27、雨に濡れる
「ゆたや」
少女は、血に塗られ真っ赤に染まって行く彼の顔を見つめて、ただ呆然としていた。まるで時間が止まってしまったかのように、何も考えられない。重々しい音をたてて倒れたその巨体を、少女には支えることができなかった。
命、なんて、呆気ないものだ。
獣と化した彼が、一歩一歩進むうちに、腕の一振りで幾人もの命を奪う。
そして、それと同じように、彼の命もまた、呆気なく奪われた。
——カグワさま!
——フレィブ!
彼の命の奪われる瞬間、少女は、走馬灯のように一瞬過去の映像を見た。己を護って死んで行く命はこれが初めてではない。消えいく命を、少女はどうしたって救えない。
少女カグワが、初めて西国の後宮に入ったのは、たった齢三つの頃のことであった。西国と東国の国境付近、西国の中に作られた難民の村の中で、少女は後宮からの迎えを受けた。
——選ばれし少女、カグワよ……聖女として、後宮の中に迎え入れる。
とある日、どこにも実体はないのに声のみ聞こえた謎の宣下を受けて、次の日には後宮からの迎えがきた。「私の娘よ! 返して!」と泣き叫ぶ母親に、「聖女に選ばれたのです。名誉なことです」と王宮の使いは無慈悲な笑みを浮かべて答えた。
ろくに食べる物もなく、居住空間も狭く、水回りは不潔で、たびたび伝染病で人がばたばた死んで行く、そんな難民の村から訪れた後宮は、楽園そのものであった。
食べる物はカグワが不要だと言っても絶えず貢がれ、居住空間は少女一人が住むには広すぎて自分の家の中で迷ってしまうほど、水はどこに行っても澄んでいて、泳ぐことも飲むことも可能であり、少しでも熱が出ればカグワ専属の医者が現れて看病をしてくれた。
だが、これだけ至れり尽くせりな環境の中にも、不満の種は存在した。生活を送る上では、何一つ不自由などない。——だが、この後宮の中には、カグワの友人も、そしてカグワの大好きだった母親も、いなかった。
知らない女ばかりに囲まれて過ごす日々は、ひどく退屈だった。何を食べても美味しくは感じられなかった。巫力の修行は一体何のために行っているのかもわからず、カグワにとっては無意味だ。少女は夜になるたびに、一人で布団の中で泣いた。一人で寝るには広すぎる布団の中に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
そんな日々の中で、カグワはその少年と、出会った。
「三の君、こちらです」
カグワという名前すら呼ばれなくなり、三の君という聞き慣れない称号でのみ彼女は存在していた。そして侍女に連れられて訪れた先にいたのは、カグワより一つか二つ年上の、幼い少年であった。
「こちらが、三の君の仗身となる獣人であります。——獣人、三の君にご挨拶を」
恐らく、少年は少女と出会う前に、散々主である三の君に出会った時の儀礼を習ってきたのだろう。がちがちに緊張した面持ちで、床に頭を垂れて、深く叩頭した。
「御身を……わたくしの命に変えても、お守り致します」
何度も練習してきたに違いない台詞を、少年はたどたどしく告げた。少女は驚きを隠せなかった。何しろ、少女の身の回りにいたのは年上の女どもばかりで、まさかこんなに年の近い子供がこの後宮の中にいるとは思わなかったのである。
「……ねえ、名前は?」
少女は侍女たちの横をすり抜けて、床に手をつけて深く礼をしている少年の前に屈み込んだ。侍女たちが慌てて、「獣人に名前など聞く必要はございません」と叫んだが、無視した。無理矢理少年の顔をあげさせて、その綺麗な青色の瞳を覗き込む。
「ねえ、名前は?」
金髪の少年はぱちぱちと何度も目を瞬かせてから、少女を見上げて、照れたように笑った。
「……フレィブ」
その笑みにつられて、カグワも笑った。なんだか嬉しくて仕方がなかった。
「私はかぐわよ。よろしくね」
その日から、フレィブという少年は、カグワにとって唯一の友達となった。
それからというもの、二人は周りの目を盗んでは、密かに会って遊ぶようになった。後宮の敷地は広大で、幼い子供たちにとっては毎日が冒険だった。
無限に広がる草原の中をただただ駆け回ったり、冷たい小川で水棲生物と戯れたりもした。何に使うのかよくわからない儀式的な塔の上によじのぼってみたり、後宮内にある宮殿の中を探検することもあった。
そして、事件は、二人がとある宮殿の中を探検していたその時に、起きた。
それは何の変哲もない、平和な春の日差しの注ぐ昼間のことであった。
いつも通り周囲の目を盗んで会った二人は、宮殿の中を探索していた。広すぎる後宮の中には、探検しても探検してもまだ行ったことのない場所があり、楽しみは尽きない。二人は、初めて足を踏み入れた空間に、興奮していた。
「うわぁ、フレィブ、本がいっぱい!」
その場所は昼間であるにも関わらず、外からの日差しの入らない、薄暗い部屋であった。頼りになるのはフレィブが持ってきた手燭のみであり、その細い光が部屋の中を照らしていた。
「ほんとにすごい。誰の本なのかな、カグワさま」
「わかんない。でも、後宮の中にあるんだから、きっと私は見ていいはずよ」
「聖女さまの後宮だものね」
何の根拠もなくそう決めつけて、二人は本の整列する薄暗い空間の中に、足を踏み入れた。
二人はもう何年も、何十年も、何百年も日にあてず保管されてきたのであろう古い書物を棚から取り出しては開いてみた。そのたびに埃が舞って、思わず咳き込んだ。書いてある文字は古く、ようやく最近、普通の文字が読めるようになったばかりの幼子には読解不可能であった。
「ここ、何の部屋なのかな」
「きっと、誰かの勉強部屋よ」
「でも、変な文字で書いてある本ばかりだ」
「外国の文字なのかもしれないわ。外国には、まだ共通語を使わない地域もあるんだって、ロマーナが言ってた!」
「へえ」
それが母国の古語であることにさえ気付かない二人は、どんどん部屋の奥へと進んで行く。
そして、二人は知らず知らずのうちに、禁断のロープの下を、くぐりぬけてしまっていた。これ以上奥には入ってならぬと書かれた看板もまた、古語であり、二人には読むことができなかった。そして、そのロープは幼子二人は容易くくぐりぬけてしまえる高さにしか、張ってなかったのである。
さらに進んだ部屋の奥には、本棚はぽつぽつとしか置かれていなかった。代わりに不気味な古い鏡や、見た事もない装飾の施された壷などが置かれている。
「ここは、なんだろう……」
「さっきの勉強部屋の続きかしら」
二人にはその部屋の用途など、予測できようはずもない。——まだ幼く、巫力の修行も基礎しか習っていない聖女たちには、決して足を踏み入れてはならない禁断の場所があることを、教えられていなかった。何故なら、他の聖女たちは己の寝殿から出ることもなく、大人しくしていたためである。こっそり周囲の目を盗んで外に抜け出す聖女など、三の君カグワの他にはいなかった。
「……うわぁ」
奥の部屋の中央には、きらきらと輝く水鏡が置いてあった。窓など一つもない、光など差し込まない部屋の中なのに、何故か水鏡は自ら光りを発し、きらきらと部屋の中を照らしていた。怪しく水の波紋の模様が揺れる部屋の中、カグワは思わず感嘆の声をあげる。
「すごい……きれい」
後宮の中には、いくらでも美しい景色はあった。無限に広がる草原も、澄んだ水の小川も、水平線の向こうに沈む夕日も、どれもこれも美しい。だが、この水鏡の映し出す景色は、そのどれにも勝る怪しい美しさがあった。まるで何か不思議な力でも働いているかのように、見る者を、惑わす。
「カグワさま……これは、なんだろう」
「わからないわ……でも、きれい」
その不思議な力に見入られて、カグワは一歩ずつその水鏡に近づいた。近づくたびに、ゆらりと水面が揺れる。まるで誰かが近づいてくることを悟っているかのように、それは生きて自らの意思を持っているかのように、揺れる。
「カグワさま……あんまり、近づかないほうが」
「大丈夫よ」
不安そうにするフレィブを置いて、カグワは水鏡を覗き込もうとした。
その時である。
突如、鏡の中から、不思議な光線が四方八方に飛び出した。それは、ただの光ではない。捕えたものを焼き尽くす、破壊の光線だ。
「……カグワさまっ!」
フレィブが大きな声をあげて、カグワの前へと飛び出した。それは無意識下の行動だったのかもしれない。考えてから飛び出したのでは、間に合わなかったであろう。電光石火の早業で、フレィブはカグワの上に覆い被さって、彼女の盾となった。
「フレィブ!!」
カグワは、彼に押し倒されながらも、少年の背中の焼ける残酷な音を聞いた。じゅぅ、と肉を焼き尽くす臭いがする。
「フレィブ……フレィブ!!」
それでもフレィブは最後の力を振り絞って立ち上がると、カグワの手を引いて、部屋の外へ向かって走り出した。カグワは驚愕のあまり力の入らない足を必死に動かして、彼に引かれたままに走る。
水鏡から発せられる光線は、禁断のロープの外にまでは追ってこなかった。二人はその事実にも気付かないまま、ただひたすら走った。古典の多々置かれた薄暗い本棚の間をも走り抜け、部屋の外へと飛び出す。
部屋の外は暖かく、春の日差しが地上を照らしていた。小鳥が歌い、風が吹く。花は咲き乱れ、蝶が舞った。
「……フレィブ!」
フレィブはカグワの名を呼ぶこともできず、ただ幼い主の顔を見上げると、その無事を確認してほっとしたように笑い、そのままその場に倒れた。そして、二度とは目を開かなかった。二度とは息をすることもなかった。幼い獣人の少年は、まだ一度も獣に変化したこともないうちに、静かに息を引き取った。たった一人、幼い主を残して、この世から去って行った。
——フレィブ!!
あれからもう十年以上が過ぎて、カグワの元には、新しい仗身が寄り添うようになった。カグワはまだ獣にも変化していない幼い獣人を選んでくるようにという指令を無視して、獣に変化した死にかけの獣人を、己の仗身として選んだ。
その孤独な眼差しが、あまりにも己に酷似していると思ったからだ。世の中に絶望し、あまりにも孤独で、このまま死んでもいいと思うくらいに悲しくて、そんな瞳をしていたからだ。それが彼を選んだ一つ目の理由。
そして、もう一つの理由は——彼が死にかけていたためであった。
フレィブが命を失い、なんと命は呆気なく終わってしまうのだろうかと、カグワは幼心に思った。再び仗身を側に置いたところで、仗身の役目は主を護ることである。またいつ、呆気なく死んでしまうかもわからない。どうして、死ぬとわかっていて命を傍に置かなくてはならないのだろう。自分のために死んでくれと、どうして健気に生きる命に向かって言えるだろう。
だから、このまま自分が通り過ぎて行けば、確実に死んでしまうであろう彼に、手を差し伸べた。彼ならば、どうせカグワが助けなくてはそのまま死んでしまうのだ。それならば、一度カグワが命を拾ってやればいい。そしてもし、カグワのために彼が死んだとしても、それは一度死んだはずの命だ。健気に生きる命とは、違う。
そう、思っていたのだが。
「……ゆたや」
極寒の北の大地から、いつのまにやら少女と獣人の亡骸は、彼らが北の地に辿り着いた時と同じように時空の狭間を抜けて、どこかまた別の世界へと辿り着いたようだった。
少女には、そこが何処だかわからない。何しろ、彼女は、聖女として育てられた後宮と、一月と少し閉じ込められた北国の王宮しか見たことがなかったのだ。
辿り着いたその場所は、どこかの国の宮殿の前のようだった。巨大な城塞が前に控えている。その後ろに、立派な宮殿が見えた。——だが、それが何処であろうと、少女にはどうでもよかった。
「ゆたや」
何度呼びかけても、答えない、抜け殻。それはそうだ。カグワは悲しいことに、巫女であった。巫女であるからには『力』を持っていた。一度封印されたはずの『力』はいつのまにか、復活していた。そして『力』を持つ彼女には、生き物が死んで魂を手放す瞬間が、鮮明に見えた。
「ゆたやぁ……」
呼びかける相手は、すでに魂を持たない抜け殻であった。北の大地の上で、彼は魂を手放した。カグワはその瞬間を見ていた。それなのに、どうしてもその抜け殻に向かって名前を呼ばずにはおれない。
どこかの国の宮殿の前には、しとしとと雨が降っていた。雨に濡れて、体温が奪われる。だが、生きているカグワはどれだけ体温が奪われても、再び自ら熱を発して完全に冷めることはない。それなのに、自分の前に転がっている抜け殻は、どんどん冷たくなっていくばかりだ。
涙さえ、溢れなかった。
どうせ仗身は死んでしまうのだから、とそう思って選んだ少年だった。一度死んだ命ならば、自分のために死んだっていいだろうなんて、心のどこかで思っていたことは否めない。が。
(そんなわけ……ないじゃないの)
カグワは冷たくなった、獣の毛皮をそっと撫でた。
どんな命でも、誰かのために死んでいいはずがない。幼いうちにカグワを庇って死んでしまったフレィブもそうだ。北の大地の上で、ユタヤによって命奪われた多くの兵士たちもそうだ。そして、今目の前に転がっている抜け殻も、当然そうだ。
この十数年、彼とはいつでも一緒だった。いつでも傍に寄り添って、楽しいことも、悲しいことも、何でも共有した。もちろん、どうせ死んでしまうのだから、と思って、彼と一緒にいたわけじゃない。いつまでもいつまでも、傍にいてほしいと、願っていた。信じてもいた。彼がいなくなるかもしれない未来を、いつのまにかカグワは見ないようにしていたのだ。
「ねえ、ゆたや……私の、先見の技、あたらないよ……」
雨に濡れる毛皮を撫でながら、少女は呟いた。未来予知の夢を見る「先見」の技を、聖女たちは修行として度々やらされたが、カグワはそれが得意ではなかった。それでも、「たまに見るかぐわの君の先見の技は百発百中であたります」と絶対の信頼を寄せてくれたのは、この抜け殻だ。
「だって、私の見た未来には……貴方の姿があったわ」
カグワの見る夢には、常に彼の姿があった。彼のいない未来なんて、考えられなかった。もしもそんな未来が現実になるのなら——いっそ一緒に、この世から消えてしまいたい。
放心状態で獣の毛皮を撫で続ける少女の背後で、重々しい音をたてて宮殿の城塞が開かれた。開かれた城塞の内側から出てきたのは、一人の兵士だ。兵士は雨の中びしょびしょに濡れた姿で、少女と獣の姿を見下ろした。
「——巫女君ですね。ずっと、お帰りを、お待ちしておりました」
兵士はそう呟くと、カグワの横に膝をついた。
カグワは獣からは一歩もはぐれずに、ちらりと兵士を見やる。
「……誰?」
四十かそこらの、中年の兵士であった。無精髭を生やし、お世辞にも綺麗とは言えない風体をしている。だが、彼の発する覇気は大したもので——ひょっとしたら、彼も『力』を持っているのかもしれないとさえ、思えた。
「西国エウリアの官軍、軍曹のエリック・コーエンと申します。レヴィン国務参謀の命により、巫女君をお迎えに参じました」
「……レヴィン国務参謀」
かつて後宮にいた頃、よく聞いた名前であった。国王が崩御し、たった二歳の新王が立つこの西国エウリアにおいて、国政の指揮を握っているのはレヴィン国務参謀だと。それはそれは頭の切れる参謀だと聞いた。
だが、軍曹と言えば、軍の中ではさほど位が高くはない。何故そのような位の者が一人で国務参謀の命令を受けて、巫女の迎えに来るのか。疑問は浮かぶものの、今のカグワにとっては、どうでも良いことであった。
「ただいま、神殿の方にも連絡をし、巫女君の従者たちを呼んでいるところであります。間もなく、従者が訪れる頃でしょう」
「神殿……」
神殿とは、巫女の住居のことである。王宮に控えるのが皇帝ならば、神殿に控えるのが巫女だった。王宮と神殿は隣接し、互いにどちらが頂点というわけでもない。西国エウリアでは、王宮と神殿が並列していた。
そうか、自分の帰る場所はもう、あの住み慣れた後宮ではないのか、と当然のことを思う。巫女に選ばれてしまった自分には、神殿しか帰る場所は残されていない。そしてそこには、——ユタヤの姿はない。
「レヴィン参謀は大層お怒りだ。なにしろ、文書を届けにやってきた北軍を容赦なく皆殺しにしたのは、参謀の指示ではない。内大臣どもが勝手に北の言い分を切り捨て、北軍を皆殺しにしてしまったのです。それ故に、巫女君を危険な目に遭わせてしまったと、参謀は悔やんでおられた」
なるほど、そのために北軍は巫女の首を討ち取って、西へと進軍することを決めたのか、と今更カグワは納得した。巫女が処刑台に上らされるからには、西国は北国へ良い返事を寄越さなかったのだろうとは思っていたが、まさか北軍が皆殺しにされたのだとは知らなかった。
国事には、どうして人の死が付いて回るのだろう。そして、これから北軍は西国へと進軍するはずだ。戦が起こり、またたくさんの命が奪われる。ユタヤは、死んだままだ。
「……いっそ」
カグワは小さな声で呟いた。「はい?」とコーエンというその軍曹が問い返す。少女は、中年の軍曹を見上げた。
「いっそ……殺して」
しとしとと雨の降る中、見上げる軍曹の顔は、驚きの色に染まっていた。カグワはそんなことには構わず、軍曹に懇願する。
「私を……殺して……」
本来なら、あの処刑場の中で、奪われるはずはカグワの命であった。それを身を挺して守った彼は、この世にはいない。また、カグワの命を庇って、一人の命が失われた。
「巫女君……」
驚いたようにコーエン軍曹が少女を見下ろす中、ばたばたと大勢の足音がして、開かれた城塞の向こうから、大勢の人間が走ってきた。
そのほとんどが、見たことのない顔ぶれであった。神殿に仕える従者なのであろう、多くの男たちが走ってくる。その見慣れない顔ぶれの中に、カグワはとても懐かしい顔を見つけた。
「……カグワの君っ!」
声高くカグワの声を呼ぶ、それはカグワが後宮に来てからずっと聞き続けた声だ。カグワのことを一番可愛がってくれた、母親でもあり、姉でもあり、カグワにとって一番近しい女官であった。
「ロマーナ……」
「嗚呼、カグワの君、よくぞ、よくぞ……ご無事で……!」
ロマーナは目にたっぷり涙を溜めて、カグワの前に膝から崩れ落ちた。一方のカグワの目からは、一滴の涙もこぼれない。
「ロマーナ……ゆたやが……」
カグワは呆然としたまま、見慣れた母親代わりの存在に、自分の隣に倒れている獣の姿を見せた。誰も彼もが獣の姿の彼を厭ったが、ロマーナは、カグワと同じく彼の獣の姿を恐れはしなかった。あるいは、見慣れてしまっていたのかもしれない。
「ロマーナ、ゆたやが」
ロマーナは、カグワの隣に転がる冷たくなった獣を見つめて、全てを悟ったかのように目を丸くした。途端、彼女の目に堪っていた涙が滝のように溢れ出す。彼女は動かない獣の毛皮を二、三度撫でて、何度も何度も嗚咽した。そして、嗚咽しながら、カグワをゆっくり抱きしめた。
「カグワの君……ユタヤは……ユタヤは……きちんと、役目を、全うしたのですね……」
ぎゅうとロマーナの腕の中に抱きしめながら、カグワは目を丸くする。——役目を、全うした? 何のことだろう。
「ユタヤは……命に換えても、貴女のことを護り……貴女を無事な姿で、此処、エウリアにまで、連れて帰ったのですね……!」
言って、ロマーナは声をあげて号泣した。わんわんと、それはもう成人した女性の泣き方ではないくらいに激しく、声をあげて泣く。ロマーナにとっては、ユタヤもまた、自分にとっての弟同然、息子同然に可愛がってきたはずだった。そのユタヤが魂のない抜け殻の状態で帰ってきたのだから、悲しくないはずがない。——それなのに、役目を全うしたと言ってのけるのか。
「そんな、役目……いらなかったのに」
カグワは、ロマーナに抱かれながら、小さく呟いた。号泣するロマーナの耳には、それすら届いたかどうか定かでない。
そんな役目を全うする必要はなかった。ユタヤはいつでもカグワの傍にいて、一緒に笑ったり、時にはカグワにしかめ面をしたり、それでも一緒に楽しい時間を過ごして、それだけでよかったのに。他には何もする必要など、なかったのに。
——誰か、いっそ、殺して。
少女は、涙さえ浮かばない朦朧とした視界の中、雨に濡れる西国の宮殿を見上げた。宮殿は、何も言わない。無言のまま、ただこちらを見下ろしてくるだけである。