第二話 キノと真下と足立とブルーバレンタイン(後編)
1
足立は、屋上でガムを噛んでいた。頭上の空は鈍く曇っている。出入り口の錆び付いた扉が開くと、不快な軋んだ音がした。
「ここだったか」
「真下……」
彼は足立の隣に並ぶ。
「おまえ、大丈夫か?」
「真下」
彼女はいつもにない程の真剣な表情で、真下の方を向いた。
「私が変なことしたから、鈴美麗が」
「違う、俺だ! 俺なんだ……」
男は転落防止の歪んだフェンスを、拳で何度も叩く。その拳から血が滲み出でいった。
「鈴美麗を背負っていた女子って」
「花宗院。……鈴美麗の親友だ」
足立は男から視線を逸らし、俯く。
「あの子と、話が出来ないかな」
「今は無理だろ」
真下は腕を組んだ。
「どうしても、話しておきたいんだ。真下、なんとかしてくれ」
彼女は思い詰めたように懇願する。
「話って、何だ」
「……言えない」
「そうか。一応、海原に訊ねてみるよ。あいつら友達だから」
真下も足立を見ずに、空に向かって言った。
「お前の方も、大丈夫か」
「心配してくれるのか」
「あっ、当たり前だ」
振り返った真下は、両肩を押さえる足立を見つめる。
「足立、思い出すな」
「無理だよ。鈴美麗の姿見たら……、あの時の」
彼女は更に震えた。
「足立!」
真下は叫ぶと、足立は我に返る。
「もう言うな。お前が辛いだけだ」
「けど鈴美麗は、どうなる?」
唇を震わせる彼女の足声は、震えを止られずにいた。真下は再び空を仰ぎ、ぽつりと言う。
「あいつは必ず、立ち直る」
2
マコはずっとバスルームの外で、キノが出てくるのを待っている。彼女にとって今までにない程の長い時間が経っていた。
「今までキノが助けてくれた。どんな時も、必ず迎えに来てくれていた……」
マコは呟く。持っているタオルの上に涙の滴が垂れた。
「守ってあげなきゃいけない、大切な人なのに」
彼女はタオルを握りしめた。
「その人を傷つけられることが、こんなにも胸が痛くて、苦しい」
マコはキノの制服の汚れを見た。涙を拭う。
「……キノが、あんなこと言うなんて」
「マコ……」
浴室の扉の向こう側から、微かな声がした。
「何?」
「いてくれたの」
影がゆらりと動く。
「ずっと、待ってるから。キノが出てくるまで。一人にしないわ」
マコは扉に触った。
「髪、洗って欲しい……」
「キノ……」
マコは唇を噛む。
「わかった、待ってて」
彼女は立ち上がって、もう一つバスタオルを持ってくる。服を脱いだマコは、バスルームの扉をゆっくりと開けた。
「キノ」
キノは細い後ろ姿だけ、マコに見せていた。
「やっぱり、綺麗……」
彼女は暫し、見つめてしまう。その輪郭を含めた全てにそう感じた。それが汚されてしまったということを、彼女には理解が及ばない。自分だけのものと信じていたものが、崩れてしまうのが怖かったのだ。
「ゴメンね。洗ってなんて」
キノは努めて明るい声を出した。
「何、言ってるの……」
水に光る白い肌に黒いものが乗っていたことを、マコは考えたくなかった。
両手で洗髪用のシャンプー泡立てて、キノの頭に付ける。
「相変わらず、綺麗な髪ね」
彼女の手は優しく、軽やかにキノのクリーム色の細長い髪を洗っていった。
「そう」
キノの肩が下がっている。手首が見えた。
「マコ、これ」
キノは両手首を持ち上げる。赤く痣のように締め付けられた跡が残っていた。思わずマコは目を反らした。
「……嫌いになっていいよ」
彼女の手が止まる。
「僕のこと、嫌いになって」
「キノ? どうしたの?」
「マコ……、僕はもう、男になんか戻れないよ。自分も守れない、こんな奴と一緒にいても、いいことなんて……」
シャワーヘッドから、勢いよくお湯が飛び出した。キノの頭の泡が排水口へ、集まっていく。
「……いや」
キノは、流れ落ちていく音を聞いていた。
「いや、いやぁ……」
マコはキノの背中に頭を付ける。
「嫌いに、なんか……、ならない」
キノは頭を上げた。
「マコだったら、きっといい人見つかるよ。僕が探してあげる」
「キノ!」
マコは肩を持って、無理に振り向かせようとする。
「やめて!」
キノは髪で顔を隠して、叫んだ。マコの手が止まる。床に置いたシャワーヘッドからの音だけが、バスルーム内に響いていた。
「ダメだよ、今……」
キノは彼女に背中を再び見せる。
「今……、マコの顔、見れない……」
「キノ……」
マコはキノの背中にそっと触れた。
「キノの全部、守るから」
キノの肩が震えている。
「私にとって、キノは一人しかいないの」
マコは、肩に手を掛けた。
「……代わりの人なんていない。ここにいる、私の目の前にいるキノ、あなたしか」
シャワーヘッドからのお湯が、ずっと流れて、一定の音を出している。
「それ以外、何もない……」
3
寝室でキノはずっと布団を頭まで覆って、横たわっている。マコはキノのベッド傍に腰掛けていた。キノの手をずっと握っている。マコの鞄の中にある携帯電話の着信音が鳴った。しかし、マコは動かなかない。暫く鳴っていたが、電話は途切れた。彼女はそのままじっとしている。ただキノの手を握りしめていた。
再び携帯の音が鳴る。今度もマコは動かなった。
「……マコ、電話」
「いいの」
「いいから、電話とって……」
マコはゆっくり手を離す。キノの指先の最後までを感じながら。
「すぐ来るから」
「いいよ……」
鞄の中から、携帯電話を取り出した。着信先は未登録だ。
「……はい」
「あっ、あの花宗院?」
女の声だった。
「誰ですか?」
「足立、です……」
マコの目が開いた。携帯を握りしめる。
「あの……、花宗院。話したいことがあるんだ」
「あっ、あなたは」
マコはキノの方を見て、寝室から静かに出た。リビングまで歩いていく。ソファーに座った。
「どういう、つもりですか?」
「逢って、その……、話がしたいんだ」
「何を話すんですか、話すことなどありません」
マコの手が震えている。
「あっ、あなたのせいで……」
「花宗院……」
「あなたのせいで、キノは、キノは……」
マコは嫌がおうでも、あの光景が浮かぶ。
「……謝って済む問題じゃないことは、わかっている」
「わかってない!」
マコは声を上げ、携帯を切った。そのまま両手で顔を覆う。
足立に言ったところで、どうしようもない。そのことはマコもわかっているが、何処かに気持ちの行き場を探していたのだった。罪悪感が残る。
「そうよ……、足立先輩は、キノを助けてくれた……。それなのに、何故私……」
マコの中でやりきれない気持ちが大きくなっていく。彼女は髪を掻きむしった。コトリと音がマコの背後で鳴る。後ろを振り返った。
「キノ……」
「足立先輩だったの?」
マコは頷いた。
「……何か言ってた?」
キノはマコの顔は見ない。
「何でもないよ」
マコもキノの顔を見ないようにしていた。
「……そう。先に寝るね。明日、学校休むから」
キノはそう言うと、暗闇に消えていった。
「うん……」
マコは力無くソファーに寝転がる。しばらく、そのまま寝入った。
携帯電話が再び鳴る。相手を確認して、急いで取った。海原だ。
「海原君?」
「あっ、あの、そっ、その、あの、まっ」
「なんなの」
マコは海原が今、どんな格好になっているのか想像がつく。
「すっ、すみません!」
「なっ、何よ?」
「マコさんの携帯番号を教えたの僕です。真下さんがどうしてもって言うから……」
絶対汗をかいて、頭を下げていることだろう、とマコは思った。
「別に、いいよ。気にしないで」
マコは息を抜く。この電話は、気落ちしている彼女にとって、緊張感をほぐしてくれるものとなった。
「そっ、それと、もうひとつ……」
「もうひとつ?」
「キノさんの住所、足立先輩に教えたんです。こっ、これも真下さんが強引に」
「それで……」
マコは突然掛かってきた電話の意味を、理解出来る。
「マコさん、怒られついでに言います。今、足立先輩の話を聞いてあげて下さい。真剣に考えておられます。どうか……」
マコは先程電話を強引に切ったことに、後悔していた。しかし、彼女もすぐに返事が出来ずにいる。
「貸せ、海原!」
「あっ、ちょっと!」
真下だ。
「花宗院! お願いだ! あいつは、おまえとどうしても話がしたいらしいんだ! 多分、いやきっと、おまえらの家の前にいると思うんだ!」
彼の言葉が、マコが声を上げるきっかけを作ってくれた。
「……わかりました」
耳元から電話を離しても、大きな声がしていた。
「みんな、ありがとう」
4
雨が降っていた。外はとても冷えている。マコが玄関から道に出ると、街頭の下に人がいた。その者は彼女が出てきたことに、気づいていない様子だ。マコはゆっくりと近づいていった。
「足立先輩?」
「花宗院……。来てくれたのか。もう今日は会えないと思っていた」
彼女の濡れた髪と制服は、マコに傘もささずに待って立っていたことを気づかせた。先程の電話は、ここからだったことが伺い知れる。
「服、濡れているじゃないですか。今までここにいたんですか?」
足立の吐く息が、白く立ち昇る。
「中に入って下さい。ここじゃあ、風邪をひきます」
マコは足立の少し震えている体を、見て取った。
「いっ、いや……、いいんだ。ここで」
「ダメです。本当に体が……」
「いいんだ!」
足立は強く言った。
「じゃあ、せめて門の軒下に行きましょう。それでなきゃ、話しません」
足立は、マコの目を見て、動き出した。二人は軒下に並ぶ。
雨が当たる音が、強くなってきた。樋から下水へ流れる量が増えている。お互いが声を掛けずらく、そのまま時間が過ぎた。
「……鈴美麗は」
足立からようやく、口火を切る。
「あっ……、寝ています……」
マコは足立とは、目を合わせないで答えた。
「そうか……」
「あの……、話って」
足立はマコよりも、あの倉庫に入った。キノがどんな目に合っていたのかを知っている人物だ。マコは、彼女から何を言われるのか、不安で堪らなかった。これ以上、触れて欲しくないと思うことも本心だ。マコは足立の方を向いた。
「倉庫の話ですか」
彼女は頷く。マコの顔に陰が落ちていった。
「もう、何も聞きたくありません」
「花宗院……」
雨音は更に激しくなる。足立は体を震えさせていた。
「花宗院、鈴美麗には付き合っている奴はいるのか?」
「えっ?」
マコは目が丸くなる。
「答えてくれ」
「そんなこと……。何故、先輩に言わなきゃならないんですか」
「支えてくれる人が必要だから……」
足立は遠くを見ていた。
「鈴美麗にそんな奴がいるんだったら、そいつに理解してもらい、支えて欲しいんだ」
彼女は唇を噛む。
「先輩……」
「花宗院、……私はレイプされたんだ、あいつらに」
マコは耳を疑った。振り返って、彼女を見る。
「一年前の夏だった……。鈴美麗と同じように」
彼女は話を続けて言った。
「私は、自分一人でなんでもやれると思っていた。あいつらも……、結局そんな過剰心があんなことになってしまった」
マコはじっと聞いている。
「……妊娠」
雨の音しか聞こえなくなった。マコの耳には、信じられない言葉が張り付く。
「そっ、そんな……」
彼女は足立から目を反らした。まともに顔を見れない。
「……死のうと思った」
「……」
「もう、行き場所もなかった……」
足立は、体の震えを隠しきれなかった。歯がガチガチと鳴っている。彼女の次の言葉が出てこない。
「真下……、先輩が……」
マコは呟いた。我に返った、足立は言う。
「……部のマネージャーだった。あいつは……、真下は、話を真剣に聞いてくれた」
雨が少し弱くなってきている。
足立は手を強く握りしめた。
「……あの日、一緒に来てくれて……」
マコには想像もつかない。
新しい命を絶つことへの罪。それはどんなことでも許されないことだと、今までは思っていた。しかし今、自分の置かれている立場で、果たしてそれが罪だといえるのだろうか。
マコには、理解の及ばないことだった。考えると恐ろしくなる。彼女の頭にキノの笑顔が浮かぶ。
「……足立先輩」
彼女は肩を震わせて、泣いていた。
「私は……真下がいたから、……ここにいるんだ」
雨は止んでいた。
「真下はそれから、あいつらを叩きのめして、停学になった。そのせいで、海原の県大会の出場はなくなったんだ」
「柔道部が荒れていたのは……」
マコは初めて、柔道部で海原と対戦したキノのことを思い出した。あの時にすでに足立と真下は、こんな問題に立ち向かっていたのだ。
「そんな風に自分を見せていただけだよ。ワルい奴って言うレッテルを敢えて被ったんだ」
足立は少しだけ震えを止めた。
「……先輩、キノはあの時……」
「もう、二度と私みたいな、悲しい想いだけはさせたくなかった。屋上で真下が男子二人を投げ飛ばしてから、急いで体育館に向かった」
彼女は唇を噛む。濡れた髪の間から、鋭い目が見えた。
「倉庫の前で、女子が泣いていた。鈴美麗はその子を助けたんだね。そいつが彼女を助けてって、叫んだんだ」
「……キノ」
マコは、改めてキノの性格を伺い知る。
「あの子、自分よりも、……守っちゃうんだね」
彼女は少々、眉間に皺を寄せた。足立はじっと見ている。
「倉庫の中に入った時、鈴美麗は押さえつけられていた。手足が動けないくらいに」
マコは耳を塞いで叫ぶ。
「足立先輩! そんなの聞きたくない!」
「聞け、花宗院!」
足立は嫌がるマコの両手を持って、耳から離した。彼女は恐怖におののくように、目を閉じる。涙が流れた。
「鈴美麗の胸は、確かに露わになっていた。けれども……」
「いやっ!!」
マコは仰け反るように、足立の手から抜け出ようとした。しかし、足立はしっかりと掴んで離さない。そして、言った。
「花宗院! 鈴美麗は最後まで犯されていない!」
マコの中で、時間が止まったように感じられた。その場所だけが、別な空間になったと言ってもよい。
「犯されていないんだ……」
足立の力が抜けていく。マコは解放された。だが、よじれていた体は、すぐには動かない。彼女の唇が微かに動いた。
「キノは……」
足立は背中を向け、歩き出す。
「……花宗院、悲しい目に合うのは、私だけでいい」
「足立……、先輩」
「話はこれだけ。こんな遅く済まなかった。ただ、今日中に伝えたかった、いや伝えなくちゃいけないと思ったから……」
彼女はマコの方を振り返る。
「花宗院、おまえ、鈴美麗のことが好きか?」
「……」
マコは沈黙した。
「好き……、なんだ」
「変ですね」
「……いや。花宗院、おまえの顔、真剣だもの」
少し歩いて、足立はもう一度マコを見る。
「花宗院」
「はい……」
マコは真っ直ぐに足立を見ていた。
「その……、ずっと、抱いてやれ」
「……」
「……鈴美麗が泣き止むまで」
足立は歩いていく。
「先輩……」
彼女は振り向かなかった。やがて街灯に照らせれてた後ろ姿は、もうひとつの人影とともに、寄り添って消えていく。
「……そうしてくれたんですね、真下先輩も」
5
マコは寝室の扉をゆっくり開けた。間接照明の薄明かりのベッドの中に、キノが横たわっている形が見える。今日はあれから顔をまともに見ていない。マコは静かに近づく。布団に触れようとして、手が止まった。
「……キノ、起きてる」
マコは声を掛けて、暫く待ったが返事はない。
「キノ……」
彼女がキノのベッドから離れようとした時だった。
「足立先輩……が」
布団の中から声がする。隆起した山が少し動いた。
「そう。話しに来てくれたよ」
「何か、言ってた?……」
マコは隆起した山を見つめて、手を掛けて揺さぶる。
「キノ。顔見せて」
「いや」
山は先程よりも、もっとくの字に曲がった。
「じゃあ」
マコは布団を持ち上げ、引っ張る。ベッドで丸くなって、震えているキノがいた。目を閉じている。
「……」
マコはもう一度布団を支度し直して、キノと並んで寝た。
「一緒にいてあげる」
彼女は体を、ぴたりとキノの背中につける。小刻みに震えていた体が、少しづつ収まっていった。
「……マコ」
マコは目を閉じている。キノの背中につけた体から、温もりを感じていた。
「先輩が言ったこと」
「教えてあげるけど、こっち向いてくれなくちゃダメ」
暫く、キノの体の動きが止まる。そしてゆっくりとそれが回転していった。
マコの前にキノの顔が、目を伏せながら存在する。憂いのある瞳は潤んでいた。マコの中に嬉しさと切なさの両方が入り交じった感情がこみ上げてくる。
「キノ」
彼女は思わず、強く抱きしめた。キノはその動作に抵抗もせず、彼女のなすがままにしていた。
「マコ、温かい……」
キノの強ばった顔が緩んでいく
「もっと、もっと温かくしてあげる」
マコは上着を脱いだ。彼女の小さい体にキノの顔を押し当てる。
「……キノ、私、守る」
「マコ……、苦しいよ」
キノは顔を、胸から離して上げた。その顔を見て、マコはキノの頬を撫でる。
「お久し振り、キノ」
間接照明の淡いオレンジ色の中に、キノの青い瞳が、まるで光るブルーダイアのように浮かんでいた。キノは美しい。ただ、目の下の隈や涙の跡、擦り傷が痛々しいほど目立っていた。
「もう……、綺麗な顔が台無し」
キノはじっとマコを見つめる。彼女の顔が微笑んだ。
「マコ、こんな僕は、君を本当に守れるのか……。自分さえ守れない情けない奴が」
「……キノが、本当にそう思うのなら、そうかもしれない。ただ……」
マコの顔は、キノと同じくらい真剣だ。
「キノは、世界中で私の目の前にいる人だけ。バスルームでも言ったよね。キノの代わりの人なんていないって。もちろん、女の子キノも一人だけ」
「……」
「守る人は、二人いるのよ。どうしても出来ないんだったら、私はもうあきらめる。あなたの前には現れない。そんな人に迷惑掛けたくない」
凛々しいその顔は、決意していた。もしキノが弱気を見せたら、マコは言ったことを実行すると。
マコは見つめている。そして、笑う。
「でも、あなたを嫌いになるなんて、本当は出来ないけど」
「僕が男に変わらないと……」
「キノは、私の男の子よ」
そう言うと、マコはキノの全てを脱がせた。そして彼女も全て脱ぐ。
「なっ、マコ?」
キノは、突然の行動に驚いた。
「キノの傷、全部見せて」
「……みっ、見せるの」
「うん……」
マコはキノの手を握って、手首の後の赤い痣を撫でる。そして、自分の胸に当てた。
「……マコ」
「全部、私の中に」
彼女はキノの胸に頬を置く。乳房にマコの吐息を感じた。
「くすぐったいよ」
マコの心臓の鼓動がわかる。
「黙ってて、悪いとこ、全部取るの」
キノも心臓が高鳴る。胸の谷間からマコの顔が見えた。どうしようもなく、彼女は可愛く、愛らしい。キノは思わず、抱きしめた。
「マコ、君は、君は……」
マコの顔がキノの目の前に、飛び出してくる。彼女の指が、キノの唇を擦った。
「全部取ったら、私の大事なもの、あげる」
「え……」
マコの唇がキノと重なる。とろけそうなくらい、柔らかく甘いものが、キノを深く落ち着かせていった。
6
「どうか、早く起きてください」
亜紀那は、覗き込んでキノに言った。
「わああああああああああぁ!」
目を開けたキノは、亜紀那の顔のあまりの近さに叫ぶ。
「マコ様とご一緒に寝るのは構いませんが、ちゃんと起きて下さい」
亜紀那は、ちょっと怒ったように言う。
「ごめん、亜紀那さん」
布団から、顔だけ出してキノは謝った。彼女はキノの顔をみると、少し動きが止まった。
「今日は、お体の調子が少しお悪いみたいですね。学校にはお休みの連絡しておきます」
彼女は立ち上がって、部屋を出ていく。
「マコ様も。お食事は、こちらに持ってきますね」
「亜紀那さん……」
キノは布団を少しだけ、持ち上げて中を覗く。マコはキノの右腕を、まるで抱き枕のように両手で包み込むんで、体を丸くして寝ている。当然何も着ていないのは、キノと同じだ。
すぐに布団を戻すとキノは目を閉じた。
「ずっと、僕の側にいてくれるんだね、マコ……」
「……いるよ」
マコは布団から這いだして、頭をキノの顔の側から出した。
「起きてたの?」
「今ね」
マコは髪の毛を手櫛で、整える。
「亜紀那さん、怒ってた」
「そうね。こんなことしてちゃ、ダメよ。多分」
「ちゃんと高校生らしく?」
「……わかんない」
そのまま二人は天井を見つめる。キノは目を鋭く、口を真一文字に構える。
「行こうか、学校」
「大丈夫なの?」
マコは、キノの方を振り向いた。
「僕は、男だ。それに……」
キノはマコの瞳をじっと見つめる。
「僕を自分を支えてくれる、凄く暖かく、優しくて強い女の子がいる。キノも負けられないよ」
キノは微笑んだ。
学校では、やはり昨日の出来事が噂になっていた。誰がどうなったと特定していないが、騒ぎはクラス中に広がっている。
千秋はキノとマコを見つけると、走ってきた。
「キノちゃん」
「おはよ、千秋」
千秋は、それからどう声を掛けていいのか、わからない様子で言葉を探している。
「心配掛けてごめんね、千秋。もう僕は、大丈夫だから」
千秋は、少しほっとして肩の力を抜いた。
「でも、昨日の事、随分噂になってるから……」
「うん、知ってる。ここまでの間に色々聞いてきた」
キノはため息をしている。
教室に足を入れると、一斉にクラスの目がキノに集中した。
「は、は、は。おはよ」
キノは手を上げたが、みんな知らない振りをした。再びおしゃべりが始まる。
「はは、はあ……」
手が空中を漂った。
「キノ、しっかり」
マコはキノの背中を叩く。
「キノさん」
キノの背後に大きな物体が迫った。振り返るとその大きな体は縮んだ。
「海原……」
「おっ、おはよっス。あっ、そっ、その……」
彼の顔は赤い。目を合わせられない。
「大丈夫、元気だよ」
キノは微笑んだ。
「海原君、電話ありがとう」
「マコさん。……そ、そうすか。まっ、真下先輩、強引なんで……」
「鈴美麗……、誰かが何か言ったら、俺が黙らせる」
「如月。おまえらだけは変わらないな」
教室に先生が入って来た。
「鈴美麗はいるか? 鈴美麗は?」
室内がざわめく。皆が噂の続きを話し始める。
「鈴美麗、ちょっと職員室に来い」
キノは立ち上がった。思わずマコも立ち上がる。
「キノ!」
今度はマコに注目が集まる。
「花宗院はどうした?」
「いっ、いえ……」
キノは振り向いて、マコに微笑んだ。
職員室では、足立と真下もいた。
「足立先輩、真下先輩……」
「鈴美麗、いいのか?」
キノはもう、怖じ気着かない。真っ直ぐに真下を見た。足立はちらりと見たきり、目を合わさない。
「いいんだな。これまでのことは、俺は全て話すつもりだ」
「真下先輩こそ、足立先輩を見てあげて下さい」
「なんだよ」
真下は、咳をする。
「鈴美麗と足立、こっちの部屋に入って」
保健室の瀬尾が、手招きした。
別室に入ると、瀬尾は椅子に腰掛けた。
「なんつーか、学校もかなり問題にしてるから……」
彼女は二人が立ち尽くしているのを見て、話をやめた。ノートを机の上に放り投げる。
「あー面倒だから、話さなくていいよ。あいつらが全部仕組んだ、そういうことだな」
「瀬尾先生……」
キノは呟く。
「って言うか、そんなこと言えや、しないってね」
足立はじっと立っていた。瀬尾は背中を向ける。
「二人で話しな」
キノと足立は、並んで二人立っていた。時計の秒針の刻む音が、やけに大きく聞こえる。
「あの……、足立先輩」
キノは足立の横顔を見つめた。彼女の目は静かに瀬尾の背中を見つめている。
「鈴美麗……」
「はい」
キノは前を向いた。
「すまなかった。……私のせいで、こんな目に遭わせて」
「随分な目に、遭いました」
さすがに全く落ち込んでないとは言えないキノは、目線を落とす。
「……、その、花宗院に」
足立は瀬尾の背中から視線をずらした。
「聞きました、先輩が夜、来てくれたこと」
「そう。花宗院は……、その……」
瀬尾は咳払いをし、椅子から立ち上がる。
「やれやれ、外が騒がしいな。全く」
頭を掻きむしりながら彼女は部屋から出ていった。
「花宗院は……、優しく、してくれたか」
キノが足立を見ると、彼女の顔が少し赤くなっているのがわかる。
「彼女は、ずっと……、僕を抱いていてくれました」
「……そう」
足立は頷いた。
「僕の傷を、取ってくれました……」
「おまえ、辛いかもしれないけど、しっかりしてる」
キノは足立の言葉に、マコとの関係性に不審感など微塵にも感じないことに安堵する。
「先輩……。あの時助けに来てくれて、……ありがとう、ございました」
「鈴美麗、その、おまえ……、何もなかったから……。何も……」
足立は初めて、キノの顔を見た。彼女の目は優しい。
「花宗院を今以上に、大切にしろ。あいつはおまえが好きだ」
「……足立先輩」
ドアが開いた。
「なんだ、まだいたのか、二人とも。さっさと、教室へ戻れ」
瀬尾は手を振って、部屋から追い出した。
「あいつら、二度とやれないように懲らしめてやるから、まかせとけ」
足立とキノは廊下に出た。
「先輩、真下先輩と付き合わないんですか。それがあったら、一番良かったのに」
足立は俯いた。
「あいつとは、付き合えないよ」
「どうして?」
「いいんだ、あいつとは」
彼女は後ろを振り向き、歩きだした。
「キノ!」
背後からマコの声が掛かる。
7
突然、扉が開く。四人の男が出てきた。激しくドアを蹴る。
「ちいぃ! やってらんねえ!」
男たちは、キノに気がついた。口元を吊り上げて笑う。キノの肩が少しだけ上がった。しかし、真っ直ぐ廊下を歩いていく。
「へっ、何だ。鈴美麗ちゃんじゃねえか。学校来てたの、嬉しいね。今日来ないかと思ってたよ」
「おっ、やっぱ、綺麗だねぇ。へへへ」
男たちはキノの周りに取り巻いた。ひとりの男がキノの肩に手を回す。
「昨日の続きでも、後から、しない? 今度は優しくしてあげるからさ」
「何? 何か言ってる?」
男はキノの口元に耳を近づけた。
「……触るな」
「はぁ?」
肩に回している男の手が、爪を立てる。
「何言ってんだよ。キノちゃん、俺らもう初めての仲じゃねえんだし」
「……マコに綺麗にしてもらった体に」
キノは肩に掛かる手を弾いた。
「おとっと。へぇ、元気いいじゃんか。結構、参ってると思ってたのに」
「キノに気安く触るな……」
キノの鋭い眼光に、男は身動き出来なくなった。
「うっ、おっ!?」
そのまま彼の腕を掴む。そしてキノは振り被った。朝の光に照らされて輝く長い髪が華麗に宙を舞う。男は鋭く二回転し、壁に投げ飛ばされて当たった。当然男は失神する。キノは平然とそのまま突き進み、拳を振り上げた。
「ひいぃ!」
もうひとりの男は仰け反る。
「ばーか」
今度は空気の壁が、男に衝撃波を与える。反対の壁に吹き飛ばされた。この男は三回転だ。失神した二人は、だらしなく廊下に転がる。怯えた残りの三人は後去る。
「ふん。二度とキノに近づくな」
鋭い視線に男たちは動けないでいた。
「うおっ!」
三人のうちの一人が、背後から蹴り倒された。一斉に残りの二人が振り向く。
「鈴美麗に何やってんすか、先輩方」
如月は腕を組んでいる。
「サイテーです。女の子泣かせるなんて」
如月の背後から、千秋が言った。
「俺も、断固そう言いたい」
藤尾だ。
「私も!」
山本も言う。
「私許せない! キノちゃん、こんなに頑張って学校に出てきたのに!」
石井は叫ぶ。キノは廊下に集まったクラスメイトを見渡した。
「どんな思いで、ここにキノさんがいるのか。あなた方はわかっているのですか? ここまで来たことの勇気をあなた方はわかっているのですか? 自分のした事に」
海原は大きな拳を振り上げた。男たちの目が見開く。
「責任を取りなさい!!!」
「ひいいいいぃ!!」
建物が揺れた。廊下の壁が凹む。男たちはへなへなと座り込んだ。
「どうした!」
職員室から先生が出てくる。
「おまえら! 何してる!」
瀬尾がふらりと出てきた。
「あーあ、おまえら、全く。廊下は走っちゃだめだろ。ほら転んでいる奴もいる」
彼女は集まっている中に入って、手を振る。
「おまえら、わかったから、鈴美麗に余計に心配かけるだろ。早く教室へ行け。如月、早くみんなをまとめろ」
「わかりました」
如月は瀬尾の指示に従った。
「邦彦」
千秋は不安気な顔をする。
「大丈夫、瀬尾先生が後はやってくれる」
「キノ!」
マコが駆け寄ってくる。キノは彼女を見た。
「そう。僕の想いは二人を守ることだよ、海原。キノとマコを」
マコはキノの耳を引っ張る。
「痛ててて! マコ、何するの?」
彼女は睨んだ。
「何故、おんなキノが一番で私が二番なのよ」
「ええっ!? そんなとこ?」
「そんなとこ、じゃないわよ。大事なところよ! キノ、やっぱり、決闘よ、決闘!」
マコは口を尖らせ、両腕を組んだ。
「そんなぁ……」
「ふん」
キノは、マコの手を握る。
「マコ、機嫌直してよ。ねっ」
膨れるマコの顔を覗き込んで、微笑む。
「……もう」
マコも微笑んだ。
「今日はみんなのおかげだからね、キノ」
「うん。みんないい奴だ」
キノはちょっと考えて、マコに耳打ちする。
「いいわよ、それだったら。付き合ったげる」
「何か、恥ずかしいけど」
キノは顔を赤らめる。
「それ言ってるの、おんなキノ?」
マコはちょっと、ムッとした。
「わかんない。お節介なとこは、おとこキノかも」
「とにかく、私も立ち直った旦那様の分あるから」
キノの制服の袖を引っ張る。
「さあ、教室戻りましょ」
マコの黒髪が揺れた。
8
次の日、キノは屋上にいた。空は青空だった。
「おう、もっ、もう、いいのか」
真下は、少し遠い位置で言った。キノは頷く。
「はい、真下先輩」
キノは袋から、出して渡した。赤いリボンで止めた、白い和紙様の包み。
「おまえ、これ……」
真下は受け取って、呆然とした。
「約束の、バレンタインのチョコです。あげるって約束したじゃないですか」
キノの顔を真下は見る。微笑みが彼を待っていた。
「……鈴美麗、こんなもんのために俺は、おまえを……、あんな目に遭わせたんだぞ」
真下の持つ手が震えている。
「先輩、僕、ちゃんと立ってますよ。起きて前を向いています。だからここにいるんです」
風にキノの髪が靡く。キノの目は凛々しく、優しく、美しかった。更に堂々とした武道家としての姿がそこにある。
「鈴美麗、おまえ……」
「真下先輩、言っときますけど、それ義理ですよ、義理チョコ」
「は、は、は……。わかってるさ。おまえからの最高の義理チョコだ」
真下は泣いていた。大粒の涙が落ちていた。
「先輩、じゃあ、本命チョコ、貰って下さい」
「えっ?」
「キノ、連れてきたよ」
扉が開いて、マコともう一人女子が出てきた。
「足立……、おい」
「花宗院、話って、真下か」
マコと足立は扉の近くで話している。
「いいから、先輩これ持って、行って下さい」
マコは彼女に袋を無理やり持たせ、扉から押し出すと閉めた。
「足立先輩、こっちこっち」
キノは手招きする。足立はぶつぶつ言いながらやって来た。
「鈴美麗……、何だよ。話すことはもう無いよ」
「おいおい、足立とこれは何の関係が……」
「二人とも関係あるでしょ、僕に」
キノの目の前にいる二人は黙った。キノは腕を組む。
「償って下さい」
「な?」
真下と足立は同時に声を出した。
「そうですね、二人とも正直になって下さい」
「おい! 鈴美麗! いくらおまえでも、冗談にも程があるぞ!」
キノは指さす。目は鋭い。
「そこ! うるさい」
「はい……」
キノは足立に向き合った。
「足立先輩、今日、……今しかないです。もう三月になれば、三年は自由登校になるでしょ。僕、二人の言葉、聞けなくなるから」
足立はマコから渡された包みを見た。
「おい、鈴美麗……」
真下は狼狽えていた。
「静かに」
「先輩、素直になって。マコに言ってくれたんですよね、支えてやれって。僕は彼女がいてくれたから、ここに来れた。先輩を支えてきた人は誰なんですか」
足立は包み紙を握り締める。
「……ずっと無理だと思っていた。こんな汚れた体の私は……」
「足立……、言うな」
「真下……、おまえは思い出さなくてもいいって言ってくれた。忘れさせてくれた」
「足立……」
「でも、ダメなんだよ。忘れる事なんて出来ない。でも、おまえがいつも側にいてくれるのが、嬉しかった。ただそれだけで良かったのに……」
「足立先輩、真下先輩のこと好きなんですよね」
キノがそう言うと、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「でも、こんな汚れた女なんか、好きになっちゃダメって、真下に迷惑だって思っていたのに……」
「バカ! 足立!」
足立の言葉が止まった。
「俺だって、おまえにどうやって言葉を掛けていいのかわからなかたんだよ。また嫌な思いをさせるんじゃないかって……。俺もわからなかったんだよ。何もしないほうが互いにいいんじゃないかって、思いこませようとしていた」
真下は俯いた。
「俺もおまえのこと、いつも考えていたよ。また落ち込んでんじゃないかなって……。だからおまえのふざけた台詞を聞くのが、何より嬉しかった」
足立は泣いていた。キノは微笑んだ。
「はい、言いたいことは伝えましたか? じゃあ、僕に償って下さい。真下先輩、足立先輩」
キノは足立の背中をそっと押した。彼女は二、三歩前に出ると止まる。真下は顔を上げた。
「あっ、その……、真下……」
真下は手を差し出した。彼は苦笑いをする。
「足立、俺に、そのチョコくれないか。本命で」
「……あっ、ああ……ああ」
彼女の堪えていたものが、一気に流れ落ちる。
「ごめんな、早く言えなくて」
「うん」
足立は立ち尽くした。涙が落ちる。
「本当に、……私でいいの」
真下は肩を叩いた。
「俺はおまえが好きだ。ずっと、おまえを支えてやる。そうあの時決めた」
「うん……」
真下は振り返った。
「鈴美麗!」
キノはもう扉まで歩いて行っていた。
「鈴美麗……、なんて奴だ。強いよ」
「違う。あいつには、支えてくれる花宗院がいるから」
「償ってくれて、ありがと。二人とも」
二人を残して扉を締めると、キノは呟いた。階段でマコが座っている。スカートの埃を落として、立ち上がった。
「マコ……」
彼女はキノの腕に手を絡めた。
「うまくいった?」
「さあね。後は二人に。行こう」
絡めた腕の間から、マコの顔が見える。キノは階段を一段降りた。マコはその場に止まったままいた。
「キノ……、本当にもう、大丈夫?」
キノは顔を上げ、マコの頬を寄せた。彼女は人差し指を立てて、キノの唇を止める。
「学校ではダメよ」
真顔のマコに、キノはクスっと笑った。
「気持ちの全部はね、まだ大丈夫じゃない。でも、マコと一緒だったら、いい……」