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26、錯覚のキス

 一方その頃、刑部の欄干の上で空を仰いで倒れた哀れな皇太子は、軍人たちに担がれ皇宮にある寝室のベッドの上まで運ばれていた。

 哀れな少年は、医師が呼ばれ、「過労ですな」という診断を下されながらも、軍の司令部からの説教を受けるという半ば拷問に近い仕打ちまで受けている。


 軍は、巫女の護衛がいるという話までは聞いていたが、獣人がいるとまでは報告を受けていないぞ。——ああ、ごめん、俺も獣人なんて見るのは初めてだったから、ただの人と変わらないと思っていたんだ。

 その上、何故勝手に西国に巫女を返すような真似をしたのか。——だって、他に何も思い浮かばなかったから。あのままだったら全員巫女の『力』で殺されていたかもよ。

 殿下ほどの『力』があれば、他に方法もあったかもしれないだろう。——他に方法……死ねっていうの?


 虚しい言葉の応酬を繰り返しながらも、少年皇太子は衰弱していく。ベッドの上に仰向けになって、薄い天蓋を見つめながら、シルディアは溜め息を一つ落とした。それは弱々しい吐息になって、こぼれ落ちて行く。

 そろそろお休みにならないと、と医師からの忠告があって、ようやく軍は皇太子の寝室から引き取った。そうでもしないと病床についている相手にさえとやかく言うなんて、とんでもなく無礼な輩だ。——否、自分に、皇太子としての威厳が全くないだけなのか。


 可哀想な皇太子。哀れな皇太子。軍からはまるで操り人形のような扱いを受けて、親族である皇室からも愛を注がれず、孤独の中へと沈んで行く。そんな彼に、「可哀想」とか「哀れ」とか言葉をかけて同情してくる奴らは、皆、精神も肉体も滅ぼして、結果、シルディアから離れて行った。同情などして迂闊に彼に近付くと、彼の持つ『力』にあてられて、気が狂ってしまうのだ。だから、彼の世話役は過去に五十人も交代した。彼は、同情されることさえ許されない。


 ——だって、同情は愛ではないから。


 ふと、耳の内側にて、かつて聞いた言葉が蘇った。その言葉を吐いた主は、今頃西国の宮殿に辿り着いたはずだ。己の仗身の亡骸を抱えて、絶望にうちひしがれているに違いない。彼女だけは、シルディアに近付いても『力』にあてられることもなく、真正面からしっかりと、彼を抱きしめてくれた。


(じゃあ、カグワ……愛って、なんだろうね)


 シルディアは、宙を見つめたまま、遠い少女にむかって問いかけた。もちろん、答えは期待していない。貴方は愛されたいのね、と少女は言ったけれども、シルディアには未だその自覚がない。そもそも、愛される感覚がわからないのだ。


「——殿下、オレークです」

 控えめな声とともに、寝室の扉がノックされた。

 ようやく軍人と医師が返って一人きりになったところであったが、シルディアにはオレークを拒む理由はなかった。それに、何故か、予感がしたのだ。オレークが何かしら、シルディアに告げにきたのだという、未来予知にも似た予感だ。今彼を拒んだら、一生会うこともないのかもしれない。そんな気さえする。

「どうぞ」

 衰弱しきった体で、それでも声を張って彼を招き入れると、入室してきた彼はとても思い詰めたような、だが、同時にとても清々しい顔をしていた。嗚呼、何かを決意したのだな、と思う。恐らくその決意の中に、シルディアの傍にいる彼はない。

「お休み中のところを失礼致します——御気分はいかがでしょうか」

 シルディアの横になっている寝台の傍にまできて、青年は膝をついた。シルディアはまだ重い体を起こして、ベッドの上に座ると紗幕を開いて彼の前に姿を現す。膝をついている青年を見下ろして「うん」と答えた。

「気分良くはないな……なにしろ、軍の司令部にこってり絞られたところなんだ」

「さようですか……では、せめて殿下の具合のよくなるまでは軍の介入のないよう、計らいましょう」

「そうしてくれると助かるな……いつもいつもお前は対応が的確で、早くて、本当に助かるよ。——新しい世話役ではこうはいかないだろうな」

 そう言って退けると、驚いたようにオレークは顔をあげた。図星と言わんばかりである。——やはりそうか、と思った。前々から予感はあったのだ。いずれオレークは皇宮を抜け出すであろうという、予感はあった。

 オレークはシルディアの悟ったような顔を見上げて、自嘲気味に笑った。

「お気付きでしたか……」

「まあね……俺、何でも見えてしまうから」

 過去も現在も、未来でさえも、シルディアの目には映し出される。彼の予感は、虫の知らせなどという信頼性の低いものではなく、ほぼ未来を予知した事実だ。

 オレークは再び頭を低く垂れると、しっかりと低い声で述べた。

「私、オレーク・ナイザーは、本日をもって皇宮から出ることになりました」

「うん……」

「私には、あまりにも知らないことが多すぎる……皇宮の外に出て、たくさんのことを知りたいのです」

「そうだね……君には皇宮は狭すぎたかもしれない」

 皇宮だけではなく、ここ北国ラウグリアの王宮内のことなら知らないことなど何もないだろうというほど博識なこの男は、軍からも皇室からも認められた傑物だった。王宮にある何百という書物を読みあさり、何千とある古典さえも読み切って、それでも尚知らないことが多すぎるという。——彼には、この皇宮は狭すぎた。

「殿下……」

 オレークの声が、震えた。ほとんど感情など見せずにシルディアに寄り添った付き人が、最後に、その感情の片鱗を見せる。

「私は……殿下の世話役を仰せつかり……たったの三年でございましたが、たくさんのことを知り、たくさんのことを得ました……貴方の傍にいなくては、得られなかった貴重な経験を、たくさんさせて頂いた……」

「そんなに心地良い経験じゃなかったろう」

「いいえ……私にとっては、宝物です」

 苦労の連続であったと思う。それを宝物と言い切る彼は、傑物なのか、あるいはただの酔狂か。

「本当は……貴方の命尽きるその時まで、お仕えしたかった……。そんな簡単な役目さえ真っ当出来ない若輩者で、申し訳ございません……」

 オレークの声が、弱々しく震えた。そんな彼を三年間付き合って来て、初めて見たために、少なからず吃驚する。その様子から、彼がとても後悔しているのだとわかった。きっとこれからもずっと、後悔して生きて行くのだろう。役目を放り出してしまった自分を責め続けて生きるのだ。そんなところからして、真面目だ。

「ねえ、オレーク……きっと皇宮を出たら、世界にはいろんな人がいるよ」

 よく見れば肩さえ震わせている彼を見下ろして、シルディアはくすと笑った。こんな弱々しい彼を見るのは初めてだ。彼の姿の見納めとしては、悪くない。

「俺もね……たまに、夢に見るんだ。西の国には美しく毅然とした巫女がいる。北の国には、人の心を惑わす歌姫がいるよ。南の国には不思議な研究所の中に男か女かわからない謎の人間が潜んでいる。東の国には……理性を持たない獣人を整列させる謎の集会がある」

 きっと、オレークには、シルディアが何を言っているのか全くわからなかったことだろう。シルディアにだってわからないのだ。彼の見る夢は、未来であり過去であり現在だ。それが真実なのか偽りなのかさえ、怪しい。

「俺は、皇太子だから……彼らと出会うことはないんだろうな。でも、お前なら、会える。たくさんの人間と出会って、たくさんの経験をすればいい」

 オレークになら、その価値がある。広い世界を見て、広い世界を経験するだけの、価値がある。

「ただ……その中で、俺のことも、忘れないで」

 言いながら、少年は寝台の上から床へと降り立った。オレークがこちらを見上げ、何故か泣き出しそうな顔をする。彼は、掠れた声で、「忘れません」と告げた。少年は満足して、頷いた。

 かつてカグワは、同情は愛ではないと言った。シルディアには未だに愛がなんたるか、全くわからない。これまでの世話役と異なり、シルディアに同情の一つも寄越さなかったこの冷徹な男は、シルディアのことを愛していたのだろうか。

 ひざまずく彼の前に立ちはだかった皇太子は、彼の後頭部を見下ろした。

「お前は……俺を、愛してくれた?」

 オレークはゆっくりと顔をあげて、わずかに目を丸くする。予想だにしていない質問だったのだろう。シルディアはそんな彼を見下ろして柔らかく微笑む。

「ねえ、オレーク……キスをしてよ」

「キス……?」

「いつも、カグワがしてくれたんだ。俺に色目を使う女どものとはまるで違う、キスだ。そうすると……愛されるってこういうことなんだろうかって、そんな錯覚に陥る」

 それが錯覚なのか、あるいは真実なのか、それすら判断できない彼は、「ねえ?」と首を傾げて世話役にねだった。世話役は僅かな驚きを残したまま、だが、動揺することはなく、黙ってシルディアの手を取った。

 若い皇太子の前にひざまずいたまま、彼は皇太子の手の甲と手のひらにそれぞれ一回ずつ口付けをする。触れるだけでなく、まるで体温を感じ取るかのように強く押し付けられるその口付けは、カグワの施したものとはまるで異なるが、それはそれで心地良かった。


 窓の外では再び雪が舞い降り始めていた。これから北国には長い冬がやってくる。雪に覆われ、街は白く染まることであろう。その上に、戦火が宿る。


 たった三年間、長くて短い二人の主従関係は、此処にて幕を下ろした。そして、皇太子の予感通り、二度と彼らが出会うことはない。二人はそれぞれの運命を享受して、前に進む以外の道を辿らなかった。

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