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4、選定の儀


 ——貴方さえよければ、私の仗身になってくれないかしら?


 そう言って舞い降りた天女に手を差し伸べられたのは、今からもう十年以上も前のことだ。だが、あの瞬間は色褪せることなく、今でも彼の頭の中に刻み込まれている。彼の心はあの頃から少しも変わらない。この天女を守るのだと誓ったあの日から、少し足りとも変化していなかった。


 ついに巫女選定の儀式を間近に控えた己の主と、最後の別れを惜しんだユタヤはゆっくりと気の抜けた足取りで、三の君の内殿を目指していた。住み慣れたこの三の宮も、選定の儀式が終われば去らなくてはならない。だが、今ではそれ以外に帰る場所のないユタヤはまっすぐそこを目指していた。もしこれでカグワの元を離れなくてはならなくなったなら——もう、帰る場所はない。

 後宮の中には、中央にある祭殿を囲むようにして、一から十までの宮が広がっていた。三の宮は北西の側にある。日のあまり当たらぬ静かなその宮は、その主には似ても似つかない。三の宮の主である、いや、主であった三の君はこの後宮の中で誰よりも華々しく、そして輝いている。と、ユタヤは思っていた。

 三の宮までくると、その入り口となる門扉の横に、一人の女が立っていた。何事かを屋敷の方へ向かって叫んでいる。恐らく屋敷の中にある荷物の最後の整理を行っているのだろう。——彼女をロマーナという。多々いる三の君付きの女官たちをまとめる女官長である。すなわち、最も三の君に近しい女官であった。ゆえに、ユタヤと彼女との距離も、近い。

「おかえりなさい、ユタヤ」

 ロマーナはそこに長身の男の姿を見つけると、他の女官たちに荷物の運び出しの指示をするのをやめて、彼を見上げた。ユタヤも彼女の隣にて足を止める。

「荷物の運び出しか……重い物は俺がやる」

「言われなくともそうしてもらうわよ。——カグワの君は? どんな感じだった?」

 ロマーナは、荷物の整理の大詰めというこの多忙な時に、突然行方を眩ましたユタヤがどこに行ったのか、ぴたりと言い当てた。ユタヤは彼女に行き先を告げていないが、彼が突然消えたとなれば、行く先は一つしかないと知っているのだろう。

「……特にいつもと変わった様子はなく、緊張してるふうでもなかった。ただ——ひょっとしたらこれで仗身とは二度と会わなくなるのかもしれないと知って、私との別れを惜しんでくださった」

 ユタヤが突然屋敷から消え、儀式を目前に控えた主の元をわざわざ訪れた主な理由は、それだ。カグワがその事実を知らなかったように、ユタヤもそれを知らなかった。だが、儀式のために正装をしたカグワが屋敷を去り、空っぽになった屋敷を片付けているときに、なんとも不吉な予感に駆られて、気付いた。ひょっとしたら、これが永遠の別れになってしまうのではないのかと。

「そう……」

 小さく呟いたロマーナは、そんなユタヤの心情もいやというほどにわかってくれる。彼女はカグワが後宮入りした時からの専属の女官、すなわちユタヤがこの後宮に来たその幼い頃から、ずっと二人を見て来た。ユタヤにとっても、カグワにとっても、実の姉のような存在だった。

「もう気付けば早いもの……カグワの君も十五になって、貴方も十八ね。もしもこれで仗身をやめなくてはならなくなっても……十八の未来にはたくさんの希望があるわ」

 ふざけているのでもなく、真面目な顔をして言うロマーナに、ユタヤは「まさか」と失笑する。そして自分の首にかけられた数珠玉を撫でた。この数珠玉にはカグワの巫力がこめられており、ユタヤの獣の性を封印している。ゆえに、体だけは獣に変化できても、その心まで獣に食われてしまうことはないのだ。

「俺は、これのおかげでようやく人の世界に生きていられる……かぐわの君に生かされているようなものだ。かぐわの君の元を去らねばならぬのなら……それは死を意味する」

 この数珠玉がなくなれば、ユタヤの人間としての心は消滅する。すなわちそれは人間ユタヤの死と同義だ。ユタヤは十八の青年である前に、獣人だった。成長とともに獣に心を食われてしまうことが、獣人の悲しきさだめであった。

 それに関してロマーナは何も言わず、否、言えず、黙って門扉に寄りかかると腕を組んでまっすぐ祭殿の方を見上げた。その見つめる先の華やかな祭殿の中では、彼らの主が何を思っているのであろうか。

「……そろそろ、儀式の始まる頃合いね」

 ロマーナがぽつりと呟く。ユタヤは黙って頷き、同じく祭殿の方を見つめた。見慣れた後宮の景色のはずなのに、なぜか胸の奥がざわめく。まるでその祭殿の立ち姿が、異世界への入り口であるかのように見慣れぬ物に思えた。

「……不吉な、予感がする」

 ユタヤは小さな声で囁いた。それは今朝方、今日が儀式なのだと朝日を見上げたその瞬間から続いている妙な知らせである。

「不吉……ね。それは、カグワの君が巫女に選ばれないとか、そういうこと?」

 ロマーナの直裁な問いに、ユタヤは黙って首を横に振った。最初は、このままカグワと離ればなれになってしまうのではないかという不安からくる胸騒ぎだろうと思っていたのだが、別れを惜しんだ後も尚続くとなると、この妙な切迫感のような感覚の正体がわからない。

「なんだろう、わからない……ただ、かぐわの君の身に、なにかがあるのではないかと……」

「なにかって?」

「それが、わからない……」

 要領を得ないユタヤの答えに、ロマーナは首を竦める。「ロマーナ、この荷物はどうしたらいいかしら?」と屋敷の方から助けを求める他の女官の声がして、ロマーナはユタヤの相手をするのをやめて門扉をくぐり、屋敷の方へ戻ろうとした。ユタヤもいつまでも此処で祭殿を見つめているわけにはいくまいと、踵を返そうとした。


 その、時である。


 一瞬、祭殿の空が、歪んだ。

 あれは一体なんだと目をこらした時にはすでに歪みは見えない。だが、確かに何かが祭殿で起こっているのだと確信した。そして——


 ——ゆたや!


 ユタヤは目を見開いた。聞き違えるわけがない。確かに、カグワの声が聞こえた。この近くにいるはずのない、あの祭殿で儀式を行っているまさに最中であろう、カグワの声だ。悲鳴によく似た声だった。確かに、ユタヤの名を呼んでいた。

「ユタヤ?」

 門扉をくぐり、荷物の手配をしていたロマーナが、ユタヤの異変に気付いてこちらに声をかける。

「……かぐわの君が、危ない」

「え?」

 現状を飲み込めずに問いかけて来たロマーナに、詳細を説明してやる暇はない。暇があったところで、この感覚的な危機感をどのように伝えたらいいのかはわからない。とにかく、主が危ない。なにがあっても、命に変えても守るのだと決意した主が、危機に晒されている。

 いてもたってもいられなくなって、ユタヤは地面を蹴り飛ばした。祭殿までの道のりは複雑ではない。が、祭殿を取り囲んで広がる十の宮から最短距離で祭殿に辿り着くためには殿を囲む塀を乗り越えるのが最も簡単だ。

 「ユタヤ!」と背後から自分の名を叫ぶロマーナのことなど無視をして、ユタヤは塀に手をかけ飛び乗った。そして飛び降りるなり、祭殿の渡り廊にかけあがる。本来ならば、仗身が気軽に乗ってはならない場所であった。何故ならこの渡り廊は最も神聖なる、「円形の間」に続いている。

 ユタヤは当然ながら、その円形の間への入り方など知らなかった。強い巫力を持つ聖女たちですら、この儀式の時までその円形の間に入ったことはおろか、その円形の間の存在さえ知らなかったのだ。だが、ユタヤの本能が、その場所を目指せと叫んだ。主の悲鳴が聞こえる。その悲鳴が道しるべとなって、ユタヤを走らせた。

 長い渡り廊の上を、ユタヤは全力で疾走した。走るたびに、背中に背負った大剣が、がしゃんがしゃんと重い金属音をたてた。そんな物いつでも背負って重いでしょうに、とかつて労ってくれたのは他でもないカグワだ。かぐわの君を守るためにならこんな物、重いうちに入りませんよとユタヤは答えた。が、今はこの重さが邪魔で仕方がない。これさえなければもっと早く走れるかもしれないのにと歯痒く思っている間に、ユタヤは前方に二人の剣士が仁王立ちになっているのを見つけた。

 それはとても、不自然な光景であった。十年過ごしたために、顔見知りでない人間などこの後宮にはいない。それなのに、その後宮の中で、見たことのない顔をした剣士が二人、仁王立ちで立っていた。しかも、彼らの立つ奥には何もない。これがとても不思議だ。渡り廊の先であるのに、渡り廊もなければ、他の建物に続く扉もない。そして、庭のあるわけでもない。その先には、目を凝らしても見えない「なにか」があるようなのだ。

(あれが、円形の間の入り口か)

 ユタヤは直感で悟った。儀式は、祭殿の「円形の間」で行われるのだという。聖女すら知らないその空間は、きっと不思議な力で隠されているのだ。ゆえに、外にいるユタヤの目には映らない。

「何者か!」

 剣士の一人が刀を構えてこちらに警戒の姿勢を見せた。彼らは儀式に余所者が入ることを防ぐ門番だ。

「私は、三の君付きの仗身だ! 中で、何かが起こっている! ……三の君が危ないんだ、通してくれ!」

 ユタヤは切羽詰まって大した説明もできずに、剣士たちを押しのけてその場を通り抜けようとした。しかし、当然その程度の口上で門番がどうぞと彼を招き入れてくれるはずもなく、二人はユタヤに刀を向けた。

「仗身だと……? 獣人ごときがこの神聖なる祭殿に足を踏み入れていいと思っているのか!」

 獣人ごときが、と聞き慣れた侮蔑の言葉にも、今更腹など立たない。むしろ、その言葉の通り、この祭殿に仗身ごときが、獣人ごときが足を踏み入れていいなどとは露程も思っていなかった。だが、今は非常事態である。それどころではないのだ。

「違う、今は、それどころではないんだ……! 頼む、中に、三の君の元へ、行かせてくれ!」

 向けられた刀など物ともせず、二人の間を押し通ろうとすると、押しのけられたのではない方の男も抜刀し、刀をユタヤの首にあてた。

「わけのわからぬことを……これ以上進ませるわけにいかない。戻るか、死ぬかだ」

 ユタヤの首に当てられた刀は綺麗に研がれた新刀で、いかにも切れ味の良さそうな銀の色に輝いていた。喉元に当てられた刃の部分は冷たく、今にも彼の首を取らんとしている。何人たりとも中にいれるなと命ぜられているのであろう二人の剣士を言葉で説得するのは困難に思えた。——いかんせん、時間がない。

(……仕方がない!)

 他に手段がないと判断し、ユタヤは首にかけられた数珠玉をきゅっと握った。この数珠玉は、ユタヤの獣の心を、そして獣の姿を封印している。数珠玉そのものが効力を失えば、ユタヤはただの獣と化してしまうが、数珠玉を緩めることによって彼は人の心を残したまま、姿のみを獣と変化させることができた。しかし、それは後宮内にて奨励されてはおらず、滅多なことのない限り、普通ならば封印は解かない。カグワなどは変わり者故にたびたびユタヤに封印を解かせたが、本来ならば、緊急時以外は人の姿でいるものだ。——そして、今こそ緊急時である。

 人の姿に纏う装衣を脱ぎ捨て数珠玉を緩め、ユタヤは瞬時に獣の姿に変化した。途端、視界に映る剣士たちの体が縮んでいく。実際には、ユタヤの体が倍以上に拡張しているわけであるが。

 ユタヤはまず、己の首に刀をあてていた剣士をなぎ倒した。渡廊の壁に叩き付けられた剣士は、ぐ、と声を詰まらせて、気を失う。もう一人の剣士は突如変化した獣人の姿に、目を丸くし凝固してしまっている。恐らく、獣人というものを初めて見たのだろう。化け物と呼ばれるこの獣の姿は、それはそれは恐ろしいものだ。

「……退いてくれ」

 低い声で告げ、くぼんだ黒い目で剣士を見下ろすと、剣士は途端に腰を抜かしてその場に刀を投げ捨てると、がくがくと震えた。とても勝てないと思ったのだろう。しかし逃げることもできずに、その場にてただおののいている。

 剣士に闘う意志のないことを確認すると、ユタヤは息を呑んでから、何もない空間に身を投じた。そこには結界の張ってある可能性があった。何人たりとも儀式には足を踏み入れてはならないはずだ。剣士二人で、入り口を守っているはずがなかった。ひょっとしたら結界に引っかかって入れないどころか、はじきだされて死に至るか、全く知らない亜空間へと飛ばされてしまうかもしれないと、頭の隅に不安は過ったが、どのみちこれでカグワを救えないのなら、同じことである。例えこの身が滅びようとも、彼女の元へ辿り着こう。ユタヤは、獣の巨体をその入り口へと投げた。

 ぐわん、と、一瞬だけ空間が歪んだ。だが、それだけであった。

 結界などなかったのかもしれないし、あるいはそれをはね除けてしまうくらいの力がユタヤにあったのか、とにかくその真実を知ることは適わない。

 目の前に、暗い世界と、一筋の光と、そして巻き起こる旋風が広がっていた。聖女たちの甲高い悲鳴が幾重にも折り重なって響き渡る。ユタヤは、その中から確実に己の主人の物だけを聞き取った。

「ゆたや!」

 声は、頭上から。旋風の吐き出されている、不思議な一筋の光の彼方から。

「かぐわの君!」

 ユタヤは彼女に少しでも近付くべく、冷たい石の床を蹴った。



 時はさかのぼり、それはまだ、ユタヤが三の宮にてロマーナと話し込んでいた頃である。カグワは、他の聖女たちと共に定刻通りに円形の間へと集められていた。

 外からはその建物の存在すらわからない円形の間は、渡り廊の突き当たりの目に見えぬ扉をくぐると確かに存在していた。巨大な円錐の形をした建物は、カグワの長年居住してきた三の宮の敷地全てほどの広さがあり、三階分ほどの高さがあった。吹き抜けの高い天井には、十の天窓が設けられており、それぞれその窓から差し込む光が、石床の上に備え付けられた黒い十の椅子を照らしている。十の椅子は、円形の間の中央に置かれた巨大な水鏡をぐるりと囲んで中央を向く円形に設置されており、扉から見て真正面の椅子から順に、一の君、二の君、三の君、と並んで腰掛けることが望まれた。

 一刻前に説明された通りに従い、聖女たちは無言で己の椅子を目指す。カグワも掟に倣って、二の君と四の君の間、三の君のために用意された黒い艶のある座椅子に腰掛けた。

 全ての聖女が椅子に座り、中央の水鏡を見つめていると、ややあって、何者かの力によって天窓が閉じられた。円形の間の中から、光源が消える。全てが漆黒の闇に包まれたかと思えば、今度は水鏡が自ら光を放ち始めた。きらきらと水面の揺れるたびに、天上にまだら模様が映る。

『選定の儀を始める——』

 どこからともなく女の声が響いた。それは、この円形の間という空間自体に響き渡るのではなく、聖女たちの頭の中に直接語りかけてくる。カグワはちらと他の聖女たちを見やったが、他の聖女たちもはっとしたように目を泳がせたので、別段自分だけに聞こえているというわけではないのだろうと安堵した。

『聖女は瞑目し、先見の技を行使せよ——選定は、己らの見た未来の中から、行う』

 先見の技——すなわちそれは、未来を予知する技である。どうやら巫女の選定は、聖女たちの見る予知夢の中で行われるらしい。

 選定は、不思議な力の一存によって行われるのではないのか、とカグワは初めて知って吃驚した。聖女の見た未来の中から選定するというのは、未来の中に巫女として登場する聖女を探すということなのか、あるいは先見の技の最も鮮明に行えた聖女を巫女とするという意味なのか。

 詳細はわらかないまでも、やれと言われたからにはやるしかなく、カグワはそっと目を閉じた。今までも巫力の修行として先見の技を試みたことは何度もあったが、正直カグワのその技の成功率は決して高くない。十のうちに一度成功すれば良い方で、大概は何も見えなかった。が、しかし、その一度の成功で、未来を外したことがないというのが唯一の誉れである。

 未来を見据えようと、カグワは意識を遠くへと飛ばした。魂が体を抜けて、どこか遠い時空の彼方へと浮遊していくような感覚に陥る。ふわふわと体が軽い。優しい大気の流れに、身を任せる。

 ——ふと、どこからか、赤子の嗚咽するような声が聞こえた。おぎゃあおぎゃあと、乳飲み子の泣く声である。母を求めて嗚咽する赤子はやがて成長し、天へと昇った。不思議な力に召されていった。

 すると、今度は荒地を抜けようとする大勢の難民が見えた。荒れた旅路の途中で、女子供が力つきて死んで行く。思わず目を背けたくなるような凄惨な光景であった。

 凄惨な光景が消え、森の奥に燃え盛る建物が見える。炎の中から命からがら逃げ出す人間が二人。一人は男、もう一人も男、泣き叫ぶ男たちの声が森の中にこだまする。

 かと思えばそこは凍てつく氷の国だった。一人の若い娘が、凍った街の中で、歌を歌う。その歌は輝く光となって、街の氷を溶かした。人々は春を迎えた街の中で、歓喜した。

 次に見えたのは、巨大な神像だ。カグワもこれに酷似したものを、後宮の祭殿で目にしたことがあった。しかし周囲の風景からして、此処は後宮ではない。どこか他の場所にある、神像である。かと思えば、その神像が突如爆風に巻かれ、粉塵と化した。炎があがる。神像は見るも無惨に、その場に崩れ落ちていった。

 それから次に見えたのは、雪の降る景色だ。広い雪原の中に、矢が、石槍が、飛び交った。戦の光景である。人が倒れると、白銀の雪が黒に近い赤に染まった。たくさんの人間が命を失った。命を落とした人間は、雪の下へと埋もれていった。

 そして最後に見たのは、巨大な獣の姿であった。胴は熊のように黒く巨大で、頭は獣の頭蓋骨のような形をしている。伸ばした手には長い爪がはえ揃い、睨む目は闇のように暗い。誰かが、化け物、と叫んだ。化け物は暗い闇の目を悲しそうに歪めた。その暗い闇の目を持つ化け物を、カグワはよく知っている。


 ——ゆたやっ!?


 カグワは思わず目を開いてしまった。遠い時空の彼方を彷徨っていたはずの意識が、円形の間に座る彼女の体の中へと舞い戻る。鮮明に、その場の景色が見えた。現実の目は例えどんなにその場が暗くとも、真実しか映さない。

 円形の間の中央に備え付けられた水鏡の中から、金色に光る不思議な球体の物が垂直に上へと飛び出した。他の聖女たちも皆、先見の技を終えたらしく、呆気に取られたようにその光る球体を眺めている。

 光の玉は、ぷかぷかとしばらくその場に浮いた後、やがて少しだけ沈んだ。聖女たちの座る高さまで沈むと、ゆらゆら揺れる。かと思えば、なんとも頼りない足取りで、動き始めた。その向かう先は——なんと、カグワの座る三の君の御座だ。

 どういうことだ、と驚いているカグワの前で光の玉は動きを止めた。他の聖女たちも皆、唖然とした顔でこちらを見ている。この光の玉が水鏡から現れたものならば、それは選定の儀式をとりしきる不思議な力の意思である。そしてその意思がまっすぐカグワの元を目指したというならば——それが、意思の下した決定ということだ。

(嘘でしょう……私が?)

 他の聖女たちが、「そんな馬鹿な」と目を見開くのと同じくらいに、カグワも困惑していた。東の君と揶揄され、変わり者と笑われ、それでも厭わず自由気ままな振る舞いをしてきた。正直に言えば、巫女になりたいだなんて、思ったこともなかったのだ。最も、聖女らしからぬ聖女であったと思う。自分は最も、巫女の座からは遠かったと、そう思うのに。

 しかし、間違いなく光の玉はカグワの前に頓挫した。これをどのように対処すればいいのかは、事前の説明で習っていない。カグワは戸惑いながらも、とりあえずその光の玉を両手のひらですくいあげるように包み込んだ。すると、その光の玉は、布が水にしみこんでいくように、カグワの体の中へと溶けて行った。

(これで……私が、巫女に……?)

 果たして儀式はこれで終わりなのだろうか。この後一体自分はどうしたらいいのだろうか。不思議な声もしない。これ以降の説明も何も受けていない。ただ、光の玉をすくいあげた両手を、持て余すばかりである。


 カグワの当惑が頂点に達した、その時である。——事件は起こった。


 俄然、円形の間の天上に、不思議な黒い固まりが降臨した。これも儀式の延長だろうかと上を見やって、しかしカグワは首を傾げる。暗褐色のその固まりからは、これまでの儀式に関係した全ての物とは異なり、神聖さのかけらも感じることができなかった。——むしろ、おどろおどろしい。

「……不穏の正体は、これか……」

 一の君、ネイディーンがぽそりと呟いたのが聞こえた。カグワは再び天上を見上げる。確かにその暗褐色の固まりは、不穏であった。

 と、次の瞬間、暗褐色の固まりの中から、一筋の強い光線が落ちた。光線は迷わず水鏡と衝突し、ぱりん、と音を立てて水鏡の入れ物ごと破壊する。そして、その次には光線を巻くようにして、竜巻のような強い風が拭き起こった。

 途端、円形の間の中に、甲高い聖女たちの悲鳴が響き渡った。風は上へ上へ、暗褐色の固まりの中へと物を吸い上げて行く。割れた水鏡の破片が、暗褐色の中、暗闇の中へと吸い込まれて行った。

 きゃあああ、と聖女たちの阿鼻叫喚。カグワも危うくその風の中へ吸い込まれていきそうになり、慌てて自分の座っていた御座にしがみついた。髪をまとめていた簪が解け落ち、暗闇の中へ消えて行く。風の渦はまるでカグワを目指して舞い起こっているようにも感じられ、カグワは全身の力を込めて御座にしがみついても、今にも引き剥がされんとしていた。

 なにがなんだかわからない。今は巫女選定の儀式の途中だ。なのにどうしてそんな神聖な場に、こんなにもおぞましい物が現れるのか。とてもではないが、これが儀式の一貫とは思えない。誰か——誰か、助けて! と、叫ぶ。

 心の中で悲鳴を上げると同時に、外と繋がる円形の間の扉が、叩き割られるような勢いで開いた。その開いた扉の向こうから現れたのは、よく見慣れた姿。誰もが恐ろしいと顔を歪めた化け物と言われる所以であるが、一度だってカグワはそれを恐ろしいだなんて思ったことがない。

「ゆたや!」

 名前を呼ぶと同時に、ついに御座にしがみついていられなくなったカグワは、旋風に巻かれて暗闇の中へと吸い込まれていった。

「かぐわの君!」

 すぐに、彼の声が追いつく。

 なにがなんでも、と、がむしゃらに手を伸ばすと、ぎりぎりのところで彼の長い爪のような獣の手に届いた。カグワがその爪の一本を右手でしっかりと握り締めると、今度はユタヤが手を伸ばし、その巨大な腕の中にカグワの体を抱き込む。ユタヤの獣の体の中へと押し込められて、ひとまずは安心した。が、二人同時に闇の中へと吸い込まれていることに代わりはない。

 風に飛ばされるがまま、上下左右、体は何度も回転を繰り返した。何も見えない暗闇の中で、どこが正しい上でどこが正しい左なのかもわからない。ただ、崖の上から転がり落ちて行く石のように、闇の中を転がっていく。

 ゆたや、とぎゅっと固い毛皮を握り締めると、彼のカグワを抱く腕にも力が篭った。絶対に離さないようにと力強く、だがカグワを潰すことのないようにと優しく抱きしめてくれる。カグワは闇の中でも、彼の腕に護られている。

 そうしてどれくらい、闇の中を転がったのだろうか。三半規管が麻痺してしまうくらいに振り回され続けて、ようやく闇の先に光が見えた。あれが、闇の出口だろうか、と思った刹那には、二人の体は放り出される。

 どん、と鈍い音がした。ユタヤが闇の中から光の中へと放り出されて、どこかに着地したのだ。ユタヤが着地時の衝撃を全て吸い取ってくれたために、カグワは少しの痛みも感じることなく光の中へと到着することができた。

 風はもう吹き荒れてはいなかった。それどころか、二人を包んでいた闇もなくなり、先ほどまでの恐ろしい光景が嘘みたいに、静寂がその場を支配していた。

 しかし、そこはどう見ても、彼女がそれまで選定を受けていた円形の間ではなかった。とてつもなく狭い空間で、獣の姿にと変化したユタヤに至っては、少しも身動きが取れない。——此処は一体、何処だ?


 二人は、聖なる儀式の途中に突如不思議な闇の中へと吸い込まれて、全く知らない別世界へと、はじき飛ばされてしまったのである。

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