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17、不毛な恋心

 皇宮の中は広い。全ての部屋が皇太子の物であるフロアもあれば、カグワのような他国の賓客をもてなすためのフロアもある。当然、この皇宮に仕える小間使いたちの生活するスペースもあった。百人単位の小間使いたちが働いている皇宮であるが、その百人の住まう広さと、皇太子一人が住まう広さはさして変わらない。華やかな皇宮の中で、最も質素なそのフロアに辿り着くと、オレークがユタヤを案内したのは薄暗い倉庫のような場所であった。

 窓が一つもなく、外界と繋がっているのは天井にぽっかりと空いた通気孔一つのみである。そこは扉が閉まると何も見えなくなってしまいそうなほどの暗闇で、オレークは扉の閉まる前に燭台の上に火を灯した。

「娘は、そこに」

 言って、オレークの示した先には古びた木製の長椅子がある。ユタヤは抱えて来た女中をゆっくりとその長椅子の上に横たわらせた。ぎいと長椅子の足が軋んだ音をたてる。だが、気を失っている娘は一向に目を覚ます気配を見せなかった。

「殿下の『力』の暴発に巻き込まれる人間が、たまに一人二人いてな……命を落とすこともあるが、その娘はおそらく平気だろう」

 オレークは言いながら、倉庫の中に置かれた棚を物色している。そしてその棚の三段目の最も端に置かれた瓶を手に取ると、片手でグラスにその瓶の中身を注ぎ始めた。注がれる液体は無色透明で水のようにも見えるが、薄暗い倉庫の棚に置かれている時点で何やら怪しげだ。

「殿下にご執心だった娘でな、たびたび仕事と称して殿下の寝室に忍び込んでいたのは知っていたが、まさか彼女もこんなことになるとは思っていなかっただろう」

 瓶に蓋をして棚に戻しているオレークの後ろ姿を見上げてから、ユタヤは長椅子に寝転がる少女を眺めた。真っ青な顔色をしているが、特に怪我のようなものは見当たらない。

「……外傷はないようですが」

 ぽつりとユタヤが呟くと、「そうだな」とオレークも頷いた。傷ならば、オレークの方が深いものを負っているはずだ。

「外傷はないが、殿下の『力』の暴発を真正面から食らった。俺はまだそれを経験したことはないからうまく説明できんが、耐えきれないほどの負の感情に心を支配されるらしい。そしてその娘のように気を失うか、あるいは負の感情に耐えきれなくなって自ら死ぬ場合もある。身投げなどしてな」

 ユタヤは先刻皇太子の部屋で見た、紗幕を覆うどす黒い瘴気の塊を思い起こした。あれは皇太子の『力』そのものというよりも、カグワが言うには死者の『魂』だそうだが、それを引き寄せているのが皇太子の『力』なのだから、総じて『力』の暴発と呼んで然るべきなのだろう。

「……あの、暗黒色をした瘴気のようなものを、真正面から食らったということか……」

 ユタヤは足が竦んでしまって、その方向へ近付くことさえできなかった。それでも吐き気を覚えたほどである。確かにあれを真正面から食らったら、気を失うか、あるいはもがき苦しんで身投げしてしまうかもしれない。

「暗黒色? ……なるほど、獣人にはあれが見えるのか」

 独り言のように小さく呟いたのはオレークである。「え?」とユタヤが見上げると、彼は透明な液体を注いだグラスを持って女中の横たわる長椅子の前に膝をついて、「俺には見えん」と言った。

「俺は『力』を持たない凡人だからな。この娘もそうだ。だから、殿下の『力』が不安定であることにも気付かず不用心に近付いて、巻き込まれてしまったんだろう」

 オレークはそう説明して、眠っている女中を片手で抱き起こすと、自分の体にもたれかからせる。そして、片手でグラスに注いだ液体を女中に飲ませた。腕に傷を負っているため、動きが不自由である。ユタヤは彼に手を貸して女中の体を支えながら、首を傾げた。オレークが『力』を持たず、この娘も『力』を持っていないため、皇太子が纏っていた暗黒の瘴気が見えなかったというのはわかる。だが、どうして獣の性を封印された自分には、あれが見えたのだろう。

「……私は今、獣の性を封印されていると思っていましたが……」

 つまり今のユタヤは、『力』を持たない凡人と同じはずである。そう思って首を傾げるユタヤに娘を任せて、オレークは立ち上がった。空になったグラスを持って、乾布巾でそれを拭う。

「お前や巫女君の『力』であったり獣の性であったりは、使えぬようにと封印されているだけだ。お前たちがそれを持っていることに代わりはない。だからお前は獣に変化できないし、巫女君は様々な技を使うことができないが、凡人には見えない物を見るようなことはできるんだろう」

「見えないものを見るのにも、『力』を使うのではないのでしょうか?」

「そんなことは知らん。凡人の俺より、獣人の方がわかるだろう」

 そう言われても、ユタヤにだって何もわからない。後宮に入ってからというもの、獣としての力を磨くことはあっても、その『力』がなんであるのか、その『力』がどういう仕組みで作用しているのかなんて、教わったことなど当然なく、考えたことすらなかった。ただ、自分はこの『力』を主であるカグワのために捧ぐのだと思っていた、それだけである。

「しかし、やはり獣人であっても、『力』の暴発する殿下には近付けないようであったな……」

 オレークは言いながら乾拭きしたグラスを棚に戻して、自分の破れた宮廷服を引っぱり、完全に裂いた。その下から白い腕が露出する。丁度肘の関節の辺りにぱっくりと皮膚を裂いた傷が見え、茶色に近い赤い血が腕を沿って滴り落ちていた。

「凡人が近付けば、そこの娘のように『力』にあてられて終わりなんだが、獣人でもあれ以上は近付けないものか?」

「獣人だからかどうかは不明ですが……少なくとも私は、近付けなかった」

 ユタヤはあの瘴気の放つ禍々しい雰囲気を思い出して、身震いした。あれ以上は無理だ。本能がそう語りかけるから、ユタヤは前に進むことができなかった。

 だが、そこでふと気付く。今目の前にいるこの男はどうだろう。自分のことを「凡人」と呼びながら、凡人が近付けないあの瘴気に近付いて、女中を助けたのではないのか。それなのに、受けた傷は割れた窓の破片で腕を切ったくらいなもので、少しも瘴気にあてられた様子はない。

「……何故、オレーク殿はあの部屋にいることができたのです?」

 素朴な疑問である。小間使いとは言え北国では侯爵の地位にも値するというオレークを呼び捨てには出来ず、敬称を付けて呼びかけると、オレークは特に気にした様子も見せずに、「ああ」と思い出したように頷いた。

「俺は殿下の世話役だからな……殿下の『力』にあてられて仕事が遂行できないようでは困るのだ。故に、これを、持たされている」

 そう言ってオレークは傷のない方の腕で宮廷服の胸ポケットを探り、中から手のひらに乗るほどの大きさの黒い球体を取り出した。漆黒色をしたその球体に、思わず目を奪われる。何も映し出さないそれは、沈黙の存在で、周囲の物を吸収してしまいかねない黒さを持つ。なんだこれは、とユタヤは目をぱちくりさせた。

「玉音石と言ってな……これを持つことによって、ある程度の『力』の干渉を防ぐことができるのだそうだ。初めて世話役として殿下にお会いした際に、直々に頂いた。これを持っていても、尚、『力』に負けて逃げ出す世話役も大勢いたらしいが」

 説明をして、オレークは黒い球体を再び胸ポケットにしまった。玉音石、とユタヤは口の中で繰り返す。初めて見るものであった。つまりその石でもって『力』の作用から身を護ることができるということなのだろうが、皇太子と同じく『力』の持ち主である聖女たちの集う後宮でさえ、石など使って身を護ろうとする下働きはいなかった。それが必要とされるほど、皇太子の『力』は強すぎるということなのだろう。

「……今回のように、『力』が暴発して、それに耐えきれなくなった世話役が、逃げ出すということか」

 自分なりに理解してユタヤがそうまとめると、「いや」とオレークは首を振った。どうやらそういうわけでもないらしい。

「暴発を受けて逃げるだけならまだいい。中には、ただ日常的な世話をしているだけで、耐えられなくなった世話役もいるという」

「……何故?」

「世話役は常に殿下の傍に寄り添う。すると、じわじわと殿下の『力』に精神を浸食されてしまうのだ。どう説明すればいいものか……端的に言うと、「孤独」だ」

「孤独?」

「殿下の『力』を構成しているのは、ほぼ孤独だと俺は思っている。殿下の傍にいると、その孤独が自分の精神の中にまで充満してきて、逃げ出したくなるんだ。俺はまだ逃げ出したことはないが——俺で、殿下の世話役は五十人目だからな。その効果がどれほどのものか、わかるというものだろう」

 五十人、とユタヤは愕然とする。シルディア皇太子殿下は御年十七にお成りだという。十七年という短い歳月の中で五十人も世話役が代わったのだ。代わらざるを得なかったのだ。皇太子の持つ『力』の強さを語っている。

 圧倒的に多い数字を述べたオレークは慣れた様子であっけらかんとしている。彼は裂いた宮廷服の袖の部分で自分の傷ついた腕を強く縛り上げた。止血のためであろう。

「俺は、殿下の世話役を務めた中で最長記録を持っているんだぞ。とは言っても、たったの三年だがな」

「三年……」

「最短記録が一日だったことを思えば大したものだろう」

「……。……オレーク殿は、何故逃げ出さぬ?」

「逃げ出したくなることは何度もあったさ。だが、これが仕事だからな。俺は役目に忠実なんだ。これが上意であり、国から俺へ与えられた任務なのだと思えば逃げ出すわけにはいかない。——要は、冷めているんだろう。必要以上に殿下には近付かない。仕事だと思って割り切って接している」

 なるほどそうか、とユタヤは納得した。それは、ユタヤ以外の仗身たちと同じである。ユタヤ以外の聖女に仕える仗身たちは皆、己が仗身であることを役職として捉えていた。故に、聖女との距離もユタヤとカグワほどに近くはない。ユタヤとカグワの関係性は、異端であった。が——。

 カグワのことを思って陰鬱になるユタヤに気付いているのかいないのか、「ところで」とオレークは止血した腕をぶらさげて問うてくる。

「お前は生まれた時より仗身として巫女君に仕えているのか?」

 この男は、自分と同じく『力』ある主に仕える仗身に、興味があるらしい。ユタヤは上階で今頃皇太子を抱きしめているのであろう主を思って憂鬱になりながら、首を横に振った。

「否……私がかぐわの君に仕えたのは、八つの年になってからのこと。死にかけているところをかぐわの君に救われて、それで」

「八つの頃ということは、人間から獣に変化するぎりぎりのところではないか。よく間に合ったな」

「いや、もうその時には私は、獣に変化していた。獣に変化して村人に殺されそうになっているところを、かぐわの君に拾われたのだ」

「ほう? 面白いな。西国の巫女の仗身は、生まれた時から仗身として育てられるのだと思っていた。巫女に救われて仗身となるのか」

「そうじゃない。仰せの通り、大概の仗身は生まれて間もない頃から仗身として育てられる。だが、私の場合は特殊だった。……私は、かぐわの君にとって二人目の仗身なんだ。一人目の仗身は死んでしまったというから」

 それはまだユタヤがカグワのことを知らない頃、まだユタヤが普通の人間の子供として村で生活していた頃のことだ。後宮に住まう聖女であった幼きカグワは、同じく幼き仗身に身を庇われたのだという。カグワを庇った幼い仗身は、そのまま命を落としたそうだ。が、その詳細は聞かされていない。カグワは「よく覚えていないの」と笑ったが、本当に覚えていないのか、あるいは覚えていてもユタヤに話すようなことではないと気を遣っているのか、判断し難いところであった。

 ほう、と声をあげたオレークは、ますます興味深そうに目を細める。茶色い癖っ毛がわずかに揺れた。

「では、お前のその忠誠心は、まだ自立心のない頃から先天的に植え付けられたものではないんだな。後天的に、芽生えたものなのか。だとすると、ますます興味深い。お前が、命を張ってまで巫女君を護る利益はなんだ? その忠誠心の動機はなんなのだ?」

 ユタヤは完璧に言葉に詰まった。

 つい先日、シルディア皇太子殿下にも全く同じ事を聞かれたばかりであった。お前は何故、彼女のために命を張るのか、と。ユタヤは未だに答えを見つけ出せずにいる。

 黙り込んで俯いてしまったユタヤを見て、オレークは何を思ったのだろう。わずかに口元を歪ませて、呟いた。

「……不毛な恋心だな」

 ユタヤはかっと目を見開く。シルディアと同じように、彼もまた、ユタヤのこの忠誠心を恋慕の心だというのか。そんなものではない。以前のユタヤなら、即座に否定をしたはずであった。——だが、今は、自分の忠誠心に自信がない。

 自分の前だと安心しきって服でもなんでも脱ぎ捨ててしまうカグワの危うさに鼓動を早くさせたり、彼女の眩いほどの笑顔に目が眩んだり、あるいは迷うこともなく彼女に救いを求めて抱きしめられる皇太子を心のどこかで羨んだり、もはや、わけがわからない。そんなつもりではなかった。そんなつもりで、彼女の仗身になったわけではなかったのだ。

 唇を噛み締めて苦渋の表情を浮かべる彼を見て、オレークは瞬く。よもや彼がそんな風に思い詰めているとは思いもしなかったのだろう。オレークは傷を負った腕を撫でながら、困惑したように告げた。

「……別に慕情が動機でもいいじゃないか。主に尽くすのだという忠誠心に変わりはあるまい」

「……忠誠は、忠誠だ。誰かに忠誠を誓うのに、何故動機が必要なのです。私はそんなつもりで、巫女に仕えているのではない。忠心に動機はいらない」

「いらないことはない。全ての世の中の事象には、原因や動機が付随する。それは世の理だ。そして、その原因や動機に良いも悪いもない」

 オレークはきっぱりと言い放った。彼の目は、どこか遠くを睨みつけているようにも見える。強大すぎる『力』を持つ皇太子の世話役を三年も続けたという傑物は、その意思もはっきりとしていた。

「俺が殿下に仕える動機は、それが上意であるからだ。それを冷淡すぎると、思いやりがないと言う輩もいるが、結果的にはそのおかげで俺は三年間も世話役を続けていられる。もしも殿下のことを慕い、近付きすぎてしまったら、殿下の抱える孤独に飲まれて半日も保たなかったかもしれない。動機は何でもいいんだ。結果が重要となる」

「結果……」

「例えば巫女君は、我がラウグリア国に誘拐されたような立場でありながら、それでも我が皇太子殿下に良くしてくださる。己を誘拐した敵国かもしれない国の皇太子であろうとも、良くしてくださる。その動機を我々は知らないが、結果的にはそのおかげで皇太子殿下は救われている。それは、我が北国を助けているようなものだ」

 なにかしらの理由があってカグワは北国の皇太子を救った。しかし北国にとってはその理由などどうでもよくて、彼女が皇太子を救ってくれたという事実の方が重要となる。オレークはそう言いたいのだろう。世の中には原因と結果が幾重にも螺旋状に繋がって渦巻いており、重要なのは結果の方である、と。

 しかし、ユタヤはそうは思わない。本当に重要になるは、動機の方ではないのか。動機があるから結果が付いてくる。だからこそ、己の中にある巫女に対する特別な想いが憎らしい。こんなものが邪魔をして、結果的に自分は巫女を護れないのではないか。

 そんな自分に比べて、カグワの抱く動機は単純明快だ。それは常に、人を救ってきた。まるで、天女そのものの動機である。

「……かぐわの君は、いつでもそうなのだ。相手が例えば敵国の皇太子であろうと、例えば忌まわしき獣人であろうと、変わらない。自分の前に現れたからには、それが運命だと彼女は思うのです。だから手を差し伸べる。自分の前に立つ者を皆平等に判断する」

 だから、彼女は、森の奥に倒れていた穢らわしい獣人を拾って、己の仗身とした。だから、東の君と呼ばれることにも少しの嫌悪も見せなかった。獣人であろうと、東国の生まれであろうと、同じ命であることに変わりはないと知っているからである。さしあたって、皇太子に関してもそうだ。どれだけ高貴な存在であろうと、どれだけ強大な『力』を持っていようと、貴方は貴方だと言い切れる彼女の強さはそこにある。

「だが……なかなか、出来ることではない。私は、獣人である自分と、巫女であるかぐわの君を平等になんて思えない。同じ世界に生きていることこそが奇跡だと思う。本来なら、巡り会うはずがなかった」

 カグワの存在を遠く感じる昨今、ユタヤは本気で、彼女と自分は異なる世界の生き物なのだと思うようになった。そんな自分がどうして彼女に恋慕の気持ちなど抱けよう。

 そうして俯いたユタヤを見て、面白そうに笑ったのはオレークである。

「だが、巡り会った。結果的にお前は此処にいる。やはり俺は、結果の方が重要だと思うがな」

 そう答えて、オレークは棚から離れた。そして倉庫の扉の方へと向かう。どうやら此処から出て行くつもりのようだった。

「……なるほどな、それが巫女君の持つ不思議な能力の所以か……。殿下の『力』でさえ鎮めてしまう強さは、相手を枠組みではなく真で見極める勘の良さからくるのか」

 オレークは「面白い」と呟いて、こちらを振り返った。そして依然として女中の寝転がる長椅子の前に膝をついているユタヤを見下ろして、言う。

「俺も少し見習おうか……まずは、獣人としか呼んだことがなかったが、お前の名を聞こう」

 獣人、と呼ばれることにも慣れたものである。それはユタヤの生まれ持ったさだめであり、厭う気もなかった。が、当然名前を名乗ることを拒絶する気もない。

「ゆたや、と」

「ゆたやか……ふむ、さすがに獣人であるからには東国の生まれか」

 ユタヤは驚いて顔をあげた。確かに獣人の出生率が最も高いのは東国であり、それは事実だ。だが、それを知っていてさらに「ゆたや」という名前が東国の物であると判断でき、きちんと東国の訛りで発音できる人間に久しぶりに会った。久しぶりどころか、カグワ以来、初めてかもしれない。

「東国の言葉が……わかるのですか?」

「最近では東国の人間も標準語を話すだろう。東国人との会話に困ったことはないぞ」

「そういうことを聞いているのではありません。ゆたや、と私の名前がおわかりになるのか、と」

「ゆたや、か。作物などの実りの良いことを指す言葉であったか」

「東国の古語ですが」

「俺は昔から古文書を読むのが好きなんだ。特に東国の神話は面白い」

 そう言って笑った彼ははったりを言っているわけではなさそうだった。元より知識の豊富な切れ者だとは思っていたが、まさか他国の古語にまで精通しているとは思わなかった。オレーク・ナイザー。正真正銘の傑物である。

「では、俺はそろそろ戻るとする。殿下の『力』が暴発し、世話役としてやらねばならんことが山と残っているのでな」

 そう言って踵を返したオレークに対して、ユタヤは焦りを隠せない。この娘はどうすればいいのか。

「お待ちください、この娘は……」

 慌てて聞くと、青年は「放っておいて良い」と答えた。ユタヤは目を丸くする。確かに外傷はないものの、『力』の暴発を真正面から受けて精神に大きな損傷を食らったと言ったではないか。

「忘却の水を飲ませたのでな」

 目を丸くしているユタヤに、オレークは端的に答えた。忘却の水、と繰り返すと頷く。彼の先示す先には、棚の上に置かれている瓶があった。あの中に入っている無色透明な液体のことを示しているのであろう。

「あれを飲むと、今より一日ほど前までの記憶がなくなる。従って、殿下の『力』の暴発のことも、精神に受けた傷も忘れる」

「そんなことができるのか……」

「『力』の使い道は様々だ。その忘却の水をお作りになったのも、皇太子殿下だぞ。皮肉なことにな」

 自分の『力』によって犠牲になった者を、自分の『力』によって癒す。確かにそれは、皮肉なことかもしれない。

「俺は殿下の世話役だからな。殿下の『力』が暴発するたびに、こうして周りの始末を行う。三年経った今ではお手の物だ」

 今回は多少傷を負ってしまったがな、と自分の片腕を示して笑う彼は、倉庫の出口を開いた。開かれた出口から、日差しが暗い倉庫の中へと差し込んでくる。外はまだ昼間だ。

「ゆたや、お前ももしも、己の慕情を後ろめたく思うのであれば、忘却の水を飲んでみればいい。グラス一杯で一日分だ。後ろめたい想いも何も忘れられる。ただし、忘れたくないことまで忘れてしまうかもしれんがな」

 オレークは冷めた笑いを残して倉庫を出て行った。ばん、と重い扉の閉まる音が響き渡る。


 取り残されたユタヤはのろのろと立ち上がり、なんとはなしにその瓶の中身を覗いた。その中身はすでに半分も残っておらず、グラス五杯あるかどうかである。ここ五日間の記憶を失ったところで、ユタヤの中にある後ろめたい想いの消えるわけもない。


 いつからこんなことになってしまったのだろうか、と思わずにはおれなかった。あの森で天女のような少女に救われた幼い日、自分はただ純粋に、彼女に命を捧ぐのだと誓ったではないか。それがいつのまにねじ曲がってしまったのか。


 その答えは見つからない。恐らく永遠に、見つからない。彼に出来ることは、上階で皇太子を抱きしめているであろう少女のことを、ただ悶々と待ち続けることだけなのだ。

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