15、距離感
その頃、己を待ち受けている運命も、そして天変地異の前触れにも気付いていない西国の巫女は、肌を刺すように冷たい北の大地の上、皇宮の中庭にて巨大な雪像作りに励んでいた。
少女は慣れない手付きで冷たい雪をかきあつめ、手先がかじかんで感覚さえなくなっても気にすることなく、せっせと雪の山を作り上げた。
「あーもう……何回やっても丸くならないわ!」
その少女の隣に立って、彼女の動きを見つめているのはその仗身である。
「……そもそも、何をお作りになられているのか」
そのただの白い塊でしかない雪の山を眺めて、青年は呟いた。彼女とともに後宮で育った青年もまた、雪とは無縁の生活をしており雪像など見たこともなかったが、少なくとも像というからにはそれが何かの形を模しているのであろうことはわかる。だが、彼女の手の中で作られるそれは、ただの白い塊だ。
「スノーマンよ……昔、絵本で読んだことがあるの。雪で巨大な球体を二つ付くって、それを縦に重ねて、下を胴体、上を頭にして、木の枝とか木の実とかで飾り付けするのよ。でも、どうしてもその球体が作れないのよ!」
もどかしそうに地団駄する彼女は、だがとても楽しそうだ。その手先は真っ赤に染まり、冷たくかじかんでいることが一目でわかる。以前であれば、ユタヤは「こんなに冷やして」と彼女の手を取って自分の体温で温めてやるところであったが、今の彼にはそれができなかった。それどころか、今の彼には必要以上に彼女に近付くことさえできない。あのシルディアに「出て行け」と言われた一件以来、ユタヤは巫女と仗身との距離の取り方が全くわからなくなっていた。——どのように接するのが、最も自然な巫女と仗身の距離感なのだろう。
近づきたくとも近づけない。そんなユタヤの様子がおかしいとは、主のカグワも気付いてはいるようだった。「どうかしたの?」と自分に触れてこようとした彼女の手を、反射的に避けてしまったあの時の、彼女の面食らった顔が忘れられない。カグワからの接触を拒んだことなど、始めての経験だった。おかげで罪悪感で胸がいっぱいだ。少女の行動には何の他意もない。ユタヤが勝手に意識し、恐れているだけのことである。
「どうしたらいいのかしら……あ、そうだ! 転がしてみようかな」
名案、と手のひらを打った少女は、きらきらと頭上からの太陽光、そしてそれを反射する雪からの照り返しを受けて、輝かしい。その眩しさにユタヤが目を細めると、「ね?」と同意を求めてこっちを向いて、笑った。もうすっかり見慣れたはずのその笑顔に、何故か胸の締め付けられるような思いがする。
不思議なもので、「妙なことを考えるのではない」と自分に言い聞かせれば聞かせるほど、妙に意識しどつぼにはまっていく。自分にとって「特別」な存在であるこの少女に、自分は一体何を求めているのだろう。皇太子シルディアは、「忠義」の裏には利己の益があると言った。少女に忠義を尽くして、自分は何を得ようとしているのか。そして彼は「愛」の裏には性の欲求があるとも言った。幼い頃から彼女にある意味では恋いこがれてきたという自覚はある。だがしかし、自分は果たして、そのようなやましい感情を彼女に抱いているのか。
「外套が重くて邪魔ね……」
そう呟いたカグワは、纏っていた外套を脱ぎ捨てると、近くの木の枝にかけた。外套と触れ合ってその内側に着ていた綺麗なドレスの裾がひらりとめくりあがる。ユタヤは慌てて目をそらした。——彼女はとても危なっかしい。
以前、部屋の中でユタヤしかいないからとさっさと着替えを始めてしまったように、少女にはあまりにも分別がない。と、思っていたが、それは相手がユタヤであるからであり、絶対の信頼を抱いているからであり、だとすれば、それを「危なっかしい」などと言って意識してしまう自分の方がむしろ危険な存在なのではないかとも思う。
雪の塊を渾身の力でもって転がして行く少女は「あ、丸くなった!」とはしゃいだ。はしゃいだものの、すぐにくしゅんとくしゃみを落とした。晴れた日でも雪の溶けない北国の空気は、冷たい。重いほどに外套が分厚いのは、その寒さから身を守るためだ。
「……外套を。その格好では風邪をひいてしまいます」
ユタヤはそう言って、彼女が木の枝にかけた外套を取り戻そうとした。が、カグワは首を振る。
「大丈夫よ。動いているから体は熱いもの」
「だからこそ体の冷めた時がよくありません。風邪をひきます。外套を」
「……だって、北国の外套、重いんだもの」
エウリアの上着ならもっと軽かったわ、と少女は言うが、そもそも西国の後宮には肌を刺すようなこれほどの寒さは訪れない。ユタヤはしばし考えた後、ふうと諦めの息を吐き出して、代わりに自分のかぶっていたマントを彼女に差し出した。
「……ならば、これを。これならばさほど重くはありますまい」
ばさりとカグワの体にそれを乗せると、彼女はこちらを向いた。少女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「でも……これ、ゆたやの防寒具でしょう?」
「私は元が獣ですから、さほど寒くはありません。いざとなれば私が貴女の外套を纏います」
瞬きをするカグワはちらりと木の枝にかけられた女物の上品な外套を見やって、ぷっと噴き出した。それを着ているユタヤの姿を想像したのだろう。
「大きさも装飾も、何一つ似合わないわね。着られる外套の方が可哀想」
酷な事を言うカグワは、あははと軽快に笑った。以前なら、憮然とした面持ちで主を睨みつけるところであるが、今はそれさえできない。彼女の笑顔が何故だかとても遠く思えて、切ない。
どうしてこんなに傍にいるのに、と思う。自分と彼女の距離は何も変わっていないはずなのに。
そう考えてから、否、と青年は思い直した。よくよく考えてもみれば今までが異常だっただけのことで、本来であれば自分と彼女は獣人と巫女という近づいてはならない厚い壁を間に挟んだ関係である。それは「差別」と言うのだと皇太子なら嘲笑うだろうが、それが真実だ。これ以上、彼女に近づいてはいけない——。
そんなことをユタヤが悶々と考えていたその時である。
完全に気を抜いていた青年は、巫女を守る仗身という立場でありながら、皇宮内の異変に気付いていなかった。そして巫女もまた、然りである。二人は二人ともに己の『力』を封じられていた。ゆえに、第六感で何かを感じ取ることが今はできない。
突如、広い皇宮の中庭に、悲鳴に似た叫び声が響いた。
「……カグワ様——っ!」
二人は、ようやくその声で異変に気づき、同時に顔を上げたのであった。
皇宮の窓から、中庭に身を乗り出すようにして叫びをあげているのは、この北国に来てからというものずっとカグワの世話をしている小間使いのユーリである。人なつこい性格の少年で、たった一月の付き合いであるが、今ではユタヤよりもカグワと話すのではないかというほどに親しい。その少年が、普段の小間使いの仕事では見せないような切羽詰まった表情で、カグワの名を叫んでいた。
驚いてはじかれたように飛び上がったカグワは、ユタヤのくれたマントが風を受けて飛んで行くことにも気付かずに、ユーリのいる窓の方へと走って行く。ユタヤはそのマントの飛んで行く様をしばし見守ってから、急いで自分もカグワの後を追った。
カグワはユーリの前に辿り着くと、彼の覗く少し小高い窓を見上げて、声をあげた。
「どうしたのっ? 何があったの?」
今にも泣き出しそうなほどに切羽詰まったその少年の様子から、何かただごとではないことが起きているのは確かである。彼はどこからかずっと走ってきたのだろう。ぜえぜえと息が荒い。
「殿下が……殿下が!」
息を切らしながら、彼が呼ぶのは皇太子シルディア殿下の名前である。カグワの表情が変わる。少女はぐいと身を前へ乗り出した。
「シルディアが……どうしかしたの?」
「私にも詳細は、わかりません……! ですが、殿下を助けてくれと、カグワ様に伝えてくれと言ってオレークが……!」
全く要領を得ないその説明を聞いて、しかしカグワは何かしらぴんときたようだった。少女は皇宮の上の方を見上げて、ぽつりと呟く。
「……『力』の、暴発……」
その呟きを拾って、ユタヤは目を見開いた。
ユタヤも以前、皇太子本人からその話を聞いたことがあった。——俺もたまに自分の『力』が制御できなくなって困ることがあるよ。そのたびに犠牲者がでる。
具体的に『力』の暴発とやらで何が起こるのかなんて、想像もつかない。だが、そのたびに犠牲者が出るのだと彼が自分で言うからには、生易しい事態ではないのだろう。それは、今目の前にいるユーリの混乱具合からも見て取れる。
「カグワ様っ……! とにかく……!」
「シルディアが危ないのね。わかったわ。すぐにシルディアの所へ行く。彼は部屋にいるの?」
物わかりの良いカグワは、具体的な説明の一つもされないままに、だが、しっかりと頷いた。ユーリはそれを受けてほっとしたように、「恐らく」と答える。
「……わかったわ」
カグワは再び呟くと、皇宮の中へと向かって走り出した。向かうは、皇太子シルディアの部屋だろう。彼女は中庭の雪を蹴り飛ばして、皇宮の中へと飛び込んだ。
その後ろ姿を見送ったユタヤは、刹那の間、迷った。シルディアの『力』の暴発とやらがどのようなものなのかはわからないが、『力』など持たないユタヤが行ったところでどうすることもできない事態なのだろう。だからこそ、オレークはカグワを呼んだのだ。——巫女君なら、あるいは、止められるかもしれん。そう彼が言ったのを、ユタヤは覚えている。彼は巫女であるカグワに、期待をしている。
(だけれど……巫力のない今、彼女に巫女としての力はあるのだろうか)
カグワとてただの女だ、と言ったのは皇太子シルディアであったか。とにかく、『力』の暴発という得体の知れない事態を前に、カグワを一人で向かわせることはとてつもなく危険なことに思えた。
「……かぐわの君!」
次の瞬間には、本能的に、体が動いていた。皇宮の中へと戻ったカグワの後を追って、走り出す。人の形をしていても、カグワよりは足の早い自分なら、すぐに追いつけるはずだ。獣の形になれないまでも、せめて傍にいれば、盾になるくらいの働きはできるはずである。
走り去る、平和な中庭には、冷たい空気が立ちこめていた。作りかけの雪像が、むなしく空を見上げている。そしてその澄んだ空の下を、ひらりと一枚マントが飛んだ。仗身の届けたマントは主へは届かず、虚空を舞う。そして仗身の抱く想いは依然、空回りを続けるのみだ。