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23、仗身失格

 夢すら見られないほどの、深い眠りであった。


 眠りというよりも、意識を失っていたという方が正しいか。暗闇の中に閉じ込められて、何も考えることさえ思うことさえ許されず、時間の経過もない。そんな彼が暗闇から目を覚ましたのは、昼時を越えた頃のことであった。


 外から痛いほどに冷やされた空気が入り込んでくる。あまりの寒さに起きた瞬間まず震え、体を震わせると同時にがしゃがしゃ金属のぶつかり合う音がした。

 ユタヤは虚ろな視界の中、自分の置かれた状況を確認した。

 どうやら自分のいる場所は、とてつもなく狭い石の部屋のようだ。まるで、牢屋のような作りをしている。体を動かそうとすると、再び金属の音がして、動かすことができなかった。右手首と左手首にそれぞれ鎖が巻かれ、壁に固定されていた。磔されたような状態で、眠っていたらしい。


(……かぐわの君!)


 自分の置かれている状況をざっと確認してから、彼ははっと覚醒した。意識を失う前のことが一挙に思い起こされる。


 突然軍人禁制の皇宮の中に軍人がやってきて、西国の巫女を、と言ってカグワは連れ去られてしまった。ユタヤはそれをぎりぎりまで阻止しようと、彼女を護ろうとしたが、薬によって眠らされてしまい、そこからの記憶がない。——カグワは、どうなった?


 いてもたってもいられず、両手首が頑丈に固定されていることを知りながら無理矢理にでも引っ張ると、がしゃんがしゃんと冷たい金属音が石牢の中に響き渡った。すると、それを受けて牢の外から突如男の声がする。

「……あまり動くな。さすがにお前の腕力でもそれは取れん」

 声を聞いて、ようやくそこに誰かがいたことを知った。狭い石牢には太い鉄格子がはめられており、その外には廊下が続いている。声の主は、その廊下によりかかっていたため、石牢の中からではその後ろ姿しか見えないが、背格好と茶色い癖っ毛から、それが誰であるかは瞭然であった。

「……オレーク殿」

 その名を呼ぶと、青年はちらりとこちらを振り返る。壁に磔られたユタヤを見るなり、複雑な表情を浮かべて再び視線を逸らした。そういえばユタヤを薬で眠らせたのはこの男であった。そのことを気にしているのかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい。ユタヤは鎖に繋がれたまま前に身を乗り出して、がしゃがしゃと音をたてながら彼に問うた。

「かぐわの君は……っ?」

 最も聞きたかった問いかけをすると、彼の返答は、低い。

「……連れていかれた」

 ぞく、と背筋は震える。

「……どこへ?」

「……」

 問いに対するオレークからの返答は、なかった。が、返答のないことが返答のようなものだ。ユタヤには言えないようなところへ連れていかれたということである。仗身のユタヤがこんな冷たい石牢に閉じ込められ、鎖で磔にされているのだ。主は——無事である保証なんてない。

 そう悟った瞬間、全身の毛穴から汗の噴き出すような妙な感覚に襲われた。さぁ、と血が下がって行く。

 勝手に体が動いて、鎖に繋がっていることは頭でわかっているのに、前に進もうとした。金属音が響き渡る。

「動くな。その鎖は頑丈だ。あまり動くと怪我をする」

 絶え間ない金属の音に、耐えかねたようにオレークが声をあげた。確かに、鎖が取れるわけもないのに力づくで動くと、両手首が鎖とこすれて皮が剥け、わずかに血がにじんだ。だが、こんな怪我など怪我のうちに入らない。そんなことより、カグワを助けにいかなくては。

 そんなユタヤの心の内を読み取ったかのように、オレークはこちらを振り返った。そして、言う。

「巫女君は——お前のことを、大変案じておられた」

 その言葉にぴくと反応し、ユタヤは一瞬動きを止めた。

「俺は、つい先刻まで……巫女君と一緒にいた。なので、巫女君は俺に、言葉を託された」

 そう続けるオレークの顔は苦虫でも噛み潰したような、居たたまれないような、渋い表情を浮かべている。

「自分にもしものことがあったら、お前を殿下の護衛にしてやってくれ、と……お前は獣人だから役に立つだろうと、おっしゃった」

 なんだって、とユタヤは息を呑んだ。後頭部を鈍器で殴られたような、強い衝撃に苛まれる。頭が痛み、くわんくわんと目眩さえした。

 あまりにも、彼女らしすぎる言葉であった。以前、まだ西国の後宮にいた頃、彼女は巫女選定の儀式の前に、他の聖女、一の君ネイディーンに対して言った。——もしも貴女が巫女になったら、ゆたやのことも護衛として雇ってあげられないかしら。——嗚呼、何故、かの人は、仗身でしかないこんな自分にも、獣人の分際でしかないこんな自分にも、そんなにも情けをかけてくれるのか。いっそ優しさが痛いくらいだ。

「お前に薬を打った俺を、巫女君をただ黙って見送った俺を、許してくれとは言わない。ただ、お前と同じように、俺にも護りたいものがある。——果たしてそれが護れているかどうかは、別の話だがな」

 オレークの護りたい物が何なのか、それを彼が護れているのかどうか、ユタヤは何も知らない。だが、その言葉の意味は悲しいほどによくわかる。ユタヤにもどうしても、護りたいものがある。だが、それを自分ごときが護れるのかどうかはわからない。それでも——傍に控えて、護りたい。

「俺にとっては、軍から下される司令が、絶対だったんだ。お前にとって、巫女君から下される司令が絶対だったように」


 そうだ、ユタヤにとってはカグワが絶対だった。ずっと、カグワの言うことを信じ、彼女についてきた。——否、そうか?


 ふと、心の中に疑問が浮かぶ。自分にとって、本当に彼女の言うことが、絶対だったのだろうか。本当に彼女に逆らったことなど一度もないと、言えるだろうか。

「だから、お前の辛さが全くわからないわけでもない……。主に従えないことはさぞ無念だろう。——だから、彼女の最期かもしれない司令を、お前に言い届けにきたんだ。生き延びて、殿下の護衛となれ、と」

「——違う」

 突如否定から入ると、「え」とオレークは間抜けた声を発した。ユタヤは俯いて、歯ぎしりする。——違う、違う。自分は、そんなに忠実な僕ではない。

「俺は……貴方みたいに、立派な配下ではない……」

 脳裏に浮かぶ主の顔は、どれもこれも楽しそうなものばかり。笑ったり、拗ねたり、時には悲しい顔もするけれど、いつでもユタヤを幸せな心地にしてくれた。だから、それを護ろうと、ユタヤは思ったのだ。それが命令だからではない。そんなに忠心の篤いわけではない。

「かぐわの君が聖女だから、巫女だから、と、そんな理由で従ったことなど、一度もなかった……。聖女であるとか巫女であるとか、そんなことは俺にとってはどうでもよかったんだ……。かぐわの君だから、従った。否、それさえ嘘かもしれない。俺は、かぐわの君にさえ、従ったことはないんだ……」

 どういうことだ、とオレークは眉をひそめた。上意を絶対とする、この真面目な男にはきっとわからないだろう。オレークはそれが上意であれば、感情を殺してなんでもできる男なのだ。例えそれが主を殺せというものであっても、上意であれば甘んじて従うだろう。だが、ユタヤには、出来ない。

「俺の傍にはいつもかぐわの君がいて、彼女を護ることが誇らしかった。それが自分の役目だからと言い訳して、本当は、ただ彼女の傍にいたかっただけなんだ……そのために、都合の良い言い訳を探していた」

 だから、例えそれがカグワ自身からの命令であっても、カグワの傍にいられないのならユタヤにとっては意味がない。本当は、従いたくなんかない。それでも従おうとするのは、彼女に「良い僕だ」と思って欲しいからだ。その彼女がいなくなってしまうのなら、どんな主命も意味を成さない。

「以前、オレーク殿は俺に、何故巫女に忠義を誓うのかとお聞きになったな……これがその答えだ。自分勝手で、実に不純な動機だ……こんなことでは仗身失格だ」

 それがどれだけ思い上がった動機であるか、ユタヤにもわかっている。たかが獣人の分際で何を言うと一蹴されても仕方ない。だが。

「だが……止められないんだ、どうしても……。今この瞬間にも、かぐわ様になにかあるのではないかと思うと……止められない」

 つん、と鼻の奥が痛くなり、目頭が熱くなった。はっと驚いたようにオレークが息を呑む。「お前……」と彼は小さく呟いた。

「正直に言おう……。俺にとっては巫女なんてどうでもいいし、西国なんてどうでもいい。巫女制度なんて廃止になればいいと思うし、西国が滅びたっていいんだ……当然、この北国ラウグリアが何を考えても関係はないし、何が犠牲になったっていい」

 ぼろぼろと、目から熱い物が溢れ出した。それはすぐに頬を伝って滴り落ちて、北国の冷たい空気にあてられると冷水になった。


「世界が消滅したっていいんだ……彼女さえ生きていれば」


 目からも鼻からも水分が滴り落ちて、顔がぐしゃぐしゃだ。途中に嗚咽さえ混じり、きちんと言葉も伝えられない。こんなに泣くのはいつ以来か。きっと、初めて獣の姿になって、大人に殺されかけたあの瞬間、そしてそこを天女に救われたあの瞬間以来だ。


「他の誰より、国家より、世界より、世界中の人間の命よりも、彼女の存在が大切なんだ、オレーク殿……っ! 頼む、此処から……、此処から、出してくれ……!」


 後半はほぼ、悲鳴であった。大人の男の泣き叫ぶ声は大層聞き辛いであろう。聞いていて心地良いものでもないし、不愉快にさえ思える。

 それでも、オレークは眉間に皺一本寄せずに、ユタヤの言葉を聞いてくれた。あるいは、呆気に取られていたのかもしれない。それも無理はない。大の大人の泣き叫ぶところなど、滅多に見れるものでもなかろう。

「頼む……彼女の傍へ……行かせてくれ」

 嗚咽を繰り返しながら、尚訴える。それで「どうぞ」と言ってくれるような男でないことは知っていた。上意を絶対だという彼は、感情で動くユタヤなんぞよりずっと忠義が篤く、出来た臣だ。

 そう思っていたから、彼の行動に、ユタヤは愕然とせざるを得なかった。

 かたん、と音がして、オレークが廊下から動く。かつんかつんと、歩く足音は二歩。

「——わかった」

 え、と、今度はユタヤが唖然とする番であった。

 彼は宮廷服の内ポケットから大量の鍵の束を取り出し、その中の一つを探り当てると石牢の格子にかけられた錠を開ける。がちゃん、と軽い金属音がして、錠が開いた。

「……鍵」

 オレークの本業は皇太子の世話役だ。当然、牢屋の見張り番ではない。なのに、何故彼がこんなちっぽけな牢の鍵を持っているのであろうかと唖然としながらも彼の動作を見つめていると、彼は内ポケットから取り出した鍵の束を撫でて、不適に笑んだ。

「俺は皇太子の世話役であり、皇家仕えの小間使いの中では最上位だ……宮廷の中の鍵なら全て開けられる」

 軍は知らない皇家の秘密だがな、と付け加えて、彼は石牢の中へと入ってきた。彼は鎖によって磔られたユタヤの前に立つと、鍵の束の中から最も小さな鍵を探る。唖然としたまま彼を見上げるユタヤは、驚きのあまり涙も止まっていた。

「俺にできるのは、鍵を開けるところまでだ。外には牢屋番もいるし、巫女君のおられる処刑場はこの牢屋の裏側だが……大広間になっていて、そこには今大勢の軍が集って決起集会を行っている。その数何百という単位だ」

 淡々と説明しながら彼はユタヤの右手首を縛り上げていた鎖の錠を外し、次に左手首の錠も外そうと鍵をあてた。そんなオレークの動作を見て、ユタヤは動揺を隠せない。彼にとっては上意が絶対だ。囚われた獣人を解放することが上意のはずもない。それなのに。

「……何故」

 自分を解放しようとしてくれている彼に、小さく呟くように問うと、その言葉少ない問いかけだけでもオレークには通じたようだった。彼はちらりとゆたやを見上げ、ふんと鼻で笑う。

「好奇心だ、と答えておこうか。……残念ながら、俺にはお前の気持ちがわからない。涙してまで敵に懇願し、世界よりあの女が大切だと訴えるその気持ちはわからん。だが、わからないからこそ興味がある。その動機を持つ者が、どのような運命を辿るのか」

 ユタヤはユタヤで、オレークの言っていることがさっぱりわからなかった。しかし彼も理解してもらおうとは思っていないようで、吐き出される言葉はまるで独白だ。

「今の俺には何が正義かさっぱりわからない。上意だからと安易に従ううちに、視野が恐ろしく狭くなっていたのだと思う。広い世界を知りたい。宮廷の中にはない、様々な動機も心も知りたい。そしてその結果も、知りたい」

 彼は言って、ユタヤの左手首の錠も取り払った。鎖のほどけるじゃらじゃらという音が響いて、ユタヤは両手ともに解放される。手首には彼が暴れた時にできた鎖状の傷があり、赤く血が滲んでいたが、痛みなどほとんど感じなかった。そんなことよりも、カグワの元へ行かなくては。

「オレーク殿……感謝する」

 逸る気持ちを堪え、せめて一言感謝だけと思ってオレークに礼を告げたが、彼は少しも喜ばしい顔はしなかった。

「感謝などするな。俺はお前に死ねと言っているようなものだ」

 此処にいれば、まだ生きながらえる方法はあったのに、と彼は言うが、そんなものはないとユタヤは思っている。カグワにもしものことがあれば、ユタヤも死んだも同然だ。

「……恩に着る」

「脱ぎ捨てろ、そんなもの」

 オレークの軽口にこんな状態でありながら思わず苦笑してしまいながらも、ユタヤは石牢の冷たい床を蹴り飛ばした。


 廊下に出ると、ずっと先までユタヤの閉じ込められていたような小さな牢屋が連なっていた。出口はどちらだとわずかに首を回して、明かりの差し込む方向を見つける。彼は、全速力で冷たい廊下を走り抜けた。

 連なる牢屋はほぼ空っぽで、どうやら今はユタヤしか閉じ込められてはいないようであった。故に、監視もおらず、いたのは出口に欠伸をしながら立っていた見張り番一人のみだ。

 見張りは最初欠伸をしていたが、牢屋の中からユタヤが出てきたことに気付くと、「うわあ、お前、どうして!」と悲鳴に近い声をあげて、抜刀した。しかし、刀を持つ手が震えている。戦いの心得などないのだろう。ユタヤの敵ではない。

 ユタヤは震える彼の腕を掴んで鳩尾と首の裏に一発ずつ打撃を与えると、彼の握っていた刀を取り上げた。見張りは苦しそうなうめきをあげた後、気を失った。恐らく当分は起き上がれないであろう。

 ユタヤは取り上げた抜き身の刀を片手に、巨大な囚牢の裏側へと走って回った。オレークは処刑場はこの裏だと言った。確かに言われてみれば裏側の方が何やら騒々しい。その雑音を頼りに、ユタヤは走った。


 早く、早くかぐわの君を助けなくては、とその心ばかりが逸る。助けると言ったって、こんな北の地で、どうやって彼女を助け出してどうやって逃げ出せばいいのか、勝算なんてこれっぽちもなかった。だが、そんなことは関係なかった。早く彼女の元へ、と気持ちが切迫していく。


 長い囚牢の横を走り抜けると、ようやくその裏に位置する広大な処刑場へと出ることができた。処刑場は寒空の下、延々と広がっており、木の一本も生えていない殺風景な場所であった。普段は罪人が殺され、処分されるための空間なのであろうが、今日は違う。オレークの言った通り、そこには何百という数の軍人が整列しており、彼らは皆、王宮の方を見上げていた。そしてその王宮の欄干に立って何百という軍隊を見下ろしているのが——恐らく将軍と思われる男と、シルディア皇太子殿下だ。

「……皆の衆、時はきた!」

 将軍が、拡声器を使って叫んだ。うおお、と軍隊が声をそろえる。それは低い地鳴りのように、不気味に寒空の下へと響き渡っていった。

「いざ西国の巫女の首を討ち取り、いざ西国へと出陣しよう!」

 将軍のかけ声とともに、どこからともなく太鼓を叩く音が響いた。リズミカルに奏でられるその音に、軍隊の士気があがっていく。ユタヤはカグワを探して必死に処刑場の中を駆け回った。整列している軍人たちは、ユタヤに気付くことなくまっすぐ前を見ている。

 奏でられる太鼓の音が早くなり、同時に軍人の歓声がこだました。ユタヤはそれにつられて顔をあげる。そして、目を見開いた。

 軍隊の最前列、王宮のすぐ麓の所に、小高い台が設置されていた。そこには誰か権力者が立つのだろうと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。その台の上に連れてこられたのは、縄で捕縛された小さな少女、カグワであった。

「……かぐわの君!」

 思わずユタヤは声を荒げる。そこで初めてユタヤの存在に気付いたように、近くにいた軍人たちがこちらを向いた。だが、何百といる軍人の束の中で、ほとんどは彼に気付かず西国の巫女を殺せと太鼓の音に合わせて叫んでいる。

 それなのに、まさかこんな遠い距離でこの声が届くはずもないのに、捕縛されたまま下を見ていた少女が、はっとしたように顔をあげた。声は聞こえない。だが、彼女の口が確かに、小さく、「ゆたや」と自分の名を呼んで動いたように見えた。

 ユタヤは、いてもたってもいられなくなって、何百という軍人の中に突っ込んでいった。彼女がいるのはこの群衆の最前列だ。なんとしてでもそこまで辿り着かなくては、とそればかりが頭を占める。

 突然列の中に飛び込んできた男に、なんだなんだと軍人たちが喚きだした。中には、彼を殴って止めようとする輩もいる。ユタヤはそれを器用に避けると、持ってきた抜き身の刀で斬り捨てた。


 殺すことを躊躇っていたら、あそこまでは辿り着けない。否——殺さなければ、殺されてしまうのだ。自分も、かぐわの君も。


 ユタヤは抜き身一本を武器に、何百という軍の中で暴れた。突如軍人を物凄い勢いで切り倒し始めた男の存在に、軍隊は混乱する。

 慌てて何人かは抜刀して対抗してきたが、腕力も俊敏さも、ユタヤに匹敵するものはいなかった。何しろユタヤは獣人だ。いくら人の形をしていても、普通の人間とは潜在能力から異なる。

 十人斬り捨て、二十人斬り捨て、刀が使い物にならなくなった。急いで死んだ軍人の刀を抜いて次の軍人と相対するが、きりがない。何百という数の軍人を斬り捨てている間に、カグワが殺されてしまう可能性さえあった。

 軍隊は混乱する。だが、それ以上に巫女を助けなくてはとユタヤの心が混乱する。


 こんなことでは駄目だ。人の形では限度がある。


 ユタヤは奥歯を噛み締めた。強く力を込めて噛み締めてしまったが故に、口の中から血が流れる。


 駄目だ駄目だ。こんなことでは駄目だ。早く、早く巫女の元へ……! 人の力では足りない。獣の力が欲しい。他の誰でもない、彼女を助けるための、獣の力が欲しい……!


 刀を振り回しながらそう心の中で叫んだその時である。

 ぷつりと、何かが切れたような音がした。

 次の瞬間に、突如津波に攫われたかのような感覚で、上も下も右も左もわからなくなる。何かが押し寄せてくるような、そんな感覚だ。あまりにも強い勢いで押し寄せてくるそれに、ユタヤは耐えきれず、転んだ。

 地面を揺るがすような轟音に包まれて、目の前が真っ白になる。かと思えば、すぐに真っ暗になった。此処がどこかもわからない。自分が誰であるかすら、忘れてしまいそうだ。


 ただ、一つだけ。頭の中を占めていたのは、たった一つの想いだけ。


 ——かぐわの君を、助けなくては。


 青年は、その瞬間、人の心を、失った。

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