21、襲撃
水面下で静かに火種が投げられる。導火線が煙を吹く。まだ何も知らぬのは、当事者ばかりだ。西国の巫女も、そしてその仗身も、まだ何も知らない。
そしてユタヤの待つ部屋にカグワが帰ってきたのは、雪のやんだ朝方のことであった。
「おはよう、ただいま」と言って帰ってきた少女の様子はいつもとなんら変わりなく、まるで昨夜あったことなど全て忘れてしまったのではないかと思えるほどだった。しかし、おかえりなさいませ、と言って彼女にいつも通り頭を下げたユタヤは、それ以上動けず、いつも通りの振る舞いができなかった。——カグワから、シルディアの匂いが漂った。一晩彼の寝床で寝たのだから匂いが移ったとて不思議なことではなかったが、それに気付いてしまったことと、気付いて気にしてしまう自分に嫌悪を抱いた。
「……どうかした?」
そんなユタヤの異変に気付かないほどカグワは鈍感ではなく、首を傾け問うてくる。そこで、
「……昨夜、あの娘を無事保護しましたということを、思い出しまして」
かなり苦しい言い訳をした。しかしカグワはそれに対しては満面に笑みを浮かべて「よかった」と喜んだ。
貴女の体から皇太子の匂いがすることが気になって、とは、口が裂けても言えない。
胸の奥にわだかまりを抱えるユタヤの心情とは裏腹に、時間はあまりにも平和に流れていった。のんびりと朝日が昇り、小間使いのユーリがやってきて、昨日のことを心配しながらも朝食を用意して行った。そしてカグワもまた、平常通りだ。ユーリに「貴方が早く私を呼んでくれたから、私も早くシルディアのところに行くことができたわ」と言って彼女は笑顔でありがとうと礼を述べた。ユーリはまさか謝礼を言われるとは思っていなかったのだろう、拍子抜けした後に、「私なんか何の役にもたてず」と赤面した。ユタヤは、カグワが人の心を柔らかく魅了していくその瞬間を、遠い心地で見守った。
カグワに魅了されるのは、当然ユタヤだけではない。否、それどころか、彼女と出会う全ての人は少なからず彼女に魅了されているのではないかとユタヤは思う。もちろんそれは、男女の慕情のような物に限らず、人としての魅力だ。ユタヤも、人として、主として、聖女や巫女の君として、彼女に魅了されてきた。そのはずだった。それなのに、彼女が皇太子の匂いを全身に纏うことがとても嫌で、そんな感情を抱く自分を誰か罰してくれないかと他力本願に願う。
「ゆたや……?」
朝食が済み、食器類も全てユーリによって片付けられて大分経つ。ユタヤは窓の外を眺めてぼんやりとしていたらしい。彼はカグワに声をかけられて、はっと我に返った。
彼女はユタヤの隣に立ってその顔を覗きこんでくる。我に返ったユタヤは少女を直視できずに目線を逸らして宮殿の屋根に積もった銀の雪を見つめた。太陽の光を反射させて、それはきらきらと輝いている。
「なんとも……平和ですな」
目線を逸らしてしまったからには何か言わなくてはと、口をついて出たのは面白くもない呟きだ。カグワはユタヤの様子が妙なことは知っていながら、それには触れずに頷いた。
「そうね……時々、なんのために自分がここにいるのか忘れそうになるくらい」
カグワの暢気な台詞が、今はとても耳に痛かった。
そもそもカグワが此処ラウグリアに呼ばれたのは北と西のいさかいが発端であった。しかしあまりにもこの皇宮の中には情報が入ってこないために、それすら忘れてしまいそうになる。なにしろ既に此処にきて、一月以上が経過してしまっているのだ。彼らはまだ一度も見たことのない西国の宮殿よりも、ずっとこちらの方が馴染みがあった。
「駄目ね、こんなに平和だと……頭が惚けて自分はずっと此処にいるんじゃないかなんて気が、してくるわ」
何気ないそんなカグワの呟きに、ユタヤは小さく動揺する。
——カグワがずっと此処にいればいいのに。
朝日が上るより早い早朝にやってきた皇太子のこぼした言葉が思い出された。
彼はそれが不可能だとわかっていると言ったけれども、それを望んでいるのも事実だろう。その上カグワ自身までもがそれを肯定してしまっては、——困る。
「そういうわけには参りません。我々は、一刻も早く西国へ戻らなくては」
ユタヤは低い声色で答えた。そしてそれは己へも言い聞かせる暗示だ。
「かぐわ様は西国の巫女であらせられます。西国へ帰らなくてはならない。私には貴女を無事に帰す義務があります」
なぜそんなにも献身的にカグワに尽くすのか。この北国に来て、ユタヤは何度もそう問われた。その動機の一つに、やましい私情が含まれるのも真実だ。甘んじて認めよう。だがしかし、それだけではない。彼女は西国の巫女だから、西国を護るためだから、だから、自分は彼女に尽くすのだ。全ては西国エウリアのためだ。ユタヤはそう自分に言い聞かせた。
全ては西国のため、全てはエウリアの国のため。
そう自分に言い聞かせなくては平常でもいられなかった彼は、とてつもなく、気を緩めていた。カグワの言ったように、あまりにも平和で、頭が惚けてしまっていたのかもしれない。とにもかくにも、後宮にいた頃でさえカグワの周囲に常に気を使って、彼女を護ろうとしてきた彼は、この時、ものすごく気を抜いていたのである。
——故に、外から突如押し寄せてきた物騒な動きに、全く気付かなかった。
それは、彼が獣の性を封印されていたためとも言えよう。そして同じく『力』を封印されたカグワもそれに気付かない。二人が事態に気が付いたのは、荒々しく部屋の扉が開かれたその瞬間になってからであった。
誰が来るにしろ、必ずノックされてから上品に開けられるその皇宮の扉が、ばたんっという破壊的な音とともに開かれた。二人が驚いてその方を眺めると、音とともに部屋の中に倒れ込むように入ってきたのは、小間使いのユーリであった。
「ユーリっ?」
カグワが驚いて彼の名を呼ぶ。今朝方も朝食の用意をしてくれた彼は、元気にはつらつとしていた。それなのに、今の彼は何故か全身に擦り傷や打ち身を負っていて、痛々しい。少年はそのまま床の上に転がると、ぜえぜえと息を切らしながら、カグワを見上げた。
「……カグワ、様……」
「ユーリ! 一体、どうして、どうしたの……!?」
「早く……お逃げくださいっ!」
金切り声で叫ばれたその言葉は、事態がただごとではないことを物語っている。一体何事だ、とカグワとユタヤが顔を見合わせると同時に、再び荒々しく扉が開かれ、今度は見た事もない軍人が三人ばかり無作法に入室してきた。
「西国の巫女をお連れしにきた!」
軍人の一人が部屋に入るなり、高らかに述べた。「お連れに」とは言っているが、明らかにそのような生易しいことをしようとしているようには見えない。ユタヤは慌てて一歩前に出ると、カグワを己の背に庇った。
「此処は、皇宮だ……! お前らのような軍人が勝手に足を踏み入れていい場所ではない!」
床に倒れていたユーリが息も絶え絶えに叫ぶ。軍人はそれを見下し、鼻で笑った。
「何度も言っただろう? 今は非常事態なのだと」
「このような、野蛮なやり方で押し入らなくてはならないような非常事態など、存在しない!」
「吠えるな、皇室の犬が……。これは上意だぞ。刃向かうのであれば、お前も国賊として捕えるまでだ」
そう吐き捨てて、軍人は後ろに控えている二人の軍人に「行け」と指図した。それに従い二人の軍人が腰の刀を抜く。刀はカグワを背に庇うユタヤに向けられ、「退け」と低い声で命じられた。だが、当然、退けと言われて退くわけにはいかない。
「ゆたや」と背後から、カグワの戸惑う声が聞こえた。突然の闖入者を前に、何が起こっているのかわからないのだろう。ユタヤにだってわからない。何故彼らが軍人禁制のこの場所に踏み込み、そしてどこへ彼女を連れて行こうとしているのか。連れて行かれた彼女はそこで何をされるのか。——もはや、人質としての価値がないということなのだろうか。
情報の一切入って来ないこの場所で平和に暮らしていたユタヤには、何一つ判断材料がなかった。ただ、抜き身を向ける彼らには明らかなる敵意がある。
「その男は殺しても構わんと言われた。後ろの巫女を捕えろ」
どうやら三人の中では少し位の高いらしいその軍人は、力なく転がっているユーリを軽々捕縛すると、「やれ」と残りの二人に命じた。残りの二人はそれを合図に容赦なくユタヤに刀を向けてくる。ユタヤにはもちろん戦う武器などない。ひとまずカグワを後ろに下がらせると、一人の振り上げた刀を避けて、もう一人の顎を足で蹴りあげて粉砕した。「うぐっ」と呻くような悲鳴があがり、蹴られた男がその場に血を流して転がる。その男の持っていた刀を拾い上げると、もう一人の男に投げつけた。急所は外したが、見事にそれは軍人の脇腹を貫通させ、軍人は悲鳴をあげてその場にうずくまった。
その間、わずか数秒である。驚いたのはユーリを捕縛していた軍人で、「くそっ、こいつ、本当に人間か?」とほざいた。巫女の隣に獣人が控えていることさえ知らされていないのだから、それほど地位は高くないのだろう。
「かぐわ様、こちらへ……!」
ユタヤはあっというまに倒れた男たちを見て唖然としているカグワの手を引き、部屋の外へと飛び出した。ユタヤはずっとカグワの仗身をしてはいるが、実際にユタヤが戦闘している姿をカグワが見た事はない。そもそも仗身たちの戦闘訓練は聖女に見せるような物ではなかったためである。
「待て!」と慌てたように取り残された軍人が後ろから追いかけてくる。とりあえずあれから隠れなくてはとカグワの手を引き角を曲がると、丁度そこで十数人もの軍人とでくわしてしまった。
「伍長殿、助勢に参りました!」
軍人の一人が叫んだ。どうやら、部屋にやってきた軍人は伍長という役職らしい。それがどれほどの地位なのかユタヤにはさっぱりわからないが、そんなことはどうでもよかった。今度は一人でこの十数人を相手にしなくてはならない。
「ゆたや……!」
軍人を睨みつけるユタヤを見上げ、カグワが悲壮感たっぷりに首を横に振った。ユタヤが一人で彼らを相手にしようとしていることを悟ったのだろう。「もういいわ」と彼女は言うが、いいわけがない。此処で諦めてしまったら、カグワは北の軍に囚われ、何をされるかわからない。
「いいぞ、その男を殺せ!」
伍長と呼ばれた軍人が叫ぶと、一度に十数人の軍人たちがユタヤを取り囲んだ。が、しかし、場所はさして広くもない皇宮の廊下である。彼らが一斉に刀を抜いたところでうまく動けはしない。ユタヤは相手が全員得物を持っていることを逆手に取って、味方を傷つけないようにと遠慮がちな動きをする刀など全てかいくぐり、獣人の力で敵のあばらをへし折った。肋の骨は折れやすく、折れば痛みから人は動けない。それを知っているユタヤは一気に三人拳や足で肋をへし折ると、彼らの持つ刀を奪った。軍人たちが、そのあまりの強さにどよめく。——伊達に仗身修行をさせられてはいない。獣の姿に変化できればこんな男共一発で倒せるが、人の姿のままでも、応戦はできる。
「もうその男はいい……! 巫女を連れて行け!」
ユタヤを倒すのには手間がかかると気付いたのだろう、伍長が叫んだ。何人かがそれを受けてカグワを捕えようとする。そうはさせるか、とユタヤは前に立ちはだかる軍人二人を奪った刀で斬り捨てて、カグワの元へと走った。
「かぐわの君……!」
そしてあと少しでカグワを捕えようとする男たちに手が届き、奴らをも斬り捨てられるという、その時である。
ちくり、と首筋に痒い程度の痛みが走った。虫にでも噛まれたのだろうと気にせず一歩前に踏み出すと、突如視界が揺らいだ。
「……ゆたや!」
目の前のカグワの姿が揺らいで、見えなくなる。圧倒的な重力に勝つことができず、ユタヤはその場に倒れた。ずしん、と大きな音がする。体を動かそうにも、動かすことができない。
「……巫女を護衛するのは獣人だ。獣人には正攻法では勝てん」
聞き覚えのある声がした。かつん、かつん、と近づいてくる足音を聞いて、カグワがぽつりと呟いた。
「……オレーク」
その呟きを受けて、ユタヤは己の動きを止めたのが皇太子の世話役であるオレーク・ナイザーであると知った。首に受けた痛みは、針か何かによるものだ。そしてその針に、毒薬か何かが仕込まれていたのだろう。オレークはユタヤの首筋めがけて針を投げ、見事命中させた。確かに正攻法ではないものの、その腕は確かである。
「ナイザー殿……おかげで助かりました」
「中将から、十数人で巫女を捕えに向かったと聞いてな……十数人では獣人には勝てぬ」
ユーリに対しては勝ち気だった軍人たちも、オレークには慇懃に対応した。それだけ皇太子の世話役の地位は高いのだろう。
「オレーク……」
カグワのどことなく寂しげな声が聞こえた。オレークはそれを受けて、彼女の方を向く。
「ご安心下さい、眠りを誘う鎮静剤です。命に別状はございません」
ユタヤに差された薬のことだ。道理で眠く、体の動けないわけだとユタヤは納得する。そうこうしている間にもどんどん記憶は遠のいていくばかりである。
「オレーク……これは一体、何なの?」
カグワの問う声だけが聞こえる。視界はもはや、真っ暗だ。
「上意です。ゆえに、私にはそれに従うしかできません」
オレークの言葉は答えになっていない。
上意とは誰から下されるものなのか。皇帝か、皇太子か、あるいは将軍か。軍人たちが皇宮の中へ闖入してきたことからしてその答えは明らかだろう。——彼らは軍から下される主命にのみ従う。
オレークの主は、皇太子シルディアではないのか。何故彼は軍の命令に従うのか。皇太子シルディアは——彼は今、何をしている?
様々な疑問が頭の中で渦巻くまま、ユタヤは深い眠りの奥底へと沈んで行った。薬によって強制的に、記憶が遠のいて行く。
かぐわの君を、護らなくては。
その強い意志のみが残り、だがしかし、体は全く言う事を聞いてくれない。
それは、雪の止んだ寒い冬の昼間のことであった。