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24、解放

 ——西国への出陣祝いを行いますので、殿下も準備をお願いいたします。


 皇太子シルディアがその報を受けたのは、その日の昼過ぎ、丁度カグワとユタヤの捕えられた頃のことであった。


 その知らせを持って来たのは、いつも自分の世話をしてくれる付き人のオレークではなく、他の小間使いだった。正装をするために身なりを整えなくてはならないから、服飾担当の小間使いが現れたのだろう。出陣祝いと濁してはいるが、それはつまり西国の巫女を弑するための集会なのではないのか。尋ねたいことは多々あったが、身なりを整える役目しか持たない小間使いには詳細はわかるまい。シルディアは疑問を飲み込んで、無言のまま従った。


 儀式の詳細さえ聞かされずに、自分の役割さえ知らずに、皇室専用の立派な正装服だけ着せられて、軍の前へと差し出される自分は本当に、木偶だ。まるで心を持たない操り人形でしかない。だが、生まれた時からそうやってずっと生きて来たがために、今更そんな生活に嫌気の差すこともなかった。例え唯一自分の『力』を止めてくれる愛おしい少女が殺されようと、それを見届けなくてはならないのだとしても、逆らう気も起きなければ悲しくもなかった。あるのは——僅かな虚しさだ。


 木偶の皇太子は正装に着替えると皇宮を後にして、軍人ばかりたむろする政殿へ向かった。そこには下級兵士がすでに待ち構えていて、膝をついて皇太子に敬礼する。

「……出陣祝い、決起集会は処刑場にて行いますので、刑部の方へ参りましょう」

 兵士はそう告げると、皇太子を連れて政殿の西を目指した。

 刑部は政殿の中でも、罪人の裁きや刑の制定、刑の執行を行う部署である。刑部の窓からは広い処刑場が見え、そこで罪人の処刑が行われた。人の死に敏感なシルディアにとっては、あまり訪れたくはない場所である。

 訪れた刑部の中は、いつもなら働く人もいるのだろうが、今日はがらんとしていた。この決起集会のために、空けてもらったのだろう。

「殿下——すでに処刑場の方には五百の兵士が集まっております」

 やってきた皇太子を見るなりそう告げたのは、軍の最高峰、将軍スターリンだ。彼は皇太子を此処まで案内した下級兵士に「下がれ」と命ずると、シルディアに向かって笑った。

「決起集会に集ったのはたったの五百でございますが、西国への出陣の合図が出れば、この首都から西へと七千の兵卒が向かいます。国境付近にはすでに三千の兵卒が配備されておりますから、その数合わせて一万」

「一万……数が多ければいいってものでもないんじゃないの。我ラウグリア軍には、俄の兵士が多い。儲かるから、とか、優遇されるから、とかそういう理由で軍入りした奴がごまんといるじゃないか。奴らはろくに刀も握れない」

「そのための、決起集会です。彼らの士気を上げ、統率力を高める……。そして、なんといっても、巫女の処刑だ。古来より、戦の勝敗は敵陣の長を討ち取ることによって決まるという風習もあるが、今回の西国との戦は、最初に敵陣の長を討ち取るところから始める」

「長……巫女は、宗教上の長だと聞いたけど」

「なら、尚良いではないか。西国は宗教国家です。奴らから神を取り上げることによって士気を奪い、一挙に攻め込む。最強と信じていた巫女さえ北軍には勝てないのだと西に思わせることができれば、それでいいのです」

 将軍はどことなく満足げに言った。シルディアは「ふうん」と答えて目を伏せる。シルディアには国政のことなど何もわからなかった。特に、戦の手法など、説明されたところでさっぱり理解できない。

 将軍も、シルディアに理解してもらおうとは思っていないのだろう。それ以上の説明はせずに、「では参りましょう」と彼を促した。向かうは、処刑場全体を見下ろすことのできる、刑部の広い欄干だ。

 欄干に出ると、北国ラウグリアの冷たい風が頬に突き刺さった。これから冬が来ようというのに、ラウグリアは冬ごもりの準備ではなく戦の準備をしている。処刑場に集った誰も彼もが、血走った目で欄干に立ちはだかる将軍と皇太子を見つめていた。

「……皆の衆、時はきた!」

 欄干に立って、五百の兵士を見下ろして、将軍が叫んだ。すると、それに兵士たちが「おお!」と叫びで応える。たかが五百の群衆であるが、全員が口々に叫びをあげると、地鳴りのように不気味に響き渡った。

「いざ西国の巫女の首を討ち取り、いざ西国へと出陣しよう!」

 再び将軍が叫ぶ。それが合図となっていたのだろう、五百の群衆の最前列、処刑台の前に控えていた楽器部隊が太鼓を奏で始めた。どんどこどんどこと、人の死を促す軽薄な音の調べと共に、刑部の一階から処刑場へと連れ出されたのはカグワだ。

(……カグワ)

 シルディアは、今朝方まで同じベッドの中で寝ていたその少女を見下ろして、目を細めた。

 小さな少女は逃げ出す力もなかろうに、これでもかというくらいに太い綱で縛られて、まるで犬かなにかのように処刑人に引っ張られる。


 嗚呼、可哀想なカグワ。何の罪もないのに、ただ国同士の権力争いのために、見せしめにされて殺される。西の国で大切に育てられたであろう少女は、こんな寒空の下で哀れな生涯の最期を迎える。


 『力』あるものは、ろくな最期を迎えやしない。カグワも、もしも普通の少女として生まれたならば、巫女にも選ばれず、他国に攫われることもなく、当然何百の観衆に囲まれて「殺せ」という残酷な煽りの中で命を落とすこともなかっただろう。


(カグワは、俺を、恨むだろうか……)

 シルディアは、小高い処刑台の上へと引っ張り上げられる少女を見下ろして、思った。


 彼女はシルディアを救ってくれた。人の死んだ魂を吸い取って、人の恨みさえも吸い取って、死人の辛さや悲しみを全て感じ取ってしまうシルディアに、手を差し伸べた。『力』が暴発し、部屋中の物を破壊して、危うく女中を死に追いやるところであったが、そんなシルディアを止めてくれた。それなのに、そんな恩人を、シルディアは見殺しにしようとしている。——彼女が死んだ後の魂は、どんなものだろう。やはりシルディアに取り憑いて、苦しみを与えるのだろうか。


 処刑台の上に立った少女に、処刑人が座れと命じた。彼女は刀で首を落とされる。少女はその前に、欄干に立ったシルディアを見上げるだろうか。そして「この恩知らず」とシルディアに向かって恨みを吐くだろうか。

(いっそ、それでもいいから、顔を見せてくれないか……)

 シルディアは、少女を見下ろした。それでもいい。最期に生きた少女の顔を見たい。まだ、きちんと言葉を吐き出せる状態で、彼女の言葉を聞きたい。

 そう願って見下ろした少女は、しかし、全く欄干の方など向かなかった。代わりに、まっすぐ五百人の整列する軍人の衆の方を眺めて、小さく零す。

「ゆたや」

 恐らくそれは、隣にいる処刑人にさえ聞こえないような小さな呟きであったことだろう。なのに、それをシルディアが聞き取ることができたのは、『力』のなせる技だ。シルディアは、どこにいる誰の言葉であろうと、『力』を使って聞き取ることができた。

(……ユタヤ?)

 シルディアは首を傾げた。その名を持つ彼女の仗身は、すでに殺されたか、あるいはどこかに捕えられているはずだ。


 そう、思ったのだが。


 突如、五百人の群衆の最後尾から、騒動が起きた。

 うわああ、と悲鳴にも似た雄叫びが走る。綺麗に整列していた軍隊が、後ろから崩れはじめた。

 最後尾、その様子は細かには見えないが、シルディアには血の臭いが感じられた。そして、一人、また、一人、と軍人が倒れて行く。命が散っていくのが見えた。

「なんだっ? 何事だっ?」

 隣に立つ将軍が、突然の出来事に、声を荒げた。

 軍の最高指揮官である将軍でさえ状況を把握できず、場は混乱した。突如現れた何者かによって、軍人が滅多切りにされていく。

 その者の戦闘力の高さはずば抜けており、何百という敵軍の中にありながら、少しも怯む様子を見せず、かすり傷一つ負わなかった。軍人たちは、抜刀する隙すら与えられずに、ただ急所を一付きされて死んで行く。この一瞬で、二十近くの人間が命を落とした。

「……ユタヤだ」

 シルディアは小声で呟いた。しかし、混乱している将軍にはシルディアの呟きは届かない。彼は最前列にいる軍の上部の人間たちと、「一体何事か」ということについてまだ話し合っていた。


 ——生きていたのか、と思う。


 とっくに殺されたと思っていたカグワの仗身は、とんでもなく強かった。何百という軍人の衆の中に飛び込んで来た度胸もさながら、それだけではなく実力も伴う。とは言え、たった一人で五百を相手にするのは無理というものであろう。最初は不意打ちで、一気に二十を切り捨てることができたが、残りの四百八十はそうはいかない。刀同士での戦いならまだしも、飛び道具を用意されたら太刀打ちできまい。


 と、そう思った時だった。


 突如、ぱんっ、と音がして、シルディアの中で何かが揺らぐ。

(なんだ……?)

 シルディアは胸を押さえて、瞠目した。——初めての感覚であった。どこからか、ぐいぐいと『力』が押し戻されてくるような感覚。——これは、なんだ?


 と、思って顔をあげて、さらに愕然とした。他の誰にもわからなかったろう。だが、シルディアにはわかる。ユタヤを取り巻いていたシルディアの『力』が、すなわち、ユタヤの獣の性を封印していた『力』が、弾かれたのが見えた。シルディアの元へ『力』が戻ってくる。

「……封印が、解かれた」

「え?」

 今度の呟きは聞き取れたらしく、隣の将軍が、聞き返してきた。が、それに丁寧に答えてやっている余裕などない。『力』を弾かれたのなんて、初めての経験だった。そして『力』を弾いた方は、当然ながら、封印されていた本来の力を取り戻す。

 軍人たちの集団の中から、次々に悲鳴があがった。

 それまで刀を持って二十人を切り捨てるなど暴れていた男が、突如巨大化した。かと思えば、それはもはや人間ではなかった。大人の背丈の二、三倍はあろうという、熊のような背格好、そして骸骨のような顔、目はくぼんで絶望の色に染まり、長い爪は一本一本が刀のように鋭利であった。


「……すごい、あれが、獣人……」


 初めて見る獣人の獣の姿に、シルディアは呆気に取られていた。隣にいる将軍も、そうだ。だが、獣人を前にした軍人たちは呆気に取られるどころではなく、初めてみる化け物の姿にただひたすら悲鳴をあげて逃げ惑った。処刑場に広がる阿鼻叫喚、出陣の祝いは、地獄絵図と化した。

 獣は、それまでの人型をした仗身とは比べ物にならない、強さであった。

 腕の一振りで、三人の人間をなぎ倒し、後ろ足で蹴り飛ばして二人が気を失った。中には勇敢な軍人もいて、あるいは自暴自棄になっていただけかもしれないが、刀を持って獣を倒しに向かう。しかし、刀では、獣の肉はおろか毛皮さえ斬ることができなかった。熊のそれのように見える柔らかそうな毛皮はしかし、研ぎすまされた刀よりも頑丈だった。

 獣は、目的を失ったかのように殺戮を繰り返した。人型の時には、軍人を殺めながらも、「巫女を護るのだ」という確かな目的があったように思える。だがしかし、獣になった瞬間、彼はただ人を殺すことを目的にしているようにしか見えなかった。そういえば、とシルディアはかつて彼の言っていた言葉を思い出す。——今でこそ殿下や巫女の君の術によって「獣」を制御しておりますが、術さえ解けてしまえばただの獣と同じ。——なるほど、確かに今の彼は、理性も何もない、ただの「獣」だ。

 五百の軍隊では、獣には全く歯が立たなかった。焦った将軍が、「砲筒を用意しろ!」と喚いている。刀剣では勝てないと悟ったのだろう。

「私の縄を解いて!」

 騒ぎの中、甲高い声が響いた。この男しかいない処刑場の中で、女の声がするとなれば、それは一人しかいない。シルディアは、処刑台の上を見つめた。捕縛された少女が、唖然としたまま動けなくなっている処刑人を強い眼差しで睨みつけていた。

「私しか、彼を止められないわ。早く、解いて」

「しかし……」

 言いよどむ処刑人を、少女は睨みつけた。

「解いて」

 そう告げた少女の目には、『力』が込められていた。

 それに気付いてシルディアははっとする。

 暴れ回る獣に気を取られて気付いていなかったが、いつの間にであろうか、カグワにかけたはずの封印もまた、解かれていた。カグワにみなぎる『力』が見える。——そして、ふと、疑問に思った。初めてカグワがこのラウグリアに来た時、初めて彼女と出会った時、彼女はあんなに強い『力』を持っていただろうか。


 正直なところ、初めてカグワを見た時、シルディアはとんでもなく期待はずれだと思った。西国一の『力』の使い手が来るのだと思って、彼女の到着を心待ちにしていたのだ。それなのに、現れた少女は少々『力』が使える程度で、それなら北軍の司令部の中にもちらほらいる『力』の使い手と変わらない。西国の巫女も、大したことはないなと、そう、思っていたのだが——。


 処刑人に縄を解かせたカグワは、処刑台から地上へと降り立った。その姿は、ただの平服を纏った少女でしかないというのに、いっそ神々しいほどだ。そして目を凝らすと、少女の周囲に、何やら力が集まっているのが見えた。

(あ……死んだ魂が)

 シルディア以外は、誰も気付いていないようだった。それはそうだろう、あれは、『力』を持つ人間にしか見えない。


 獣が暴れて人が死ぬ。死んだ人の魂は、彷徨って、カグワの元へと集まった。どうりで、とシルディアは納得した。これだけ大勢の人間が目の前で死んでいるのに、シルディアは死んだ魂に心を食われない。いつもであれば、この人数の魂が死ねば、とっくに『力』が暴発している頃だ。

 カグワの『力』は神々しく、シルディアのそれとはまるで違った。シルディアは人が死ぬとその死んだ時の苦しみや恨みまで吸って『力』を膨張させるが、カグワは違う。死んだ魂はカグワに近付くとまるで浄化されていくように澄んで、恨みも苦しみもなく、美しい状態で少女に吸収された。

 その姿は、まさに神の使い、巫女である。


「ゆたや!」

 少女は暴れ狂っている獣の前に、立ちはだかった。すると、それまで暴れていた獣が、ぴたりと動きを止めた。しかし今の彼には人の心も理性もない。彼はただの獣だ。カグワをカグワとして認識はしていないだろう。

「ゆたや」

 それでも、獣が動きを止めたのは、恐らくカグワの纏う神々しいほどの『力』に圧倒されたためだ。獣は『力』に敏感だ。巨大な化け物が、ちっぽけな少女に気圧されたように、全く身動きとれなくなってしまった。それと同じように、周囲で逃げ惑っていた軍人の衆たちも、少女に気圧されて、ぴたりと一歩も動けなくなる。

「ゆたや……もう、いいよ。もう、いい」

 同じ言葉を二度も繰り返して、少女は一歩、獣の方へと近付いた。獣はびくっと恐れるように身震いする。

「……かえろう?」

 少女は巨大な化け物を見上げて、小首を傾げた。化け物も、少女から視線を逸らさない。くぼんだ闇のような目で、少女を見つめている。


 そして化け物がゆっくりと動いた、その時である。


 ずどん、と地底まで響くような音が響いた。ぐらり、と化け物の体が揺らぐ。

「ゆたやっ!?」

 カグワが悲鳴に似た声をあげた。何事か、とシルディアが音のした方に視線を向けると、将軍の命令で何人かの兵士が巨大な砲筒を運んで来ていた。低い音は、砲筒が火を吹いた音だ。

「やった……! 効いたぞ……!」

「さすがの化け物も、火のついた鉛は避けられんだろう……! 今度は頭を狙え!」

 駄目だやめろ、とは言えず、だが、今此処であの獣が死んだらどうなるのだろうと誰もが目を見張る中、第二弾が発砲された。

 それは見事に命中し、獣の頭を粉砕する。

 頭蓋骨に似た顔にヒビが入り、首の辺りから、鮮やかな赤が流れおちた。それはねっとりと地面の上に赤い染みを作り、嗚呼、獣の血も赤いのだなと観衆に暢気な感想を抱かせる。

 巨大な獣はそのまま己の赤い海の中へと、沈んで行った。どおおん、という重量感のある音ともに地面の上に倒れこむ。それから獣は、ぴくりとも動かなかった。

「……ゆた、や……?」

 誰もが動けない。身動きを取れない。まるで金縛りにあってしまったかのように、動けないのだ。その中で、赤い海の中へゆっくり進んで行く少女は、己の服がその赤に染まることも気にしない。

「……ゆたや」

 小さく少女の呟いた声に呼応するように、獣の体から、魂が抜け出した。これが見えるのは、やはりシルディアくらいなものだろう。そしてそれが「死」を意味していることも、シルディアはよく知っている。

「ゆたや……」

 少女はそれに気付いただろうか。少女ほどの『力』があれば、体から抜け出す魂も見えるはずだ。そしてそれを少女が吸収していることも、自分でわかっているはずだ。


「……もう、いいよ」


 そう少女の語りかける相手は、抜け殻である。魂のない、抜け殻である。少女はそれをわかっているはずなのに、真っ赤に染まった獣の毛皮に縋り付いた。


「もう、私なんかのために闘わなくて、いいのよ……」


 軍人たちは、誰も身動きを取ることができなかった。おそらくそれは、カグワの『力』によるものだ。彼女の『力』に圧倒されて、動くことさえ出来ない。


 唯一彼女の『力』に対抗できるシルディアは、欄干の上で一歩前へと進んだ。そして、他の多くの軍人たちと同じように金縛りにあっている将軍スターリンを見上げる。

「……スターリン、彼女たちを西国へ返すよ」

 スターリンは何も答えない。答えられないのだろう。この欄干と、少女が獣の横に蹲る場所とはかなりの距離があるが、それでも身動きが取れないくらいに、少女の『力』は強い。

「もう、いいだろう……西国の巫女を捕えたのは事実なんだ。北国の力は十分見せつけられたはずだ……。それに、巫女を返してやる温情もまた、戦では役に立つんじゃないのか」

 シルディアには戦における戦法など何もわからない。だから、適当なことを言っているのだという自覚はある。だが、それ以外に言葉が思い浮かばなかった。とにもかくにも、彼女たちを返そう。そう思う。

「今のカグワには……巫女には、誰も勝てない。闘うよりも、西国へ、返そう」

 そう告げて、シルディアは片手を高く掲げると、『力』を発揮した。

 空間と時間の両方を操り、さらに物理的にそれらを出現させるこの技は、シルディアほどの『力』があっても難易度は高い。精神力体力ともに消費する技であるが、出来ない訳ではなかった。黙って瞑目する。

 北国の首都、西へ西へと下って田園地帯、軍隊の配備された国境付近、越えて西国の領土、民家の少ない田舎を南下し、さらに西へ向かうと栄えた首都が見えてくる。西国の最西端、首都の端に控えた巨大な宮殿を覗き込んで狙いを定めると、シルディアは目を見開いた。

「……はっ!」

 『力』を込めてぐっと拳を握り締めて、カグワ達の上空に、時間のない空間を作り出した。此処を通って向かえば、一瞬で彼女たちを西国へと送ることができる。


 旋風が巻き起こり、カグワとユタヤの抜け殻を時間のない空間の中へと吸い込んだ。空っぽになったユタヤの体をともに送ってやるのは、優しさからではない。此処に置いておいたところで、北軍の士気を下げるだけだとわかっているからだ。


 二人を遠い西国の地へ送ると、シルディアは空間を閉じた。途端、全身を倦怠感が包み込む。やはり、時間と空間を一挙に操るこの技は、生半可ではない体力を消耗した。


 カグワがいなくなると、まるで魔法が解けたように軍人達が動き始めた。彼らの中に意識はあったらしく、体が動かせるようになると途端にざわつきはじめた。口々に「獣人」「巫女」とその単語ばかりが繰り返される。

 体力を使い切ったシルディアは、重力にさえ耐えられなくなって、欄干の上にそのまま転がった。「殿下!」と驚いたように将軍が声をあげている。この男は『力』を使えとは命じてくるくせに、実際にシルディアがそれを使っているところなんてほとんど見た事がなかった。どれだけシルディアが『力』によって身を削っているかなんて、彼は知らないのだ。


 欄干の上に仰向けに転がったシルディアは、冷たく高い北の空を見上げて、ふうと息を吐いた。吐き出された息は白く濁り、一瞬で消えて行く。


 国境を越えた遥か遠くに落ちた少女とは、もう二度と会うことなんてないのだろうと、思った。

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