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18、天女

 季節が巡って行く。太陽の滞在時間が短くなって、朝も夕方も暗い。そろそろ西国エウリアにも冬の匂いが漂い始めた頃ではないだろうか。此処、北国には、冬が来た。


 皇太子シルディアの『力』の暴発したその夜、北国の首都は大雪に見舞われた。


 皇宮の窓に叩き付けられる雪の塊はとても新鮮だ。何故なら、西国の首都にある後宮では雪など滅多に降らない。もしもここにカグワがいたならば、「雪よ、ねえ、見てゆたや!」と言ってはしゃいだに違いない。それに相槌を打って、「今夜は寒くなるでしょうから暖かくして寝ましょう」と落ち着き払ったまま答えてやるのが己の仕事のはずだった。——だが、まだ、カグワは帰って来ない。シルディアの部屋に行ったまま、帰って来ないのだ。

 夕刻になって、夕食の時間も過ぎて、夜が来て、降りしきる重い雪を見つめ、寒さをしのぐために暖炉の横に腰を下ろして、長い夜が過ぎていき、やがて朝が到来した。朝になっても依然として雪は北国ラウグリアの国土に降り注ぎ、そしてそんな豪雪を見上げるのはユタヤ一人である。カグワは朝になっても帰って来なかった。

 暖炉の脇に蹲ったまま朝を迎えたユタヤは、ぱちぱちと音をたてて薪を燃やすその炎の暖かさに包まれて、転寝をしていた。


 ——とても幸せな夢を見た。


 ユタヤは、とある田舎の村に生まれた普通の少年だった。母と二人暮らしで、とても質素な、だがとても幸せな生活を送っていた。

 ある日、村に、天女と見紛う少女が現れた。綺麗な黒髪を持つ少女で、太陽のような微笑みを振りまいた。少年ユタヤは、すぐに少女に心惹かれた。村一番の美女にも、村一番気だての良い女にも、他の少女になど目もくれず、その天女のような少女に心酔した。

 歳月が過ぎると、ユタヤは少年から立派な青年へと成長した。村人とともに農作業をしたり、時には狩りに出かけたり、村の若衆として活躍していた。少女もまた成長し、大人びた。まだ無邪気な少女らしさも抜けきらず、だがより一層天女のように美しくなって、その不釣り合いな愛らしさにどうしようもなく胸の内がざわめく。

 少女は、ユタヤの名を呼んで笑った。ユタヤの手を引いて走った。村組織という狭い世界の中を自由奔放に、駆け回った。二人でずっと駆け回っていた。

 ふと足を止めて、少女が呟いた。——キスをしようか、と。

 驚いたユタヤは、危うく転びそうになり、だがなんとか踏みとどまった。

 少女は冗談を行っている風でもなく、だが悪戯っぽく微笑んで、ユタヤの袖を引いた。ユタヤは彼女に逆らえない。天女の唇を奪うなど、とてつもなく罪悪感に駆られることだが、その罪悪感がまた心地良く、どうしようもない。

 綺麗な少女に、触れたいと思った。触れて口付けをして、この小さな村でこっそりと結ばれて、やがては親になって、自分が育ったのと同じような質素な家庭を築いて、そんななんでもない幸せを構築していきたいと、思った。

 そんな淡い夢を抱いてユタヤは少女に手を伸ばした。

 あと少しで唇と唇が触れ合うという、その時である。


 がたん、と音がして、ユタヤは夢から醒めた。突然の現実からの呼びかけに、驚いて心臓が跳ね上がる。慌てて飛び起きたユタヤが辺りを見回すと、そこは北国ラウグリアの皇宮の一室、主カグワのために与えられた一室であった。

 ユタヤは暖炉脇の壁に預けていた体をゆっくりと起こす。おかしな姿勢で転寝してしまったせいで、体の関節があちらこちら痛む。首を押さえてぱきぱきと鳴らしながら、ユタヤは夢か、と小さく呟いた。——とてつもなく、幸せで、虚しい夢を見ていたような気がする。

「……寝ていたのか」

 寝ぼけていた彼に直接声をかけてくる相手がいて、ユタヤは再び驚き飛び上がりそうになった。獣の性を封印されているためか、あるいは相手が気配を隠すのに相当優れているのか、全く気付かなかった。がたん、というユタヤを覚醒させた音はどうやら、この部屋の扉の開閉する音だったらしい。扉の脇に、金髪の少年、この国の皇太子が立っていた。

「……皇太子殿下」

「ごめんね、起こしちゃったみたいだ」

 そう軽く謝罪する少年の顔は、今までになく清々しい表情をしていた。初めてこの国に降り立ち出会った時の病気のような疲弊の色も、「出て行け」とこの部屋で一喝された時のような苛立の色もない。まるで憑き物が落ちたかのように、すっきりと清々しい表情をしていた。

「別に起こすつもりはなかったんだけど」

「……いえ、転寝していただけですから、良いのです。どうぞお気になさらず」

 ユタヤは寝起きでまだ判然としない頭を押さえながら立ち上がり、皇太子を暖炉前に置かれた座椅子の方へと招き入れた。大雪の降る寒い中、この部屋で最も暖かいのはこの暖炉前の座椅子である。

「まだカグワは俺の部屋で寝ているから、心配していると良くないなと思って来たんだ。それに君とちょっと話もしたかったしね」

「……はあ」

 言いながら座椅子に座る皇太子を前に、ユタヤは複雑な心境を隠せない。彼に依然一喝された時の、殺されるのではないかという恐怖もまだ忘れられてはいないし、彼に言われた「お前は彼女に惚れているんだろう」というその台詞も頭から離れない。そして、彼を抱きしめて癒した主の様子が何度でも脳裏に蘇り、そしてまだ彼の部屋で寝ているのだという彼女を思うと居たたまれない気持ちでいっぱいになった。そんなユタヤを前に、彼は今更何を話したいことがあるというのだろう。

 そんなユタヤに対して、シルディアは言う。

「この前は悪かったね。実はあまりよく覚えていないんだけど……ものすごく気分が悪くて、君にひどいことを言ったような気がする。まずはそれを謝りたいと思って」

 突然繰り出された謝罪に、ユタヤは目を丸くする。この前とは、「出て行け」と一喝されたあの件のことであろう。ユタヤは慌てて「滅相もない」と首を振る。実際、あれ以来ユタヤが気を病んでいるのは事実であるが、それは必ずしもシルディアの所為ではない。何故なら、彼の言ったことはほぼ真実であると、今では認めざるを得ないから。

「俺は、皇太子として生まれ、皇太子として育ち、どうせお前らなんかに俺の気持ちがわかるわけもない、なんて苛立つことがよくある。でもそれを言ったら、お前だって同じことで、俺には獣人であり仗身であるお前の気持ちなんて理解できない。それなのに、わかったような面をして、お前にひどいことを言った。ユタヤにはユタヤの、悩みがあるはずなのになぁ」

「いいえ……私なぞの悩みなど、取るに足らないものでございます」

「だからそんなに自分を卑下するなよ……って言ってもまあ、仕方ないか。十何年かけて植え付けられた価値観だもんな」

 くす、と笑ってシルディアは首を竦めた。ユタヤは何と言い返すこともできずに、無言でシルディアの前に膝をつく。見上げた皇太子の顔には屈託のない笑みが浮かんでおり、『力』は暴発するだけ暴発し、今はすっかり落ち着いているのだなと伺えた。

「……殿下は、今朝は御気分がよろしいようで」

 その顔色から思った通りのことを告げると、「うん」とシルディアは軽快に頷いた。本当に気分が良いのだろう。

「昨夜はひどい姿を見せてしまったけど……おかげで、すっきりしたよ。カグワが一緒に寝てくれたからね。彼女を抱いて寝ると、不思議なことに驚くほど安眠できるんだ。——あ、変な意味じゃないよ。物理的に、抱きしめてという意味だ」

 補足される説明に、どうやって反応すれば良いのかわからない。それがどういう意味であっても、巫女であるカグワが彼を許容したのであれば、従者でしかないユタヤにあれこれ言う権利はない。

 沈んだ面持ちで俯くユタヤに、シルディアはそっと手を差し伸べる。彼は膝をついた青年の顎に手をあてて、くいと上を向かせた。そして自分と目が合うと、微笑む。

「ねえ? 君はいつから、彼女を愛していたのさ?」

 ユタヤの瞳が揺らぐ。顔を伏せ、目を逸らしたいのであるが、皇太子が顎を掴んで固定している以上、動くこともできない。

「そのようなこと……」

「まだしらばくれるのか。今更違うなんて言わせないよ。俺が彼女を抱いて寝たというだけでそんなに動揺しておきながら」

 返す言葉もない。今ではこれが男女の間に生まれるような俗な愛情ではないと言い切れる自信もない。いや、今までだって、相手は巫女だからと己は獣人だからと、その事実を土台にして己の心を伏せていただけだ。自分がどれだけ主の傍に寄り添いたいと思い、そしてどれだけ彼女に恋いこがれてきたのかなんて、隠し通せるほど小さな想いではなかったことは明白だ。

 ユタヤが罪悪感たっぷりに唇を噛み締めると、シルディアはそれを見て首をすくめる。

「……別にいいじゃないか。お前が彼女を愛したって、別に彼女はお前を厭わないだろう」

「……それは問題ではありません」

「じゃあなんだ? 彼女が巫女だから? お前が獣人だから?」

「それもありますが……それだけではなくて」

 シルディアの手が顎から離される。ユタヤはすぐさま俯いて敷かれた赤い絨毯を見つめると、ぐっと歯を噛み締めた。

 いつから彼女を愛していたのかなんて、皆目見当もつかないことであった。それはこの瞬間から、と呼べるようなものではなくて、日々寄り添う後宮の緩やかな時の中で、ゆっくりと育まれた今となっては引き返せないほど大きな想いだ。いや、あるいは、初めて獣へと変化して、森の中で倒れていたのを救われたあの瞬間から、ずっと彼女に焦がれていたのかもしれない。

 とにかく、それは無意識の結果であり、そんなつもりではなかったのだ。そんなつもりではなかった。自分はただ彼女を護るのだと心に誓っただけだ。それ以上は何も望んでいないはずなのに。

「——彼女は、私の前に降り立った天女なのです」

 ユタヤはぽつりと呟いた。「え?」とシルディアが目を丸くする。思いも寄らない返答だったのだろう。ユタヤはぽつりぽつりと吐き出すように、続けた。

「巫女であるとか、獣人であるとか……もちろんそれが無関係であるとは思いません。ですが、そういうことではないのです……。彼女は天女だ。巫女も『力』も関係ない。私の前に降り立った、天女なんだ」

 初めて彼女を森で見上げた、あの死を間近に控えた絶望の淵で、「天女だ」と思った瞬間から、ユタヤの心は変わらない。彼女は天女のように美しく優しく、慈悲深い。ユタヤに生きる意味を与えてくれた。そして今も、自分は彼女のために生きている。


 それなのに、いつから自分は彼女に俗な愛情を注ぐようになってしまったのだろう。


 苦りきるユタヤを見下ろして、シルディアは「天女ねぇ」と小さく呟いた。まるで呆れているようにも聞こえるその声色の意味は、本気で悩んでいるユタヤには届かない。

「まあ、それも愛情なのかな。俺は誰かを天女みたいだなんて思ったことはないけれど」

 思っても言わないけどね、と付け足して、シルディアはすらりと足を組んだ。彼は今度は己の顎を撫でて、ちらりと窓の外を見る。降りしきる雪で景色も見えない窓の外を見てから、少年は「そうだね」と言葉を続けた。

「天女かどうかはともかくとして……お前の言いたいことがわからないわけでもない。俺はカグワに抱きしめられて初めて、『愛』の意味を知った気がする」

 言われて、ユタヤは顔をあげた。すっきりとした笑顔を浮かべ、遠い窓の外を見やる皇太子は、以前、「無償の愛」を真っ向から否定した。人を愛するからには必ず何かしらの見返りを求めているのだと、彼は語った。だが、今の彼は、何かを悟ったかのように改めて「愛」についてこう語る。

「不思議だね。別に何をするわけでもない、男女として交わるわけでもなんでもないのに、ただ寄り添うだけで、とんでもなく安心するんだ。そして、俺自身も、優しい気持ちになれる。愛は伝染するのかな? 誰かから愛を受け取れば、その愛を他の誰かに注ぎたくなるような——そんな感覚だ」

 皇太子は言って微笑んだ。色白で華奢な少年は、毒のない笑みを浮かべればそれはそれは美しい様相をしている。ユタヤは初めて、この少年の本来の姿を見たような気がした。

「だからきっと、そんな風に俺に愛を注いでくれたカグワも、今までたくさんの愛情を注がれて生きてきたんだと思うんだ。だから、迷わず俺を抱きしめられる。——彼女に愛を注いできたのは、お前か?」

 どうやら、彼の質問の真意はそこにあったらしい。故に、「君はいつから、彼女を愛していたの」と問うてきたのかとようやく氷解する。

 しかし、ユタヤが彼女に慕情を抱いていることは今や認めざるを得ないものの、ユタヤが彼女に注いだ愛情が、それほどまでに大きく彼女に影響しているとは思えなかった。カグワはカグワだ。ユタヤが彼女にどれだけ恋い焦がれようと、変わらない。

「かぐわの君は……そういうお方なのです。誰かが彼女を愛していたからとか、そんな理由ではありますまい」

「ふうん? そうなの?」

 まあ俺にはよくわからないけどさ、と軽い口調で言ってのけて、シルディアは座椅子から立ち上がった。ユタヤは膝をついた姿勢のまま、彼を見上げる。くるりとこちらに背を向けた彼は、どうやらもう帰るつもりらしい。

「カグワがずっと此処にいられたらいいのにって、俺は思うよ」

 背中越しに吐き出された言葉に、唖然とする。カグワは西国の巫女だ。「そういうわけには」と慌てて口を挟むと、シルディアはくすと笑った。彼は「わかってるよ」と言う。

「カグワがずっと此処にいられないことは、わかってる……。そして、西国と北国の間に何が起きようとしているのか、そのために西国の巫女が何をしなくてはいけないのか……」

 ぼそぼそと紡がれる言葉に耳を傾けながらも、ユタヤには深意が解せず、眉をひそめる。

 シルディアにはしかしそれを説明する気はないようで、部屋の扉に手をかけると、それを開いた。そして今までになく寂しげな笑みを浮かべると、こちらの方を振り返った。

「生まれついた定めというのは、悲しいものだね……。君が獣人であることをどうあがいたって変えられないのと同じように、俺はどうあがいたってやっぱり北国ラウグリアの皇太子なんだ。そして、カグワは西国エウリアの巫女だ」

 それはそうだろう、と釈然としないままユタヤが頷くと、「うん」とシルディアも頷いた。

「定めは変えられない。それは、君も俺も、同じことだね」

 少年はその一言だけを残して、部屋を去って行った。取り残されたユタヤの中には、妙なわだかまりだけが残される。


 誰もいなくなった部屋の中で立ち上がり、ユタヤは暖炉の脇に再び移動すると、シルディアが来る前まで転寝していたその場所に再び腰を下ろした。腕組みをして目をつむれば、再び睡魔が襲いかかってくる。


 ——定めは変えられない。


 それはその通りであると、ユタヤもよく承知していた。だがしかし、皇太子の述べた「定め」というのが何なのか、判然とはしない。カグワがずっと此処にはいられないことか、自分が北国の皇太子であることか、あるいはカグワが西国の巫女であることか、それとも何か全く別の事を示唆しているのか。

 強大な『力』の持ち主であるというシルディアならば、巫女の技の一つでもある先見の技、すなわち未来予知をするのも、朝飯前であろう。おそらく彼の言う定めは、彼の見た未来の一つだ。彼は未来の光景の中に、何を見たのだろう。

 何やら、あまり良くない予感がした。そもそもいつまで北国の軍は、西国の巫女カグワを此処に幽閉するのだろう。西国は、北からの文書を受け取ってどのように返事をしたのだろうか。北国では、西国では——今、世界では何が起こっている?


 皇宮の中に閉じ込められたユタヤには、果たして外の事情が全く聞こえてこない。だが、北国に攫われもう一月以上が過ぎるという頃、何かが動き始めているであろうことは想像に難くなかった。


(とにもかくにも、何があろうとも、俺はかぐわの君を護ろう)


 例えその動機が純粋ではなくとも。例えそれが彼女へ注ぐ不純な愛であっても。


 ユタヤの心は、やはり変わらない。己の決意の動機さえわからない今でも、変わらない。


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