついて、マコは葉書を机からつまみ上げる。

「中まで見てないよ、本当に」

 言葉を発した後に、言い訳がましい姿をキノは後悔した。

「別に、見られても構わないけど」

 透かした目でマコは答える。

「ふん。何だそんなもの」

 マコは後ろを向いて、葉書を見返す。

「意地張っちゃって。あら、お、と、こ、からね」

 彼女は背後に、息づかいを感じて笑った。

「面白ーい、やきもち」

 キノは顔を真っ赤にして見つめている。その神妙な顔つきに、振り向いたマコも意外に驚いた。

「ごめん。反省する。本気で正直に言う。私の、初恋の人」 

「それって、もっと意味深」

 目を丸くして動揺するキノの顔が次第に険しく、眉間に皺が寄る。おもむろに、腕組みした。

「で、そいつがどうしたの、今頃」

「これよ」

 マコは葉書をキノの顔に付けて、指さしている。

「近すぎ、見えないってば」

 キノはマコの手首を掴んで、少し離した。

「招待状?」

「あいつ、絵を描いていてね、個展開くんだって。それでお誘いのカード」

 キノはマコの言った言葉に、再び狼狽える。

「あいつって……。あのマコ。僕との前には、その……」

 ガウン姿の彼女は、悪戯な表情でキノの前に立った。

「知りたい?」

「えっと、えー、その……」

「キノとの前に、私がどんな人と付き合っていたかって」

 キノはマコから思わず、顔を逸らした。

「僕の、知らないマコなんだね」

 キノは想像もしなかった。自分の知らないマコのこれまでの生活を知りたいとは思っていなかった。でも、現実にはあるのだ。キノとマコは常に一緒だったわけではない。現に佐伯との生活も、一部でも知らない事があるのだ。そんな当たり前のことに、キノの気持ちは動揺していた。

「そうなるわね。私も、色々あったから。それでも知りたい?」

 マコはキノの体を動かして、顔を正面に向ける。

「あっ、あ、その……」

 焦って目だけが泳いでいた。『知りたいが、知りたくない』という気持ちが交差する様子が、丸みえだった。

「やっぱり、知らなくてもいいかな……」

 ぽつりとキノは呟く。

「もう男って、臆病なんだから」

 マコは息を抜いた。

「初恋は確かに、したわよ。この人に」

「そ、そうだよね」

「だって、キノはそれまで、お友達までだったからね」

「そっ、そう、そうだよね、友達だもん」

 キノは変化する前の現実を思い返す。当たり前と言えば、それまでだ。

「でも……」

 マコは両手でキノの顔を包む。マコはここまで動揺を隠しきれない顔を見せるキノが、いじらしる感じた。

「今までに真剣に付き合った人なんて、いないよ。キノが最初」

「えう」

「おまけに、教えちゃう。ファーストキスも、キノが初めてなんだからね」

 キノはマコの顔をじっと見る。彼女は目を逸らした。

「はう。背中に怪我して、病院に入院した時?」

 マコは頬を赤らめながら、コクリと頷く。

「ははは。バカみたい、僕……」

 キノは安堵し、頭を掻いた。

「ホント。そんなに信用ないかな……私」

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ」

 マコは、目を伏せているキノの顔を上げる。

「これまでも大事だったけど、今がもっと大事なんだよ。キノと私が、どう過ごしていくかが」

 キノは葉書を取って、指さした。

「じゃあ、日曜日ここに行こう、二人で」

 マコは招待状を前に、少し考え込む。

「実はひとりで行くには、あまり気乗りしなかったんだ」

 彼女は何やら笑顔になった。

「キノ、ひとつお願い聞いてくれる」


 その日曜日は雨だった。駅前のモニュメントの下で待つマコは腕時計を見る。約束の時間は、十分過ぎていた。ため息を付いて空を見る。雫は傘の上で小さな玉を作っている。

「真琴じゃないか!」

 大きな声に驚いてマコは振り返ると、背後から黒い革のジャケットを着た男が歩いてきた。マコは誰だかわからずにいたが、やがてそれが初恋の人の芦川亮介だと気づいた。

「やっぱり、来てくれたんだ」

 芦川はマコの目の前で、立ち止まる。

「来てくれて光栄だ。招待状出しておいて良かった」

「先生。お久しぶりです」

 マコは笑みで答えた。

「見ない間に、随分と綺麗な女性になったな。見違えるよ」

「何をおじさんみたいな事、言ってるんですか。先生」

「もう、十分おじさんになってきたよ。それにもう先生じゃない」

 芦川はマコの姿を、もう一度しげしげと見た。

「それにしてもいい女性になったな。あの時、プロポーズしたこと覚えているか? どうなった?」

「覚えてますよ。いきなり、中学生にそんなこと言うなんて、あり得ないですよ」

 全く屈託のない笑顔でマコは笑う。

「誰か待っているのか?」

 芦川は辺りを見渡した。ここのモニュメント前はカップルの絶好の待合い場所だ。

「えっ、ええ……」

 マコも見回す。未だキノの姿はなかった。

「ひょっとして、彼氏だったりして?」

「まあ」

 彼女は、はにかんで顔を赤くする。

「しかし、真琴の方を待たせるなんて、一体どこのどいつだ?」

 芦川は腕組みして、仁王立ちした。

「来たら、俺がそいつに、喝を入れてやる」

「本当に相変わらずですね、先生」

 マコは、芦川が屋敷に来ていた頃を思い出していた。

 当時、芦川は美大の学生で、マコが中学生だった。週に一度、絵画の家庭教師をしてくれていたのだ。何でも、父親の大介が彼の絵に感動したというのが最初だ。大介の勧めで、乗る気ではなかったが絵画を始めた。しかし、芦川の性格と絵画に対する想いが、マコの絵に対する関心を目覚めさせたのだ。

 それからマコは芦川とよく絵を描いた。彼の描く水彩の風景画は、素朴な写実的な絵で、心に訴えかける染みいる何かがあった。

「今でも屋敷に飾ってありますよ。先生と描いた風景画」

 芦川はマコを見る。

「ああ、嬉しいね。今から考えるとあの頃が、一番のんびり絵が描けたかもな。楽しかったな」

「はい」

 彼女の瞳は憂いに満ちていた。

「真琴、やっぱりあの頃と変わってないな」

「え……」

「しかし、まだ来ないのか」

「先生、先に行って下さい。会場でみなさんが待ってますよ。私はもう少し、待ちますから」

「真琴、こんなに待たせる奴とは、早く別れちまえ!」

 大きな手を振って、声を張り上げている。

「はいはい」

 マコは芦川の背中を押した。ふいに彼は振り返って、マコの手を取る。

「俺がもう一度見て来てなかったら、そいつとは別れろ。その代わり、もう一度俺のプロポーズを受けてくれないか」

「はいはい、無茶苦茶ですよ言ってること……」

「いや、本気だ」

 彼の握る手が強くなった。

「本気だ、あの時からいつも本気だ」

 芦川の目がマコを見据える。彼女の目の前に、彼の顔が迫った。

「先生……」

 確かに最後に彼と逢ったあの日、芦川はマコにプロポーズした。ただ中学生だったマコには、冗談としか受け取れなかった。

「なんだ?」

「手が痛いよ」

 彼ははっとして、手を緩めた。マコの目は芦川を真っ直ぐ見ている。真剣な淀みのない澄んだ目だ。

「先生、私はもう心に決めた人がいる」

 少しだけ目を見開き、軽いショックを受ける芦川がいた。

「それが、こいつか? おまえをこんなに待たせる奴がか?」

 芦川の鼻息は荒い。

「……うん」

「待つのか? 真琴。そいつを」

「うん」

「おまえ、俺が遅れてきた時には、よく怒っていたのにな」

 マコは少し笑った。

「そんな時間も結構、楽しいの。そこは私も変わったでしょ」

 芦川は更に辺りを見渡した。誰もいない。

「もし、来なかったら?」

 マコは芦川の方を向いた。そして、微笑む。

「そんなこと、絶対ない」

 彼はその強い言葉に、呆気に取られた。

「羨ましいなあ。真琴にそんなこと言わせるなんて。ここまで、惚れさせる奴って……」

「あの、先生。手を」

 未だマコの手が握られている。

「あっ、ああ、すまん……」

 芦川がそう言い掛けた瞬間、彼の体は浮いていた。マコの前から、彼の姿が次第に遠ざかって行く。彼女にはそれが、まるでビデオのスローモーションのように見えた。

「うああああああぁ!」

 芦川は、モニュメントの広場の外まで、投げ飛ばされる。


 マコの側に人影が現れた。

「マコ、もう大丈夫だよ」

 彼女は横を向くと、男が立っている。茶髪に紺の制服を着ていた。、長いまつげに大きなブルーの瞳、端正だが色白は何処かで見覚えのある顔立ちだ。それが真っ直ぐに、優しくマコを見つめている。

「ああ……」

 その姿に彼女は、心臓の高まりを感じた。

「遅くなってゴメンね。千秋の奴、これ着たら散々デジカメで撮影しやがった」

 その言葉で、マコは我に返った。

「こっ、こらぁ! キノ!」


 男装キノと投げ飛ばされた画家で、周辺は人が集まってくる。

「ちょ、ちょっと! あの男の子、格好いい!」

「なんか、綺麗……」

「投げられた人、可愛そう……」


 マコはキノを引っ張った。

「もう、派手過ぎよ、登場が」

 彼女は芦川の側に駆け寄った。彼はなんとか立ち上がったがよろけている。マコは彼の腕を肩に回して、体を支えた。キノの方も彼女のそんな行動に不可解だ。

「いっ、一体、何が起こった? 俺は何故、こんなところにいる?」

 投げ飛ばされた芦川は何が起こったのか、理解出来ないでいる。

「先生、大丈夫ですか!」

「先生?」

 キノはきょとんとした。


「そうよ、芦川先生。私に招待状を送ってくれた人」

 足元がふらついている。マコが支えるも左右に揺れていた。

「おっ、おい……。あっ、あの男が真琴の?」

 肩に手を回している芦川の脇の間から、マコは頬が赤くして微笑む。

「……うん」

 彼は正面を見た。キノが直立している。その姿はとても凛々しかった。

「そっ、そうか。華奢な体の癖に、強いな」

「キノも手伝って!」

 キノはマコとは反対の腕を取って、肩に回して支える。

 芦川は、マコと変わらないキノの肩の細さに驚いたようだ。彼は間近で見るキノに、再びショックを受けたように何度も見返す。

「おまえ、女みたいな男だな」

 隣で支えているマコは、男を支えるとはと文句を言っているキノとの間で、随分にこやかで嬉しそうだった。


「なんだか、俺が出る幕ねえな」

 二人の間に挟まれていた、芦川は立ち止まった。両手を振り上げ、二人の肩から離す。

「おまえら、二人でやれ」

 芦川は苦笑いしながらも、ふらつく足取りで歩き出した。

「会場はすぐそこだから、大丈夫だよ」

 彼は振り返った。

「キノ君、真琴と二人で見に来てくれよ」

「まことぉ? 何故、呼び捨てぇ?」

 マコはキノが、もう一度芦川に飛びかかるのを制止するために、口を押さえた。


 鈴美麗家には一人の男が道場で正座していた。神聖なこの場に於いて、凛とした緊張感が漂う。正座をしている男の背中には、迷いがなかった。閉眼のまま、微動だにしない。

 道場の隅から小さな音がした。男は振り返らない。耳を澄ませて、その音のした先を探っていた。

「何をしに来たの」

 男は立ち上がる。背後にいる鈴美麗家の女中、亜紀那に向かって、歩いていった。

「ここには、もう来れないはずよ」

「わかっている」

 亜紀那が警戒して身構えると、一瞬道場内に緊張が走る。

「亜紀那、無駄だ。いくらおまえでも、私は倒せない」

 彼女は、男から発せられる気迫に負けていた。それでもなお、彼女は男を見据えている。

「用がないのなら、出ていって。あなたはここから、もう破門されている身のはず」

「君の気の強いところは、少しも変わらないな」

 フェイルは呟いた。道内の緊張が薄れていく。

「たまに寄るぐらいは、許して欲しいところだが」

 男の金色の髪とブルーな瞳が何かを言おうとしていた。

「キノ様の具合ぐらい聞かせてくれ。お元気か?」

 亜紀那は構えを解いて、立ち尽くす。

「キノ様は、元気よ」

「そうか」

 フェイルは目を閉じた。

「本当に何をしに来たの?」

「それだけだ」

 彼の顔は、強ばっている。亜紀那はじっと彼の動きを見ていた。

「まさかフェイル、キノ様をここから連れ出そうなんて、思ってないわよね」

 彼女はフェイルの顔の奥に隠されている真意を見定めようとしていた。

「そう、見えるか」

 その昔、いつも見ていた道場内の上座にある掛け軸を見て、彼は唸った。掛け軸には『体柔極』とある。

「キノ様は色々と、大変な目に合っていると」

 フェイルは考え込む。亜紀那は、ちょっと俯いた。

「キノ様は、マコ様が支えているか」

 彼は、彼女を見る。

「ええ。お二人とも、ずっと一緒に寄り添っている」

 亜紀那は微笑んだ。

「皮肉なものだ。あの池でお二人が出逢ったことが、こんなことになるなんて」

 彼の眼光は遠くを指している。窓の外は雨が上がり、春の気配が感じられるような天気になってきている。

「私は、キノ様をお連れに来たのではない」

「フェイル」

「亜紀那、おまえだよ」

 フェイルは、亜紀那の目の前に立った。

「だめ、私は」

 彼は、亜紀那を抱きしめる。

「おまえを忘れた日など、ない」

 亜紀那はフェイルのなすままに、じっとしていた。

「どうして、今なの……」

「キノ様が落ち着かれるなら、いつでも君を迎えに来たかった。私と一緒になるには、この鈴美麗家を去らねばならん」

 亜紀那の身体が硬直する。

「亜紀那、おまえも、もう自分の幸せを考えてもいいのではないか。もう十分過ぎる程、大旦那様や、キノ様、この鈴美麗家に尽くしてきた」

 亜紀那は顔を上げ、フェイルを見つめ返した。潤んだ瞳が、困惑の心を映し出している。

「もう一度だけ、ここへ来る。その時に返事を聞かせて欲しい」

「そんな急に」

「私には、今しかないんだ」

 そう言うと、彼は彼女の身体から離れた。ゆっくりと道場内から出て行く。扉に差し掛かった時、フェイルは振り向いた。

「亜紀那、今でも……」

 言い掛けて、彼は口を閉じる。抱き止められたままの格好で、佇んでいる亜紀那の姿が、悲しく見えていた。

「……私が、キノ様から……」




 個展会場は、客が二、三人が入っていた。芦川は首筋にタオルを押し当てて、椅子に腰掛けている。マコはその傍らにいた。

「痛ててて……」

「先生、本当にすみません」

「ははは」

 芦川は苦笑いをする。

「それにしても、あの強さは何者だ」

 キノは絵を見ながら、マコと芦川だけにしていた。キノは絵に興味がないが、腕を組んで頷いている。時折、前屈みになり、じっと見ていた。暫くマコはその姿を目で追っている。

「真琴、彼とは何時から付き合っているんだい」

「えっ? そっ、そうですね、半年前ぐらいからですか」

 マコは、芦川の方を向いた。

「へぇ、案外、まだ最近なんだね。俺の方が長いな」

「先生。変な言いかたしないで下さい。付き合ったりしてませんよ、先生とは」

 マコは少し膨れた。

「ははは、手厳しいな」

 芦川はタオルを握り直して、一息つく。

「けれども、プロポーズしたのは、さすがに俺だけだろ」

 彼は、マコの顔を見て満足気な表情になった。しかし彼女は微笑む。

「いえ。キノもしてくれました」

「はい?」

 マコはいつの間にか、キノがいないことに気づいた。目で左右を流すも見つけられない。

「真琴は、本当にあの男と……」

「一緒になるつもりです」

「はははは。恐れ入ったよ。そんな真剣な顔の真琴、見たことないなあ」

 芦川は苦笑いをした。


「そんな、バカな」

 キノはトイレで、顔を伏せて考え込んでいた。

「幾ら急いでいたとは言え、この期に及んで間違えてしまうとは、習慣は恐ろしい」

 キノはため息を漏らす。

「女子トイレはすっかり習慣だけれども、今、僕は、男の姿だった。全く、半年前と同じ状況で悩むとは……」

 目を閉じて静かに考えだした。

「まあ、いざとなれば、カツラを取ればいこと。付けるのが面倒だけれども。なんとか人がいなくなってから」

 辺りの話し声が止んだ。そっと扉を開ける。誰もいなかった。

「今だ!」

 扉を開けて、走り出す。

「よし!」

 出入口を出たその時、キノは誰かにぶつかった。ぶつかった相手ごと倒れてしまう。キノは相手の上に覆い被さってしまった。

「あっ、すっ、すみません!」

 とっさにキノは起き上がる。相手は女性だ。

「……あっ、あれ?」

 彼女も突然のことで、何がなんだかわからないでいる。

「本当に……」

 見覚えのある顔に、キノの言葉が止まった。

「そっ、空ちゃ……」

 慌てて、口を閉じる。キノは彼女の手を引っ張って、起こした。

「ごめんね、怪我ないかな。大丈夫?」

 キノは以前から彼女の体調を知っている。空は暫くキノを眺めていたが、ようやく状況がわかったらしく、我に返った。

「あっ、大丈夫です」

「そう、よかった。じゃあ、急いでいるから、これで」

 キノは安堵した。早く退散するために、後ろを向く。こんな姿、見せられない。

「あっ、あの……、さっき私のことを空って?」

「え? いやあ、僕は何も」

 つい、キノは振り向いてしまった。

「でも……」

 空はじっと、見つめている。

「じゃ、じゃあ。ご機嫌よう」

 キノは走りだそうとした。

「キノ先輩!?」

「いっ、いやいや! 違うから! 違うから!」

 キノは野暮ったいほど、大きく手を振る。


「おーい、キノー! どうしたの?」

「マコ……、おま……、しっ!」

 マコがキノを探しに来たのだ。肩に手を置く。

「誰? 知り合いの人?」

 空をマコは知らない。知るはずもない。あの佐伯との出来事の真っ最中だった。そんな中、キノは緒方周の妹の緒方空のお見舞いに、数回行っていたのだ。

「あなた、キノって?」

 空はマコを見つめる。キノは肘で合図した。

「あっ、えっ? さあ、何か言ったけ?」


「空、おまえトイレが長いぞ」

 男がトイレ前に現れた。

「お、緒方……」

 キノの動きが止まる。マコの背中に何故か隠れてしまった。彼女の背中に、向かい合わせのように、ぴったりと張り付く。

「……緒方君」

「花宗院先輩……」

 緒方は、マコの背中にいる男を見る。キノは心臓が、ひとつ鳴った気がした。

「お久しぶりです。あの……」

 緒方は、背中の男を見据えている。

「こいつ? 私の彼氏」

 マコは指さした。

「彼氏……ですか。あの……」

「キノでしょ?」

 マコは言い出せない緒方の代わりに言った。

「はっ、はい……。学校で聞いた噂で、その……」

「心配してくれてるんだ」

 マコは優しく言う。キノは背中を見せたまま、マコの手を握っている。

「大丈夫よ。あの子、強い子だから」

「先輩に、あの……、元気に、と……」

 握る力が強くなった。

「うん。もうそれ以上、言わないで」


 空はまだ、きょとんとしている。

「ひょっとして、キノ先輩が必死で助けた人ですか?」

 マコは微笑む。空は、背中を見せている男のことが気になってしようがない。

「空、行くぞ」

「また話ししたいって、キノ先輩に伝えて下さい」

 マコは頷く。緒方は、彼女の手を引いた。そしてもう一度、背中を向けた男に視線を移す。

「僕、空を守っていますよ」

 二人は並んで、歩いていく。


「お、がた……」

 キノはマコの背中の肩ごしに、その後ろ姿を見送った。

「キノ、緒方君と話したかった?」

「別に……」

 そう言いながら、まだ見送っている。

「彼、キノの事、まだ好きなのね。ねえ……、キノ」

 キノは目を伏せた。

「もし、私があの時、結婚していたら、緒方君と付き合ってた?」

「バカ。僕はマコしかいない。結婚する前に、絶対連れ戻す」

 キノはマコを見つめる。

「そうだよね。ごめん」

 握っている手をマコは、更に強く握った。


「おまえら、何トイレの前で、いちゃついているんだ」

「先生! いつからそこに」

 芦川はトイレ前の喫煙所で、煙草を吸っていた。

「つい、さっきから。どうも真琴とキノ君の関係がわからんなぁ」

 キノは芦川に舌を出す。

「君とは、いつか対決せねばなるまいな」

 彼は右腕を上げた。



 マコはトイレに入る。その場にキノと芦川が残った。芦川はタバコの煙をキノに向ける。キノは手で追い払った。

「キノ君、ここに座りなよ」

 彼は隣の席を勧める。

「僕はここで、いいです」

 キノは灰皿から遠ざかるように、立っていた。

「そうか……」

 芦川は、キノを見つめている。キノも視線を感じていた。素知らぬ顔をして、口を真一文字に締める。

「真琴は、俺がプロポーズした時な」

 キノの頭が少し動いた。

「こう言ったんだ。好きな人が、ひとりいるってね」

 視線が彼の方に向く。その大きな澄んだ瞳に芦川は、言葉を一瞬失った。

「……たっ、多分、おまえのことだった、かもな」

 彼の目は、キノに釘付けになる。端正な美しい顔が、芦川を見つめていた。

「おまえ、本当に男なのか? 声も女っぽいし」

「ほんとーに、男です」

 キノは真剣な顔で言う。

「もしかして、男装してないか?」

 両肩が上がった。

「そんなことは、あり得ません!」

「じゃあ、なんで女子トイレから出てきた?」

「間違えただけです」

「間違えるか普通?」

「本当に間違えたんです」

 それは事実だ。

「まっまあ、いいや」

 芦川は、キノと顔を合わせて話していることに、照れくさくなった。

「キノ君、真琴にプロポーズしたんだよな。聞いたよ」

 ちょっと驚いた後、初めて芦川の前で顔が緩む。

「真琴は、おまえの嫁さんになるって言ってた」

 芦川はため息をつく。

「おまえ、指輪くらい真琴に贈ったんだろうな」

「指輪?」

 彼はじっと、キノの指を見た。

「まあ、今は必要ないと言えばそれまでだが、結婚するんだっら要るだろ。婚約にしてもだ」

 芦川は主張する。

「おまえ、真琴の指輪のサイズって知っているのか?」

「指輪のサイズ……」

 キノは芦川に近づいて来て、椅子に座った。彼は意外にも近くにキノが寄ってきたので、驚く。 

「どうやって、計るんですか?」

「真琴に直接聞いたらいいだろ」

 キノは真顔で、芦川の意見を聞いている。


「近くで見ると、本当に白く淡い。鼻筋から唇に向かってのラインが美しい……」

 芦川は変なところで、心臓の高鳴りを感じた。

「ばっ、バカな!」

 彼は頭を二、三回振る。


「芦川さん、直接なんて、聞けません」

「そっ、それは、何とはなしに聞くもんだ」

「そんな、教えて下さい」

 弾けそうな桃色の唇が、動く。

「お! それより、おまえ、どの指にはめるか知っているのか?」

 キノは両手を広げて、考え込こむ。

「それ知っていないと、格好つかないぞ」

「あう。教えて下さい」

 芦川は妙に嬉しがった。モニュメントの広場で、投げられた仕返しをている気分になっている。キノの困った顔が、何より楽しいそうだ。

「じゃあ、指貸せ」

 キノは芦川の前に、両手を差し出す。彼は左の掌を持った。

「細い……。美しい」

 あまりにも細く、しなやかな長い指とその先にある爪の艶を見て、驚嘆した。この手に投げられたのだという、痕跡は認められないほど美しかった。

「これに、俺は……」

「はい」

「指輪は、左手の薬指だ」

 キノは手を覗き込む。その顔が今日、最も芦川に接近した。

 長いまつげと大きな瞳が、伏せて手を見つめている。その顔、顎から、制服に隠れる細い首筋まで、緩やかに流れて、身体のラインを作っている。そして明らかに、男ではなく、女の匂いが芦川の鼻を突いた。彼はその横顔を見つめ、呆然となる。

 ふと、その視線に気づいたように、青みがかった瞳が悩ましげに凝視した。芦川はキノの両手を思わず包み込んで、握る。

「なっ、なに?!」

 彼は真剣な顔で、キノに呟いた。

「おまえ、女だろ……」

「えう?」

 今度は、両肩を持つ。

「やはり、細いよ」

「なっ、なに、言ってるんですか。は、は、は」

 キノは芦川の手を剥がして、少し離れた。

「じゃあ、これはどうだ」

 彼はキノの胸に手を向ける。柔らかいものの感触が伝わってくる、はずだった。


「な、に、してるのよ」

 キノと芦川との間に、マコが入り込んでいる。

「まっ、真琴!?」

 彼女は丁度、キノの膝の上に座り、芦川と向き合っていた。

「男同士で、何やってるの。手を握り合って」

「いっ、いや、これはだな」

 芦川の手が動く。

「先生、手をどけて」

 キノを突こうとした手が、マコの胸を押している。

「あっ! すっ、すまん!」

 キノはその状態に慌てて、背後からマコを抱き上げる。そして芦川の手から引き離す。マコは移動しながら、振り向いて言った。

「とにかく、キノに変なことしないで下さい」

「べっ、別に変なことだなんて……、なあ、おい」

 芦川は動揺しながら、キノに同意を求める。


「キノ」

 マコは今度はキノを睨んだ。

「本当だよ、何もないって。マコの考えすぎ、はは」

 苦しい言い訳にしか聞こえなかった。

「ふーん。それならいいけど。先生、まさかキノが女だ、なんて思ってないでしょうね?」

 図星で驚く、芦川だ。

「こんな綺麗な身体つきしてるから、間違うかも知れませんけど、この人、男ですから。本当に、お、と、こ」

 マコはキノの頬に指を食い込ませながら、断言した。

「それも、なんか、くやしい……」

 キノは呟く。きっぱりと、おんなキノを否定されるのも、心情的には複雑だった。マコは何だか、嫉妬しているようだ。


「わっ、わかってるさ。そうさ、真琴の彼氏が女のはずがないもんな。うん」

 芦川は無理矢理、酔いしれていた自分の考えを捨てる。しかし彼の手に残っている、キノの指の感覚を忘れることは出来なかった。

「先生、私たち他にも用事があるので、これで失礼します」

「あっ、ああ。今日は、ありがとうな、真琴」

 マコは少し微笑んだ。

「先生の絵、今でも変わりませんよ。先生の作品、好きです」

 彼女はキノの手を引っ張って、立ち上がる。でも、まだ怒っているらしく、力が隠っていた。

「おい」

 キノは振り向く。芦川は、ジェスチャーで指輪を表現した。キノは連れて行かれながらも、頷く。

「でも、女だったよな……」

 彼は、二人を見送りながら、そう思った。


「で、何やってたのよ」

 さっきから、マコはずっとぼやいている。

「何でもないって」

「何でもないはずないじゃない。手を握り合っていたのに」

「だから……」

 キノはそう言い掛けて、口を閉じる。指輪のことは話せない。サイズを知るまでは。

「もう」 

 マコは、キノを置いて前を歩いていく。追いかけるようにキノは小走りになった。

「おい、マコってば」

 突然、彼女は立ち止まる。キノは思わず、ぶつかったしまった。

「キノ、あなたが綺麗で美しいのはわかる。女の私だって、見とれちゃうくらいだから。だから男の人が、キノにそう感じるのは、仕方がないと思う。けど……」

「マコ、どうしたの?」

 キノはマコの顔を覗き込む。彼女の口が何かを言いたけだった。

「私の思い出まで、取っちゃ、嫌だよ」

 キノは困惑する。今の言葉は、おんなキノにだ。

「そんな、僕は……」

 しばらく二人はその場で佇んでいた。マコは一歩も動かない。自転車に乗った人や道歩く人が、不思議そうに二人を見て、通り過ぎて行った。

 夕暮れの寒さが風に乗って運ばれて来る。マコの身体が少し震えた。キノは彼女の肩に手を掛け、引き寄せる。マコは側を見た。キノがしっかりと肩を抱いている。

「どうしたらいい」

 マコはキノの指を絡めて、自分の上着のポケットに一緒に入れた。それから彼女は、キノの肩に頭を乗せ、目を閉じる。

「キノの初恋の人のこと、教えてくれたら、許す」

「えう」

 キノは、一瞬止まった。マコの顔を見て考え込む。

「教えられない?」

「そんなことは、ないけど」

「じゃ、教えて」

 キノは、ちょっと恥ずかしそうに視線をマコからずらした。何だか、彼女は嬉しそうだ。

「キノが初めて好きなった人は、どんな人?」

「僕は、両親を亡くした。その事をあまり、覚えてないけど。だから、色々な人に頼って生きてきた」

 マコはキノの目が沈んでいるように見えた。

「僕はいつも不安だった。目の前にいる人が、いつかはいなくなってしまうんじゃないかって。だって、四人もいなくなったから。だから、ずっと心が安らぐ場所を探していた……」

 二人は歩き出す。

「多分、僕の初恋って人は、その場所を持っている人なんだ」

「……じゃあ、あき……」

 強い風が吹いた。マコはポケットとは反対の手で髪を押さえる。

「その人は、優しくて、強くて、いつも側から見ていてくれて……」

 キノは真っ直ぐ前を見ている。

「もう、いいよ、キノ……」

 マコも前を向いた。彼女はため息をついた。絡めた指から力が抜ける。

「……わかっているよ、キノの安らぐ人」

 キノはその抜けていく指を、逃さないように力を入れた。

「その人は、支えてくれる……」

「もう、いいってば」

 マコはもう最後まで聞きたくないかのように、声を上げる。

「僕の事を心配したり、無茶な行動したり、大事にしてくれたり、怒ったり、泣いたり……」

「いいってば!」

 マコは叫ぶ。絡めていた指を解き放って、キノから離れ、数歩前に出た。

「その人と……。一緒に、池に落ちたり」

「え?」

 マコは振り返る。キノは白い顔を真っ赤にして、照れて立っていた。

「キノの初恋の人って……、亜紀那さんじゃない?」

 マコがそう言うと、キノの目がようやく彼女を注視した。

「違うよ」

 キノはマコに歩み寄る。そして、彼女の両手を持ち上げて、握った。まつげの長い、大きな瞳が言う。

「僕の初恋の人は、花宗院真琴だよ」

 マコの口が開いた。

「あの日、からなの?」

「そう。マコに池で、初めて出逢った時から」

「今まで、ずっと」

 マコの頬は、今まで見たことのない程、赤く染まっていく。

「そう、ずっとね」

 憂いのある顔で、その男装をした者は頷いた。

「今でも続いている。そして、将来も続いていくと、いいなあって」

 キノは、はにかむ。その嘘偽りのない真実の顔が、マコを責めた。彼女は震える。

「私って、バカみたい……。涙出てきちゃった」

 マコは目頭を指で押さえた。

「キノ、ずっと一緒いてね」

 それを聞いて、照れているキノは微笑んだ。


 フェイルが去った屋敷では、亜紀那が静かに道場で佇んだまま、考えごとをしていた。

「私の幸せ……」

 ふと我に返り、何気なく道場の出入口へ歩いていく。ここからは、庭の先の正門が見える。道場の太い柱に彼女は保たれた。抱き止められたままの乱れた髪を、掻き上げる。

 時計を見ると、キノたちが帰ってくる時間になっていた。

「おい、亜紀那。キノ様たちが帰ってこられたよ」

 初老の後藤が、彼女に声を掛ける。服を整え、振り返った。

「わかりました」

「亜紀那。先程まで、男がいたようだが……」

 彼は鋭い目で、亜紀那を睨む。

「いっ、いえ……、誰も」

 彼女は目を逸らした。後藤は更に質問を浴びせる。

「フェイル、じゃな」

 眼光は鋭かった。亜紀那は、彼に隠しても無駄なことを、知っている。

「はい」

 後藤は亜紀那の前に立った。彼女は下を向いたままだ。

「亜紀那。わかっておろうが、フェイルはもうこの鈴美麗家には、何の関係も無い」

「わかっています」

「ならば、あ奴の言うことなど、耳を貸すのではない。あ奴のせいで、若旦那様たちは……」

「わかっています!」

 亜紀那は道場から飛び出していった。その後を後藤は目で追っていた。

「わしも、わかっているさ……、亜紀那」

 彼はこの鈴美麗家のことを、誰よりも知っている。もちろん、キノよりもだ。


 正門から入ってきた二人は、ともに手を取り合っている。キノもマコも顔が赤かった。亜紀那はその光景を見ながら、微笑む。

「お帰りなさい、キノ様、マコ様」

「ただいま、亜紀那さん」

「遅くなって、すみません」

 亜紀那は二人の履き物を、靴箱へ収める。

「今日は何だか、お二人とも嬉しそうなお顔をされていますね。良かったですか、個展は」

 彼女は努めて、静かにキノに訊ねた。

「良かったよ」

 キノの表情は明るい。幸せそうな顔は、亜紀那を悩ましげに感じさせた。

「夕食にいたします」

「亜紀那さん、私も手伝います」

 マコが彼女に声を掛ける。

「じゃあ、マコ様。ご一緒に、お願いいたします」

「はい! 着替えて、すぐ行きます」

 マコの表情も、キノと同じくらい明るかった。亜紀那を残し、二人は奥の居室に入っていく。

「キノ様……」

 部屋から、笑い声が聞こえてきた。亜紀那は唇を噛みしめ、立ち上がる。

「フェイルの言う通りかもしれませんね。もうキノ様は、マコ様が支えてくれる。私の役目は終わった。でもまだ……」

 彼女は切なさを堪えるように、手を握りしめた。

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