2、最西端の変わり者
胴は巨大な熊のような形で全身を包む長い毛は黒く、四つ足に生える爪は人の顔ほどの長さもあり、人間の指と同じ役割をしている。頭は白骨に酷似しており、二本の雄牛のような角が生える。目は深く窪んだ穴のように見え、頭髪は白く長くなびいた。体は大きく、後ろ足で立ち上がると、大の男三人分ほどの高さがあった。二足歩行も出来るが、速さを重視する場合は四足で走る。——人形の変化を解いたユタヤは、その背に主を乗せて、馬より速く駆けていた。馬なら半日かかる道のりも、獣のユタヤの足ならば数刻かからない。そしてその速度で走りながらも、彼は抜群の安定感で決して主を背中から落とすような粗相はしなかった。
「久しぶりね、こうやってゆたやの背中に乗るのも」
全身で風を受けながら、カグワはのんびりと呟いた。すると、下の獣から渋い声が返ってくる。
「当然です。そうしょっちゅうあっては困ります」
カグワは首を竦めた。獣人であるユタヤ自身ですらあまり好ましく思っていないらしいこの獣の姿が、カグワは別段嫌いではなかった。他の聖女達は、いや聖女だけではなく多くの人間たちは、獣の姿に怯え、醜いと忌み嫌う。しかしカグワにはその感覚を理解することができない。見慣れてしまったというわけではない。カグワは、初めて彼の獣の姿を見たその時から、何故か一種の懐かしさや、仲間意識のようなものを抱いていた。
(化け物というのなら……だってむしろ、私の方が)
カグワはきゅっと、拳を握り締めた。
国王が崩御し、新国王が起って新しい巫女が選ばれると、巫女の予備軍として十人の聖女が選ばれる。そしてその聖女に選ばれる基準とは、巫力の強さだと言われていた。すなわちこの国で、最も巫力の強い十人の少女が聖女として選ばれる。その十人の中に選ばれたからには、カグワにもそれだけの素質があったというわけで、人々はそれを巫力と呼んで神聖なものと崇めるけれどもカグワには化け物の力のように思えてならなかった。巫力には様々な種類があり、例えば未来を予知する先見の技であったり、例えば他人の考えを知る読心の技であったり、他人を操る誘導の技であったりする。それら全てを使いこなすことができるのなら、それは化け物と呼んで間違いあるまい。それなのに、ただ獣の姿に変化することのできるだけの獣人を、化け物などと呼んでもいいのだろうか。
力あるものは力ゆえに孤独だ、とカグワは思っていた。聖女とてそうだ。聖女の周りの世話役たちは、聖女の言うことなら何でも聞くが、それだけでしかない。それではただの道具と同じだ。たった一人でいつか巫女になれるかもしれない未来を夢見て、延々と修行を続ける日々は、孤高の戦いであった。故に、聖女は孤独だ。
そして、それ以上に、獣人の孤独ははかりしれない。力を持つゆえに崇められて孤立する聖女と異なり、獣人は力ゆえにうとまれ、孤立する。それを聖女ごときの孤独と並べても良いのかどうかカグワには俄に判断し難いが、とにかく、初めてユタヤを見た時に、カグワは彼の孤独な眼差しに己を重ねて手を差し伸べずにはおれなかった。
「私はただ……傷を舐め合いたかっただけなのかもしれないわ」
ユタヤは己を救ってくれたカグワに恩義を感じ、一生の忠義を誓ったけれども、カグワは彼を救ったわけではなかった。カグワは、自分を救うために彼の命を利用したのだ。
「はい、なにか?」
カグワの言葉を聞き取れなかったユタヤが聞き返す。カグワは慌てて首を横に振った。
「なんでもないわ……あ、西の壁が見えてきた」
カグワは進む先、西の端を示してそう誤摩化した。
広大な聖女たちの住まう後宮は、広大でありながらしかし外の世界から遮断されていた。土地をぐるりと囲んでとても越えることのできない巨大な壁が立ちはだかり、外に出ることはできない。それは、外の侵入から聖女たちを守るための物なのかもしれないし、聖女たちが外へ逃げ出すことのないように防ぐものなのかもしれないし、あるいはその両方かもしれない。そして変わり者と呼ばれ、聖女の規則など守らぬカグワでさえ、この壁を越えたことはなかった。
高くそびえ立つ灰色の壁の麓に、小さな小屋が見えた。最西端の変わり者、ケニーという老爺の住まう小屋だ。後宮の中は、新国王の即位に伴う後宮の総入れ替え制度により、皆が皆同じ時期に後宮に住み始めるため、後宮の中にいる者同士、互いに知らないことはない狭い世界だと言えよう。その中で、ケニーだけは謎の多い人物だった。誰も、彼の正体を知らない。もちろん、カグワも知らない。
「……かぐわの君」
ユタヤが最西端の小屋をまっすぐ目指して走りながら、小さく呟いた。
「小屋の前に、ケニーの爺が立っております。……あやつ、かぐわ様が来られることを、予測しておりましたな」
「……まあ」
獣の姿になったユタヤは、人智を越える抜群の五感を持つ。故に、人間の目では見えない遠い景色も、その絶対的な視力でもって捉えた。カグワにはぽつんと小屋の影が見えるだけでその先に立つ人の姿など見えないが、ユタヤが言うからにはそうなのだろう。
「本当に不思議な人ね……もしかしたら聖女たちよりも先見の技に優れているんじゃないかしら」
「まさか」
「もしそうなら、次期巫女はケニーの爺やになるわね」
「ご冗談を」
即座に返される真面目な答えに思わず笑ってしまってから、カグワはまっすぐ最西端の矮屋を見つめた。姿は見えぬものの、確かにその方角から人の視線を感じた。カグワはあと十日で後宮を出なくてはならない。かの謎の老爺から話を聞けるのもこれが最後かもしれないわけで、なにひとつ聞き逃すことのないようにと、カグワは気を引き締めた。
ユタヤの言った通り、小屋の入り口に腕組みをして立っていたケニーは、二人が来るなり小屋の中へと招き入れた。小屋の外にはペグがうずくまっており、変化をといて装衣を纏ったユタヤを見上げるなり威嚇したが、その後ろからカグワが顔を覗かせると途端に大人しくなった。ユタヤが「犬までもそそのかすとは」と軽口を叩いたので、「一番最初にそそのかされたのは、ゆたやよね」と軽口で答えた。ユタヤは反論しなかった。自分でもそう認めているらしい。
一階建て、部屋の二つしかない小さな小屋の中、暖炉の前に通されると、カグワはケニーに促されるまま火の付いていない暖炉脇の椅子に腰掛けた。ケニーは一人暮らしゆえに椅子がそうたくさんはない。老爺から椅子を奪うわけにはいかないとユタヤがカグワの座った椅子の脇にあぐらをかいて座り込むと、老爺は気にした素振りも見せずにカグワと向き合って揺り椅子に腰掛けた。窓の外からは、少しだけ西に傾き始めた太陽の光が差し込んでくる。ケニーは来訪者を歓迎するでもなく、「喉が乾いたら戸棚にあるコップに、そこの冷めた紅茶を注いで飲んでくれ」と言った。誰もが聖女に尽くすこの後宮の中で、あまりにも不躾な態度であるが、カグワは気にしない。この老爺がそういう人間なのだと知っているユタヤも言及しなかった。ただ、黙ってすくっと立ち上がると、コップにカグワの分と老爺の分の紅茶を注いで小さなテーブルに乗せた。「相変わらず、恐ろしく気の利く仗身じゃ」とケニーが笑った。
「……で、今日は何をしにこのような西の果てまでおいでになったのか」
ユタヤの注いだ冷めた紅茶をすすりながら、先に問うたのはケニーの方だった。カグワはユタヤが隣に腰を下ろしたのを確認してから、にこと口の端を持ち上げる。
「やぁね、知ってるくせに」
「知るものか。今代一の変わり者の聖女の君の考えなぞ、儂には想像もつかぬ」
「最西端の変わり者に言われたらおしまいね。でも大体予測はつくでしょう?」
「儂には、とんと」
「予想していたから小屋の入り口に立って待っていたんじゃないの?」
「いんや、なんとも後宮の中央の方が騒がしいから何ごとかと眺めていただけのこと。すると三の君が己の仗身に跨がり現れるものだから、ますます騒がしい」
あくまでとぼけるケニーであるが、今このエウリアの国で何が起こっているのか知らぬわけでもあるまい。
「……国王陛下が崩御されたそうじゃない」
「ふむ」
「次期陛下の即位に合わせて、十日の後には新しい巫女が選定されるそうよ」
「そうらしいのう。風の噂には聞いておるが」
ケニーは澄ました顔で頷いた。やっぱり知っているじゃないかとカグワは小さくむくれる。
「だったら、後宮が騒がしい理由もわかるでしょう? 私がここにきた理由も」
「はて……。儂はここに住み着いてもう数えきれぬほどの歳月を越えてきたが、国王の崩御だからという理由でここを訪れた聖女の君など他におらんのでな」
儂に別れでも告げにきたか、と笑う老爺には前歯がない。ぽっかりと空いたその隙間から、暗い口の奥が覗いてかかかと軽快な笑い声を繰り出した。その間抜けな風体を前にして、カグワは脱力する。まあ確かに考えてもみれば、国王が倒れたからと言ってケニーの元を訪れたところで何が変わるわけでもあるまい。他の聖女たちと顔合わせなどするよりずっと効果的だと思って飛び出してきたが、実際にはそう大差ないなと思い直した。
「まあ……そうね。そんなものかもね。ケニーの爺やと挨拶代わりに、くだらない雑談でもしようかと思って来たのよ」
観念してカグワがそう告げると、ケニーは「そうか」と満足そうに微笑んだ。その暢気な笑顔に、ますます力が抜けていく。国王が崩御されたと後宮中が大騒ぎしていることを馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたカグワであるが、ケニーと比べればまだまだ修行が足らない。人が必ずいつかは死ぬように、国王とていつかは崩御する。そんな当たり前のことに振り回される自分に嫌気が差した。
「……後宮は、巫女のためにあるものだから、仕方のないことなのかもしれないけど」
小さな声で言い訳して、カグワはコップを手に取った。なんとも飾り気のないその質素なベージュ色のコップを撫でながら、ちらと対面に座っている老爺を見やる。
「外界はどうなの? やっぱり……後宮ほどは騒いでいないのかしら」
外界、すなわち後宮の外——後宮の中の人間は下界とも呼ぶが、カグワはあまりこの呼称が好きではない——に、ほとんど踏み出したことのないカグワには、外の世界に住まう人々の考え方など予想も付かなかった。彼らは、己の国の王が倒れことを、どのように受け止めているのだろうか。
「うぅん……確かに後宮ほどの騒ぎとはならなくとも、それなりには賑やかしとるようじゃ。新王の即位となれば、城下町は連日祭り続きだからのう」
「へえ……そういうものなんだ」
この外界から遮断された後宮という狭い世界の中で、何故かケニーはいつでも外の世界のことを朗々と語った。その情報をどこから仕入れているのかは決して教えてくれなかったし、ひょっとしたら全てケニーの虚言という可能性もあったが、カグワにはその真偽を調べる術がない。ゆえに残されたのは、二択だ。信じるか、信じないか——カグワはこの変わり者の言葉を信じていた。故に彼女自身も、変わり者と呼ばれる。
「しかし、最も騒いでおるのは、宮廷内じゃな……国王がお亡くなりになった未明より、政殿が喧しい」
「政殿……やっぱり、国王が変わるとなると、政治の現場もがらりと変容するものなのかしら」
「いや……と、いうよりも、この国王の代替わりを利用しようとする勢力があってな……三の君は、現在このエウリア君主国の国務参謀を誰が務めているかは存じておられるか」
「ええ、名前だけは……ワイズ・レヴィン国務参謀よね」
後宮にはほぼ外界の情報が流れてこない。が、しかし、皇室の仕組みや、政治の仕組みは別だ。将来巫女になるかもしれない聖女たちが、皇室や政治に昏いのでは困る。そのため、教養として誰が政権を握っているのか、誰がどの役職に就いているのか、名前だけは覚えさせられるのだ。
とは言え、ただ何十人もいる役職とその名前を暗記するのは辛い。カグワも全てを暗唱することはできない。それでもさらりと国務参謀の名前を吐き出すことができたのは、それだけ彼の名が知れているためだ。ワイズ・レヴィン国務参謀——参謀でありながら、ほとんどこの国の舵を握っているのはこの男であると、この外界から孤立した後宮の中でさえ、彼の名前は知れていた。
「そう、レヴィン国務参謀だ……あの冷徹な参謀は、頭が切れる。この国王崩御を好機と見た。国王の葬儀に、各国の要人を招待すると言い出したのじゃ」
「各国……北国、東国、南国の全てから?」
「そう。全ての国の要人を、西国エウリアの国王の葬儀に参列させると言った」
「それは……なぜ?」
「一つは、他国の要人にエウリアの国王の死を悼ませることによってエウリアの国の地位を認識させるためだろう。そして、もう一つは……北国が要人として誰を寄越すのか、見ておきたいのじゃ」
「北国……ラウグリア帝国が?」
「そう。北ラウグリア帝国じゃ」
この世界には、東西南北四つの国が存在している。今、カグワたちが住まうのが、此処、西国エウリア君主国だ。そして、その北に位置する国が、北国ラウグリア帝国だった。エウリアと同じく皇室を持ち、王政を布く国であるが、ここ最近では東国と戦ばかりしていると聞いた。恐らく雪の降らない豊かな土地が欲しくて、東国を占領するのが目的なのだろうと語ってくれたのは——それもケニーであった。
「北ラウグリア帝国は形こそ王政を布いているが、その実態はほぼ軍政だと言う」
「軍政……軍隊が政治を仕切っていると?」
「うむ。北国が東国に豊かな土地を求めて戦を仕掛けていたことは知っておるな?」
「ええ、もう十年も戦をしていると」
「それが最近では、すっかり東の国の北側の領地は北ラウグリア帝国の領土となってしまったらしい」
「えっ……? 北国が勝利したの?」
「そういうことになるのう。東を手に入れた北国が、次に思うこと……それは、なんだと思う?」
問われてカグワは少しだけ考えて俯き、すぐに口を開いた。
「……西の国も、占領下にしたい」
「その通り」
頷いたケニーは、ゆらゆらと自分の座っている揺り椅子を揺らす。空になったコップを机の上に戻して目を細め、不気味に皺の寄った目尻にますます深い皺を作る。
「レヴィン国務参謀は、北の出方を見たいのじゃ。要人を招待されて、しらばくれて皇室を寄越すのか、軍人を寄越すのか、あるいは、誰も寄越さず真っ向から対抗してきよるのか……」
「……なるほどね」
「しかし、参謀がいくら要人を招待しようと言っても、なかなか内大臣どもが頷かんのが現状らしい」
「え、どうして?」
「各国の要人を呼ぶということは、東国の要人も呼ばなくてはならぬということじゃろう? 内大臣らは、東の国を蔑んでおるからのう。要人を招待などして東と西が同等であると見られるのが我慢ならんのだ」
「……なるほど」
カグワはしみじみと頷いた。
内大臣だけではない、この西国エウリアには、東国ヤンム帝国を後進国として貶める風潮があった。実際に東国ヤンムは、東西南北四カ国の中で最も文明が遅れている。故にそれを野蛮として、中には東国の住民を東蛮人と呼ぶ者もいるくらいだ。
「不思議ね……同じ人間なのに。隣に並ぶのも嫌だと言うのかしら」
カグワがぽつりと呟くと、ケニーは灰色に淀んだ瞳を大きく見開く。
「そういえば……三の君も東の出自であったか」
「ええ、そうよ。私は幼い頃に親に連れられて東西の国境を越えた、難民の一人だから」
ケニーの目には蔑みの色などない。カグワはにこりと笑って頷いた。
カグワの生まれは東国ヤンムだ。しかし、親に連れられ国境を越えた西国の東の端、難民の村の中にて幼少期を過ごした。そして、そのまだ片手で数えられる年の頃に、突如現れた王宮からの使いに連れられ、この後宮へと来たのだ。カグワには未だに聖女に選ばれる者の基準を計ることができないのだが、少なくとも生まれは問わないらしい。どの国の生まれであろうとも、聖女を選定する時期にこの西国の領土の中にいれば、その対象となるということなのだろう。
ほぼ全ての聖女たちが西の国の生まれである中で、東の出自であるカグワは一人異端であった。しかしそれは、決して出自によるものではなく、カグワの天性の気性ゆえであるはずなのに、後宮の者たちはこの異端な聖女のことを「東の君」と呼んだりする。この際の「東」には、「東蛮人」と同じく蔑みの意味が込められているとカグワとて知っていたが、それでもカグワはこの呼称が嫌いではなかった。カグワは己が東の出自であることに、何の後ろめたさも感じない。
「ゆたやも東の出自よ。ねぇ?」
カグワが同意を求めると、それまで主の言葉に一切口を挟まんと貝のように黙っていた仗身が、こくりと頷いた。
「私もエウリアの東の果て、丁度東西の国境当たりの森に倒れていたところを、かぐわ様に拾われた身でありますゆえ」
——それは忘れもしない、今より十年以上も昔の話だ。
聖女として後宮入りをしてまだ間もないカグワには、仗身がいなかった。正確には、仗身がいなくなった。死んでしまったのだ。たった二年かそこらの付き合いだった。まだカグワと同じ年の頃、幼い仗身の見習いは、たった五つの年の頃に主をかばって死んだ。カグワは正直言うと、その時のことをよく覚えていない。何故自分がこの危険から隔離された後宮内で命の危機に晒されていたのか、そして何故たった二年そこらの付き合いでしかない仗身が、そしてまだ己の意思もはっきりしないたった五つの幼子が、主であるという理由だけでカグワのことを己の身を呈してまで守ったのか。ただ、その瞬間だけは泣きたくなるほど鮮明に、覚えていた。——自分を庇って死んでいくその仗身の姿を、忘れたくとも忘れられない。
そして仗身を亡くしたカグワは、新たな仗身を手に入れるために、東国へ出かけることを許された。本来外界へ出ることを許されない聖女にこの異例な措置が下されたのは、それだけ事態が緊急であったためだと言えよう。仗身となりうる獣人の見分けは、普通の人間には付かない。何故なら幼い獣人は普通の人の子と全く同じ姿をしているためだ。聖女であれば、巫力でもって獣人と普通の人の子を見分けることが可能であった。故に、聖女自身が外に出て、獣人を探さなくてはならなかった。そして、四カ国の中で最も獣人の多い東の国へとカグワは旅立つことになったのだ。
——その旅の途中で、彼と出会った。
何故、国境を越える前に馬車を下りたのか、理由は今でも定かではない。今にして思えば、己の中の巫力と呼ばれる第六感が働いて、自分を彼と引き合わせたのかもしれない。森の中に倒れていた彼は、とても孤独で、優しい目をしていた。その目に惹かれて、カグワは彼に手を差し伸べたのだ。——己の仗身になってくれ、と。
何とはなしにカグワが隣にあぐらをかいているユタヤを見つめると、すぐにその視線に気付いたユタヤが顔をあげた。そして、「なにか?」と言外に尋ねて首を傾げる。あれから十数年が経ち、二人の間には言葉などなくとも意思の疎通ができるほど、強力な絆が育まれた。「なにも」とカグワは首を横に振った。
そんな二人の無言のやりとりを興味深く見守っていたケニーが、老人特有の掠れた声色で呟く。
「ユタヤ、カグワと……東の発音は難しいのう。二人は上手に発音するが、儂にはなかなか真似できぬ」
「ゆたや、かぐわ、よ」
カグワはすらすらと東の発音をしてみせた。
「かぐわは、花や果物のように香りの良いこと、ゆたやは、作物の実りが良いこと。東の古語で、そういう意味よ」
言って、満足気に微笑む。そんなカグワとユタヤは、互いの名前を元の発音で呼び合っていた。これは、本来あるべきその音を忘れないようにというカグワのこだわりだ。しかし、東を好かぬ者にとってはこの東の発音自体も好ましくないらしく、二人が互いをそう呼び合うことを下品だと言った。——そもそも、仗身が主の名前を呼ぶこと自体、異常なのだという。
「珍しいことよのう。仗身が、主の名を呼ぶとは……中には仗身だけでなく、己の付き人共にさえ名前を呼ばれることを厭う聖女もおるというのに」
ケニーの言葉に、カグワはそうねと頷いた。聖女たちにとって名前とはとても高貴なものだ。同じ位である他の聖女に呼ばれるならまだしも、自分より下位の者に名前を呼ばれることなど言語道断という者も少なくない。故に、「一の君」「二の君」と、称号が存在するのだ。大抵の後宮仕えの官吏達は、この称号で聖女たちを呼び分ける。
「でも……折角私には名前があるんだから、呼んでほしいじゃない?」
親の付けてくれた名前だ。初めてこの世に生を受けた瞬間に自分を自分たらしめてくれた名前だ。幼い頃に親元から引き離されて、聖女様、三の君などと呼ばれて育ったカグワにとって、この名前が自分を自分たらしめてくれる唯一の存在だった。今でこそ後宮に住まう全ての人間と自分との関係を維持できるが、ただの称号だけを与えられて宮に入ったばかりの頃は、自分が自分ではなくなってしまうのではないかという恐怖があった。
そんなカグワの考えが通じたのかどうか、「ほう」と面白そうにこぼしたケニーは、肘置きに肘をたてて頬杖をつき、ゆらりゆらりとゆっくり揺り椅子を前後させた。
「三の君は実に趣深いことを言う」
「……そうかしら」
「名前とは呪縛である、という考え方があってな」
「え……?」
思いも寄らなかった切り返しに、カグワはきょとんとする。ケニーはいよいよ楽しそうに目を細めた。
「まだ神々が地上におられた、昔のことじゃ。二人の神がおった。一人の神は己の名前を、下等な人間共にも気軽に唱えてよいとおっしゃった。一人の神は己の名前を下等な人間に教えることさえ渋られた。すると、天変地異の起きたある夜のことじゃ。名前を唱えさせた神の元には、大勢の人間共が集い、名前を教えもしなかった神の元には誰一人として人間が訪れなかった。大勢の人間に囲まれた神は、人間共と身を寄せ合い天変地異から身を守ることができ、一人取り残された神は誰に助けられることもなく地の底へと落ちていったそうだ。……ゆえに、名前は人を縛る呪いであると」
「呪縛……」
「しかしその呪縛をどう利用するかはその者しだいだがね。——三の君の生国、東ヤンム帝国に伝わる神話じゃよ」
カグワは思わず己の胸元を押さえ、きゅっと拳を握った。
ケニーは博識だ。後宮の中だけでなく、西国エウリアのことだけでなく、世界中のことを知っている。それに対して、カグワは何も知らない。
隣を一瞥すると、無言で控えるユタヤが、何を言うでもなく外を見つめていた。窓の外にはそろそろ日が西へと傾き、空の赤が見え始めている。そろそろ帰らなくてはカグワを夕餉の時間に間に合わせられないとでも考えているのだろう。彼の世界の中心にはいつでもカグワがいる。
名前とは呪縛であると、ケニーは言った。だとするならば、カグワとユタヤを結ぶのは強い絆ではなく——呪縛だろうか。
国境を隔てた遠い北には戦をしかけてくるかもしれぬ敵がいて、東にはその貧しさゆえに難民の溢れる土地がある。広い世界の中で出会ったことも、呪縛のせいだったのかもしれないとカグワは思う。そして己が聖女として数奇な運命を辿ったことも、また、呪縛のせいだ、と。