16、浄化
主の後を追って、冷たい石塔の階段を延々と昇り続ける。
迷うことなく皇宮の中を走り抜けて行くカグワは、この一月でこの皇宮内の道をしっかりと頭の中へと叩き込んだようであった。特に、たびたび訪れていた皇太子シルディアの部屋のある場所は、忘れられない。それに対して、カグワの付き添いなど何か理由のない限り部屋から出ることもなかったユタヤには、まだこの広い皇宮内の地理感覚がない。ゆえに、彼女の後を追って走りながらも、自分が今どの辺りにいて、どこを目指して走っているのかは定かでなかった。
そしてただ機械的に主の後を追って飛び出したのは、皇宮の中でも上の方にある広いフロアだ。他の階と異なり、より一層優然とした雰囲気が立ちこめている。いかにも高貴な人間が住んでいるのであろうと想像できるこの場所に、ユタヤは一度だけ足を運んだことがあった。——北国に飛ばされてきて、初めて訪れた皇太子の部屋のある階だ。ベッドの上に転がっている皇太子と出会い、カグワの巫力が封じられるのと同時にユタヤの獣の性もまた、その時に封じられたのであった。
(……皇太子殿下の部屋か)
カグワがまっすぐ目指して駆け抜けて行くその廊下の先には、どんと控える豪華絢爛な巨扉が控えている。そしてその中にはあの少年がいるのであろうとユタヤにも安易に予想がついた。
——不愉快だよ、ユタヤ。実に、不愉快だ。
強い覇気を持つ眼差しでもって、彼にそう言われたあの日から、ユタヤはどうにもこうにも調子が好ましくない。カグワを護るのだと誓った己の忠誠心に自信が持てなくなり、そしてシルディアの持つ強大な『力』の片鱗を見せつけられて、彼のことが恐ろしくなった。彼は眼差し一つで人を殺してしまえるほどの強い覇気を持つ。その彼の『力』が今、暴発しているという。
思わず怖じ気づくユタヤとは異なり少しの恐れも見せないカグワはすぐに廊下を走り抜けて、シルディアのいるであろう最奥の部屋の前へと辿り着いていた。その後ろ姿を見て、ユタヤも唾を飲み込み決意する。シルディアの『力』は恐ろしくとも、それに臆してカグワを一人で行かせるわけにはいかない。青年は怖じ気づく己の足に鞭打って、彼女の後を追った。
部屋に近付くと近付くだけ、何故だか少し寒気がした。それは、暴発しているという『力』による物だろうか。今のユタヤは「獣」の性を封じられているために、とても感覚が鈍ってしまっているが、もしも今「獣」の性を持っていたなら、それはそれはおぞましい気配にこの部屋に近付くことさえできなかったかもしれなかった。それほどまでに、恐ろしい何かが、この扉の向こうには待ち構えている。
「……シルディア!」
いくら巫力を封印されているとは言え、カグワとてそれに気付かぬほど鈍感ではなかろう。しかし、カグワはそれでも欠片の迷いも見せずに、その扉を開いた。ユタヤは中に待っているであろう何かを恐れて、ぐっと歯を食いしばって身構えた。
扉が開かれた瞬間、己を取り囲む空気が、ぐわんと揺らいだような気がした。どう説明すれば良いのだろう。一瞬だけ現実世界から離れた夢幻の世界に落とされて、また現実へと引き戻されるような、精神の揺らぐ感覚である。——時空間が、不安定なのだ。ユタヤはそう気付いた。シルディアは、遠い西の地からカグワを引き寄せたように、その『力』でもって、時空間さえ操る。そしてその『力』が暴発してしている彼の元では、時空間が平常ではなかった。
「シルディア!」
再びカグワが彼の名を呼んで、部屋の中へと飛び込んだ。慌てて彼女の後を追ったユタヤは、飛び込んだその先、シルディアの寝室の中を見て唖然とする。一度だけ、獣の性を封印された時にこの部屋を訪れたことはあったが、その時とはまるで異なる地獄のような有様であった。
部屋の窓辺に飾られた美しかったのであろう花々が全て枯れて下を俯き、窓そのものが古ぼけたがらくたとなる。不安定な時間の中で、様々な物が劣化していくのが見えた。通常の何倍もの速度で時が流れて行き、物が古びていく。そして最後にそれは劣化し壊れ、その場に転がった。ゆえに、部屋の中は何年も人の住んでいなかった廃屋のように、荒れた様になっている。
「……巫女君!」
部屋の片隅から、凛と少女を呼ぶ声がした。その声の方向を向くと、カグワを呼べと言ったという張本人、オレークが屈み込んでこちらを見上げていた。屈み込んだオレークの足下には、一人の女が転がっている。恐らく女中なのであろうその女は、この時間と空間の錯綜する場所の中で変化に絶えられなくなったらしく、気を失っていた。
「……よくシルディアの寝室にいた娘だわ」
カグワが女を見て小さく呟いた。ユタヤはこの女中のことを知らないが、カグワは知っているのだろう。少女はちらりとユタヤを見上げると、告げた。
「ゆたや、貴方はあの娘を」
言われたユタヤは目をみはる。自分は他でもないカグワを護ろうと思ってここまで付いて来たのだ。
「しかし……!」
慌てて反論しようとすると、カグワは首を振った。少女は「私は大丈夫よ」などとほざく。引き止めようとするユタヤの手を振り切って、彼女の向いた先は、部屋の中央に置かれた巨大な寝台であった。以前ここを訪れた際にも、その紗幕のかけられた巨大な寝台に、シルディアが眠っていた。そして恐らく今も、彼がいるのはその紗幕の内側だろう。何故なら、巨大な紗幕の外側をさらに包むように、暗黒色の空気がその場に立ちこめていたからである。
「……なんだ、あれは?」
思わずユタヤはその吐き気さえ誘われるそのどす黒い空気の流れを見て、口元を押さえた。怒りや悲しみなど、負の感情がその空気の中に渦巻いている。そして時空間を不安定にしているのもやはり、その暗黒の空気の影響だと思われた。だとすればあれは、シルディアの『力』の暴発したものか。
そうユタヤが勝手に予測したのも束の間、隣に立つ少女がぽつりと呟いた。
「……あれは……死人の、『魂』だわ」
え、とユタヤは目を見開く。ユタヤには想像も付かない答えであった。
——殿下は人の死に敏感でな……近い場所で人が死ぬと、それに同調して『力』が揺らぐ。そしてそれを自分では制御できないそうだ。
かつてそう教えてくれた男は今、部屋の片隅で倒れた女中を前に、屈み込んでいる。世話役であるという彼でさえ主に近付けないのは、あの暗黒の空気の所為だ。あまりにも禍々しくて、ユタヤは此処から一歩も動けない。その正体は、人の死んだその『魂』だというのか。ユタヤにはその真偽を計ることなど到底できるはずもなかったが、とにもかくにも足がすくむ。これ以上暗黒の空気の方へと近付くことはできなかった。
——だというのに。
「……シルディア!」
その暗黒の空気の中央にいるであろう少年の名を呼んで、駆け出して行くカグワは無敵だった。あの暗黒が見えていないはずもないのに、全く恐れる素振りも見せない。具体的にどうなるのかなんてわかるわけもなかったが、あの暗黒に近付いては危険だと本能が語りかける中、ユタヤは必死に叫ぶことしかできなかった。
「かぐわの君……!」
身を呈して彼女を護るのだと誓ったくせに、足がすくんで動けない。それでも必死に主の名を呼び、危険だから近付くなと叫ぶと、少女はちらりとこちらを振り向いた。その顔には少しの恐れもない。眩いほどの笑顔に満ちあふれている。
「……私は、大丈夫だから」
「だからその娘を」と付け足したカグワに対して、ユタヤはもはや何も言い返すことができなかった。何故ならその「大丈夫」は、彼女の本心からくる言葉である。はったりやなんかではない。彼女は、死人の『魂』を、暗黒の色に渦巻く人の負の感情を、少しも恐れてなんていないのだ。
「シルディア」
少女は暗黒の渦の中に手を突っ込んで、閉じられた紗幕を開いた。開くと同時に、中から瘴気のような黒い空気が溢れだす。ユタヤは絶えきれず、うっと呻いて口元を覆った。あれらも全て死人の『魂』なのだろうか。見ているだけで気分が悪い。吐きそうだ。
しかし、その空気を真正面から浴びたカグワは、ほんの少しだけ眉をひそめたが、それだけだった。そしてそのどす黒い瘴気の中央にいる、少年に手を差し伸べる。少年はゆっくりと上を向いて、少女を見つめた。その眼差しは焦点があっておらず、虚ろだ。まるで心此処にあらず——その少年は、いつもの少年ではない。他の何かに取り憑かれたような顔をしている。
「……子供が、いるんだ……」
ぽつりと、皇太子は呟いた。壊れたねじ巻き人形のように、機械的に口を動かす。おそらく彼自身の意思ではない。皇太子の体を使って、何者かが喋っているかのような、そんな動きであった。
「田舎に帰れば、子供がいる……養うために、入ったのさ、軍に。戦をしたいわけではない。なのに何故誰も話を聞かぬ。何故仲間に命を奪われる。子供がいるのさ。会わなきゃいけない。まだ死ねない」
ぼそぼそと呟くその言葉は、きっとあの瘴気のような死人の『魂』だ。死人の『魂』が皇太子に乗り移り、何事かを喋らせている。——かと思えば、次の瞬間皇太子は獣のような雄叫びをあげた。悲鳴のような声で、叫ぶ。
「やめろやめろやめろぉおっ! 死ぬのは怖い、死ぬのは怖い死ぬのは怖い……! 痛い、痛い痛い! せめて一発で殺してくれ、こんなに辛いのならば、殺してくれぇええっ!」
別の死人の『魂』だ。取り憑かれたみたいに、皇太子は次々に『魂』を自分の中に吸収していた。
「殺すんなら殺せばいいさ! 見ていろよ、死んでも尚、必ずやこの国にまとわりついてやる! こんな小さな国、怨念の一つで捻り潰してやろうとも! この恨みは深く、浄化できるものか! 国家を、皇帝を、軍を、呪い殺してやる!」
「ぅわっ、あ、あ、ああ、そんな、つもり、じゃ、なかったんだ……! いや、だあああ、あははは、あははあ、わ、うわあ、ぎひぃいいっ!」
「はっ、はぁ、正気の沙汰とは思えん……! まるで虫けらのように人を殺すのか! 死など怖くない。だが、正気の沙汰ではない。この国は、腐っている……!」
次々に死者の『魂』を取り込んで、そのたびに、皇太子は寝台の上を転がり回る。その姿はまるで、哀れな人形であった。ユタヤは寝台から離れた所からその瘴気を見ているだけで、吐きそうなほどに具合が悪くなるというのに、それら死者の『魂』を次々に体に取り込むその苦しさはいかほどのものであろうか。寝台の上を転がり回るのは、その苦しさ故であろう。そして、彼が暴れるたびに、暴発した『力』の影響で、部屋中の物がみるみるうちに腐敗していくのが見えた。
だが、その瘴気の中にあっても顔色一つ変えないカグワは、哀れな皇太子の転がる寝台の上に上ると、彼の顔を撫でた。一瞬だけ、彼が我に返る。瘴気が揺らいだ。皇太子に乗り移ろうとしていた多くの死者の『魂』が、行き場を失いわずかに彷徨う。
「カ、グワ……」
ぜえぜえと息を切らしながら、少年はカグワの名を呼んだ。カグワはそっと彼の綺麗な金髪を撫でて、そしてまだまとわりつく瘴気を片手で払いのけた。
「シルディア……大丈夫よ、こっちへいらっしゃい」
カグワがにこりと笑ってそう告げると、途端に、少年の青い瞳に雫が溜まった。それは涙となって溢れ出し、止まることを知らない。波のように押し寄せて来た涙がぽたぽたと寝台の上に染みを作った。彼はわあああ、と大きな泣き声をあげて、カグワに正面からぎゅうと抱きついた。
「助け、助けてくれぇ……! 押し寄せてくるんだ、たくさんの死者の心が……! 俺は救えない、救えないよ! 彼らを救えない……! それなのに、奴らは集まってくるんだ……!」
「シルディア、落ち着いて……」
「いやだ、いやだ……! なんで俺がこんな目に……! 欲しくて手に入れた『力』じゃない……! こんな『力』、ちっとも欲しくなかったんだよ! 皇太子になんて、生まれたくなかった……! どんなに『力』を持っていたって、いくら皇太子だって、俺には何もできないのに……! やめてくれっ! 俺に救いを求めないでくれ……!」
シルディアは狂ったように泣き叫んで、少女に縋った。少女は彼を抱きしめながら、「落ち着いて」と言葉を繰り返す。しかし、弱り切った少年の耳にはまるで届いていなかった。
行き場を失い彷徨う瘴気が、今だとばかりに弱ったシルディアに取り憑かんと押し寄せてくる。少年が悲鳴をあげた。再び彼の中に、死者の『魂』が吸収されようとしていた。それを止める術はないと、そう、思われた。——すると次の瞬間である。
ぱーん、と甲高い何かを叩き付けるような音が部屋中に響きわたった。
何事か、と一瞬、ユタヤにもよくわからなかった。だが、すぐに気付いた。——カグワが、シルディアの頬を手のひらで力一杯叩いたのである。
少年の頬が赤く腫れ上がっていた。少年に取り憑こうとした瘴気が、ゆらゆらと揺らいで彼から離れて行った。死者の『魂』が彷徨う。少年の目は涙に濡れて、虚ろだ。カグワは強い眼差しで彼を睨みつけると、その頬を手のひらで包みこみ、自分の方を見るように仕向けた。
「皇太子だからってなんなの。ただの人間じゃない」
カグワは彼の顔を覗き込んで、はっきりと告げた。ぽろりと少年の瞳から涙が溢れて行く。叩かれた痛みからではない。死人の『魂』を吸収してしまう苦しみからだ。少女は溢れるその雫を手の甲で拭き取ると、優しく腕の中に抱きしめた。
「『力』があるから、なんなの。皇太子の権力がどうしたっていうの。貴方は、貴方にできることだけをやればいい……。それは、死者の『魂』を吸収して自分の一部にすることではないでしょう? そんなことしたって、彼らのためにならない」
「カグ、ワ……」
「貴方にできることは一つしかないわ。この国のために死んで行った彼らを、悼むことだけ。そうでしょう?」
少年に取り憑こうとする死者の『魂』を、カグワは片手で次々にはじきとばした。なにゆえ『力』を封印されて巫力さえ持たない今のカグワにそのようなことができるのか、恐らくカグワ自身にもわかるまい。だが少女は自分の赴くままに死者の『魂』から皇太子を守り、皇太子である少年は、己を護ってくれる少女に縋り付いた。
「カグワぁ……」
「貴方が皇太子として君臨するから、『力』を行使するから、行き場を失った死者の魂が、貴方の元へとやってくるのよ。彼らは貴方が実は無力であることを知らないの。だから押し寄せてくるのよ」
「でも、それは、事実、だ……俺は、それでも皇太子だ……『力』だって、持っている……」
そう呟いた彼の顔は憔悴しきっていた。多くの『魂』を吸い上げて、負の感情までも吸い上げて、疲弊している。少女はそんな痛々しい少年の顔を撫でて、きっぱりと言い放った。
「彼らを、笑顔で見送りなさい」
にこ、と微笑む。その笑顔は何よりも強い、力だ。
「皇太子として、何かをするべきだと思うのなら――民の魂が無事昇天できるように、見送りなさい」
「見送、る……」
「そう……そのために必要なのは『力』ではないわ。貴方が一人の人間として、彼らを悼む、『心』でしょう?」
そう囁いて、カグワはシルディアを自分の腕の中から解放した。そして涙の跡の残るその頬を拭いてやり、微笑む。つられたように、シルディアもわずかではあるが、口元を緩ませた。カグワはその笑顔を見て満足したように頷くと、彼の周りにどよめく瘴気を見回す。それは皇太子をめがけて集まったものの、行き場を失った死者の『魂』だ。
「……貴方たちは、帰るべきところへ、帰りなさい」
そう言って向けられた輝かしいほどの少女の笑顔に、瘴気が揺らいだ。死者の『魂』が、揺らぐ。
「帰りなさい——貴方たちの『魂』を、狂おしいほど、悲しいほどに、待っている人たちがいるはずだから」
すると、緩やかに、風が拭いて木の葉が揺れるほどの緩やかさで、瘴気が徐々に消えて行くのがわかった。暗黒の塊が、浄化されていく。それに伴い、足がすくんで一歩も動けなかったユタヤも、ようやく身動きが取れるようになった。死者の『魂』が、彼女の誘いに従って、帰るべきところへと向かったのであろうか。とにもかくにも暗黒が、消えて行く。
「すごいな」と一連の流れを見ていたオレークが、呟いたのが聞こえた。ユタヤも黙ってその感想に頷くことしかできない。後宮にいた頃、常に寄り添っていた自分でさえ、彼女が死者を成仏させる姿など見たこともなかった。その機会がなかったのだと言うこともできる。だが、巫力の訓練と銘打って巫女修行をしていたあの頃は、「変わり者の三の君」と呼ばれる少女にこれほどまでの力があるだなんて誰が思っていたことであろう。ユタヤは、まるで彼女が別世界に住まう人間ではない何かのように思えて、そんな自分に戸惑いを覚えた。
「……すまないが、獣人よ。この娘を運ぶのを、手伝ってくれないか?」
遠い紗幕の中にいる主を見つめていたユタヤに、ふと声がかかる。振り返れば、オレークが床に倒れている女中を顎で示しているのが見えた。
さほど重量のありそうな娘でもなく、どちらかと言えば軽そうだ。成人した男であれば彼女を運ぶことなど造作もないだろうに何故この男は自分で運ばないのか、とユタヤが不思議に思うと、その疑問を読み取ったかのようにオレークは自分の右腕を示す。すると、上品な宮廷服が破れ、そこが赤黒く染まっているのが見えた。それは血の色だ。どうやら、右腕に怪我を負っているらしい。
「割れた窓の破片を浴びてしまってな……俺は非力だから、片手で娘を運べそうにない」
獣人であるユタヤは片手でも娘一人なら軽々運べる自信があるが、だからと言ってそれができない男を非力だとも思わない。片手が塞がっているのなら仕方がないなとユタヤは黙って頷いて、転がっている娘を抱きかかえた。それに、この娘を救え、とは主からの命令でもある。
こっちだ、と立ち上がったオレークが、使える左手の方で扉を開き、ユタヤを誘導した。ユタヤもそれに従う。
部屋に取り残される主のことが心配ではないと言ったら嘘になるが、ユタヤが残ったところで何もできないこともわかっていた。彼女は今、落ち着いた皇太子殿下を優しく包み込んでいるはずだ。己の手の届かない場所に彼女がいることがどうしようもなく歯痒いが、どうすることもできない。
「カグワ……カグワ……!」
「大丈夫よ、此処にいるわ」
「もっと……もっと近くに来てくれよ……ねえ、俺を抱きしめて……また、この前みたいにキスをしてよ」
「……ええ、そうね」
当たり前のように彼女に甘えることのできる皇太子を、何故か羨ましく思う自分に、驚いた。今しがた皇太子がどれだけ苦しんでいたのか知らないわけではないのに、羨ましいだなんて、戯けが過ぎている。
所詮、自分のような獣人と、彼のような『力』を持つ皇太子、そして彼女のような巫女は、住まう場所が違うのだ。彼女彼らのいる場所に、自分がどんなに手を伸ばしても届こうはずもない。
そう自分に言い聞かせて、ユタヤは女中を抱えたまま皇太子の寝室を後にした。先導して歩くオレークの後ろを追って、主の元から離れて行く。否、もともとそこには覆せない距離があったのかもしれないが。
自分こそが最もカグワの君にとって近しい存在なのだと思っていた今までの自惚れに、嫌気が差した。
獣人は獣人らしく、高尚な巫女からは、離れて仕えることが望ましい。