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20、呪縛

 その夜から明け方にかけてラウグリアの国土を覆い尽くした雪嵐は、朝日が昇る頃には静まり、落ち着いた。

 それはまるで、『力』を暴発させたシルディアの心境のように、清々しい晴れ模様であった。


 朝日の昇る前に目のさめてしまったシルディアは、隣にカグワが寝ていることを確認してから、ゆっくりと寝床を抜け出してカグワの部屋に待つであろう仗身の元へと向かった。彼と軽い会話を交わした後部屋に戻ると、丁度朝日の昇る頃合いであった。『力』の暴発の所為でぼろぼろになったカーテンの合間から差し込む朝日を受けて、寝台の上に横になっていたカグワが目を覚ます。「ん」と彼女が小さくうめき声をあげたので、シルディアは寝台の上に腰掛けて、彼女の目覚めを見守った。

 少女の黒髪がもそもそと動き、寝返りを打つ。そして、ゆっくりと黒い瞳が開かれて、寝ぼけた眼でこちらを向いた。シルディアは寝台の上に腰掛けたまま少女を見下ろして、にこりと微笑む。

「おはよう」

 寝起きでも聞きやすいようにと低く柔らかい声で告げると、カグワの黒い瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「……シルディア」

 少女は寝起きのか細い声で彼の名を呼んで、それからゆっくりと起きあがる。しばし周囲を見回して自分が皇太子の部屋にいるのだということを思い出すと、寝台に座っている彼の顔を覗き込んだ。

「……シルディア、具合は?」

 迷うことなく、何より最初にシルディアのことを慮ってくれる。少女のそんな態度にくすぐったさを覚えながら、シルディアは「大丈夫」と頷いた。

「おかげで、すっきりしてるよ……ここ何ヶ月かの間で、一番快適な朝かもしれない」

 そう素直に告げると、みるみるうちに少女の顔に笑みが広がった。彼女は心からシルディアの無事を喜んでくれる。

「そう……よかった」

 呟いて、カグワはゆっくりと寝台から下りた。乱れた髪と服の裾を正し、ぼろぼろになった窓枠の外から差し込む朝日を眺める。それを見て、時間の経過を知ったようだった。

「……シルディア、私、帰らなきゃ……ユタヤが心配しているかもしれないわ」

 カグワは朝日が昇っていることを知り、シルディアの方を振り返る。シルディアもそれに対しては「そうだね」と肯定した。

「きっと心配しているだろうから、帰ってあげた方がいい」

「ええ……また、来るから」

 相手が他国の皇太子であろうと、獣人であろうと、誰であっても平等に愛を注ぐカグワは、シルディアに対しても屈託のない笑みを見せた。その笑顔の去ってしまうことが少しだけ名残惜しくて、だが、他人への甘え方の知らないシルディアは「カグワ」と彼女の名を呼んでただ片手を伸ばす。伸ばされた片手を見つめ、カグワは一瞬きょとんとしたが、すぐに元の微笑みを取り戻すとその片手を握り締め、シルディアに近付いた。

 そして、寝台に腰掛けている彼の白金の髪をかきわけ、優しく額にキスをする。母親にも父親にも、キスはおろか抱きしめてもらったことさえない皇太子は、そのキスをもらうたびに嬉しいような切ないような、心の臓をぎゅっと掴まれるような苦しみを味わった。苦しみとは言え、それは不快なものではない。

「じゃあ……またね」

 皇太子の額に軽いキスを落としたカグワは彼の髪を撫でて、微笑みとともに去って行った。

 シルディアは彼女の去って行った方を眺めて、軽く片手を振った。

 そして彼女がずっと此処にいればいいのに、ともう何度目かわからない願望を胸の内に抱く。——しかし、それがどうしたって叶わない願いであることも、彼は重々理解していた。


 ——北軍はそろそろ、西国への出陣の準備を整えつつある。


 シルディアは直接軍の司令部とそういった国事の会議をすることはないが、当然のようにその事実を知っていた。何しろ、シルディアには『力』があるのだ。『力』を持つ者の中には例えば遠方の会話を聞き取ったり、遠方の光景を見たり、あるいは過去や未来を見聞きすることもできる者もいるが、シルディアにはそれら全てのことが可能であった。つまり彼は望めば過去も未来も、そして当然今現在どこかで行われている軍の国事会議を聞き取ることだって可能なのである。

 聞きたくもないことが聞こえ、見たくもないものが見える己の能力を、何度呪ったか知れない。あまりにも強大な『力』は己には制御し難く、なるべく耳を塞いで目を閉じているものの、それでも聞こえてくるもの、見えてくるものは多々あった。故に彼は、北国が西国と和解する気など最初からないことを知っていたのである。

(あーあ……せっかく初めて、俺のことをシルディアって呼んでくれる奴に出会えたのになぁ……)

 シルディアは心の中で嘆いて、ころりとそのまま寝台の上に転がった。カグワと別れるのは辛いが、これは定めであり、運命なのである。いくらどんなに強い『力』を持っていても、運命を変えることはできない。シルディアがどんなにあがいても、皇太子である自分をやめることなどできないように。


 ベッドに敷かれた毛布に顔を埋め、しばしぬくぬくと暖まっていると、不意に扉がノックされた。

「——オレークです。殿下、入室してもよろしいでしょうか」

 シルディアは顔をあげ、扉の方を見やった。彼はシルディアの世話役を務め、三年になる。そろそろ入室許可などもらわずとも我が者顔で入ってきてくれればいいのになんてシルディアは思うが、オレークは決して己の身分以上のことはしなかった。そして恐らく、オレークがシルディアの世話役を続けていられることも、それに起因している。

「いいよ」

 シルディアが雑に許可を出すと、すぐに扉が開いた。入って来たのはオレークと、その他何人かの小間使いの男達である。男達は扉を開いたまま固定し、机やカーテンなど、昨晩『力』の暴発でぼろぼろにしてしまった家具の替えを運びいれた。

 がさごそと、途端に部屋の中が騒がしくなる。寝台の上で仰向けに寝転がっていたシルディアはゆっくりと起きあがると、新しい家具の運び入れられる様を、見つめた。

「……窓枠や壁紙などは、交換に時間がかかりそうですが、ひとまず即座に交換できるものだけでも」

 他の小間使い達がせっせと働くのを見ながら、そう説明してくれたのは寝台の脇に立ってオレークである。シルディアの世話役である彼は、昨晩破壊されたこの部屋の中身を確認し、一晩で用意できるだけの家具を用意してくれたのだろう。仕事の早い男だ。

「……昨夜俺の部屋にきた娘は?」

 シルディアは小さな声で世話役に問いかける。昨夜、『力』の暴発するその直前まで、最近よくシルディアの世話に来てくれる侍女とちちくりあっていた。だが、その行為の最中に突如死人の魂に襲われ、『力』が制御できなくなり、そこから先はあまり記憶がない。当然、娘がどうなったかなんて、覚えているわけもない。

「無事ですよ。昨日あったことはまるまる一日忘れております」

 さすがにオレークは仕事が早い。

「……そっか」

 シルディアはほっとしたような、だが少し寂しい心地で頷いた。己の『力』の所為でさらなる命の犠牲が出なかった事は喜ばしいが、記憶を丸一日消去しなくてはならないほど彼女に与えた衝撃が大きかったのだと思うとそれもまた悲しい。シルディアとともにいたその瞬間は、他者にとって害となる。故に、人々の記憶から、シルディアは消去されていく。

 もうとっくに慣れてしまったこととは言え、虚しいことに変わりはなく、シルディアは「あーあ」と溜め息を吐いて再び寝台の上に転がった。

「……カグワなら、俺のこと、ずっと覚えててくれるだろうになぁ」

 嘆き半分にそう呟くと、寝台の横に立つオレークが「そうでしょう」と頷く。シルディアは仰向けに転がったまま、彼の顔を見つめた。

 ポーカーフェイスの得意な男であるが、その裏側は様々なことを考えているのだとシルディアは知っている。三年もの年月シルディアの世話役を続けられたこの男は傑物だ。軍からの信頼も厚く、シルディアでさえ知らされない機密情報を多々握っている。


「……カグワ、いつ、殺されてしまうの?」


 小さな声でそのポーカーフェイスに問いかけると、さすがに驚いたようにその瞳が揺らいだ。軍からその機密情報を知らされなくとも、シルディアにはそれらを聞いてしまう『力』がある。盗み聞きというわけではない。シルディア自身、聞きたくなどないのに、聞こえてしまうのだ。

 オレークは寝台に転がったシルディアを見つめて、その顔が全てを受け入れるかのように諦観していることに気付き、ふうと溜め息を吐く。彼もこの皇太子に隠し通すことなど無理だと知っているためだろう。諦めたように腕を組んで、小さな声で答えた。

「私とて、その詳細までは存じておりませんが……昨晩のうちに西国との戦に反対する勢力は全て処罰したはずですから、そろそろということでしょう。あと二、三日、あるいは今日明日という可能性もございます」

「……そう」

 思ったより早いな、と思いながらも、シルディアは頷いた。全ては軍の決めたことである。それに逆らうことなどできない。シルディアにはこの国の向かう方向など、そのために何をするべきなのかなど、何もわからないのである。国政の権利は全て軍が握っていた。シルディアには皇太子として、国民のために、軍の政治の邪魔にならぬよう頷くことしか許されていないのだ。


 西国の巫女を弑す。

 軍がそう決めたことならば、シルディアは黙ってそれに従うしかない。


「俺、どうして皇太子なのにな……」

 小声でぼやくと、オレークは何も答えなかった。聞こえなかったのかもしれないし、聞こえていても反応の仕方がわからなかったのかもしれない。

 全ての仕事を冷徹にこなすオレークは、シルディアにとっても、今までで一番居心地の良い世話役であった。


 初めて彼が世話役としてシルディアの元を訪れた時は「またか」としか思わなかった。また、新しい犠牲者が増えてしまったと、思った。なにしろ自分の世話役はこれで五十人目だ。中には命を落とした奴もおり、あるいは死にまでは至らなくとも回復不可能な傷を精神に負って今も尚狂い続けている奴もいる。せめて少しだけでもましになればと、『力』の干渉を防ぐ効力を込めた玉音石と呼ばれる石を授けたものの、期待などしていなかった。こんなものは気休めだ。すぐにシルディアの『力』に巻き込まれて逃げ出してしまうに違いない。

 だが、オレークは恐ろしく優秀だった。今までの世話役が、「皇太子の世話役」という役職に対して誇りを持ち、皇太子の身の回りのことならば何でも行い皇太子の言うことならば何でも耳を貸し、何にでも干渉してきたのに対して、彼は皇太子との間に一線を引いた。己が世話役としてやらなくてはならない最低限の仕事を見極め、その他例えば食事の用意や掃除、誰でも出来る仕事を他の小間使いにうまく立ち回らせた。しかしだからと言って他人行儀にはならず、皇太子がその時思っているであろうことをぴたりと言い当てて、彼の望むことを提供した。すなわち、洞察力や観察力、判断力に恐ろしく優れていた。

 今までの世話役は、シルディアの傍にいるだけで日に日に衰弱していき、最終的にはシルディアの心の闇に同調し、「お可哀想に」と狂ったように嘆いたまま逃げ出すか、精神を病むか、あるいは死んだ。だがオレークはいつでも冷静で、衰弱もしない。玉音石の効力のみによるものだとは思わない。彼は上手く、シルディアの心の闇を避けた。


「ねえ、オレーク……」

 そんな彼だと知っているから、かつての世話役には聞けなかったようなことも、聞くことができる。彼ならば上手く躱すだろうと思うから、シルディアは気を遣わずにおれた。

「お前は、俺のことを忘れるなよ」

 そう告げるとオレークは目を丸くした。しかしすぐにいつもの調子を取り戻して、「ええ」と頷く。

「忘れはしません……一日たりとも」

 その強い決意にも似た返答に、シルディアは満足して「うん」と答えた。

 これから先、オレークもシルディアの傍を去ることがあるかもしれない。否、絶対にその時は訪れるだろう。悲しいことにシルディアには未来さえ見えてしまうのだ。彼は何かしらの理由でシルディアの元を去る。だが、それでもいいと思っている。この世の中に、一人でも、自分のことを覚えてくれている人がいれば。

「カグワでさえ、死んでしまうんだ……お前は、生きて、生き延びて、俺のことを忘れないでくれ」

「殿下……」

 シルディアの何やら含みのありそうな言葉に、オレークは戸惑いを見せた。それはそうだろう。まるでシルディア自身死にいくような言葉だ。シルディアはくすと笑って、首を横に振った。別に、死ぬつもりはない。ただ、シルディアには未来が見えるのだ。

「シルディア、と……お前は俺の名を呼ばないね」

 突拍子もない話題の転換に、オレークは眉をひそめる。だが、不快そうな顔はせずに、静かに頷いた。

「名前は、呪縛であるという言い伝えがありまして……」

「ふうん?」

 面白そうな話だなと耳を傾けると、彼はその冷徹な表情の上にわずかに微笑みを乗せた。

「東国に古くから伝えられる話です。名を呼ぶことによって知らず知らずのうちに呪い縛られ、やがては抜け出せなくなると」

「へえ? それは、無闇に他人の名を呼んだり、あるいは他人に名を呼ばせたりするものじゃないっていう教訓の話なの?」

「いえ、ただの伝承ですから……特に教訓のある話ではございません。ただ、名前をよぶことによって人は人に呪い縛られるというのは事実ではないかと」

「お前は、俺の名を呼んで縛られるのが怖いのか?」

「そうですね。縛られることがなにも全て悪いとは思いません。何事も使い方次第でしょう。ただしかし、私にはまだその呪いの上手い使い方がわからない。だから躊躇してしまうのです」

「ふうん……面白いね」

 シルディアは寝台の上に転がったまま、天井を見つめた。

 カグワはシルディアの名前を躊躇なく呼んで、その上己の仗身である獣人にさえ己の名を呼ばせる。結果、あの獣人はカグワという存在にがんじがらめに縛られていると言って間違いなかろうし、シルディアもシルディアであの少女に魅入られた。あの少女は、上手な名前の呪縛の使い方を知っているのだろう。

「東国の伝承か……。よく知ってたな」

 心底感心して言うと、オレークは恐縮するように首を竦めた。

「私は昔から、読み物ばかり読んでおり、それはそれは暗い子供でしたから」

「昔から知識欲が盛んだったんだな。お前は何でも知っている」

「まさか。……世の中には、私の存ぜぬことばかりでございます」

 謙遜するわけでもなく、本心からそう思っているらしい口調である。

 シルディアはそれ以上は彼を賞賛することもなく、「そうか」とだけ呟くと、それきり口を閉ざした。見慣れたはずの天井の模様が、昨夜の『力』の暴発によってぼろぼろに焼きただれている。


 知らないのならば、知らないままでもいいと、シルディアはそう思っていた。世の中には知りたくもないのに聞こえてきてしまうことばかりだ。もう聞きたくないんだと耳を塞いでも、もう見たくないと目を瞑っても、様々な情報が交錯する。


 ——西国の巫女を、弑する。


 ふと、そんな声が聞こえたような気がした。どこの誰が喋ったのかまではわからない。だが、シルディアの人並みでない『力』がその声を聞きつけてきた。当然聞き違いなどではなかろう。


 北軍の出陣の始まる時はすぐそこにまで迫っていた。シルディアは皇太子として、軍の出発を見守ることになるのだろう。そしてそのはなむけとして、西国の巫女の命が捧げられるのだ。


 未来は怒濤の勢いで、押し寄せていた。


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