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キノは〜ふ!2  作者: 七月 夏喜
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第一話 キノと真下と足立とブルーバレンタイン(前編)


第一話 キノと真下と足立とブルーバレンタイン(前編)


 『鈴美麗キノ』は、美しいクリーム色の手首まである長く細い髪、色白の顔、長いまつげに大きな瞳、四肢が細く、端正な体つきだ。町を歩いていると、大抵の人は一度は振り返る。そんな美しいキノの秘密は、もと男だったこと。いや、今も心だけは男だ。

 ある行事の二日前から、教室の雰囲気は違っていた。キノは何故か男子の動きが気になっていた。いつもは気軽に声を掛けてくれるのだが、変に会話もよそよそしく、慣れ慣れしい態度もない。キノとしても何かと接しにくい日が続いていた。

 キノはトイレで用を済ませ、手を洗っていた。最近は女子の井戸端会議にも慣れてきている。しかし、相変わらず話の内容は辟易するようなものが多い。場合によっては、気分さえ悪くなることもある。

 ここは三年生の階だ。キノは真下に呼び出されていた。

「ねえ、ねえ、最近、男子って、何か狙ってない?」

「バカね、クラス連中なんて義理レベル、っていうかあげるだけ損! 本命に該当する価値ないよ。いい物返してくれる奴だけよ」

 女子二人は盛んに声を上げて会話している。

「じゃあ、今年なし?」

「それがさあ、いい人見つけたんだ。何でも買ってくれる」

「うわ、いい。お金持ち?」

「みたい。玉の腰よ。やっぱり、落とすんだったら綺麗で可愛い子で、迫らなきゃ」

 貢ぎ君を獲得した女子は指を立てた。

「いいなあ。何かって貰うの?」

「ブランドのバッグがいい!」

 自慢と本気で羨ましがっている二人の女子の会話を、キノは、複雑な心境で聞いていた。

「……トイレでこんなシーン、前にもあったっけ」

 キノは呟く。手洗いの鏡越しに二人の会話は続いている。

「で、その後どうするのよ?」

「え? いっぱい買って貰ったら、逃げちゃおうかな」

 貢ぎの女は、鏡にキノの姿を見つける。

「ねえ、あなた、さっきから何見てるのよ」

「いっ、いや別に何も……」

 キノは壁側を向き、そろりそろりと出て行こうした。入り口で二人に止められ、囲まれる。

「聞いてたでしょ」

「何にも、聞いてません。聞くような内容じゃないし」

「あなた、ちょっと!」

 彼女はキノの肩を持って、振り向かせた。長い髪がふわりと翻る。大きな瞳が二人を見つめた。

「何、この子! 凄く綺麗!」

 驚嘆の声を上げる。

「まっ、まあまあ、ねっ」

 貢がせ女子は狼狽えながら言った。

「あなた、二年生?」

 制服のラインの色を見て言う。

「……はっ、はい」

 突然、キノの顔の側を手がかすめていった。その手はトイレの扉を叩く。正確には、頬に当たるのを、キノが反射的に避けたという方が正解だ。

「いっ、今のこと、しゃべっちゃダメよ」

 目的が達成されなかったので、少々焦りながら言った。

「何をですか?」

 さっきと目付きが違う女子が言う。

「あなた、とぼけてると、どうなるか知らないわよ」

「はあ?」

 今度は肩をいきなり突つかれた。少しよろける。

「何するんですか?」

「言うこと聞きなさい」

「はあ?」

 キノは基本的には、女子には手を出さない、と決めている。

「はあ、じゃないわよ!」

 突然、扉が開いた。扉は、貢がせ女子の背中に当たる。その拍子に、彼女は前転した。

「だっ、誰よ!」

「何してんだよ、てめぇら……」

「足立!」

 その声の主は、トイレの上でチューイングガムを噛みながら、あぐらをかいていた。

足立はゆっくりと足を降ろして、立ち上がる。学制服は緩く、リボンは結んでいない。

「足立、あんたには関係ないでしょ!」

「ああ? さっきから、うるさいんだよ、おまえ」

 足立の目が見据える。

「二年つかまえて、なに脅してんだ?」

 彼女は一歩進んだ。黒髪の奥の目は鋭く、二人を動けなくした。更に前に進む。上履きの踵は踏みつぶされている。足立は側にあったバケツを蹴った。大きな音を出して転がる。

「ひっ!」

 二人は腰を低くしながら、走って出ていった。

「けっ! 面白くない」

 足立は唾を吐く。ポケットに手を入れて、チューイングガムで風船を作った。

「……あっ、あのぉ」

「ああ?」

 足立はキノの方は見ずに、窓から外を気にしている。風船が大きく膨らんだ。

「あっ、ありがとうございました」

「ああ、もう来んな」

 そのまま、足立は立ち去っていく。キノはその後ろ姿を追った。

「あだち……、足立先輩!」

「なんだよ、うるさいな」

 足立は立ち止まって、振り返る。大きな風船がキノの目の前に立ちはだかった。

「あのぉ……」

 その風船の下から足立の顔を覗き込む。クリーム色の細長い柔らかな髪と、その中の白い肌と大きな瞳が見つめた。

「あ……」

 足立はキノと目が合うと口が止まった。

「鈴美麗!」

 キノは背後から声がした方に体を動かした。真下が歩み寄る。

「真下先輩、一体何の用事なんですか?」

「すまん、すまん」

 真下は風船に気づいた。

「足立! てめぇ!」

「はう?」

 真下はキノの手を引き、自分の方へ引き寄せる。

「鈴美麗に何かしたのか」

「真下先輩、なんでそうなる?」

「別に、じゃ」

 足立は風船を口へ戻すと、真下の横を通り過ぎて行こうとした。真下は足立の腕を掴む。

「おい、鈴美麗に手を出すなよ」

「真下先輩!」

 キノは真下の腕を押さえて、放した。

「知るか、バカ」

「なんだと!」

 真下は振り被る。

「ちよっ、ちょっと!」

 キノは止めに入ろうとしたが、真下の腕は足立の袖を取って持ち上げていた。

「なんだよ、この手」

 足立は黒髪の間から真下を睨む。

「おまえが、変なことしてねえかなってね」

「ふざけるなよ、真下」

 彼女は腕を振り払う。

「真下先輩! やめて下さい!」

 キノは大きな声で叫んだ。二人の動きが止まる。

「二人とも、いい加減にして下さい! 足立先輩は、僕を助けてくれただけです!」

 真下はキノを見る。

「そうなのか?」

 そして彼は足立の方を向いた。

「ふん。別におまえに関係ないだろ」

 足立は袖の皺を延ばして、何事もなかったかのように歩いていく。キノはその後ろ姿を目で追った。

「真下先輩、何故あんなこと言うんですか。事情も聞かないで」

「俺はてっきり、あいつがおまえに何か言ったんかと」

「そんなこと言われるような人なんですか、足立先輩は?」

 キノは訝しげな顔をする。

「いっ、いや。あいつはいつもクラスから避けられているから」

「真下先輩も避けている人なんですか?」

 キノの瞳が真下を見据える。

「そんな目で見るなよ。ははは」

 彼は目を逸らしながら、頭を掻いた。

「僕には、避けているとは思わなかった」

「おいおい。鈴美麗、変なこと言うな。別に何でもないさ」

「気になる?」

 逸らしている顔を回り込んでキノは見つめた。真下はなおも顔を背ける。

「だっ、だっ、誰があんな奴!」

 彼は焦って、声が上づった。キノは唸り声を上げながら、腕を組む。

「真下先輩、正直に言ってくださいよ。何かあ……」

 廊下に大きな声が響いた。

「おお! 真下! 何、女子とじゃれてんだよ」

「あれ? コスプレ喫茶の子じゃん!」

 男たちは真下とキノに近寄りながら声を掛けてきた。

「本当だ。うわ! 近くで見るとマジ可愛い!」

「こんにちは、先輩方」

 キノは努めて、愛想笑いをする。少々口元が引き吊っていた。

「うおお! 可愛い! いい、凄くいい!」

「……単純」

「えっ、何? 何か言った?」

「いえいえ、何でもないですぅ」

 両手を絡めて、舌をちょっぴり出す。

「おお! ますます、いい!」

「やれやれ……」

 キノは目の前で興奮している姿を見て呆れた。

「邪魔が入ったな。鈴美麗、道場でな」

「真下先輩!」

 キノは声を掛けたが、彼は振り向かなかった。その代わりに目の前を、先ほどの先輩方が塞ぐ。

「真下はいいから、僕とではダメですか?」

「ははは」

 キノは眉間に皺を寄せながら、おもむろに手を差し出した。

「おっ!」

 先輩も手を出して来た。キノは手掌に集中する。

「足立先輩より、こっちの方がたち悪いだろ。真下先輩」

「おお! おおおおおお!」

 彼は手を触れた瞬間に、雄叫びとともに後方回転してひっくり返った。

「じゃ、先輩方ごきげんよう」

「??」

 軽く会釈する。長い髪がふわりと宙を舞い、そのままキノは走って階段を降りていった。


「三年の足立先輩?」

 千秋は、同人誌用の描き貯めている原稿を、鞄に入れながら聞き返した。放課後、帰り支度の彼女をキノは引き留めている。

「知ってる?」

 キノはその仕草を見ながら、机の前で訊いた。

「そういえば、三年にちょっと問題になってる不良っぽい人がいるって聞いたことある」

「本当?」

 千秋は鞄のチャックを閉めた。

「あまり、詳しくは知らないけど」

「ねえ、千秋。知ってることあったら教えてよ」

 キノは彼女にすがる。

「うーん、まだ私が一年の時だったけど、何か喧嘩があったらしくて、その原因が足立先輩だったとか」

「僕が転校してくる前か……」

 キノは顎に手をやる。

「どんな原因だったの?」

「わかんないよ」

 千秋は頭を横に振った。

「キノちゃん、何故そんなこときくの?」

「今日、三階のトイレで女子の先輩に絡まれちゃったのを、助けてくれたんだ。足立先輩」

「助けて貰わなくても、キノちゃんぶっ飛ばせたでしょ。そのくらい」

 千秋は不思議そうな顔をする。

「女の子には手を上げない主義」

 キノはやや、不満そうに言い張った。

「どっちの?」

「レイズ王子の」

 キノは拳を上げる。

「ふーん」

 彼女は鞄を置いて、腰に手を当てる。千秋はキノの顔に近づいて、青いメガネ越しに瞳を合わせた。上目遣いでメガネを持ち上げた。途端にキノの顔が赤らむ。キノは千秋の目が好きだ。

「なっ、なに」

「今はどっちなの?」

「なにが?」

「女の子か男の子か、どっちなの?」

「千秋、僕はいつも男だ」

「じゃあ……」

 千秋はメガネをもとに戻し、両手でキノの胸を押し潰した。キノの体が硬直する。

「こっ、こら! 千秋!」

 とっさに、キノは千秋の手を叩いた。

「男じゃないわ、ちゃんと立派な胸があるじゃない」

「そりゃ、そうだよ! 女の子だもん」

 キノは真っ赤な顔で、両手を使って胸を隠した。

「はて、男では?」

 千秋は、頭に指を当てる。

「男でも女なの」

 焦った顔のキノは言った。

「うーん。じゃあ、マコさんとキスするときは、男?」

 キノの顔が更に紅潮する。今にも湯気が出そうだ。千秋の目が笑っている。

「もう、そんなことはいいから!」

 教室のドアが揺れる。

「きっ、キノさんがマコさんとキスする……」

 一人の大男が意識を失って倒れた。

「海原っ!」

 キノは倒れた海原の傍に立つ。

「おまえ、いつから、聞いてた!」

 キノは倒れている海原に蹴りを入れる。スカートが揺れていた。海原の細い小さな目が見開く。

「うおっ!」

「おまえは、想像するな」

 

「あら、千秋ちゃん。何してるの?」

「あー! マコさん!」

 千秋は、生徒会の仕事を終えてきたマコに声を掛ける。当然、如月も一緒だ。

「どうもこうも、キノちゃんが変なこと訊くの」

「千秋!」

「変なこと?」

「千秋、おまえまた変なこと言ったら、ぶっ飛ばすぞ」

 千秋は拳を上げるキノを見た。

「女の子には手を上げないんだよねーっ!」

 彼女の口元が得意気に笑った。

「なっ!」

 キノは言葉に詰まる。

「千秋、てめえ」

「ふーんだ」

 千秋はそっぽを向いた。如月はぽかんと口を開けている。

「おまえら、何を言ってるんだ?」

「あっ、あの……」

 足元から声がする。キノとマコ、千秋は顔を合わせた。

「そっ、その……。もう、立ち上がってもいいスか?」

 そう。海原は倒れてから、キノに蹴られてそのままだったのだ。大きな体が横たわっている。海原は両方の鼻の穴から血が流れていた。

「海原くん。鼻血出てるよ? 大丈夫、何処か打ったの?」

 マコはハンカチを差し出し、しゃがみ込もうとした。キノがそれを止める。

「キノ?」

「海原……」

 キノの眉が吊り上がる。

「見えてません! 見えなかったっス! パンツなんか!」

「……見えてたのか」

 かくして、海原は三人から蹴りを貰うことになったことは言うまでもない。しかし、彼は至福の時を過ごした。如月は顔をしかめながら、腕を組んで直立している。

「全く、愉快な奴らだ」


「で、何用だったんですか?」

 道場で、正座している真下にキノは声を掛ける。

「いっ、いや大した事じゃないんだけど」

「で?」

 いつもになく照れている真下が、咳払いをした。

「鈴美麗、十四日、義理でもいいから俺にチョコくれ」

「……あう?」

 キノは立ち止まって、考え込む。

「それは、やっぱり女の子からじゃないと、だから……」

 と言い掛けて、キノは再び沈黙した。

「おまえ、女の子だろ?」

 真下は胴着の帯を締めた。冷えた空気が道内に漂っている。

「女の子……、だよね、僕」

「おう! 絶対、女だ!」

「そっ、そう……」

 キノは両手を握りしめ、立ち尽くす。ため息が出た。

「で、どうだ。チョコくれるか?」

「僕みたいな、女の子でよければ」

「ほっ、本当か!」

 勢いついて立ち上がった。真下は、キノの前に立つ。両肩をガッチリと掴んだ。

「そんなに、喜ばなくても」

「喜ぶさ! なんせ、校内でも指折りの美少女のおまえがくれるなんて! 俺はもう、卒業まで女の子から貰えるなんて、無理だと思っていたよ!」

「いやいや、美少女って」

 真下は目頭にうっすらと涙さえ浮かんでいる。

「そんなに嬉しいんですか?」

 キノは真下を見た。大きな瞳が直視する。

「嬉しいかって? 嬉しいさ! おかしいか?」

 彼の両肩に掛かる手が強くなる。

「痛いよ」

「あっ! すっ、すまん。……おまえにはわからないよな」

 真下はキノから離れた。再び正座する。

「わからないことないですよ」

 キノも真下の横に正座した。呼吸を整える。

「いいや、わからん。鈴美麗、おまえみたいな綺麗な女子が考えるほど、男の世界は単純じゃない」

 真下は目を閉じて言った。

「うー」

 キノは唸る。僕も男です、と言いたいが困難だ。

「おまえ、本当に渡したい奴はいるのか?」

「えう?」

 キノはチョコを渡すなど、当然考えてもいないし、そんな気は全くない。頭を振る。

「おまえ、緒方と別れたんだよな」

 キノの動きが一瞬止まった。ゆっくり目を閉じる。

「……周か」

 突然、真下から名前を言われて、キノは緒方のことを思い出した。あれから出会ったことはない。

「あいつ、ちゃんとしてるかな……」

「鈴美麗!」

「……はい」

「緒方は元気だ。この間、うちに入部しないかと声を掛けてきた」

 キノは真下の方を振り向いた。彼はなおも、じっと目を閉じて正座をしている。キノの表情を見ないためかもしれない。実際、キノは少し顔が柔らかくなっていた。

「そうですか」

「入部は、断られたがな」

 キノは苦笑する。

「おまえの事は……」

「……」

 キノは黙った。真下はそれに気づいたように、言葉を選んでいるようだった。

「いや、別に何も言ってなかったな」

「真下先輩、……周を好きになっていたのかどうか、僕にはわかりません」

「そうか」

 キノは、妙に背中の傷が疼いたようだった。姿勢をずらす。

「人を好きなることは大変だ。だが、好きじゃなくなるのは、もっと大変かもしれんな」

「……」

 キノはマコと佐伯の一件で、それは痛いほどわかっていた。

「その……、好きな奴は、いるのか?」

 キノは真っ直ぐ、正面を見つめる。

「言わないといけないんですか?」

「いや、別にいい。言ってみただけだ」

「……いますよ」

「そうか、そうだよな。いるよな、そのくらい」

 真下は頭を掻いた。

「そのくらいって、言わないで下さい」

 キノは手を握りしめる。

「あっ、ああ、すまん……」

「凄く、大変だったんですよ……。これでも」

「おまえでも、大変な時があるんだな」

 真下の想像も及ばない事を経験している事実を、ここで言ってもしようがないことは、キノにもわかっている。しかし、男としての気持ちが解るうえに、尻軽女として、軽く言われるのだけは許せなかった。確かに、真下の言わんとしていることはわかる。このキノの美貌で、色声でも出して男子に迫れば、落とせる確率は高いだろう。どうしても、そう僻んでしまう自分にも腹が立っていた。

「真下先輩、僕はみんなと同じです」

 出来て、当たり前ではないのだ。

 キノは少し膨れた。二人はそこから沈黙した。

「先輩こそ、好きな人いるんですか?」

 ようやく真下は目を開けた。

「いたかもな……」

「もしかして、足立先輩?」

「ばっ、バカな!」

 彼は狼狽えた。左右に首を振る。

「どうして、あいつが出てくるんだ」

「だってあの時、三階で足立先輩の腕、掴んだし」

「昔から知っているだけだ」

 キノは真下の顔を覗き込んだ。

「知っているだけで、あんなことしませんよ。普通」

「まあ、それはいいじゃないか」

 彼は話の切り替えに取りかかる。

「いや、聞かせて下さいよ。僕のこと、色々聞いた癖に」

 キノは膨れたまま、言った。その姿を見て真下は、正座を崩して、あぐら姿勢になる。ため息のような一息をつく。

「足立は、俺の近所のコンビニでバイトしていてな。部活が終わって、よく俺も立ち寄っていたから顔を知っていたんだ。自分の高校で見かけた時には、驚いたがな」

「先輩、通っていたんじゃないですか?」

 真下は咳をした。

「近所だからな。けどあいつ、二年の夏に突然バイト辞めてしまったんだ」

 彼は眉を潜め、顎に手を当てる。

「それからだよ。あいつがあんな風に、おかしくなっちまったのは」

「理由は聞いたんですか?」

 真下は黙った。腕組みする。

「わからん……」

 彼は真剣な目で、ある一点を見つめていた。キノはこれ以上の質問をすることをやめた。

「真下先輩、チョコは持ってきますね。足立先輩のこと何か思い出したら、教えて下さい」

 キノは道場を出る。真下はまだ、じっとしていた。


 足立は屋上に立っていた。ここから、グランドが見渡せる。ふと、キノが柔道部道場から出てくるところが見えた。

「あの子……」

 グランドの丁度中心辺りで、髪の短い女子が立っている。キノは手を振って、そこに駆け寄った。少しの間会話して、二人は、グランドから正門へ向けて歩いていく。途中、キノは手を出して、髪の短い女子の手を取って握った。そのまま二人は寄り添いながら去って行く。

「ふーん」

 足立はその光景をじっと見ながら呟いた。

「鈴美麗か……。綺麗な奴だ」

「やっぱり、ここか」

 足立は驚いて振り返る。男が立っていた。彼は足立のところへ近寄ってくる。

「ふん。なんだ、真下か」

「足立」

 真下は何か声を掛けたいのだが、言い出せない。口が少しだけ開いたままだ。

「何だよ。用がないんだったら、行くよ」

 彼女は手すりから手を離し、ポケットに入れた。目を伏せて、真下の前を通り過ぎようとする。

「おっ、おい、足立」

 彼は思い切ったように、声を発した。足立は振り返って、真下を睨む。

「だから、何だよ。昼の事は済んでるだろ」

「おまえ、今日暇か?」

「えっ?」

 歩き出していた足が止まった。真下は足立を見ている。

「何言ってんだ。いきなり」

「美貴……」

 真下は呟いた。足立の目が泳ぐ。

「下の名前で呼ぶな。おまえとはもう関係ない」

 真下は口ごもった。しかし、必死に絞り出す。

「ちょ、ちょっとでいいんだ」

「真下、私に関わらない方がいいよ」

 足立は真下から視線を外すと、ゆっくり前に進んだ。

「……」

「あんたも随分、苦しんだじゃないか」

 彼は下を向いて、拳を握り込む。

「話す事なんて、もう何もない」

「俺のことを話すんじゃない。鈴美麗が、おまえに興味もっていることだ」

 足立はもう一度立ち止まった。

「鈴美麗?」

「ああ」

 真下はじっと足立を見つめている。

「どうして?」

「おまえが、トイレで助けたのが嬉しかったらしい。何かと聞いてきた」

 足立は笑った。

「そんなこと。真下、あの子と付き合ってるのか?」

「バカなこと言うな。あいつには好きな奴がいる」

「そりゃ、そうだね」

 足立はグランドの光景を思い出していた。ため息をついて、しゃがみ込む。顔を上げて空を見上げる。青い空が広がっていた。真下も顔を上げる。

「なんで、あたしなんかに興味あるのかね。お嬢様は」

「おまえ、もういいんだな?」

 足立は真下を睨む。

「もう言わないことになっているだろ」

「鈴美麗が、知ったらなんて言うかな」

「バカみたい。終わったこと。あんたがおしゃべりじゃなければいいことよ」

 足立は空笑いしながら立ち上がって、屋上から出ていく。後に残された真下は、立ったまま、まだ空を見ていた。


「僕は何故、女の子になったんだ?」

 いつもバスルームでキノはそう思う。

 湯気で姿見鏡が曇っているのを手で拭き取った。拭き取られた部分だけ、顔が映る。大きな瞳を何度もパチパチとした。

「この顔は、いつ見ても綺麗だね。本当にどうしたらこんな顔の作りが出来るんだ?」

 シャワーの混合詮を捻って、熱いお湯を出す。それを姿見鏡に掛けた。曇っていた視界が晴れて、キノの裸体が現れる。制服を着ていると、その華奢な姿しかわからない。しかしこうして裸になると、その体の膨らみやくびれが、うまく調和されているのがはっきりわかる。キノは顔を赤くした。

「僕の無意識の願望が、こんな形を作ったのか」

 シャワーの水滴が、頭から柔らかく白い肌に浴びせられる。滴がその細長い四肢を伝って、滑り落ちていった。長い髪の毛は滴とともに、肌に張り付く。

「マコと池に落ちた時に、光っていた物。確か、トイレで変身した時もそれが目の前にあった」

 キノは目の前の鏡に映る自分を見ながら、記憶を辿っていった。

「白い霧状の靄も体を取り巻いていた。それに包まれて、僕は女のキノになった。それにしても、なぜ女の子なんだ」

 髪の毛を肌から離そうと、キノの手は胸に触れた。柔らかい膨らみは、指先に刺激を与える。そっと、それを両手で押さえた。キノは鏡を見る。触れている手に力を入れると、もっと敏感に感じた。それは全身に伝わる。

「あ……」

 吐息が出る。鏡のキノは、切ないほど綺麗だった。慌てて、首を激しく振る。両手を胸から離し、頭にシャワーをもう一度、当てた。鏡は曇って、キノの顔や体を見えなくしていった。

「何か、おかしいよ。こんなことって」

 頭から流れ落ちる滴の筋は、先ほどと変わりない。

 シャワーを止めて、浴槽に入る。体が見えないように、鼻下まで湯に浸かった。しばらく考え込む。

「僕は……、キノが……、キノが好きなのか」

 しばらく時間が過ぎていく。

「この体は僕が望んだ?」

 キノは湯の中で呟く。堂々巡りのように、考えに答えがでない。言葉が詰まった気泡が、ぶくぶく顔の前に立ち登ってきた。

「そんなことない。僕は絶対、マコが好きだ」

 拳を振り上げる。

「でも一度戻ったのに、どうしてまた女の子に変身した?」

 振り上がった、拳が次第に下がって、湯の中に沈んでいった。水面から顔半分だけ出して、キノは考えている。

「僕の気持ちが邪魔した?……」

 どんな気持ち? マコを好きという気持ちに、嘘がある?


「……キノ」

 声がした。

「キノ」

 ゆっくりと目を開けると、マコの顔が間近にある。彼女の瞳が、じっと見つめていた。

「わあああああ!」

「気がついた?」

 そこはベッドの中だった。

「あっ、あれ!? マコ?」

 マコの手が頬にある。

「何も覚えてないのね」

 そう言われても、キノはこの状況が把握出来ない。辺りを見回した。

「あなた、バスルームで気を失っていたのよ」

 マコはベッドから離れると、鏡台の前に座る。ドライヤーを手にとって、濡れた髪を乾かしていた。

「バスルームで?」

 キノは布団を持って、マコの方を見る。

「ちっとも出てこないんで見に行ったら、浴槽から片手だけ出して、目を回していた」

 マコは鏡越しに、キノを見た。

「あっ……」

 キノはようやく、事態を理解し始める。

「大変だったよ、浴槽から出すの」

 マコは笑う。

「そんなに重くないだろ、僕」

「だって、全然力入ってないし、ぐにゃぐにゃだったから、重い!」

 マコはドライヤーを置いて、ベッドに駆け寄る。ジャンプしキノの上に跨いで、押し乗る。

「おっ、おい、マコ」

「あのね、キノの裸、私見ちゃった」

「あう!?」

 マコは微笑む。キノは焦った表情になった。

「凄く、綺麗だった」

 そう言われて、キノの顔は真っ赤だ。マコはまた笑う。なぜかいつもになく、はしゃぐマコだ。

「キノ」

 何がおかしいのか、マコはまだ笑っていた。

「なっ、何?」

「キノ、バスルームで、変なこと言ってたよ」

 マコは、笑いながら泣いている。

「はう? まっ、マコ?」

「僕は、キノが好きかもって」

「えっ?」

 マコは、泣いている。呆気に取られて、キノはマコの顔をじっと見ていた。マコの布団を持つ手が震えている。

「マコ……、そんなこと僕」

 体を起こそうとするが、マコが乗っ掛かっているので動かせない。

「いいえ、男の子のキノはどこかで、女の子のキノを見ているんだわ」

「いい加減にしてよ、自分が自分を好きなるなんて、ないだろ」

「最初から自分だったらね」

「……」

「だってキノは突然変身したんだし、目の前にこんな綺麗な女の子がいたら……、誰だって」

「マコ! いい加減にしろ!」

 マコは体を震わせた。目を伏せて、ゆっくりとキノから離れる。

「私……、キノが相手じゃ勝てないよ……」

 マコは真剣な顔で言う。

「おっ、おい。勝つとか負けるとかってなんだよ」

 キノは体を起こした。マコの体を引き寄せて、無理に自分の方に向かせる。彼女は顔を反らした。

「私が好きなのは、女の子のキノじゃない。男の子のキノよ」

「信じてくれないの、僕のこと」

「信じてる。今までもずっと信じてる」

 ようやくマコはキノの目を見る。

「でも、キノは……」

「……」

「キノは気を失っても、女の子のキノの名前を呼んでる」

「マコ!」

 キノはマコの手を掴んだ。しかしマコはその手を振り回して抵抗する。キノは無理矢理に引き寄せ、彼女を抱きしめた。お互いの息が出来ないくらい、きつく抱く。

「ごめん……」

 キノは言った。マコは両手でキノを拒むように、押している。

「ごめんなんて、言わないで!」

 マコは怒って言い返す。キノは呆然と、口が空いたままになった。マコを抱いている手が緩む。

「……キノなんて」

「マコ」

「キノなんて、嫌い……」

「はぅぅ!?」

 キノはマコからそんな言葉を聞くとは、夢にも思わなかったように、激しく動揺した。

「キノ、今日は一緒にいたくない」

 二発ぐらい大きな拳を食らったように、キノはよろける。

「ちょ、ちょっと待ってよ、マコ!」

「花宗院に帰ります」

 マコは立ち上がった。

「えぅぅぅ!」

 キノは叫ぶ。

「キノ。私たち、もう少し、距離を置いた方いいみたい」

 このひとことで、キノ撃沈状態となった。力尽きて頭を下げて、床に座り込んだ。マコは服を着ると部屋を飛び出す。

「そんな、こんなことって……」

 キノは残された部屋で呟いた。


「マコ様、こんな時間にどうされました?」

 亜紀那は不思議そうに訊ねた。玄関で携帯電話を取り出したマコを見つけたのだ。


「何? 真琴が帰ってきている?」

 大介は、帰ってくるや否や、嬉しそうに言った。

「先程、鈴美麗様の亜紀那殿が送って下さいました」

 執事は言った。大介はコートを預ける。

「しかし何でまた、こんな遅くに?」

 心配そうな返事だが、顔は嬉しそうだ。

「真琴は何処にいる?」

「今はお部屋の方に」

「そうか、よし。何があったか知らないが、聞いてみるか」

 大介は扉の方に向かう。執事が扉を開けた。半分出て、立ち止まって振り向く。

「綾子はいるのか?」

「奥様はまだお戻りになっておりません」

「そうか!」

「ご連絡した方がよろしいでしょうか?」

 執事は電話を用意する。

「いや! 仕事の邪魔をしてはならん!」

 大介は強引に電話を取り上げる。

「うん。そっとしておけ」

「はあ……」


「今日、お戻りになるなら、迎えの者を差し上げましたのに」

 マコ専属のお世話係の彼女は言った。

「久しぶりね」

「はい、お久しぶりです。お嬢様」

「もう、その……、腕の傷の具合はいいの?」

 マコはコートの皺を伸ばして、ハンガーに掛ける彼女の右腕を見ながら言った。

「ありがとうございます。ほらこの通り平気です」

 彼女は腕を振り回す。

「いいみたいね」

 マコは笑った。彼女も笑う。

「寂しかったですよ。このお部屋が静かに成りすぎちゃって」

 ベッドメイキングをしながら、彼女は言った。

「本当に?」

「嘘はつきません。この部屋どころか、この屋敷全体が静かになったかもしれません」

 マコは窓の外を見た。照明が光り輝いている。

「特に旦那様は、お嬢様が鈴美麗様のところへ行って以来、すこし寂しそうなご様子です」

「お父様がねぇ」

 マコは椅子に座る。

「やはり、父親は娘がいなくなってしまうのは、わかっていても悲しいものなんですね」

 彼女は手際よく済ませた。マコのもとに歩み寄る。マコは俯いた。

「少しの間、ここにいてもいい?」

 彼女は微笑む。

「ここはお嬢様のお部屋です。ここにいらっしゃる間は、私がお世話させていただきます」

「うん。ありがとう」

「暖かいお飲物でも、お持しましょう」

 マコは頷いた。

「ねえ……」

「はい」

 彼女は扉に掛けた手を戻して、向き直った。

「聞かないの? こんな時間に帰ってきたこと」

「聞く必要はありません。私はあなた様のお世話する係りです。プライベートなことへの介入は慎しむように言われております」

 彼女は一礼する。

「そっ、そうよね……」

「ただ」

「ただ?」

「私は、お嬢様が大好きです。あなた様のためなら、怪我をしても構いません。お嬢様が私を頼りにされるのであれば、お話します」

 彼女は一礼する。

「私はあなたをお世話係だけとは、思ってないわ。あなたは、キノの手紙を……、捨てずに持っていてくれた」

「はい」

「あれがあったから、私は勇気が出た。あの手紙……」

 マコは言葉を詰まらせた。唇を噛む。

「紀乃様と何かあったのですね」

 彼女は優しく訊ねる。


「真琴! 戻ってきたのだな!」

 突然扉が開いて、大介が入ってきた。

「おっ、お父様! ノックもしないで!」

「旦那様!」

 彼女も叫ぶ。

「おお、すまん、すまん!」

 大介は大きな声で言う。顔が笑っている。

「なんだ真琴、家が恋しくなったか!」

 彼は凄く嬉しそうな声で、マコの傍に来た。頭を撫で、顔を覗き込む。

「なんだ、暫く見ないうちに、美人になったな!」

「まだ、一ヶ月しか経ってませんよ。もう、また酔ってるのですか!」

「これが飲まずにいられるか。愛する娘が帰ってきたのにな」

 今度は泣いている。片手にワインを持っていた。

「真琴、おまえも飲め!」

「私は未成年です」

 大介は、マコを椅子から立ち上がらせた。そのまま、ソファーへエスコートして座らせる。

「そんな堅いこと言うな。ちょとだけ、な」

 持っていたグラスを差しだし、無理矢理持たせてワインを勢いよく注ぐ。

「ちょ、ちょっと、お父様! 多い! 溢れる!」

 テーブルの上に、グラスから溢れたワインの液体が垂れていった。

「すまん、すまん」

 また笑っている。

「さあ、飲め」

「だから、飲めません」

 マコはグラスを置いた。大介はじっとマコを見つめている。

「何ですか?」

「いや……、私はまだおまえを手放したくない」

 大介は目を閉じる。

「お父様……」

「早いよ。早いよ、真琴」

 彼は、また泣いている。

「佐伯さんの時は、その気だったのに」

「あれも決まった時、後悔した。なあ真琴」

 マコは黙っていた。

「まだ、先でいいじゃないか。何も鈴美麗家に今じゃなくても。みんな寂しがっている」

「今、そんなこと言わないで……」

 マコはグラスを持つと口に運んだ。

「おおっ! ついに飲む気になったか! いいぞ!」

 マコは喉を鳴らして、飲んでいく。

「おお! おっ、おい、真琴、おい」

 一気に飲み干した。

「まっ、真琴?」

 グラスをテーブルにやや乱暴に置く。

「だいじょうぶれす」

「さっ、さすが、我が娘だよ」

 大介はまた、グラスにワインを注ぐ。

「私、ここにいる方がいいのらな……」

 マコの目がだんだん据わってきた。

「いいら! お父様! 私この家に戻らる! もうここから出らい!」

 彼女は立ち上がる。顔が真っ赤になっていた。

「真琴! そうか! よし! 鈴美麗家には、私から伝えてやる! 結婚解消だ!」

 大介も立ち上がった。二人で拳を上げている。

「キロのぼかー!」


「ダメです!!」

「えっ?」

 大介は振り返った。

「あの方が、迎えに来られた時に、お嬢様はもう花宗院家を後にされたのです。だから、戻ってきてはダメです」

「れも……、もし、キロと別れたる」

 彼女はマコの傍まで紅茶を持って来た。テーブルに置く。

「別れたいのですか? 紀乃様と」

 彼女はマコをじっと見つめる。マコは目が合わない。彼女はマコの頬を叩いた。

「おっ、おい、君! なんてことするんだ!」

「何故、お酒なんか、飲ませてるんですか! 旦那様!」

「いっ、いやそれは、真琴が勝手に……」

「何ですか?」

 彼女は睨む。

「はっ、はい。すみません」

 大介は小さく縮んで、ソファーに座った。

「お嬢様、紀乃様と本当に別れたいのですか?」

「そんらことは……」

「お嬢様。私前にも言いました。お嬢様の幸せが、私の幸せって」

 彼女は右腕を左手で押さえる。

「私はお嬢様の事が好きですよ。好きな人が幸せになれないのは、悲しいです」

「……」

「紀乃様は、必ず幸せにしてくれます。私は信じています」

「キロ……」

 マコは辺りを見回す。体が揺れていた。彼女はマコを抱いて支える。

「どうしました?」

「キロがいない……」

 二人はソファーに座り込む。

「ここには紀乃様はいらっしゃらないですよ」

「どして?」

 マコは彼女の顔を覗き込んだ。ワインの匂いがしている。彼女は、大介を見た。彼はグラスを指して、全部というジェスチャーをする。驚いて、彼女はマコを見る。もう、随分酔いが回っている様子だ。

「ここは、お嬢様のお屋敷ですから」

 マコはなおも、頭を振り回してキノを探している。

「キロ、よんれ」

「今の時間は、無理です。もうお休みになってますよ」

「キロ、よんれよ。キロ」

 切ない目で、マコは訴える。

「お嬢様……」

 マコは再び立ち上がるが、倒れて彼女の上に乗っかかった。

「キロがいらいと、さみしいろ……」

 涙が頬を伝っていく。そして声を上げてマコは泣き出した。マコは体を支えている彼女に抱きつく。

「……キロよりも胸がおおっきい」

「はい? 紀乃様よりも?」

 彼女はきょとんとした。

 

「はい、真琴ちゃん」

 マコの耳元に携帯電話が、押しつけられる。

「あっ、綾子!」

 大介は振り向いて、驚いた。

「奥様!」

「何故真琴ちゃんが酔って、ここにいるのかは知らないけど。相当我慢してるわ、この子」

 綾子はひと息つく。

「やはり、向こうとは無理か?」

 大介は眼鏡を取った。

「何言ってんの。こんなに真琴ちゃんが、紀乃ちゃんに逢いたがってるのに、無理なわけないわ」

 マコはいつのまにか、ソファーから離れて、床に座り込んでいた。携帯電話を大事に両手で支えている。

「マコか」

「キロだー!」

「キロ? マコどうした?」

「なんらか、きもちいい。ろっているみたい」

「酔ってる?」

「ワインのんじった」

「おいおい、マコ、あのさ……」

「キロ、わらし、キロとけっとーするから」

「決闘? 誰と?」

「おんなキロと」

「はあ?」

「わらしがかったら、おとこキロをもらうの」

「何言ってるの?」

「まけたら、あきらめる」

「諦めるって、マコ」

「もう、きめら。あした、けっとーする。どうろう、いくがら。おげぃ」

「おおい! マ……」

 マコは電話を切った。彼女はニコニコ微笑んでいる。

「なんだか、話がまとまったらしいわね」

 綾子は腕を組んで、頷いた。

「おい、本当にまとまったのか? 何か決闘って言ってたぞ」

 大介は不安気な声を上げる。

「真琴ちゃんが、納得できる答えを出したのよ。それでいいじゃない」

 綾子が振り返ると、マコは携帯電話を握りしめて、床に転がって寝入っていた。

 次の日はいい天気だった。寒空に晴天。空気が澄んでいる。亜紀那はマコを迎えに来ていた。後藤が自家用車の後部座席を開く。

「それでは、マコ様」

 亜紀那はマコに合図する。

「はい」

「お嬢様、お気を付けて」

「あっ、ありがとう」

 頭を押さえながら、マコは言った。

「真琴ちゃん、勝ってね」

 綾子はガッツポーズを取る。

「うっ、うん」

「真琴、負けたらすぐに戻ってきなさい。しかし、誰と決闘するんだね?」

 大介に綾子の肘鉄砲が飛んだ。

 マコは顔を引き吊らせながら、車に乗る。座席のウィンドウを開けて、車外の者にお辞儀した。

「亜紀那さん、私ってお酒に酔って、昨日変なこと言ったみたい」

 マコの隣には亜紀那が座っている。

「聞いてますよ、キノ様から。試合をなさるそうで」

「ああ……」

 マコは頭を抱えた。二日酔いも残っている。

「キノ様は、朝から道場で稽古されていました」

「今日の切れは、また一段といい」

 後藤は追い打ちをかけた。

「まさか、本気で……」

「しないのですか?」

 亜紀那の目は真剣に問いかける。

「どう考えたって、キノなんかに」

「マコ様。昨夜いくら酔っているとは言え、あなたはキノ様に試合を申し出た。キノ様は、それを真摯に受けとめたのです」

 マコは亜紀那の目に動きを封じられている。

「そう、そうよね。私、キノに勝手に怒って喧嘩して、出ていったんだもの、そう簡単に許してはもらえないよね」

 マコは目を伏せた。車外の流れる景色を見つめる。

「その潔さは、キノ様に試合を申し込まれた勇気は、敬服いたします。だからこそ、キノ様はマコ様からの申し出を受けているのだと思います」

「本気でくるの?」

「本人はその気です」

 マコはため息をついた。

「やるしかないか」

「けれども、そのまま戦ってもマコ様に、勝ち目など一パーセントもありません」

「はあああ……」

 亜紀那はマコの気落ちした顔を覗くと笑った。

「マコ様、私も格闘家、鈴美麗家一派のもと門下生です」

「ええっ?」

「今でも十分通用しますよ、亜紀那は」

 後藤が苦笑する。

「恐らく、キノ様を止めることが出来るのは、亜紀那とフェイルぐらいのもんじゃろ」

「フェイル……」

 マコは亜紀那の表情が強ばったのを、見逃さなかった。

「フェイルさんは私に、キノを守って欲しいと言った人です」

「そうですか」

「亜紀那さんとフェイルさんは、キノが幼い時、よく面倒を見ていたの?」

 マコは無難な質問をした。

「マコ様、話が逸れてますよ。今はキノ様との試合のことを考えなくては」

「すみません。ちょっとキノの小さい頃を知りたかっただけ……です」

 マコは下を向いた。気落ちした彼女を見て亜紀那は、諦めたように頷く。

「まあ、試合はなんとかなるでしょう。私がキノ様の弱点を教えて差し上げます。ちょっとだけ話しましょうか」

「はて? キノ様に弱点なぞあったかな?」

「後藤さん!」

 マコは亜紀那の方に向き直った。車は軽やかに朝の風景の中を走る。

「キノ様が七歳の時に、私は高校を卒業してこちらにご厄介になっています。初めてキノ様にお会いしたのは忘れもしません。ご両親がお亡くなりになって、四年後でした」

 亜紀那の目は遠くを見ていた。

「キノってどんな感じだったの?」

「大旦那様と二人でお食事されていました。キノ様はひどく寂しそうなお顔されていました」

 マコはキノの寂しそうな顔を、時々見掛ける。

「キノって、いつもひとりぼっちだったのね」

「私に大旦那様は、キノ様の一切のお世話を預けられました。やはり母親的な存在が必要だったのかもしれません」

「あの……、亜紀那さん。私とキノと、いつ出逢ったのかしら?」

「それは……、あの池でないでしょうか?」

「あそこが最初なの? 初めて出逢って、キノは私を守るって言ったの? そんなことになるかしら?」

 マコは沸き上がる疑問に眉を潜めた。亜紀那はそれをじっと見つめる。

「学校に着きますよ、マコ様」

 後藤は星白高校手前で声を掛ける。

「あっ、はい」

 マコは我に返った。車は停車する。

「キノ様はもう、行ってらしゃいますので、試合のことは適当に話を合わせておいてください」

 亜紀那は微笑む。

「亜紀那さん、今日の夕方お願いします。試合は明日にしますから」

「わかりました。あの、マコ様」

 マコが車のドアに手を掛けようとした時、後藤が開けた。マコは身を半分車外に出る。

「池の話は、キノ様には言わないでください」

「はい?」

 マコは亜紀那の顔を見る。不思議と彼女に隠し事を感じられずにはいられなかった。


 マコはトイレで制服に着替えると、教室に急いだ。 教室の窓からキノが見えた。キノの席は窓際の前から二番目の二列目、海原の隣だ。キノは、相変わらずのスタイルだった。額を机に付け、流れる髪は机に向かって垂れている。華奢な体は、男だったこと忘れさせてしまう。その姿を見たとたん、マコの中に安堵感と昨日キノが呟いていた言葉が沸き起こった。深呼吸する。

「でもやっぱり、キノじゃないと……」

 扉の前で、一旦立ち止まった。

「マコさん! おはよう!」

 千秋が背中を叩く。彼女のメガネの奥にある綺麗な瞳が明るい。

「おっ、おはよう」

 マコは愛想良く、返事した。

「花宗院、おはよう」

 如月が声を掛ける。

「おはよう。何、二人で一緒に来たんだ」

「いや、こいつが今日は一緒に行くって……」

 彼は千秋を指さした。

「はあ? 言ったのは邦彦でしょ? 今日しつこく携帯鳴らしたじゃん」

「おっ、おまえ! 本当のこと言えよ」

 二人のやり取りを見て、マコは半分羨ましく思う。

「はいはい、わかりました。頑張ってね」

 彼女は、自分にもいい聞かせながら言った。

「おはようございます、キノさん」

 海原だ。キノの頭がゆっくり動く。

「ひっ!」

 彼は体に似合わない声を発した。後ずさって、机にぶつかる。

「どうしたんですか? 寝れなかったんですか? 随分と目の下に隈が出来てますよ」

 キノは海原を睨むと、頭を起こした。

「うーん。頭がボーとする」

「あっ、マコさん」

「あう」

 キノの背後にマコは立っている。

「おはよう、海原君。キノも!」

「ふん」

 キノは振り向かなかった。頬を膨らます。

「キノ、約束守るからね」

「……」膨れたまま無言だ。

「ちょっと、キノさん? マコさんが」

 海原が心配そうな顔をした。

「いいんだよ。ただのちょっとした事だから」

「へぇ、言ったわね」

 マコはむっとして、腕を組んだ。

「言ったよ。勝手に出ていって、勝手に決闘だなんてバカみたい。それも、勝てないくせに」

「なっ! キノ!」

 マコは怒鳴る。

「何!」

 キノもマコの方を向いて、立ち上がった。マコとキノは目を合わせる。しかし次の瞬間、彼女は驚いて声を上げた。

「何、キノ? その目の下……」

「ふん!」

 キノは膨れたまま、顔を反らす。

「まあ、いいわ」

 そう言うとマコは自分の席に着いた。何故か拳を振って、嬉しそうにしている。

「キノさん、マコさんと喧嘩したんですか?」

 海原はその光景を見ながら、不安気に訊ねた。

「何でもない。しつこいよ」

「もう、相変わらず、二人とも素直じゃないなあ」

 彼は呆れるどころか、もどかしさを感じていた。

「関係ないでしょ、海原には」


 いつものようにチューイングガムを噛みながら、足立は屋上にいた。二階の廊下を見つめている。何かを待っているかのようだった。

「アホらしい……」

 足立は苦笑し、そこから背を向け、空を仰ぐ。また良い天気だった。

「足立!」

「あんたら……」

 彼女の目の前に、トイレで逃げていった二人の女うちの、貢がせ女子がいた。

「この間は、よくも恥かかせてくれたわね」

「別に、何もしてないよ」

 足立は笑みを浮かべながら、息を吐く。

「何、しらばっくれてんの!」

 女は怒鳴った。

「あんたたちこそ、何してんのよ。男に貢がせていい気分を味わいたいの? ダサくて呆れる」

 足立は笑う。

「あんた、そんなこと言っていいの?」

「はあ? こっちの勝手でしょ。関係ないよ、そんなこと」

「へぇ、関係なくていいんだ」

「どういう意味よ?」

 女は指差した。足立はその方向を目で追う。二階の廊下を辿り着いた。

「あんたら、まさか」

 廊下にキノが出てくる。何やら話をしているようだ。

「何をする気よ?」

「さあ? 何かさあ、あの子に興味持ってる男子多くてね。みんなお話したいんだって」

 足立は女を睨んだ。

「何する気!」

「いいこと、教えてあげようかなって」

 女は細笑む。

「ダメよ! あの子は!」

「あら? どうして? あんたには、関係ない事よ。気にしないで」

 足立は二階を見た。キノと数人の女子が歩いていく。

「鈴美麗!」

 彼女は走って、屋上の出入口から中に入ろうとした時だった。いきなり、腕を捕まえられ、再び外へ戻される。

「でさ、俺らはこいつの相手かよ」

「なっ!」

 二人の男子が屋上にいたのだった。

「そこをどきな!」

「はいって、言うと思う、足立ちゃん」

 二人の男子は扉を塞ぐ。

「足立って、よく見たら、結構いけるじゃん」

「そうかもな。突っ張ってるけど、意外とお姫様キャラだったりして」

 男たちは笑う。

「ちょっと! 変なこと言わないでよ! こんな女のどこがいけてるの!」

 貢がせ女子は怒鳴った。

「はいはい、わかった、わかった。全くおまえは嫉妬深いなぁ。早く行けよ」

 男は手を振った。女は屋上から降りていく。

「足立よ、しばらくの間、俺らとお話してくんない?」

 足立の前にゆっくりと歩み寄ってくる。

「本当に、あの子を何処へ連れていくつもりだよ?」

 彼女は毅然とした態度で、訊いた。

「そうだな、あいつら。体育館の倉庫、好きだからな。誰もこねえし」

 出入口の扉を閉め、それにもたれ掛かる。足立の逃げる口はなくなった。

「おまえら、こんなことして楽しいのか?」

「楽しくはないさ。俺らもあっちに行きたいね」

 足立はフェンスにもたれて、座り込んだ。肩の力が抜ける。

「鈴美麗……」

 ふと、三階の廊下に真下の姿を見つけた。

「真下」

 足立は背を廊下側に向け、手を振る。顔はあくまでも男たちに向けていた。

「真下、気づけ」

「どうした足立、大人しくなりやがって」

 男子は近づいてくる。足立はずっと手を振っていた。

「なんだよ、おかしいなおまえ!」

 足立の手を取る。

「痛い! 何すんの!」

 男子はその手を掴んだまま、フェンス越しに辺りを見渡した。誰も何もない。

「ちぇ! 何もねえじゃないか、おもしろくねえ!」

 足立は気落ちした。真下の存在がなかったからだ。その直後だった。

「おわ!!」

 扉を塞いでいた男子が、飛ばされる。扉が鈍い金属音を立てて、開いた。

「なんだ? 開いてるじゃんか」

 扉から男が出てくる。

「真下!」

 足立は叫んだ。真下は二人に向かってくる。

「おい、足立から手を離せ」

「誰かと思ったら、柔道部のワルの真下じゃねえかい。おまえ最近まじめになったてな。今更やっても、試合なんか出れるわけじゃねえし、何やってんだ」

 男は苦笑する。

「足立から手を離せ」

「なに? おまえ、足立に気があんの? おいおい、ワルはワル同士だねえ」

 真下は構える。

「かかってこいよ」

「バカか! 校内でやっちまったら停学だろうが! 後輩にも迷惑掛けるぞ。あのデカイ野郎に」

 男は高笑いをした。真下は唇を噛む。

「バカだよ、おまえら! おかしすぎる!」

「真下、鈴美麗がこいつらの仲間に連れて行かれたんだ!」

 足立は叫んだ。

「なっ、なんだと!」


「何処まで行くんですか、先輩。話ならもうここでいいですよ」

 体育館に入り、殺気を感じたキノは言った。照明が点いていない室内は暗い。

「そうそう、ここでいいかしら。あんた」

 女子はキノの方を向く。

「何ですか?」

「生意気な後輩はお仕置きしなくちゃね」

「はあ、そういうことですか」

 キノはため息をついた。

「この場合、女子に手を上げることが出来かどうかが問題だな」

「何、ぶつぶつ言ってんのよ」

 余裕あるキノの発言に苛ついている。

「先輩のほかにもいるんでしょ、早く呼んで下さいよ」

 キノはじっと女子を凝視していた。

「そう、わかってるようね」

 後方から何かが音を立てて来た。キノはとっさに避ける。それは女子の膝に当たり、ひっくり返った。

「ちょ、ちょっと! 何処狙ってんのよ!」

 別の方向から、音がする。それもキノは避ける。だが、もう一つの音も別な方向から飛んできていた。背中に当たる。痺れと痛みが走る。キノは目を凝らす。「ふん。方向はわかったよ」

 再び玉が放たれる。今度は二つ同時に音がする。キノはしゃがみ込んだ。玉は頭上で交差して通り過ぎていく。

「あんたたち! しっかり狙ってよ! ちっとも当たってないわよ!」

「うるせえ! 黙ってろ!」

 男子の声がする。

「何人いる?」

 キノはしゃがみ込んだまま、気配を意識して探った。少しずつ目は暗闇に慣れてきている。

「!」

 立っている女子に玉が放たれる。

「きゃあ!」

 もう一つ飛んできた。キノは素早く、女子の前に立ちボールを跳ね返す。腕に痺れが来た。

「あっ、あなた……」

 女子がそう言った瞬間、ボールが襲った。キノは弾き飛ばす。更にもう一つも蹴り上げて天井へ送った。

「鈴美麗、あなた。助けてくれてるの?」

「ふん」

 ふいに手を掴まれ、引き上げられる。

「!」

「甘めぇなあ。こんな女のためによ。鈴美麗ちゃん」

 キノは後ろ蹴りを放った。しかし、至近距離からでは威力が半減する。腕を持ち上げられ、体が浮いた。

「くっ!」

 足が浮いた。

「なんで、こんなのに手こずってんの?」

 音がする。キノの腹部にボールが当たった。唾液が飛び出す。

「おっ、おまえ……」

 更にボールは飛んでくる。手を掴んだまま、男はその方向にキノを向ける。胸に当たった。息が一瞬止まる。

「けぇほっ!」

「鈴美麗ちゃん、どうしたの? 気合いが足りないね」

 それからボールは容赦無く、キノの体に当たった。

「こう何度も、当たったら、体力消耗するよね。休憩しようか?」

 男は掴んでいた手を離す。力が抜けたように、キノは床に座り込んだ。背中へ男の蹴りが入る。

「くう!」

 キノは前に転ぶ。そこは、柔道道場で痛めた傷がある場所だった。少しの間、動かない。

「なっ、内藤! 蹴ることはないでしょ!」

 女子が叫ぶ。

「内藤……」

 キノは目の前にいる男が、内藤だと知った。

「覚えてる? うちの兄貴が随分世話になったな」

「あいつ!」

 マコを誘拐し、倉庫でキノや海原に散々暴行を加えた狂った男。

「あれから、兄貴、警察に捕まってえらい目にあったぜ」

「自業自得だ」

 キノは吐き捨てる。

「そうかもな。だが俺は違うぞ」

 内藤はキノの前に立った。

「何が違う。力でしか人を動かせない。やってることは、兄貴と同じだ」

「あんな兄貴とは絶対違う!」

 内藤はキノを持ち上げた。

「はっ、放せ!」


「マコさん、キノさん知らないですか?」

 海原は昼休みから、一向に戻ってこないことを心配して訊ねた。

「えっ? いないの?」

 マコも教室を見渡す。廊下に出るも、気配はない。

「どうしたのかしら……。体の具合でも悪いのかな」

「おかしいですよ。もう授業始まるのに」

 海原は立ったまま眉間に皺を寄せる。

「キノちゃん、三年の女子に呼ばれてたよ」

 千秋が言った。

「三年? 何故?」

「わからないけど。ひょっとして、足立先輩のことと関係してたりして」

「足立先輩?」

 マコは訝しげな顔をする。

「かっ、海原!」

 廊下から大きな声がした。海原は窓から頭を出す。真下が走ってきていた。

「真下先輩?」

 海原は不思議な顔をする。

「海原、すまん。俺としたことが」

「どうかしたんですか?」

「鈴美麗が、鈴美麗が危ない! 海原!」

 真下は海原を揺すった。

「真下さん! キノが、キノがどうしたんです!?」

 マコは真下に被り寄る。彼はその不安気な表情を、見れなかった。

「花宗院……、とにかく体育館へ急げ!」

 海原は如月の方を振り返った。彼は席を立って頷く。

「体育館で、待ち伏せをされている。相手は男五人だ」

「キノさんだったら、なんとか」

 海原は呟く。

「相手には内藤という強者がいる」

「内藤?」

「前に鈴美麗が倒した、内藤という奴の弟だ」

 海原は思い出した。拳が震える。

「キノさんをぼろ布のように扱った男の弟」

「あの自分勝手な男……」

 マコの不安気な顔が更に曇り、立ち眩む。千秋が彼女を支えた。

「でも、鈴美麗なら、なんとか大丈夫だよ」

 如月は努めて、励ますように言う。マコは彼の方を振り向いて、睨んだ。

「ダメよ! 大丈夫じゃない!!」

 マコは声を上げた。

「まっ、マコさん……」

 千秋は驚いて呟いた。支えていた手が宙に浮く。

「あの子、今日は力入んない日なのよ! 女になってる!」

 マコは走り出す。

「おっ、おい、花宗院!」

 如月は呆気にとられた。

「力が入らない?」

 海原は反復する。

「とにかく、おまえら、来い!」

 真下は叫んだ。


「さあてと」

 キノの手足は、抵抗するも押さえられ身動きできない。

「こんな日に……、力が入らないなんて」

 キノは心の中で悔やんだ。

「どうした、鈴美麗ちゃん」

 内藤はキノの足元で、腕を組んで立っている。

「兄貴をやったみたいに、俺も投げ飛ばしてくれよ。ほら、ほら」

 内藤の足先がキノの大腿を突いた。白い脚が汚れる。何度も腕や足をバタつかせるも、動かない。完全に止められていた。内藤の足は大腿から這って、キノのスカートを揺らす。

「観念して、俺の女になれ」

 内藤は膝を着いて、キノの上に覆い被る。制服の上から内藤の手が、キノの胸を掴む。リボンが解け、上着が乱れた。

「やめろー!!」

 キノは渾身の力を入れるが、動かない。内藤の執拗な手の動きは、制服の下にも達し、キノのブラがさらけ出された。内藤の息が肌から、感じる。

「キノ、おまえを僕は守れない……、キノ……」

 キノの目から涙がこぼれ落ちた。全身の力が抜ける。まるで、自分が自分でないように、逃避した精神が冷静さを持っている。


 キノは全てを諦めた。

 もう男には戻れない、女の体になっても、こんな酷いことを受ける。こんな世界を諦めた。好きな人がいようと守るべき人がいようとも、自分のキノさえ守れないなんて。

 もう諦める。

「なんだ、どうした? 観念したか」

 動かなくなったキノを見て、内藤は呟いた。

「内藤さん、その後俺らですからね」

 男はキノのスカートを掴んで、上げる。

「十分楽しめよ、鈴美麗」

 男たちは、放心状態のキノを見つめ、啜り笑った。もう手も足も動いていない。

 鈍い音が倉庫内に響く。突然、内藤の動きが止まった。キノの制服の上に、赤いものが落ちていく。

「内藤さん、なに鼻血出しているんですか」

「内藤さん?」

 男の目が血走っていた。

「こっ、このぉ」

 内藤は振り返る。バットを持った女子が立っていた。

「おまえら、その子に何をしやがった……」

「あっ、あだぁちぃぃ」

 内藤は立ち上がった。走り込んで、足立の首を掴む。彼女の息が止まった。

「てめぇ! 何しやがる!」

 そのまま内藤は、足立に平手を喰らわす。彼女の唇が切れて、血が吹き出た。内藤の額も血が流れ落ちている。

「内藤さん、大丈夫ですか?!」

「足立、てめぇも、もう一回やってやろうか?」

 足立の目が内藤を見据える。持っていたバットで男の大腿を力いっぱいに叩いた。

「うぐっ!」

 内藤は膝折れする。足立は倉庫から出た。

「おまえら、あいつを押さえろ!」

 足立はバットを振り回す。男二人がバットで倒された。隙を見た、男が足立を羽交い締めにする。バットが音を立てて、床に転がった。

「鈴美麗を返せ! 内藤!」

「あいつはもう、俺のもんなんだよ」

「なにぃ!」

 足立は叫ぶ。

「てめえ、この俺に逆らえるのかよ」

 内藤は額の血を拭いながら言った。男は拳を上げる。足立に放つ。が、それは途中で止まった。

「へ?」

 太い拳が内藤の手首を、もの凄い握力で掴んでいる。そしてそれはギリギリと締まっていく。

「許しません、絶対に」

「はっ、放せよ! 何だお前は!」

 腕を振るが、それは外れない。

「あんたら、二度もキノさんを傷つけた」 

「お前は!?」

「許さない!!」

 海原の太いもう一つの拳が、内藤の顎にめり込んだ。そして、股間に向かって、大きな蹴りが入る。ミシリという音を立てて、転がった。内藤は悶絶し、気絶する。

 真下は、足立を捕まえている男を投げ飛ばした。

「おまえ、一人で助けようとしたのか?」

 足立は泣いていた。

「助けられなかった……」

 真下は何も言えなかった。

 マコは倉庫の中で、立ち尽くしていた。キノの体が乱れた制服のまま、横たわっている。キノの目は開いているが、生気はなかった。マコはそっとキノの傍に寄る。そして、キノの頭を撫でた。

「キノ……」

 返事はない。マコはキノを抱き起こした。制服を直し、埃を落とす。キノの手がゆっくりとマコのもとに伸びていく。マコは強くキノを抱きしめた。

「キノ!」

 彼女は泣いた。

「マコ……、僕、もう、いやだ」

 マコはキノを背負うと、歩き出す。キノの足先はずっている。

「キノ、お家に帰ろう」

 マコはゆっくりと倉庫から出てきた。

「花宗院! 鈴美麗!」

 如月が駆けつける。

「俺が連れていってやる」

 彼がキノに手を掛けようとした時、マコは睨んだ。

「キノに触らないで!」

「花宗院……」

 マコはゆっくり、歩いていく。海原と如月は、ただそれを見ているしかなかった。

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