29、仗身の役目
——長い、長い、夢を見ていた。
青年は、しかし青年であるという実体は伴わずに、世界中を浮遊していた。それは夢であると言っていい。何故なら、それは彼の意識でしかなく、生きる人間とは本来出会うことがない。
かつて人間であった頃に育った東の国の小さな村は、今はすでに廃村していた。いや、人は住んでいたのであるが、そこにはかつてのような村としての機能がなかった。そこにいた男たちはほとんど北国との戦に駆り出されて、まだ帰ってきていないのだという。代わりに、そこには北の旗が立てられて、時折北軍が物資を運んでくる程度でしか人の出入りがなかった。残された女子供達は、北軍の運んで来た物資を管理することでしか、生きる意味を与えられていなかった。
そこには、青年の知っているあの村の姿は、なかった。
東と西の国境を越えると、そこには難民の村があった。それは今も村としてきちんと機能していて、いずれ北軍が去った時に東の国に帰ろうという人間もいれば、このまま西の国に居着いて暮らそうという人間もいて、皆が皆、生活を送っていた。
青年は、この難民の村で育ったのだという大切な人を知っていたが、何故だかそれが誰なのだか、顔はおろか名前も思い出せない。ただその村の中でその人の面影を見つけて、とても優しい心地になった。
それから次に向かったのは、西国の西の果て、首都にそびえ立つ巨大な王宮だ。青年は、この王宮には全くと言っていいほど馴染みがなかった。それなのに、此処を訪れたのにはわけがある。巨大な王宮の裏側、海に面した広大な土地に、「後宮」という秘密の楽園があった。青年はかつて、長い時間をそこで過ごしていた。誰か大切な人と、ずっと傍に寄り添って、その中にいた。
懐かしいその秘密の楽園に入ろうと思ったのだが、青年にはその入り口がわからない。かつてはその中でのみ生活していたため、外界との連絡路を知る必要がなかったのである。青年は高い外壁をぐるりと回って、海側に面した小汚い扉に気付いた。波が岸壁に押し寄せるその中に、海藻の張り付いた汚い扉がある。此処からなら入れるな、と思って、青年はその扉の中へと身を投じた。——が、それ以上は前に進めなかった。仁王立ちになって、青年を中に入れまいとする、一人の老翁がいたためである。
「……おや、お前、死んだのか」
老翁は青年を見て、格別驚いた様子もなく、淡々と言った。青年は目を丸くした。とは言え、彼には今実体がないため、丸くする目もない。もしも彼に実体があったならば、目を丸くしたことだろう。
『……俺は、死んだのか』
呟くと、今度こそ老翁は、驚いたようだった。彼は皺のよった目尻をたるませて、実体のない青年の方へと一歩踏み出してくる。
「お前……儂と会話ができるということは、まだ、死んで、間もないな……。……それにしても、実体を伴わずに、意思を持つとは……さすがは獣人と言おうか」
老翁はひひひと不気味な笑いをあげた。そして近くの暖炉の傍にあった揺り椅子を引き寄せると、座る。彼は「生前であれば、お前にも椅子を薦めたところであるが」と笑いながら、冷めた紅茶をマグカップで啜った。——見たことのある光景であった。
『此処は……何処だ? 俺は死んだのならば……此処は、あの世という奴か?』
それにしてはあまりにも質素な作りをした部屋であった。木製の狭い部屋で、暖炉と食卓程度しか置けないスペースに、一人老爺がいるだけだ。想像していた「あの世」とは似ても似つかない。
「あの世、のう……そんなものは存在しとらんと儂は思っておるが……此処は、唯一後宮と外界を繋ぐ、最西端の抜け穴じゃ」
『最西端の、抜け穴……』
「まあ尤も、聖女様が後宮に入る時、あるいは出る時には特別に王宮と繋がっている正門が開かれるがな。あれは、特別な時にしか開かれん。普段は強い呪がかけられており、開くことは愚か、見ることさえ叶わんよ」
そう言って笑う老爺の顔には、見覚えがあった。名前は思い出せない。彼が自分とどういう関係性にあったのかも思い出せない。だが、確かに、何度も会ったことはあるのだ。青年は確かに、彼を知っていた。
『何故、俺は、こんなところにいるんだろう……』
ぽつりと青年は呟いた。あの世でもないのならば、死んだ自分はどうして此処を彷徨うのか。自分で彷徨っておきながら、その意味はわからない。
「お前は、帰る場所を探しておるのだろう……人は死ぬと、心が解放され、帰るべき場所へと帰る。そして生きる者の記憶となって、消えるのじゃ。だが、帰るべき場所へ帰ることができずに彷徨う者もおる。幽霊などと呼んで騒ぐものもおるが、恐るるにたらんわ。本来、死んだ心は意思を持たんからな」
『心なのに意思を持たないのか? 俺は今、意思を持っていないのか?』
「そこが、お前さんの異端なところじゃ。心は死ねば、時を経ることができなくなる。時を経ることができなければ心は止まったまま、意思も持たぬ。だが、お前さんの場合は、死んだ心のくせに、一緒に時を経ている。故に、意思を持っている」
『……何故?』
「たまにおる。強い巫力の持ち主や、お前さんのような獣人に多いのう。現世に強い名残があるとな、死にきれんのじゃ」
『名残……』
「名残があるからお前は此処に帰ってきたのだろう。だが、残念なことに、此処にお前さんの名残はおらんよ。今の後宮は空っぽじゃ。そのうち、新しい聖女が入ってくるであろうが」
『聖女……』
聞き覚えのある懐かしい言葉だった。青年はその言葉に愛おしささえ覚える。腕のない、実体のないこの状態でさえ、その言葉を聞くと、誰かを抱きしめたいような、胸の中にそっと抱いてずっと大切にしまっておきたいような、そんな狂おしい愛情を覚えた。
『……俺は、どうすればいい』
もどかしい愛情を持て余しながら、青年は戸惑った。帰るべきところに帰らなくてはならないのに、それが何処だかわからない。自分はこのまま彷徨い続けてもいいのだろうか、と思う。
老爺は持っていたマグカップを机の上に荒々しく置くと、「とりあえず」と言った。
「とりあえず——此処を、去れ。儂は、此処に来る外界からの訪問客を帰すのが役目でのう、それは生きた来訪者もそうじゃが、お前さんのような死人を入れるわけにもいかんのじゃ。もしも去れぬというのなら、その時は強硬手段にでるぞ」
そう彼が言うと、部屋の中にどこからともなく、巨大な犬が入って来た。犬は青年を見上げて威嚇した。その恐ろしい牙は、実体のないはずの青年でさえ噛み砕くのではないかと思えるくらいに、生々しい。——不思議な技でも使っているかのようだ。
『別に、此処を去るのは構わんが……俺は何処にいったらいいのだろう』
情けない青年の声に、老爺はけたけた笑った。
「それくらいは自分で考えろ。——と、言いたいところだが、儂もお前さんには思い入れがある。お前さんというよりも、お前の主の方にだがな」
『主……』
それは誰だ、としょうもないことを聞きそうになったが堪えて、老爺の対応を待つと、老爺はどこからともなく誰かを呼んだ。——それは青年と同じ、実体を持たない存在だ。
「お前さんと同じで、たびたび、此処にやってくる彷徨う死人の心があるのじゃよ。……もう十数年も前に死んでしまったから、お前と違ってすでに意思を持たないが……奴に意思を今だけ与えよう。奴に、帰るべきところへと案内してもらえ」
『……奴とは、誰だ?』
「お前さんと同じ主を持つ存在……可哀想な彼は、帰るべきところに帰ろうにも、儂に弾かれて、帰ることができなかった。何しろ、奴の帰る場所は、この後宮の中にあった。しかし後宮の中は死人禁制じゃ。そして彷徨ううちに、意思を失ったのだ」
そう言って老爺はぱちんと指を鳴らすと、「奴」に意思を与えた。実体は持たないはずなのに、青年には、「奴」の姿が見えたような気がした。五歳か六歳くらいの、幼い少年だ。金髪の可愛らしい容貌をしていた。
「少年よ、すまんが、そこの新入りを案内してやってくれ。そやつの帰るべきところは此処ではない。お前にならわかるじゃろう」
少年は嫌な顔一つせずに頷いた。『こっちだ』と青年を導く。
青年は慌てて少年の後を追いながら、その小屋の外へ出ようとした。が、その出ようと一歩を踏み出したところで、突然何かを思い出す。それは白昼夢のように彼の脳内を駆け巡り、あの愛おしい少女と共に訪れたこの場所を、思い出させた。
『……ケニーの爺』
懐かしい、その名を呼ぶと、老爺は僅かに驚いた顔をして、だがしかしすぐに平静通り、笑った。しわがれたその最西端の変わり者の顔を見て、青年は、問う。
『貴方は……四十年も前から、ずっとこんなことをしていたのか』
儂は四十年も昔から、ずっとここにおる、とそれがこの変わり者の口癖だった。何をしているのか、その真の姿の見えない人物だった。死んでようやく、その正体が見えそうだ。と、思ったのだが。
「はて……四十年も前から此処におる、とは儂の口癖じゃが……その口癖を使うようになって、もう二、三十年が過ぎたから、ようわからん」
相も変わらず、食えない老爺である。
青年はしかし、それ以上追求することはせずに、『そうか』とだけ答えた。そして、去り際に言う。
『……世話になった。感謝する』
老爺は何も言わなかった。ただ、にやりと笑い、愛犬のペグを抱き寄せたのみであった。
青年は、自分を導いてくれる金髪の幼子に、見覚えが全くなかった。しかし、幼子の方は青年を知っているようで、導く途中に語った。
『僕は、貴方が、羨ましい』
青年は、幼子とは思えないその丁寧な語り口調に、戸惑う。しかし戸惑いながらも、彼に従う以外に道はないので、黙って耳を傾けた。
『本当なら、貴方が行うことを、僕がするはずだった。貴方のいる場所に、僕がいるはずだった。そう思うと、貴方がとても羨ましい』
『……それは、一体、どういう?』
『だけど、いいんだ。仕方のないことなんだ。羨ましいからと言って、僕は貴方を妬んだり、責めたりしない。彼女が選んだのが貴方なのだから、そこに間違いはないはずだ』
『彼女……』
『それに、僕はもう、死んでいるから』
幼子はそう言って、後宮の周りをぐるりと旋回し、王宮の敷地内に突入した。急いで彼の後を追いながら、青年の頭の中は疑問でいっぱいだ。
『それを言ったら、俺だってもう、死んでいる』
『でも、貴方は、呼ばれている』
『呼ばれている?』
『貴方を呼ぶ声がする。彼女が貴方を呼んでいる』
『呼ぶ? 彼女? 彼女とは……誰のことだ……?』
『命を落とした瞬間に、記憶をたくさん落としたらしいな……だけど、大丈夫。すぐに思い出す。記憶は貴方の体にまだ残っている』
幼子は王宮の中の、とある巨大な殿堂を目指した。神々しい空気さえ感じられるような、巨大な殿堂だ。
『ほら、貴方を呼んでいる——』
幼子に言われて、耳を傾けると、確かに、声が聞こえた。
——ゆたや。
誰の声だろう。懐かしい。そしてとても愛おしい。自分はこの声のためなら、何でも出来ると思っていた。誰よりも、何よりも、大切だった。
『あとは、あの声に従えばいい』
そう言って、幼子はそれ以上は前に進まなかった。青年は彼を見つめて、きょとんとする。
『……お前は、行かないのか?』
幼子はゆるゆると首を横に振った。
『僕は、行けない……』
『……何故』
『僕の帰る場所は、あそこじゃない』
青年は、先ほど老爺の言った言葉を思い出した。少年の帰るべき場所は後宮の中にあった。しかし、後宮の中には死人禁制だ。故に、彼は彷徨う。彼は彷徨い続ける。
『……お前』
『同情なら無用だ。僕は、今でこそ意思があるけれど、どうせすぐに意思もない、ただの死んだ心の塊になる。すると、感情はなくなる。悲しくもないし、辛くもない。だから、貴方にそんな顔をされる筋合いもない』
そう言った彼の顔は凛々しく、とても幼子のそれには見えなかった。幼子も、そして青年も、今は実体などない。だから互いに顔などないはずなのに、表情が見えてしまう。
『ただ一つ、頼みがある……』
『……なんだ?』
『傍にいられない、僕の代わりに、彼女を護ってくれ』
不思議だが、青年には幼子の、強い決意の表情が、見えるのだ。
『命を張って、とは言わない。彼女は優しいから、貴方が死ぬことを喜ばない。もちろん、僕もだ。だが、僕はもう二度と帰れない。だから、僕の分まで貴方は生き延びて彼女を護らなくてはならない』
約束だ、と言って幼子は青年の背を押した。青年はそのまま殿堂の中へと吸い込まれて行く。声のする方へと、引き寄せられて行く。
『生きろ。彼女を護れ。もう二度と、僕に案内などさせるな』
背後から聞こえる声を、青年は確かに聞き取った。青年は彼を知らない。彼の名前も、顔も知らない。だけれど、とても自分に近い位置にいるのだと、悟った。そして彼もまた、青年と同じくらいには「彼女」を、愛おしく思っているのだと気付いた。
ゆえに、青年は、何としても彼女の傍に寄り添わなくてはならない。彼女を支え、そのために生きなくてはならない。何としてでも、彼女を護らなくてはならない。だから、何としてでも、目を覚まさなくてはならなかった。