28、巫女の役目
神殿に戻った後、巫女にはやらなくてはならない仕事が山積みされていた。それもそのはずで、巫女選定の儀の時に攫われてしまったカグワは、何一つ巫女としての務めを果たしていない。それから一ヶ月以上を、北国で過ごしてしまった。巫女の業務は山積みだった。
しかし、獣の抜け殻の傍から一歩も動けないでいるカグワは、とてもではないが業務をこなせるような精神状態にはなかった。「それでは参りましょう」と、神殿からの使いが何度声をかけても、抜け殻の転がっている城塞の前から一歩も動かない彼女もまた、抜け殻である。見兼ねたロマーナが致し方なく、「一緒に彼も連れて行って」と神殿の使いの男たちに命じて、ようやくカグワは立ち上がった。——少女は依然、獣の死を受け入れられずにいる。
抜け殻は、獣の姿では神殿には入ることを許されなかったため、ロマーナの持って来た数珠玉によって、人の形へと変化させられた。獣の姿を封印したのはもちろん、カグワの『力』だ。抜け殻となった後でも外見の変化は可能なのだということに対する驚きと、抜け殻となっても尚獣の姿の厭われる悲しさが、頭の中で入り交じる。
人の形で、仗身用の装衣を着させられた抜け殻は、神殿の中に用意された仗身の部屋へと運ばれた。本来生きた彼が入るはずだったその部屋は、神殿の中にしてはとてつもなく質素で、仗身の位の低さを物語っている。質素な寝台の上に横たわらされた彼は冷たく、ぴくりとも動かなかった。カグワはその横に寄り添って、一歩も動けなかった。
「巫女君……巫女就任の儀式を執り行わなくてはなりません」
「その後、新しい聖女の選定を行います」
「そして、新王への神の宣下を伝達するお仕事もございます」
伝えられたどの仕事にも、興味は湧かなかった。そんなことをして、何の意味があるのだろう。だって、此処には、彼がいないのに。
人形のように固まったまま、口さえ聞けなくなってしまったカグワに、臣下達はなす術もなかった。まさか仗身一人の死で巫女が前後不覚になるとは思わなかったし、どうしたって死んだ命を蘇らせることができないためだ。
やらなくてはならないことは溜まって行く一方である。臣下達は、途方に暮れた。
そんな中、カグワ帰還の知らせとともにカグワの陥っている現状を聞いて、立ち上がった女がいた。かつて後宮にいた頃は一の君と呼ばれ、十人の聖女の中で最も高い巫力を持ち、巫女の最有力候補と言われた女である。——その名を、ネイディーンと言う。
ネイディーンが、カグワの篭っている仗身の部屋を訪れたのは、その日の夕方頃であった。まだカグワが西国に帰って来て二刻ほど経った頃のことである。
「失礼します——カグワの君」
上品な口ぶりで挨拶をして、ネイディーンは仗身の部屋を訪れた。巫女選定の儀からすでに一月以上が経ち、ネイディーンはすでに聖女でもなければ当然巫女でもなく、巫女に仕える世話役となるはずであったが、それでも彼女はかつての輝きを失ってはいなかった。
「……一の君!」
カグワの横に付き添うロマーナが、声をあげた。カグワは依然として抜け殻を見つめたまま呆然として、動けない。
「もう、一の君ではないわ、ロマーナ……今では貴女と同位、巫女君の世話役なのだから、ネイディーンと呼んで頂戴な」
ネイディーンは柔らかい笑みを讃えて、そう告げた。しかし、十数年間かけて作られた人と人との接触というのはそうそう簡単に覆せるものでもなく、ロマーナにとってネイディーンは聖女であり、その位からなかなか落とすことができない。ネイディーンもそのことをよくわかっているのであろう、しつこく追求することはなかった。
「カグワの君……いえ、巫女君。貴女が全く耳を傾けて下さらないので、外で臣下が困っておりますよ」
ネイディーンは柔らかい笑みを讃えたまま、カグワの隣に腰を下ろした。カグワはちらりとネイディーンの方を向いて、その懐かしい顔を見つめる。
「ネイ、ディーン……」
「……よかった、覚えてらした。何もかも忘れてしまったのではないかと疑わしいほど、口を開かないと伺ったから」
カグワは何も言えなかった。忘れるわけがない。あの眩いほど幸せだった後宮での日々を、一日だって忘れたことなんてない。願わくばあの時に帰りたいと何度思ったことだろう。自然の中を駆け巡り、ユタヤに追いかけられて小言を言われて、そんな幸せな日々に、帰りたくて仕方ない。
「……ゆたやが」
小さく呟くようにぽつりと零すと、ネイディーンは寝台の上に横たわっているその抜け殻を見て、「ええ」と頷いた。
「彼は、立派な獣人です……仗身の鏡でした。仗身の役目は、いざという時に命を捨てても巫女を護ること……彼は、立派に役目を成し遂げたのです」
カグワは首を横に振った。誰も彼もが同じことを言う。ユタヤは立派だったと。役目を果たしたのだと。けれどもカグワにはちっとも立派だったなんて思えない。目の前で死に行く彼を見て、少女は何度自分を殺してくれればいいのにと思ったことか。
「ゆたやが死ぬのなら……私が死ねば良かったのに」
「カグワの君?」
不穏なカグワの呟きを訝ったのは、ロマーナである。カグワはロマーナの方になど目もくれず、叫んだ。
「あの時、私が死ねば良かったのよ……。私は死んだって構わないと思った……。私は巫女だから、そういう運命を辿ることも仕方のないことだと……でも可哀想なゆたやは、望みもしないのに私に勝手に拾われて、勝手に仗身なんかにさせられて……それなのに、立派な死を遂げたなんて、思えない!」
「カグワの君! なんてことをおっしゃるのですか……!」
ロマーナが信じられないとばかりに悲愴な目でこっちを見下ろしてくるが、カグワは何一つ自分の言葉に間違いなどないと信じている。
あの北の地で軍に捕えられて投獄された時、間違いなく自分は殺されるのであろうという予感はあった。だが、驚くほど、自分の死に対する恐れはなかった。達観していたとも言える。皇太子という立場に振り回されるシルディアの姿を見て、人は一個の人間として生きるよりも、その立場として生きる方が大部分を占めているのだと知った。——ならば、巫女として生きる自分には、巫女としての終焉が待っていて当然なのだと。
それだけ己の死に関しては無頓着であったのに、ユタヤが飛び込んでくると、がらりと心境が変わった。達観などしていられなくなった。何がなんでも彼を止めなくてはと思った。そうでないと、彼が殺されてしまうと思った。自分が死ぬことは全く怖くないと思っていたのに、彼が死ぬことは恐ろしかった。一度仗身を失った経験があったから、というのも一つの理由である。だけれども、それ以上に、ユタヤがいなくなるという事実が、あまりにも恐ろしかった。
「カグワの君……私に、一つの提案があります」
叫んだまま頭を抱え込んで動かなくなったカグワに、そっと手を差し伸べたのはネイディーンであった。彼女は柔らかい微笑みを讃えたまま、カグワの顔を覗き込む。
「私が、彼の命を救ってみましょう」
「……え?」
カグワは顔をあげた。何を言っているのだ、と思う。彼はすでに、亡骸なのだ。そこには救う命も残っていない。
するとネイディーンは自嘲するように笑った。
「聖女には、禁忌がありました。決して見てはならぬと言われたものが、覗いてはならぬと言われた場所が、ありました」
カグワはええ、と頷いた。カグワも一度だけその禁忌を犯してロープをくぐったことがある。それはまだロープに背丈も届かぬような幼い頃のことで、その所為でカグワは一人目の仗身を失った。
「私はその禁忌を犯してしまったのです」
そう告げたネイディーンは、どこか遠くを見つめていた。
そういえば、とカグワは思い出す。巫女選定の儀の前に、ネイディーンがそのようなことを言っていた。——私は、……誘惑に勝てなかった。
その時は何のことだかさっぱりわからなかったのだが、そういうことかと今更理解した。ネイディーンもまた、あのロープをくぐり抜けてしまったのだ。
「今なら、何故あれが聖女にとって禁忌だったのか、よくわかります。あれは聖女にとって禁忌だったのではない。巫女が知ってはならぬ巫力最大の奥義が隠されていたのです」
「……どういうこと?」
「聖女が習う技は、巫力を使う技の中では基本でしかない。本来なら巫力にはもっと無限の可能性があるのです」
それは、カグワもよく知っていた。巫力、すなわち『力』を使って、カグワも見たことのないような、信じられない技を行使する皇太子が、北の地にいた。あれを見れば、聖女の時代に習ったことなんてほとんど序の口であったことがよくわかる。
「しかし、巫力を最大限に使う奥義は、我々の持つ巫力そのものを失うことになりかねない。最悪、命さえ落としかねない。だから、巫女は知ってはならないのです。巫女は何としてでも、生きなくてはならない」
生きなくてはならない、という含みのありそうな言葉を受けて、カグワは目線を逸らした。それはまるで、自分が死ねば良かったと言ったカグワへの当てつけのようだ。——恐らくそうなのだろう。
「だから、禁忌を犯して、その技を知ってしまった私が、巫女になるはずのないことは最初からわかっていました。——だけど、私がこの技を知ったのは無意味ではなかったのです。此処で私が彼を救えば、巫女のためになる。私は巫女のために、ひいてはこの国のために力を使い果たせるのだわ」
「さっきから言っているけど……救うって、どういうこと?」
カグワが眉根を寄せて問うと、ネイディーンは微笑んだ。
「「蘇生」の技と、言うのです。一度命を失った者に、再び命を吹き込む技」
「……そんな、ことが?」
「ただし、難易度は高く、成功率は高くないと思ってください。まず、本来ならば、命を失ったその瞬間に行わなくてはならないのです。けれども、彼が死んでから大分時間が経ってしまっている。時間が経てば経つほど、この技の成功率は低くなるのです。それから、彼自身が死にたくないと、生き延びたいと願っていたことが大前提です。もしも彼が死にたいと願っていたのなら、どれだけ俊敏にこの技を行ったとしても、蘇ることはない。そして此処で、私の巫力の強さが試されます。人の命を蘇らせるには、それだけの巫力を消耗する。私は二度と巫力を使えなくなり、只人となることでしょう。——最悪、私が死に至る可能性もございます」
「……そんな!」
カグワは首を振って、立ち上がった。
ユタヤがひょっとしたら帰ってくるかもしれないというのは、それはもちろんカグワにとってはこの上なく魅力的であった。しかし、ネイディーンに命を落としてまで彼を復活させてくれとは、とても言えない。——それならば。
「……だったら、私がやるわ!」
カグワはネイディーンに縋り付いた。それならば、手段は一つしかない。
「私だって巫女に選ばれたんだもの……それだけの巫力は持ってるはずよ! お願い、ネイディーン……! 私にその技のやり方を教えて……!」
「カグワの君……」
困惑したようなネイディーンに、カグワは負けない。なんとしてでも、自分で彼を救うのだ。それしか頭になかった。
「私が、なんとかするから……! お願い……っ!」
と、その時である。
「……いい加減になさいっ!」
ぱしんっという高い音が仗身の部屋に響き渡る。誰かが、誰かを、ひっぱたいたのだ。
驚いて目を丸くするカグワは、自分の頬が徐々に赤く染まり、痛んでいくことに気付いた。痛む左頬を左手で押さえれば、ひりひりとますます痛みが増していく。彼女の前に仁王立ちし、肩で息をしながら右手を掲げているのは、ロマーナだ。——侍女であるロマーナが、主である巫女をひっぱたいたのだと、此処でようやく判明した。
「何のために、ユタヤが命を落としたと……何のために一の君が己の命を犠牲にしてまで「蘇生」の技を買って出てくれたと……何のために、西国が貴女を待ち続けていたと思うのですかっ!」
肩で息をするロマーナの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「それは……貴女が巫女だから、いえ、貴女が、この国の、希望だからですわ……っ!」
今度は先刻のようにわあわあと号泣することはないが、だが、流れる涙の量は変わらない。
「何度でも言いますわ……貴女は巫女なのです! この国の民は、いつでも不安を抱えている……いつ流行の病が起きるかわからないし、いつ飢饉に襲われるともわからない。親を亡くした子供もいれば、子供を亡くした親もいて、誰も信じられずに一人孤独に死んで行く命がたくさんありますわ! そんな中、人々は神に縋って生きて来たのです! どれだけ苦しい時でも、神に祈って越えてきたのです! 縋るものがあれば、人は生きて行ける。希望があれば、人は前を向ける。貴女は、その、希望なのです……! 何故おわかりにならないのですかっ!」
カグワの肩を掴むロマーナを宥めるように、ネイディーンが彼女の背を撫でる。
「ロマーナ……落ち着いて」
「いいえ、一の君……これは、元々三の君、カグワの君の女官長であった私の監督不行き届きですわ」
ロマーナはきっぱりと言い放って、己の頬を伝った涙を拭き取ると、毅然とした面持ちで、カグワを見やった。
「カグワの君、いえ、巫女君。貴女には巫女として、やるべきことが多々残されております。此処は一の君に任せて、臣下の言う事に従ってください」
「ロマーナ、でも……」
「反論は許しません。巫女としての自覚をお持ち下さい」
有無言わせぬ口調で言い切り、ロマーナは今度はくるりとネイディーンの方を向いた。
「一の君、ユタヤの「蘇生」のこと。こちらは私からもお願い申し上げます。貴女の命と引き換えになるかもしれないと知りながら、願うことがどれだけ不躾であるか、理解はしております。ですが——もはや彼は、カグワの君の一部なのです」
カグワは目を見開いて、ネイディーンを見つめているロマーナの後ろ姿を見上げる。この後宮にきてから、ずっとずっと、ロマーナはカグワの女官として仕えてきた。カグワが五つの時に後宮にやってきたユタヤよりも、実は付き合いが長い。彼女はずっと、カグワを傍で見守って来たのだ。
「カグワの君にとって、彼を失うということは、体を半分もぎとられるようなものです。痛みが度を過ぎると感じられなくなるように、悲しみも度を過ぎるとわからなくなるもので、カグワの君はまだ一度も、彼を失ってから、涙さえ流していないのです」
そういえばそうだった、とカグワは自分のことなのに、今更気付かされた。まだ自分は、彼のために泣いてもいない。
「ですから……どうか、この国のためにも、巫女君の半身を、お救いくださいませ、一の君……いえ、ネイディーン」
言い換えて彼女の名を呼んだロマーナを見つめ、ネイディーンは、またあの柔らかい微笑みを浮かべた。
「……わかったわ、ロマーナ」
ネイディーンはそう告げると、表情を切り替えた。それまでの微笑みを捨て去り、真剣な面持ちに変わる。彼女の中の巫力が高められて行くのが、カグワにはわかる。——本気で、彼女は「蘇生」の技を行うつもりだ。
「……では、カグワの君、外へ、出て下さいませ」
「ネイディーン」
「外へ……貴女は、この技を、見てはなりませぬ」
ネイディーンは強い口調で言い放った。それは、巫女に禁じられた技である。当然、見ることも許されてはないのだろう。
さあ、とロマーナに促され、カグワは渋々部屋の外へと出た。そうしている間にも、ネイディーンの巫力がぐんぐん高められていく。
恐らくネイディーンは、現在の西国では随一の『力』の持ち主であったことだろう。今でもカグワは、彼女の方が巫女には向いていると思っている。自分なんて聖女の中でも最も巫女に不向きであったろうに、と思わずにはおれない。——それでも、選ばれてしまったのは、カグワだ。
「巫女君。まずは、就任の儀式を」
外で待っていた臣下達が、やっと部屋から出て来たカグワを見て、安堵したように礼をした。カグワは彼らを見つめて、頷く。
ようやく此処に、西国の巫女としてのカグワが、降臨した。
就任の儀式は、今まで一度だって纏ったことのないような重々しい装束を着せられて、行われた。巫女選定の儀の時でさえ、もっと動きやすい格好をさせてもらえていたと思う。あまりの装束の重さに、カグワは立っていることさえ苦痛で、座っているだけでも肩が凝った。そのような格好のまま一刻は、儀式が続いた。
儀式は、神殿の奥にある広い大聖堂の中で行われた。神像の前に立たされた巫女カグワの後ろに、大勢の臣下達が並ぶ。かつて聖女だった仲間達の姿もあり、あまりの懐かしさに近寄って行って話をしたい気持ちになったが、当然そのようなことは許されなかった。その中に、ネイディーンの姿がないことがとても不自然であったが、今頃ユタヤの蘇生を行っているはずなので、致し方ない。また、その群衆の中には、西国エウリアの新しき王の姿も、見えなかった。就任の儀式は、神殿の中の人間のみで行われるらしい。外部の人間は、例え王であろうと、覗くことを許されていないようだった。
儀式は、大司教に仕切られ、進んだ。大司教は老年の男であり、あまりにも声がしわがれていて、時折何を言っているのか聞き取れないほどであった。
そしてその儀式の途中、最もカグワが目を奪われたのは、前任の巫女の登場であった。
「巫女継承」という大司教の号令の後、現れたのは、三十頃の女性であった。美人だが、気の弱そうな印象を持つ。この人が、自分の前に巫女を務めていた人なんだ、とカグワは彼女から目を離すことができなかった。前任の巫女はカグワの前に立つと、儀礼的にお辞儀をして、告げた。
「巫女就任——おめでとうございます」
その声は、巫女選定の儀式の際にあの円形の間で水鏡を囲みながら聞いた声と、全く同じであった。本当にこの人が前任の巫女なのだ、と悟る。
聞きたいことはたくさんあった。どうして私なんかを巫女に選んだのですか。私なんか巫女に向いていないと思います。巫女にとって重要なことってなんですか。私はそれを重要にしていけると思いますか。私にとって一番重要なのは——周囲の人の命です。
しかし何一つ聞くことを許されていない状況下では、口を噤むしかなかった。巫女が、何やら手を差し出して、カグワの額に手のひらを当てる。——北の地に初めて行った時、皇太子シルディアに似たような行為をされた。あの時は、そのままカグワの巫力が封じられた。今回はまさか、そのようなことはないだろう。
そして当然、巫力が封じられるわけはなく、どん、とちょっとした衝撃を受けて、カグワの中に何かが埋め込まれた。体の中に、力がみなぎる。しかしそれはすぐに体の奥の方へと馴染んで行って、やがて違和感が消えた。目の前に立っていた前任の巫女は、より弱々しくなって、笑う。
「——これにて、私が前前任の巫女より継承された巫力を、現巫女に継承致しました。——カグワの君、貴女が、正式に巫女となります」
カグワは目を見開いた。では、今までは、正式に巫女ではなかったということだろうか。だとしたら、自分は何のために攫われたのか。ユタヤは何のために命を落としたのだろう。
たくさんの疑問を残したまま、重苦しい就任の儀式が終わり、大聖堂から外に出ると、着替えてすぐに今度は新しい聖女の選定が行われた。本来なら、これらは一日に続けて二つも行うものでもないし、こんな夜更けに行う物でもないらしいが、いかんせんカグワが一月以上も神殿を空けていたため、時間が差し迫っているのだという。「すぐにでも」と血相を変えて臣下達に詰め寄られて、致し方なく新しい聖女の選定を行った。
新しい聖女の選定には、前任の巫女が付き添った。そのやり方を教えてくれるのだという。
聖女の選定は、巫女選定の儀の時に使われたのと同じ、水鏡を前に執り行われた。かつてカグワはこの水鏡に殺されかけたことがあり、また、この水鏡によって彼女の一人目の仗身は命を落としたのであるが、それももう昔のことだ。カグワとて鮮明には覚えていない。
聖女の選定は、予想以上に安易なものであった。カグワは、遠方を覗く「遠眼」の技を行い、西国エウリアの広大な土地の中を意識だけで旅をさせられた。大勢の人間が、生活をしていた。様々な人がいた。その中を旅をしていくと、ふととある人間の前で、水鏡が反応する。——この人間は巫力が高いぞと、水鏡が教えてくれる。
すると、カグワは水鏡を通して、その人間にと「感応」の技、すなわち声を使わずに意思のみで語りかけるのであった。——選ばれし少女よ……聖女として、後宮の中に迎え入れる。——それは、かつてカグワがまだ難民の村にて母親と暮らしていた時に受けたものと、全く同じ文句であった。
そうして十人の少女を聖女として選ぶと、そこで聖女の選定は終わってしまった。カグワはまだ西国エウリアの国土の全てを覗いたわけではない。まだ、見ていない地域もあるし、まだ見ていない人間もいる。それなのに、こんな簡単に十人を選んでしまって良いのか、と不安になった。それを問うと、前任の巫女は「良いのです」と答える。
「貴女の目が止まった、それこそが運命です。巫女の目にも止まらなかった人間には、聖女になる資格はありません」
「どうして? たまたま覗いていない地域もあるわ。そこに凄く強力な巫力を持った少女がいるかも」
「それでも貴女は、その少女を覗かなかった。それが神の意思なのです」
まさかそんなわけはないと、カグワは思った。覗く地域はカグワが適当に選んだだけだ。だって全ての地域を覗くのだと思っていたのである。後で覗けばいいと、適当に選んだ。これが神の意思であるはずもない。
聖女が予想以上に大雑把に選ばれたのだと知ると、巫女も恐らく同じくらい大雑把に選ばれたのだろうと思った。大雑把に選ばれた聖女の中から、大雑把に選ばれた巫女。それがカグワである。それがどうして神の使いと言われて崇め奉られるのだろう。そんな価値のあろうはずもない。
ようやく聖女の選定も終わり、部屋に帰った頃には、朝日が昇ろうとしていた。体は鉛のように重く、歩くことも億劫であった。それでも彼女は、仗身の部屋へと向かった。ひょっとしたらユタヤがすでに蘇生されていて、元気に自分を迎えてくれるのではないかという淡い期待を抱いたからだ。
——しかし、訪れた仗身の部屋には、冷たいまま横たわる彼の姿がそのまま残されていた。
「お喜び下さい、カグワの君。ネイディーンは命を落とすことなく、「蘇生」の技を完了させました」
そう教えてくれたのは、ユタヤの傍に寄り添っていたロマーナであった。ネイディーンの姿はそこにはなかった。一命は取り留めたものの、ひどく巫力を消耗し、立てる状態にもなかったのだという。今は部屋で熟睡しているそうだ。
「ゆたや、は……?」
眠ったまま呼吸もしない彼を見下ろして、カグワは気もおぼろげに、問う。ロマーナはそんな彼女を見るなり複雑な表情を浮かべ、俯いた。
「わかりません……ネイディーンは、五日が、限度だ、と」
「……五日?」
「今より五日が過ぎても、蘇生しないようであれば、諦めろと」
その宣告を受けて、カグワはその場に膝から崩れ落ちた。「カグワの君!」とロマーナの悲鳴に似た声が響く。
北の地で殺されかけて、ユタヤが自分を庇って命を落とし、時空の狭間を抜けてこちらに帰還したかと思えば、就任の儀式やら新しい聖女の選定やらが待ち構えていて。
——もう、疲れた。
カグワはその場に倒れこんだまま、目を瞑った。なにしろすでに朝日は昇ろうとしているのだ。夜も明けてしまった。それなのに、カグワは一睡もしていない。
こんな時に、自分を癒してくれた半身の存在は、今はない。帰ってくるかどうかもわからない。彼の心は今、どこを彷徨っているのか。どうして此処へ戻って来てはくれないのだろう。
——ゆたや。
心の中でその名を呼んだ。しかし、当然返答などあるわけもない。
カグワはそのままその場で意識を失うようにして、眠りに落ちた。駆けつけた臣下たちに運ばれて、彼女は豪勢すぎる巫女の寝所へと移された。
それからも、新しい巫女にと就任した彼女には、仕事が山積みであった。大司教、それから各地の司教たちへの宣下、神殿の中の仕組みを覚えること、巫女の作法を覚えること、そして、五日後には、新王への神の宣下が、控えていた。
西国の巫女の仕事は、決して楽ではない。